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神輿の黙示録(3)(敗者の反撃:武士団と芸能民の発生)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/831.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:43:26: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(2)(多民族国家日本の成立とイジメの発生) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:40:19)

戦国部将を三名あげなさいとの問いに、戦後教育を受けた日本人であるならば、即座に答えることができるでしょう。それらの部将とは、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。そして、それぞれのキャラクターも即座に答えることができるでしょう。それらは、織田信長は古い体制を壊す「革命家」、豊臣秀吉は下層階級から天下人となった「努力家」、そして、徳川家康は抜け目の無い「タヌキ親爺」となることでしょう。
教育という「刷り込み」とは恐ろしいものです。一度でも情報が刷り込まれてしまえば、その後、訂正することが非常に困難だからです。
では、それらの部将達は、戦国の昔からそのような評判を得ていたのでしょうか。それは違います。そのような部将達のキャラクターを創作したのは、実は、戦国末期からではなく、明治時代からなのです。
戦国時代末期には、織田信長と豊臣秀吉が敵対する非戦闘員の人民・婦女子に行ったことを調べれば、彼等が下層階級から憎まれていたことが理解できるでしょう。そのことを裏付ける根拠のひとつとして、織田信長と豊臣秀吉の遺骨がこの世にはないのです。
織田信長は、ユダヤ・キリスト教一派のイエズス会(右手に聖書、左手に銃を持つ教団。侵略目的地に病院設立→学校設立→交易代理人育成→軍事顧問招聘→軍隊侵攻→植民地化。インドとマカオの歴史の流れ。)のフロイス(織田信長と18回謁見した。1569年に謁見後の信長軍の軍備が充実した。特に銃。1575年三河長篠の戦いで信長軍鉄砲隊で武田勝頼を敗退さす。)の報告が事実とするならば、本能寺で「爆殺」されてしまったため遺骨が存在しないのです。織田信長の敵は、明智光秀だけではなかったのです。
豊臣秀吉は、法名「国泰祐松院殿霊山俊龍居士」があり、京都市の阿弥陀ヶ峰にある豊国廟に祀られているから遺骨があるのではないか、と思うかもしれません。しかし、そこにあるのは他人の遺骨らしいのです。始めは、秀吉の遺体は「平氏」としてミイラ状態で埋葬されたのです。その後、大阪夏の陣(1615年)で豊臣家が滅亡すると、その墓を、徳川家康が暴き、そのミイラを火葬にし、どこかに葬ってしまったのです。そして、代わりの遺骨が埋葬された山奥の人も通わぬ墓が、阿弥陀ヶ峰にあるわけです。
しかし、明治時代になると、立派な豊国神社が京都(百済系桓武王朝の都。廃墟寸前の御所は明治時代になると新装されて立派な御所となって今日に至。)に創建されるのです。
では何故、徳川家康が、そのようなことをしたのかを解くヒントは、織田信長も豊臣秀吉も、自称「平氏」を名乗っていたことです。ちなみに、徳川家康は「源氏」を名乗っていました。
と言うことは、慶長5年(1600年)の関が原の戦いとは、平氏(豊臣氏)と源氏(徳川氏)との「第二次源平合戦」とも考えることができるかもしれません。
それでは、日本国の軍事部族、「源氏」と「平氏」とは、どのようにして歴史上出現してきたのでしょうか。ではその前に、武士のおこりを歴史教科書では、どのように記述しているかをみてみましょう。

