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『【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明 〈その1〉』( http://www.asyura.com/2002/hasan11/msg/115.html )に続くものです。
〈その1〉は抽象的な概念に終始したので、今回は、少し現実性のある概念の説明を行います。
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■ 金と「労働価値」
通貨というもっとも現実的な価値基準を考える前に、金を取り上げて、「労働価値」がどういうものかを説明したい。
かつて貨幣として金が使用されたのは、非腐食性・分割容易性・細工容易性といった物理的特性と使用価値が低いという経済的特性によるものと考えている。
金は、工業用や宝飾・工芸用に利用されるが、工業用で使われるのは少量で、宝飾や工芸では奢侈的に使われている。
金が1gで1300円ほどするというのは、希少性や需給バランスだけでは説明できない。
希少性というのは需要に対して供給が限定的であるということだが、大量の金が購入時の姿(地金)のままで保存されているのだから使用価値的な意味でたいした需要があるわけではないことがわかる。
(金が人の生存にとって不可欠な物であれば、金の価格は高騰するかも知れないが、供給できる量が限られているので、どのみち人類は滅びることになる。人類がいなくなれば、金の経済的な考察も不要である)
需給バランスによる価格の説明は、ある中心値からの乖離原因を説明することはできても、中心値そのものを説明することができない。
土中にある金鉱石と違ってゴールドバーや金貨は、天与の物ではなく、労働を通じて造られるものである。
金の価格が金の生産で労働が生み出す「労働価値」に見合わないものであれば、新たな産金は行われなくなる。(現実には、鉱山の質や賃金水準で規定される生産性の違いで、見合う見合わないの基準は変わってくる)
金の価格が単位あたりの「労働価値」をはるかに超えて高値で取引されるようになると、金生産経済主体は増産に励むが、蓄蔵金も大量に売却されるようになり、使用価値の低さから買いのエネルギーも低下するはずである。また、生産すれば儲かるといっても、自然条件で金の増産量は制限される。
金の「労働価値」は、一般の財以上にわかりやすいものである。
工業製品は、同じ使用価値といっても、デザイン・耐久性・ブランドなどの要因により価格がある範囲でばらける。しかし、財の使用価値が物理特性に丸ごと依存している金は、工業製品よりも「労働価値」がストレートに反映し、金の生産過程で転化した「労働価値」(抽象化された平均値)が明瞭になるはずである。
鉱山の自然条件が同じでかつある量を生産するために同じ賃金水準の労働者が同数必要という条件であれば、「労働価値」が高い会社は、工夫などを含む生産設備で優れているということになる。(「労働価値」が高いとは、1gあたりの「労働価値」が小さいということ)
金はその特性から価格が均一なので、輸送費などを除外すれば、同じ量の金を売って、人件費を除くコストを差し引いた結果値がいくらになるかで、「労働価値」の高低を知ることができる。
このようなことから、新産金の1g当たりの価格から(1gの生産で磨耗した生産設備価格+1gの生産で消費した原材料の価格)を差し引いた値を1g当たりの生産に投じられた労働力人数で割った値が、「労働価値」の通貨表現に極めて近いものである。
[金の生産をベースにした「労働価値」の算定式]
(1gの金価格−1gの生産で磨耗した生産設備価格−1gの生産で消費した原材料価格)/1gの生産に要した労働力量
この算定式は、1gの生産に要した生産設備価格・原材料価格・労働力量(人数)の値が小さくなればなるほど大きな「労働価値」になることを意味する。
生産設備価格と原材料価格が同じであれば、労働力量(人数)が少ないほど大きな「労働価値」となる。
さらに、生産設備と原材料も労働成果財だから、全体の労働力量(人数)が少ないほど高い「労働価値」になる論理である。
(「労働価値」は、財を生産するのに投じられた労働力量の大小であり、同じ使用価値を持つ財を同じ量生産するために要した“生”及び“過去”の労働力量が少ないほど、「労働価値」が高い)
金の価値を考察する上で厄介な問題は、その物理的な特性である。
腐食しないということは、消費されない限り、生産された金が“永久的に”残り続けると言うことである。
(工業用や宝飾用に使われた金も取り出すことができる。取り出す経済的な意味があるのは、取り出したほうが得をするものに使われていて、純粋な金のかたちで取り出すコストが新たに金を購入するコストより低い場合である)
近代史のなかで、金を生産する過程も1kgで100労働力必要だったものが80労働力で済むようになるという「労働価値」の上昇を実現したはずである。(ここで言う労働力は“生”と“過去”の両方)
