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(回答先: Re: 制度に求めて、自分は何をする? 投稿者 はまち 日時 2004 年 5 月 23 日 01:23:13)
> たけ(tk)さんが、できないとご自身を決め付けられてしまっていることを、子供に望まれるのは、むりです。
個人的なことを言うと、うちの子供たちは親よりちゃんとした判断力がありそうです。
塾にも行かずに、公立で頑張っております。
子供たちの前では、必要以上に模範的に振る舞うようにしていたら、親より模範的になりました。青信号にならなければ絶対に渡らない、とかね。勉強しろとは一切言わない、勉強するのは権利であって義務ではない。テストが悪いのは大いに結構、何を復習すればよいのかを知るためのもの。勉強より友達が大事。教師の言うことはしっかり聞け。自分より強いものはいじめてもよい。てかなんじで、中学くらいまで育てたら、必要なときには自分で勉強しているようです。
> あくまで、子供がそう望んだとき、初めて、力が付くものです。子供がそう望むのは、必要性を感じるからで、たけ(tk)が必要を感じても、即、つながらないと思います。まして、それを教育制度によって、育てようとするのは、もっと、無理であることがわかってもらえますか?
教育制度に疑問を感じたのは、上記のような独自方針で育てたときの、他の親たちの反応とか、学校運営のあり方に疑問を感じたからです。(現場の教師たちからは評判が良かったです)。
子供のいじめに対して、教師がいじめた方を「人間として失格です」とか言って叱ったら、いじめた方の親が「人間失格とはなにか」と抗議した。すると、学校側が教師を責めた。その結果、その教師は自信を失って、学級崩壊に至りました。子供を叱ることが出来なくなった教師を、授業中に公然と馬鹿にしたり、妨害し始めたのです。一番の疑問は、最初の段階で学校側(要するに校長)はなぜ親を説得するのではなく、教師を責めたのかということです。校長には学校で教育すべきモラルについての確固たる信念がなかったということです。
他にもいろいろ事件があり、いろいろな校長の対応を見てきましたが、半数くらいの校長の対応は、まず何よりも「事件が公に知られるのを防ぐ」というものでした。そのためには被害者側の親を呼び出して「公表するな」と要求することもあったようです。もちろん、立派に正面から受け止めて対応した校長もいました(とはいってもこのときは部外者を巻き込んだ大事件だったので、初めから、公に知られた状態で始まった)。
こういうのを見ていると、個々の校長の資質の問題というより、教育委員会の校長人事の判断の基準に問題があるのではないかと思えてくる。
>制度にこういう能力を求められるのはどうしてですか?人間は、人間から生まれるわけで、制度でなくて、人間が社会で見せるのが、まちがいないのです。制度は作られたものであって、制度で得たものが、現実とマッチしないことが、世の常です。
法律とか制度の力はものすごいです。
しかし、人々は法律、制度の力を過小評価しています。たとえば治安維持法だって成立時には、人が運営するのだから、そんなにひどい運営をするはずがない、と思った人は大勢いたと思います。今回の有事立法だって同じでしょう。
学校の問題についていえば、戦後直後の教育委員会の公選廃止に繋がります。公選された委員であれば地域住民との繋がりがあるので、地域住民のモラルが学校にも反映されていきます。ところが、任命制になると、官僚のモラルというか、行動様式が学校に反映されていくようになります。省利省益自己保身というやつです。
権力側は、この制度の力、法律の力を十分に理解しています。中野区の準公選制に対しては文部省、自民党が一体になってつぶしにかかりました。それに対して、国民は法律、制度の力を極めて過小評価しています。何故なんでしょうね?