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(回答先: 日本という国が価値の源 投稿者 楽観派 日時 2002 年 7 月 05 日 19:25:01)
楽観派さん、こんばんわ。
>まず全体的な不満を。あしゅら氏の論理はまるで”経済原論”の教科書を読んでいる
>ようでわかりにくいしあじけない。もちろん経済理論を述べられているわけですから
>使用する用語は定義されたものでないといけないことはわかりますが。私自身はニー
>チェ的な”神は細部に宿りたもう”という考えの持ち主であり、末梢的なことでも論
>理をつきつめれば真理にいたると考えています。
まさに「経済原論」というつもりで書いているものです。
「末梢的なことでも」、全体的連関のなかにあるものとして論理的位置づけると、同じものを見ても、より生き生きとしたものとして見えるようになると考えています。
末梢的なものだと無思慮に捨象してしまえば、物事とりわけ複雑な絡みで構成されている物事が見えなくなると思っています。
しかし、末梢的なものをいくらいじりまわしても、中枢を理解することはできないと考えています。
中枢は末梢的なものに現れていて、末梢的なものは中枢によって制御されているという観点で、経済システムを考察しています。
>まず金は希少でしょうか?
本文では、金の希少性を問題にはしていないはずです。
価格がいくらになるかについて、そういう説明をする人もいるという例として需給バランスとともに持ち出したものです。
金塊にしろ、パンツにしろ、それらを1単位生産するのに必要な労働力の総和で価格が原理的に決まるという話でしかありません。
そして、金は使用価値(必要度)が低いから貨幣にもなったと書いています。
>これが何を意味しているかというともし金があしゅら氏のいわれるように価値の基準
>となるほど重要性を持ってくればその供給量が飛躍的に増えるだろうということで
>す。
金が価値の基準とも、金が重要性を持っているとも書いておりません。
また、供給量の多寡は、価格変動要因になりますが、価値とは関係ありません。
価値基準は、「労働価値」です。
金も「労働価値」が形になったものだから、価値基準になります。
「労働価値」がどういうものであるかを考えるときに、車や家電製品といった財を取り上げるより、金という物理特性に丸ごと依存している財を見たほうがわかりやすいということで取り上げたのです。
>例えば海水にも金はとけています。日本の科学技術を使い海水から金を抽出すること
>が今行われてないのは現在の金価格ではペイしないのと石油と違い金をとりだす逼迫
>した事情がないからです。金は海底にもあります。月にもあります。金の供給は実質
>的に無限と考えるべきでしょう。
経済学的な考察では、「今行われてないのは現在の金価格ではペイしない」という視点が重要です。
経済学的問題と物理学・社会学的問題は、別次元のものとして峻別しないと見えにくくなると思いますと、
>さらに我々は金を保有すること、それ自体を望んでいるのでしょうか?私は危機的状
>況において自分の生活に必要な物資を確保するために保有すると考えます。もちろ金
>はんヘッジですから危機的状況を想定しないと意味がありません。
「我々は金を保有すること、それ自体を望んでいるのでしょうか?」については、私も一貫としてそうではないと書いてきました。
それは通貨についても言えることです。
そうではないのに通貨や金が重視されている理由を探るのが書き込みの目的でもあります。
近代経済システムは、「資本=通貨」を大きくすることを目的として活動する主体間の取引行動で動いています。
そのような活動目的が、末梢的な物にまでどういう影響を与えているかを探ることが経済学の役割だと考えています。
そうでないものが重視されたり、ヘッジになると考えられるのは、どういう論理によるものかを考えているだけです。
本文中でも、金をヘッジとして経済主体が考えるようになるのは、どういうときかを述べただけで、金は素晴らしいとか重要なものだとか一切書いていないはずです。
>ところがそれなら金を売却して買い求める現物自体を保有すればよいのです。具体的
>には食料を備蓄し、石油を備蓄し、チタンやコバルトという産業用の需要が高まりつ
>づける希少金属です。実際、日本は希少金属の備蓄をしています。おもしろいことに
>チタンなどもやはり重いために地球の内部に沈んでいるために希少なので金の産出国
>と希少金属の産出国はかなり重なります。もし金が危機的状況に対するヘッジなら、
>金を売却して購入するであろう物資を備蓄しても同じではないですか?
日銀が外貨準備として金の量を増やすべきだと書いたことはありますが、それは、国際通貨制度がどう変わるか分からないのに、ドル債務証書に比重を置きすぎるのはまずいということを根拠にしたものです。
金を売却しなくても、ドルもあれば、自由にドルに変わる日本円もあるのですから、列挙されている物資は備蓄することができますよ。
>さらに消費されないという面なら土地も消費されることはありません。実際80年代
>までの日本はかなり土地本位制だったとおもいますが(これは厳密な定義された用語
>としては使っていない)、それならこれからの混乱期に土地という現物資産に向かっ
>てもよいでしょう。金は供給量が増加することが考えられますが日本の国土が2倍に
>なることは絶対ないでしょう。
土地も無限に活用できるもので消費されないという趣旨のことを書いていますが...。
土地は、日本以外に持ち出すことができません。これは、日本で土地を必要とする経済主体の経済状況(懐具合)によって価格が影響を受けることを意味します。
金も、価格制御の妥当性を維持するために、ごく限られたグループで供給が制御されています。
>さらに金はとかすことにより何度も再使用できる、しかも劣化がないといわれます
>が、アルミや銅も回収されて何度も再使用されています。ある計算によると現在日本
>にあるアルミ窓枠を回収すれば日本はこれからアルミを輸入する必要は無いとまで
>いっています。確かにアルミや銅は希少性はありませんが、その代わり確固とした産
>業用価値が存在します。銅の市場規模は金より大きいのでは?