しかし、腐食しないという物理的特性と利用価値が低いという経済的特性から、1kgに150労働力が必要だったときに生産された金と80労働力で生産された金が混在しているはずである。溶解ができ、それで物理的な特性は変わらないので、ある1kgバーのなかにさえ混在することができる。
この段階では、金の生産過程も近代化のなかで「労働価値」を高めているので、過去の金価格よりは、現在の金価格のほうがわずかながら下がっているということにとどめる。
さらに、同じ金が何度も同じ価値を持つものとして取り引きされるという問題もある。
通常の財であれば、取り引きされた後消費されてしまうか、中古車のように価値が大きく劣化したとされ安く取り引きされることになる。(中古車も最終的には廃棄というかたちで消費されてしまう。どういうレベルの使用価値磨耗で廃棄されるかは歴史社会的及び個人的な判断によるが、最終的には使用価値を失う)
金は、経済的な意味でも“非腐食=非消費”という特性を持っている。
これは、金が、株式(証券)や土地といった非労働成果財と同じ経済的意味を持っていることを意味する。
新産金は労働成果財だが、蓄蔵された金は非労働成果財と考えなければならない。
しかし、どっちがもしくはどの部分が労働成果財で非労働成果財かは識別できないという特性を持っている。
どぎつい表現を使うと、価値あるものと無価値のものが渾然一体で取り引きされているのが金である。(蓄蔵金は新産金のときに、既に労働価値が通貨によってあがなわれている)
この問題は、金貨制や金本位制でも言えることだが、その時は金が貨幣であったから経済論理としては矛盾しない。通貨(同じ1万円札)が何度も使われていることと同じである。
もう一つの問題は、金は現実(通貨管理制)の貨幣ではないということである。
金は、かつて貨幣ではあっても現実には貨幣ではない。換金性が高いとはいえ、金は国際取引でも貨幣としての機能を果たしていない。支払い手段や決済手段としては、保有している金を売却して通貨に変えなければならない。
これらのことが、金の価格がロンドンのごく限られた人間によって決められている背景や基礎だと考えている。
金は、価格が“管理”されていなければ、高騰はないとしても、暴落はあり得る商品である。
このことから、金の価格は、紙幣に対する信認性が維持されている限り安め(あるときは新産金の労働価値以下)に管理され、紙幣に対する信認性が失われると、高めに管理されることになる。
(金の価格を上げたければ、紙幣に対する信認性が薄らぐような経済状況をつくりだし、世論操作を行えばいいということでもある)
新産金の増減で現在の「労働価値」がわかり、金価格で紙幣に対する信認度がわかるとも言える。
新産金の増減で現在の「労働価値」がわかると言う意味は、新産金のみが取り引きされている自由市場があれば、そこで決まる価格が「労働価値」の基準となり、価格が「労働価値」未満に下がれば、採算が合わない鉱山が増えるので金の産出量が減少し、価格が「労働価値」を超えて上がれば、金の産出量が増大するという動きで、それが如実に反映されることを指す。
■ 通貨
国家から法的に通用力を付与されたたんなる紙幣が通貨となっている管理通貨制は、通貨が「労働価値」の基準にならない経済世界である。
そうでありながら、現実の経済取引は、そのような通貨を基準として、判断され動いている。
前回説明した「財の価格」・「資本」・「労働価値」は、その値が通貨で表現されるものである。
財の価格は通貨で表現されるが、通貨自体が価値を持たないのだから、財の価格はわかっても、財の価値がわかるわけではない。
日本円で1万円の価格で取り引きされる財は、他の財の価格比較で相対的な価値の大小はわかるが、絶対的な価値はいくらなのかわからない。
外国の通貨との交換レートとりわけ米ドルとの交換レートも、価値実体があるものとの比較ではないから、あくまでも相対的なものでしかない。
「労働価値」という価値実体を体現しているはずの金も、前述の内容から確実なものとは言えない。
価値実体があろうがなかろうが、使用価値がある労働成果財が通貨を媒介として手に入るのだからことさら問題があるとは言えない。
しかし、インフレ・デフレ・金利といった通貨にまつわる事象を考えるときには、大きな問題が発生する。
インフレは、財の価格が貨幣表現で高くなる傾向のことであり、デフレは、財の価格が貨幣表現で安くなる傾向のことである。
貨幣自体が価値実体をなんら表していない物なのに、その量的表現を基に、高くなるとか、安くなるとかという表現が使えるのだろうかという疑念がまず湧いてくる。
どぎつく言えば、元々価値がない紙幣で財が購入できること自体が驚異なのである。
それがまんざらウソではないと思わせるのがハイパーインフレである。
ロシアやラテンアメリカ諸国で見られたように、年に数百%ときには数千%というインフレになれば、紙幣という存在の価値性がいかに危ういものであるかがわかる。
そして、冷静に考えれば、「金と「労働価値」」の項で書いたように、金が経済的にも“非腐食性”を持つ物であり、1回の「労働価値」創造行為で生産された金が“無限回”の労働成果財の購入に使える金貨制や金本位制も実に驚異である。