国司は新しい開墾地にも重い税をかけた。そこで、有力な農民などは国司との争いや、土地をめぐる争いに、武力を使うようになった。争いのときには、一族や下人とよばれる従者をひきいて戦った。これが武士のおこりである。やがて、武士は有力な豪族のもとに結集して、武士団をつくった。武士は、開拓がさかんで良馬の産地である東日本に、とくに多くなった。また、任期が終わった国司なども、そのまま地方に住みつき、各地の武士を家来として、勢力をのばした。武士団のなかで、とくに有力となったのが源氏と平氏であった。

教科書の記述によれば、「有力な農民など」が、武士の前身であるとのことです。では、その武士達は、どのような暮し向きをしていたのでしょうか。

武士は荘園や公領のなかの、土塀や堀をめぐらした屋敷に、武家屋敷といわれる建物を建てて住んでいた。屋敷のまわりに広い田畑をもち、ふだんは下人を使って耕作したり、近くの農民に小作させたりしていた。有力な武士は地頭や荘園の管理者として、荘園を管理し、自作する農民から年貢を取り立てて、荘園領主へ送った。
当時、武士の家は「弓馬の家」といわれた。武士は馬に乗り、弓を引いて一騎打ちの戦いをした。夫をなくした女主人は、武士団を統率もした。結婚しても生家の姓を名のり、その地位はかなり高かった。

政府公認の権威ある教科書の記述なので、武士のおこりの説明をすんなりと納得してしまいます。しかし、よく考えてみると可笑しなことが多々あるのです。
其1、国から派遣された国司に対して、農民が鍬や鋤などの農具を武器として互角に戦えるものなのでしょうか。
其2、何故、東日本が開拓がさかんで良馬の産地であったのでしょうか。
其3、何故、外から襲われることも無いのに、武士は屋敷を土塀や堀をめぐらしていたのでしょうか。
其4、農民が馬を飼育することは納得できても、乗馬しながら弓を引くことなどの高等技術は、どのようにして習得したのでしょうか。
其5、儒教思想を庶民管理に利用した大乗仏教支配の平安時代の「男尊女卑」の世界で、何故、武家の社会では「女尊」であったのでしょうか。
以上の、武士のおこりに対する疑問の答えを探すには、平安時代以前に戻らなくてはならないようです。
平安時代に出現した「武士」と「芸能民」との発祥は同じです。それは、武士のことを、「武芸者」ということからも理解できるでしょう。では、その両者の源(芸)とは何かと言えば、それは清目(キヨメ)です。では、その清目とは何のことなのでしょうか。
清目と言えば、すぐに思いつく事は、葬儀後の「塩」か「食事」のことでしょう。しかし、平安時代に発明された「清目」とは、個人的な葬儀に対してではなく、国家の鎮護(怨霊を、「犠牲」もしくは「舞踏」により祀ること。)を司る重大なことであるわけです。
では平安時代には何を清目たのでしょうか。それは、「敵神の怨霊」です。その原因は、平安時代を築く目的で、藤原氏や桓武天皇は、敵対する「道教の神」や「景教の神」を、ヒンズー教化仏教を道具として呪殺したからです。
更に、式家の藤原兄弟の良継と百川は、白壁王(後の光仁天皇)を天皇にする目的のために、その井上皇后と息子の他戸皇太子(天武天皇の血を継ぐ最後の皇太子)を謀略で殺害しています。そして、その光仁天皇の息子の桓武天皇は、実弟を無実の罪で殺害しているのです。これらのことは、旧約聖書によれば、ダビデの王権を祭祀アロンと結託して謀略により簒奪し、実兄弟を抹殺したソロモンと同じことが、時空を越えた平安時代に再現されたわけです。
古代の神は、「祟り」と「守護」を兼ね備えていたのです。飛鳥・奈良時代では、神に敵対する者は「祟られ」、神を祀る者は「守護された」わけです。
そのため、平安の都は、怨霊の祟りによる奇怪な事件が続発していたのです。藤原氏と桓武天皇は、それらの祟り(怨霊)を静めること(清目)を目的に、敗者の神の氏子(秦氏・新羅系日本人)を「令外官」として雇い入れたのです。それらが、武士と芸能者の先祖であるわけです。
