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(回答先: なぜ理解できないのか理解できません 投稿者 楽観派 日時 2002 年 7 月 07 日 10:06:19)
楽観派さん、こんにちわ。
理論や理論を構築するための論理思考については、全くと言って良いほど同意します。
しかし、私の書き込みへのレスとしては、まったくずれているように思われます。
理解できない内容については、引用を行い、疑問を投げかけています。
それを「なぜ理解できないのか理解できません」と言われ、ことさらは取り上げていない内容を再度書かれる意図がわかりません。
>さて社会科学では様々な人間の活動を扱うわけですが、その最大の活動は経済活動で
>ある以上経済学が少なくとも他の社会科学全ての理論・知識を駆使した上で成立すべ
>きだと考えます(これも私見)。
正しいか誤っているかは別として、書いてきた論理で動いている「近代経済システム」は、歴史限定的なものであるといっただけで、「他の社会科学全ての理論・知識を駆使し」なくてもいいとは言っておりません。
他の社会科学全ての理論・知識のみならず自然科学から哲学さらにはサブカルチャーまでの論理や知識を駆使したほうが、経済事象の考察がより豊かになると思っています。
ただし、同じ事象や物を扱っても、経済学と物理学では、考察目的が違い、説明論理も異なります。
>さて消費者心理が冷え込んだという分析は、では経済学論理とどうつながるのでしょ
>うか?それとも投資家心理などという言葉は意味がないと考えておられるのか。7月
>4日に予想されたテロがなかったゆえにNY株価が上がったのは需給関係が好転した
>からですか?それともFRBが秘密に金利を下げたのですか?
簡単な説明にとどめますが、経済学は、「消費者心理が冷え込んだ」というのを経済事象のなかから察知し、そうなった経済活動的根拠を見つけ出すことが任務であり、「消費者心理が冷え込んだ」とは、どういう意識状況かということを説明することが任務ではありません。「消費者心理が冷え込んだ」と文学的に表現される経済事象は、数多くの経済学的要因から引き起こされます。
現実の個別の事象を直接的に説明するのは、経済学の範囲ではありません。現実の個別の事象を説明できる論理を纏め上げるのが、経済学の役割です。そのために、現実の個別事象を捉えようとするのです。
需給の変動が株価にどういう影響を与えるのか、金利の変動が株価にどういう影響を与えるのかを論理的に説明するのが、経済学のある種の役割です。
>そもそも近代経済学論理そのものの妥当性を疑うところから新しい”経済原論”はは
>じまるべきではないでしょうか?
「近代経済学論理そのものの妥当性を疑」っているからこそ、無味乾燥な書き込みを続けているのですが...。
>人間が社会活動を営みつづける限りそれを説明する理論は残りつづけます。それを経
>済学と呼ぶかどうかは別として。
そう思います。
しかし、それは経済学ではありません。社会学や社会行動学といったものでしょう。
資本形態になった貨幣を大きくすることを目的とした経済主体の有機的連続的関係性で社会(国民経済及び国際経済)が動いているがゆえに、あたかも自然現象を説明するかのような論理体系としての経済学が成り立つのです。
>ところで過去に一度言及しましたがヨーロッパを中心にもりあがりを見せている”幸
>せの経済学”(私は共鳴するところが多い)はより幅広い事象を説明することができ
>ます。
>例えばパレスチナで現在行われている自爆テロは近代経済学者に尋ねてもそれは経済
>学があつかう事柄ではないかあるいは自爆テロは経済活動ではないで終わりであり何
>ら説明をすることができません。
経済学の対象かどうかと、経済学者の思考対象であるかは別問題ですから、経済学の対象ではない自爆テロに論評(説明)を加えられないのは、個々の学者の問題です。
自爆テロの頻発がパレスチナ経済やイスラエル経済への影響は、考察の対象になりますが...(例えば、爆弾を製造するのにもお金と労働力が必要ですし、実行者も被害者も死んだり負傷したりしますから、労働力人口や消費行動に影響が出ます)
私自身は、このような問題については、「戦争」ボードなど他のボードで書き込みを行っています。
>幸せの経済学は、人間は幸せを最大化するために経済活動をおこなうというものです
>から、自爆することにより本人が天国に行ける、より高度な次元の幸せを享受できる
>と考えているからだと説明できます。つまり自爆テロも経済活動であり、その目的は
>幸せの極大化です。今回の投稿は意図的にテーマを限定しています。
「幸せの経済学」は、経済学というよりは社会学に近いものと思われます。
それはそれで重要な意義がありますから、有意義な論理をどんどん提示して欲しいと思います。
幸せがなんであるかは個々人によって異なります。まず、その定義から始めなければなりません。(「幸せの経済学」に即せば、経済学は、雑駁な言い方をすると、個々人が支配できる貨幣を極大化することが“幸せ”と考えているものです)
幸せが定量化でき、ある論理に従って取引されるものであるのなら、経済社会の体系的説明理論につながるとは思います。
貨幣の極大化よりも“幸せ”の極大化のほうが好ましいと思っていますが、貨幣の極大化をめざす活動が、多くの人の“幸せ”の極大化につながっていない現実が、どういう論理から生じているかを説明することが、経済学の一つのしかも重要な役割だと思っています。