それ自身には全く価値がない紙幣や支払い手段として“無限回”に使える金貨であれ、通貨には、隠された“価値”というか“効用”があると思われる。
吉本隆明氏(ばななさんの父親で新左翼に大きな影響を与えた)は、それを哲学的に「共同幻想」と呼んだが、経済学的な考察の結論に哲学的な規定を持ち込んで終わりにすることはできないので、別のものを探っていきたい。
■ 「労働価値」の表現形態としての通貨
財の価値実体は「労働価値」である。そして、財の物理的実体は使用価値にある。
「労働価値」と「使用価値」が一体となったものでなければ、労働成果財にはならない。
自分自身だけが使用価値を認めても、他の誰もその使用価値を認めなければ、1万労働力を100日間使って造った物でも売ることができず、自分で使うしかない。(これを、「労働価値」の非実現と呼ぶ)
空気のように生存にとって根源的な物であっても、労働価値を含んでいない物は販売できない。(環境悪化で暫時利用する良い空気は売り物になるが、それには、ちゃんと労働価値が含まれている)
「労働価値」も通貨で表現されると書いたが、通貨以外では表現できないことは間違いないが、通貨そのものものが、金貨という無価値(労働価値的な意味で)に近いものであったり、管理通貨のように無価値であったりする。
価値の多寡を無価値の物で表現するというのは、まさに“倒錯行為”である。
物々交換→金貨(金属貨幣)制→金本位制→管理通貨制という流れは、「労働価値」を「労働価値」で表現する世界から、「労働価値」をより無価値の物で表現するようになっていく“倒錯化”の歴史過程であったことを示唆している。
近代がもっとも進化した歴史段階であるのなら、貝殻や石を通貨としたり、藩札を部分的であれ通貨として流通させていた経済社会は、ずっと前にその段階に到達していたことになる。
このあたりの説明をすると切りがないので、通貨は、経済主体間の関係が密になればなるほど、価値実体の必要性が希薄になっていくということでまとめる。
経済主体間の関係が密になるというのは、社会的分業が幅広くかつ強固に行われているということである。
これは、個人が現在の生活を維持するために、多くの他者を必要にする状況と言ってもいい。
他の人の労働成果財を手に入れることが日常の生活で不可欠になっている経済社会である。
機械メーカーは素材メーカーを必要とし、素材メーカーは原料メーカーを必要とし、消費財メーカーは、機械メーカーや材料メーカーを必要とすると共に消費者を必要とする。
これは、結局、機械メーカー・素材メーカー・材料メーカー・原料メーカーも、消費者を出口とする連鎖のなかに位置づけられていることを意味する。
ほとんど経済主体や個人がそのような連鎖に位置づけられていれば、否応なしに取引(「労働価値」の交換行為)を行わなければならない。
それ(紙幣)で財が手に入り、財を売ることでそれ(紙幣)が手に入るという確証意識(幻想)が、管理通貨制を支えているのである。
そういう経済社会であれば、貨幣に価値実体は不要で、「労働価値」の価格表示機能だけを持っていればいいことになる。(労働価値の表現形態ということ)
価格表示機能をベースに、支払い手段と支払い手段蓄積性を維持しているのが管理通貨制の紙幣である。
管理通貨制が成立する以前にそのようなことが実現できなかったのは、経済主体間の関係がそれほど密ではなかったか、紙切れで財が手に入り、財を売ることで紙切れが手に入るという確証意識が持てなかったからである。
もっとも重要な点は、それ以前には金という通貨の退蔵手段があったことだと考えている。
価格表示機能(労働価値の表現形態で)しかないからこそ、ハイパーインフレが起き、物価変動は貨幣現象であるとするマネタリズムの部分的有効性も発揮するのである。
そして、通貨を退蔵する意味もなくなった。(退蔵とはタンス預金であり、銀行に預けることではない)
恐慌問題とも絡むことだが、通貨から蓄積(退蔵)手段が奪われたことは、画期的とも言える重大な変化である。
まず、経済が発展しているという状況で、インフレもデフレも起きない条件を考える。
経済が発展している状況とは、物質的に豊かになっている社会をイメージしてもらえばいい。但し、労働力の全てが労働成果財の生産と販売に従事し、同じ頻度(回転数)で紙幣が財の購入に向けられ続けるというモデルである。
物価が変動しない条件は、労働力が一定として、「労働価値」の上昇と同じペースで紙幣量が増加していくことである。
「労働価値」が2倍になったのなら、紙幣の量も2倍になれば物価変動はない。
「労働価値」が2倍になれば、同じ労働力で生産される財の量が2倍になり、財1単位の価格は1/2になる。それを紙幣の量を2倍にすることで打ち消すという論理である。
インフレは、労働力が一定として、「労働価値」の上昇以上に紙幣の量が増加することで起きる。
デフレは、労働力が一定として、「労働価値」の上昇ほど紙幣の量が増加しないことで起きる。
※ 近代経済システムでは、利潤の源泉である「労働価値」の上昇は常に追求されるので、「労働価値」が低下するという想定はしない。説明は上昇と同じようにできるが...