平安時代、天皇を怨霊から守る清目の仕事とは、天皇直属官人として、宮廷諸行事の奉行、国家的法会、祭礼の守護、行幸路地の巡検及び普請・清掃、そして橋・河などの公界的な場の管理などです。(では何故、鎌倉末期になると、「清目」が下層階級の「汚れ仕事」になってしまったのでしょうか。)
物理的な守護は、正規軍の「武術者」が行うわけですが、怨霊など目に見えない「モノノケ」に対しての守護は、敗者神の氏子の「武芸者」でなければならなかったわけです。(この見えない彷徨う怨霊(宿神)を清めることを、歌謡と舞踏で表現した芸が、後の「能」となるわけです。ですから、嗜みのひとつとして、武士は「能」を舞えなければならなかったのです。ちなみに芸能の「祖」は、秦氏の統領の秦河勝「翁・宿神」です。)これは、王権側の「穢れ」攻撃に対する反作用です。自ら創作した怨霊を恐怖するこころが、そのような敵側の氏子により天皇を直接守護する集団を創りだしてしまったわけです。
その清目の仕事は、やがて「検非違使」という政府権力組織に発展していくわけです。平安時代の検非違使の仕事とは、鎌倉時代以降の「穢多」の仕事などではなく、天皇を護る高貴な仕事であったのです。
このことは、「長吏」にも言えます。鎌倉時代の末期には、長吏は「穢多」の仕事になってしまうのです。では、元々の長吏の仕事はどのようなものだったのでしょうか。
平安時代になると、桓武天皇は、まつろわぬ秦人や新羅系日本人を、京の都から追放するわけです。その追放先は、山や河川のジメジメした湿地帯や中州、或は、産鉄民族の鉱区跡の「別所」「散所」「湯浅」「海渡」などと呼ばれた山奥の小さな盆地です。
しかし、多くの追放者達は、鈴鹿の関を越えて北関東・東北の諏訪(トルファン)、武蔵(ムクラ、これを「ムサシ」と読ませた人は天才です。)、常磐(トコハン=東胡+フン)へ移住するのです。それらの地域は、古代にユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の第二の故郷だったからです。(平安時代、王権は、騎馬民族文化抹殺のため居住所名をニッポン語化していた。西日本は常民「王権に従う民」の中に部落が存在していたが、東日本では部落の中に常民が存在していた。)
しかし、藤原氏にコントロールされた百済王朝が支配する近畿地方に留まった者たちは、過酷な生活環境を克服していくのです。
秦氏とは、元々は民族名ではなく、騎馬民族国家スキタイと同じに、あらゆる職能者の連合部族であるわけです。そこに騎馬民族の末裔のネットワークが加われば、生活圏は無限に広がるわけです。騎馬民族は、その組織機能からして、国際交易商人と同じだからです。
秦人たちは、古代エジプトで土木・建築技術を習得したイスラエル民族のように、灌漑・土木・堀削の技術を駆使して、河内湖を干拓し、湾近くの河川敷に「津」を造り、海外と交易を開始するわけです。その拠点は、「難波」です。やがて、難波は日本一の貿易都市となるのです。それは、難波は、古代からペルシャとシルクロードで繋がっていたからです。
紀元前六世紀、アケメネス朝ペルシャは、騎馬民族国家スキタイ(女戦士が多数存在した。草原に囲郭を造り集落を築く。幌馬車で移動。)と交戦していましたが、紀元前四世紀になると、西方のマケドニアからアレキサンダー大王がペルシャに侵攻してくるわけです。その戦いに敗れた、ペルシャ・スキタイの残党は、西に東に移動するわけです。
スキタイは、紀元前三世紀には、歴史から消え、その後に、騎馬技術と馬上弓射を習得した匈奴(漢民族による蔑称。チュルク系騎馬民族。漢民族と異なり髭が濃い。)が、シベリアの草原に現われるわけです。その匈奴は、シベリア草原から南下してタクラマカン砂漠に「楼蘭」という国際交易都市を造るわけです。
その「楼蘭」も、紀元前一世紀、匈奴が前漢の武帝に敗れると、やがて砂漠の中に消えてしまうのです。そして、前漢の時代、朝鮮半島の根本に「楽浪」の国際交易都市が建設されるわけです。