言われていることは、アルミや銅は使用価値が高くリサイクルもできるということです。
(アルミは近代的金属ですが、金の使用価値は低いから大量に蓄蔵されていると書いておりますが...中国は銅銭を中心にしていました)
また、オリジナルの書き込みは、市場規模の大小を問題にした内容でもありません。
>なぜ価値がない紙幣で財が購入できるかと問われていますが、それは紙幣に価値があ
>るからです。正確には、日本人が日本および自分たち自身に対しこれだけの価値があ
>ると査定します。
紙幣に価値があるといわれますが、本文でも書いたようにそれは違うと思います。
極端な例ですが、紙幣に交換性がなく誰も働かない国家で、紙幣を発行すればどうなるかを考えればわかると思います。
それに近いのが、働けない人が多く国家でなんとかみんなの生活を確保しようと紙幣を増発して、ハイパーインフレを引き起こすという経済現象です。
紙幣が「労働価値」という裏付けに基づいて発行されているから価値があるように思われているということを書いたのがオリジナルの書き込みの趣旨です。
>それは為替レートなどで対外的にも確認されます。この日本人が日本という国に対し
>て価値を見出し、日銀はその価値を紙幣という細分化した単位で流通させているので
>す。
その価値の根拠は、日本人が高い「労働価値」で失業者も相対的に少なく働いて財を生産しているからです。
>日本は民主主義の法治国家ですから日本の価値を体言しているのは日本というシステ
>ムです。決して日本政府が保証しているから日本円に価値があるのではありません。
日本政府が保証していることが日銀券の究極的な信認性の根拠だとは書いておりません。
そうではなくても、社会的分業が進めば、価値のない紙幣でも支払い手段として通用するものだというのが書き込みの趣旨です。
>日本人自身が日本に価値を見出し、日銀がマネーサプライによりその価値を流通させ
>ているのです。
日本人自身が日本に見出している経済学的な意味での価値とは何でしょうか?
「日銀がマネーサプライによりその価値を流通させている」というのはどういう意味でしょうか?
>例えば不動産は現物資産ですが、これを証券化すると金融資産になり市場にはば広く
>流通させることができます。これを大規模にやってると考えています。
証券化されたものが幅広く流通するかどうかは、予測配当/取得証券価格がどの程度であるかによります。
収益率が他の金融商品よりも高ければ人気を博すことになります。
予測を上回って配当が増加すれば、証券価格そのものも上昇するので売却益を得ることもできます。
この論理と、「日銀がマネーサプライによりその価値を流通させている」ということとどういう関係があるのでしょうか?
>ほとんどの日本人は外国に移住しようと考えていませんから、結局日本円が価値ある
>かどうかは自分を信じるかどうかでしょう。
吉本隆明氏の「共同幻想」を持ち出したように、それでは、経済学的考察で出す結論でははないので排除しました。
>では90年代以降日本人が考える日本の価値が下がったように見えるのにデフレに
>なったかは、日銀が”生きた”マネーサプライを行うことができなかったからです。
「日本の価値が下がったように見える」というのはどういうことでしょうか?
そのようなことは本文で書いていませんし...。
「日銀が”生きた”マネーサプライを行うことができなかった」を探っていくのが、今回の目的の一つでもあります。
>山一証券がつぶれた頃も日銀は十分な流動性を供給していましたが、それは退蔵され
>たために実際に市場にでまわるマネーはへったのです。マネーが減ったのですから現
>物資産が安くなり紙幣が高くなるデフレが起きてもあたりまえでしょう。
「マネーが減ったのですから現物資産が安くなり紙幣が高くなるデフレが起きてもあたりまえでしょう」と言われる根拠を問いつめられることをお奨めします。
安易に当たり前だと考えてしまったら、物事のより奥深くにあるものが見えなくなると思っています。
当たり前でないという指摘の一つとして、「マネーが減る以上に現物財の生産(供給)が減ったら?」を上げておきます。
>以前の議論に戻りますがやはり価値というのは見る人の心の中にあるのであり、日本
>人は、民主的で言論の自由があり平和で最低限の人権が守られている日本というシス
>テムに価値を見出しているのです。その価値を流通させるために紙幣があると考えれ
>ばむしろ昔、金本位制度が存在したのは社会が未熟であったというしかないでしょう。
本文は、経済学的意味での価値であることはとりあえず脇に置くとして、価値があるかないかだけの説明ではありません。
価値があるとはどういうことか、そしてその価値の量はどういう論理で規定されるのかという問題を自分なりに説明したものです。
「民主的で言論の自由があり平和で最低限の人権が守られている日本というシステム」はいいことだと思いますが、それだけで、経済問題が解決するのなら、“まじめな”後進国統治者があれほど苦労することはないでしょう。
「金本位制度が存在したのは社会が未熟であった」という趣旨のことを書いていますが...。(“倒錯”というややこしい表現を使っているので、わかりにくいかも知れませんが...)
最後に、少々ズレの大きさを感じますので、「近代経済システム」がどのような論理で動いているかということを書いたものであるということを前提にレスをいただきたいとお願いします。
また、説明不足やあやふやな論理があることは承知していますが、もう少し意図するところを読みとっていただければと思っています。
恐縮ですがよろしくお願いします。