前回説明したことだが、高度成長期の日本のように工業分野の労働価値が急速に高まっていけば、工業製品の価格は急速に下落していったはずである。
鉄鋼や合成化学などの基礎財の労働価値が高まり、機械装置などの生産財の労働価値が高まり、家電製品など耐久消費財の労働価値が高まるという産業連関全体での労働価値の高まりは、最終消費財の価格を大きく低下させる。
しかし、家電製品や電子機器などの一部を除くと、物価は数年前まで一貫して上昇し続けた。(これは、電子技術の進展が、驚異的な「労働価値」の上昇をもたらしていることを如実に示している)
遊び半分で日本経済をこのような視点で見てみたい。
58年から70年の12年間で、日銀券発行高(8,910億円:55,560億円で6.23倍)・消費者物価指数は1.8倍・就業者数は1.18倍になっている。
紙幣量÷物価変動÷労働力増加の計算をすると、2.93倍という値になる。
非労働成果財の取引を無視しているなど実に雑ぱくな見方だが、これは、「労働価値」が2.93倍になったと言える。
紙幣の量が6.23倍も増えたのに消費者物価が1.8倍にしかならなかったのは、「労働価値」が上昇したからである。
紙幣の量が58年当時のままであれば、70年の物価は、1/3になっていたということでもある。
そして、勤労者家計の実収入は、36,663円から113,949円と3.1倍になっている。これは、「労働価値」の上昇以上に増加しているので、実際にそうだったのか、非労働成果財に向けられた紙幣の割合が増え、労働成果財に向けられる紙幣の割合が減少したために、消費者物価の上昇が抑えられたかであろう。(景気状況による紙幣の回転数の違いもある)
「労働価値」の上昇以上に勤労者への配分が増えたとは考えにくいので、58年から70年の12年間で、「労働価値」は、おそらく3.1倍以上になったのであろう。
金融時代であるとともに大混乱時代でもあるのでより意味がないと思われるが、90年から00年の10年間は、日銀券発行高で1.59倍・消費者物価指数で1.08倍・就業者数で1.03倍である。
同じ計算をすると、「労働価値」は1.42倍になっている。
「デフレ不況」期間である98年から00年の3年間は、日銀券発行高が0.95倍・消費者物価指数が0.99倍・就業者数が0.99倍である。
同じ計算をすると、「労働価値」は0.97に下降している。
先ほど、「近代経済システムでは、利潤の源泉である「労働価値」の上昇は常に追求されるので、「労働価値」が低下するという想定はしない」と説明したのに計算上は下降している。
もしも、定理が誤っていて「労働価値」が下降しているのなら、物価は上昇して当然だし、それを紙幣の量を減らすことで抑制したと言える。
しかし、定理が正しいのであれば、「労働価値」が下降したかのように見える原因を見つけなければならない。
変数を紙幣量変動と物価変動に絞ると、労働価値を上昇させる要因は、紙幣量がより増えるか、物価がより下がるかである。さらに絞ると、紙幣量は物価に影響を与えるが、価値実体には関係がない変数だから、物価になる。
結論的に言えば、できるだけ高く財を売りたいと常に考える経済主体が価格を下げ渋ったことで起きたことになる。(外部要因(輸出入)は別に考察する)
例えば、物価指数が0.95倍であれば、「労働価値」は1.01倍と上昇する。
これは、「デフレ不況」長期化の一因が、不況のなかでできるだけ財を高く売りたいと考える経済主体の“高値”販売にあることを示唆している。
もちろん、物価変動は0.99倍のままでも、紙幣の量が0.99倍であれば「労働価値」は上昇するが、紙幣の量は価格調整機能しか果たさないものなので、経済主体が論理を超えた“物価高”を志向したという結論になる。
このような論理は、経済主体の活動判断の基となる経済のダイナミズムを捨象した、「労働価値」・物価・紙幣量という関数でのみ成立することなので、経済主体の“高値販売”を非難しているわけではない。(できるだけ高値で売りたいものだし、インフレは経済活動の糧である)
経済主体がそうせざるを得ない経済状況をもたらした当局の責任に帰するものである。
次回は、今回の論理を踏まえて、「外国為替レート」の問題を取り扱いたい。