その「楽浪」は、二世紀の中頃、高句麗が興ると、高句麗の国際交易都市となるわけです。やがて、四世紀になると、日本列島に交易のため侵攻してきた高句麗、百済、そして新羅の三国の商人達が、朱砂、水銀、絹織物等を争奪するため、近畿地域で貿易覇権をかけて三つ巴の戦いを繰り広げるわけです。その、近畿への上陸地点の「津」のひとつが、「難波」であるわけです。
「楼蘭」→「楽浪」→「難波=浪速」、この流れは何を語っているのでしょうか。それは、共通読みの「ロウラン」が答えてくれるでしょう。
平安時代、都を追われた者たちの「津」の交易先は、新羅国(百済系京都王朝の敵国)となるわけです。その津は、いつしか「渡辺津」(新羅の末裔と信じる源義経は、この渡辺津から屋島の合戦へ出陣した。)と呼ばれるようになるわけです。その意味は、「鮮卑(拓跋)」→「済(渡る)」→「渡」への出自隠しの変化によるようです。
教科書歴史では、鎖国を日本国で始めたのは、江戸時代の徳川家康からであると教えています。しかし、それは違います。
811年、新羅人が対馬にやって来るのです。それは、蘇我王朝から天武王朝の奈良時代までは、新羅国とは友好的に交易を行っていたからです。しかし、この後も何度も新羅国の使者が来航するのですが、平安朝廷は、新羅の使節使が唐服を着てきたからなどと色々な難癖を付けて追い返すのです。つまり、新羅国に対して事実上鎖国政策をするわけです。
そして、平安朝廷は、奈良時代まで使用していた貨幣の流通を禁止するわけです。(鎌倉時代になってから貨幣使用が復活する。しかし、その貨幣は中国・宋銭です。)それは、朝廷にまつろわぬ秦人が、海外貿易で貨幣を溜め込み、勢力を再び増強しないようにする目的のためです。
では、新羅国は何を交易品として求めてきたかといえば、それらは、水銀、銀、そして琥珀です。
シルクロードでの絹貿易は、六世紀に繭と絹織物の技法を僧侶に盗まれてしまった結果、ヨーロッパでの需要が衰退したため、ヨーロッパでの需要逼迫の水銀、銀、琥珀を日本国から輸入したかったからです。(銀は、メキシコ銀鉱山が開発されていない十六世紀までは、日本国が世界最大の産出国だった。)
樹脂が化石化した琥珀は、古代から交易品の上位にありました。それは、呪術に関係していたからです。琥珀が歴史上に現われるのは、紀元前十二世紀です。琥珀ロードは、シルクロードより先に開発されていたのです。その琥珀ロードの開発者とは、海洋民族フェニキアです。
そして、その琥珀の産地は二箇所です。ひとつはバルト海沿岸です。そしてもうひとつは日本列島の岩手県久慈であるわけです。
紀元前十一世紀頃、赤いマントを羽織る海洋民族フェニキアは、紅海に面したエドムの港から大型外洋船タルシシ船で、その交易先のインドからクジャク、香木、紫檀、サル等を、琥珀を貨幣の換わりにしてカナンの地に輸入していたのです。
日本国における琥珀は、二万年前の北海道千歳「柏台遺跡」と縄文晩期の日高地方「新冠古墳」から出土しています。教科書歴史では、八世紀までは未開の地となっている北海道最北端の宗谷岬には、紀元前十世紀にはオンコロマナイ文化が栄えていたのです。ロシア草原ルートは、バルト海沿岸から北海道(渡り島)まで続いているのです。
それでは本土ではどうかと言えば、三世紀から出現する奈良盆地周辺に点在する古墳から琥珀製の勾玉・夷玉が出土しているのです。そして、奈良時代に仏教が栄えると、仏教七宝のひとつとして琥珀の数珠が霊力ある道具として珍重されるわけです。このことは、古代から陸奥国と近畿地方とは、交易ルートで繋がっていたことを示唆しています。
その平安時代の難波での交易も、朝廷の鎖国政策と貨幣使用禁止のため長くは続かなかったのです。そこで、秦人たちは、穢れ思想を逆手にとって新たな経済活動を行うわけです。
神社とは、道教の穢れ神(平安初期の「ケガレ」とは、汚れていると言う意味ではなく、反体制の意味。)を封じ込める装置として、国家権力(仏教側)により発明されたものです。その穢れ神を祀る所は、その氏子にとっては神聖な場所であるわけです。しかし、王権はその氏神と氏子との交流を切断する装置を発明するわけです。それが結界を示す鳥居です。そして、その鳥居に標縄(しめなわ)をめぐらし、幽界に氏神を封じ込めるわけです。(ここから「ナワバリ」意識が始まる。つまり、内「公界」と外「異界」です。)
しかし、そのように永遠に氏神を封じ込めては、氏子の不満は爆発することでしょう。そこで王権は、年に一度だけ、氏神と氏子との交流を認めるわけです。それが、神輿による祭りです。しかし、氏神の乗り物の神輿から怨霊が抜け出ないように、神輿の扉は「閉め扉」となっているわけです。
やがて、穢れ思想(王権の秩序を乱すこと。)が変化してしまう鎌倉末期になると、公界の娑婆を穢さないように、清目として、神輿に向かって「水」や「塩」を撒くことになって今日にいたるわけです。(現在では、「清目」の本来の意味が分らなくなり、「塩」や「水」を神輿に撒くことは、「景気付け」と解釈されているわけです。)
この穢れ場所は、神を祀る「社」(やしろ)で、「会」とはネットワークを意味し、その「社」に集まることは、「社会」となるわけです。でも、その社に集まる人達は、王権から疎外された人達ですから、公には集うことは、「とうりゃんせ」の歌詞にあるように、「行きはよいよい、帰りは怖い」、わけです。それは、神社の境内にある横屋の王権側の監視所から、常に参拝者の動向が見張られているからです。
ですから、その「社会」は、必然的に「秘密結社」となるわけです。そして、その秘密結社と王権とを繋ぐ顔役(仕切り人)を「長吏」というわけです。つまり、長吏の仕事とは、疎外された人達を守る(任侠=弱い立場の人たちの間を狭めること。)ために、王権との調停を行う代理人であったわけです。
平安時代、その長吏たちが経済活動を行う場所は、王権が手を出せない、標縄を張り巡らされた神社境内や橋のない中洲であったわけです。ここが経済活動の場であり、「島」(カル=銅。銅が採取できる山=カル山=香具山。神社の祭りで出店を経営するひとを香具師・ヤシと言う。)であったのです。この島が、鎌倉末期になると「穢れ場」となるのです。何故か?
長吏は、王権の穢れ戦略を逆手にとって、無税の地で経済活動を広げていくわけです。そして、財をなすことで独占的販売システムを確立していくわけです。それが「座」です。それに対して王権側の仏寺は、門前「市」でビジネスを行うわけです。
平安貴族達が、朝廷に奉ろう農耕民を奴隷化して利益を独占する装置としての「税制」と貨幣使用禁止の逆手を取って、長吏たちは神社をネットワークに「座」を全国に広げていくわけです。しかし、その特権を維持するには護衛が必要です。それらの護衛任務を行うひとを「神人」(じにん)、そしてその武装集団を「神兵」というわけです。
そのような逆特権の場を利用して、物語を聞かせたり、歌謡をする集団を組織し芸能業を興し、更に、馬を利用しての運輸業や倉庫業等を手広く経営していくわけです。
その全国にまたがる物流を行なう過程で、決済のための為替や小切手の仕組み、つまり、金融業も経営していくわけです。更に、事業の資金調達のため「株」を発行し、「座」の利益を配当する株組織も開発するわけです。その「座」を仕切る「顔役」のことを「役座」(やくざ)というわけです。
つまり、平安時代の「役座」が、物産開発(素麺座の三輪素麺等)、馬を使用した物流業、歌謡・舞などの芸能プロダクション業、為替・株等の金融業を日本で初めて創業したのです。
そして、戦国時代末期に、織田信長が出現するまでは、役座が「難波」を拠点に全国の神社ネットワークを使用して体制外経済をコントロールしていたわけです。(その平安時代の役座が、江戸時代になるとアウトローの「ヤクザ」となり、「与太者」と呼ばれるわけです。「与太」とは、奈良時代までは、道教寺の「観」で、霊を降臨さすために、フェルト状の布の「真床追衾・まとこおうすま」のハンモックのようなものを「揺する」与太職の神職であったのです。その「揺する」が「強請り」と変化して、ひとを脅すヤクザとなってしまうわけです。更に、落語では、「騎馬民族に対する蔑称」の「馬鹿」の代名詞「与太郎」に貶められてしまうのです。)
戦国末期、この日本一の商業都市の「座」の利権を得る目的で、イエズス会の銃器・弾薬で武装した自称平氏の織田信長は、全国の座組織を支配している拠点の「難波」を十一年間も攻撃しても壊滅させることができず、朝廷に和議斡旋の願いを出し、和議勧告の最中、戦闘態勢を崩した難波軍(鉄砲隊の雑賀衆徒や安芸の毛利水軍も援助していた。)を攻めて、その地を壊滅したのです。そして、織田信長はその地を乗っ取り、諸国の市・座組織を解体して「楽市楽座」をおこなったのです。
そして、1582年その難波の地に大阪城を建設する直前に、織田信長は、本能寺で誰かにより仕掛けられた爆薬で、「爆殺」されてしまったのです。しかし、翌年には、羽柴秀吉は、大阪城の建設にとりかかるのです。(この手際よさ、つまり、織田信長が爆殺されるのを予知していたかのごとく、戦闘中の毛利氏と即決和睦し、本能寺に駆けつけるのです。そして、翌年には大阪城の建設に着手するのです。)
そして、渡邊津の住人をその地から追い出し、大阪湾の湿地帯に追いやるのです。そして、1588年あの有名な「刀狩」を行なうのです。それは、大仏を造る(完成した大仏は木製の金張りでした。)という名目ですが、実際は、公家(亡命百済人と藤原氏の末裔)に唆された豊臣秀吉は、朝鮮・明国支配の妄想にかかり、その朝鮮侵略のための武器としていたのです。そして、豊臣秀吉軍は、難波で行ったことを、朝鮮半島でも行なっていたのです。(このことにより、秦氏の末裔により創作された「能」では、豊臣秀吉は善人としては描かれることは決してないのです。)
それらの同族(騎馬民族・新羅人)に対する豊臣秀吉軍の朝鮮半島での「人間にあるまじき仕打ち」に対して、自称源氏の徳川家康は許すことができず、豊臣秀吉の遺体をこの世から抹殺したのでしょう。
朝鮮蔑視をした自称平氏の豊臣秀吉(「豊臣」とは、豊国の僕と言う意味です。では豊国とは何かと言えば、それは九州・秦王国のことです。百済京都王朝は、九州・秦王国を乗っ取って豊国と名称を替えたのです。その豊国から多数の仏閣を移築した都が京都と言うことです。つまり、京都とは豊国の亜流都なのです。と言うことは、豊国の僕は、京都王朝より挌上という理屈になるわけです。)に対して、自称源氏の徳川家康は朝鮮国を敬っていた(朱子学を朝鮮の学者から学んでいた。)のです。ですから、徳川家康は、朝鮮王朝に朝鮮国における豊臣秀吉軍の蛮行の詫びを入れて、国交を復活するのです。
そして、それに対して徳川家の代替わりには、四百人以上の朝鮮通信使が日本国を訪れるわけです。朝鮮通信使たちは、徳川幕府最高の礼遇で日本国に迎い入れられたのです。そして、江戸時代に都合12回の来日があったのです。
平氏発祥の基は、亡命百済人です。そして、明治維新で藤原氏により政府中央に返り咲いた亡命百済人の末裔(夷)は、663年の出来事を忘れる事が、今でもできないようです。
明治維新勃発の謎を解くヒントは、明治維新軍の中核であった薩摩藩の島津氏の天璋院篤姫が、藤原氏の総本家の近衛家の養女となっていることです。(藤原氏の姻戚戦略)つまり、秦氏改め惟宗氏が、鎌倉時代に薩摩国島津荘の地頭職となって「島津氏」に改めたわけですが、その薩摩国島津荘のもとの荘園主が「藤原氏の総本家の近衛家」であったわけです。つまり、鎌倉時代より、島津氏(秦氏)と近衛家(藤原氏)は姻戚関係であるわけです。
ちなみに、日の丸の旗は、江戸時代、島津氏が琉球王国との密貿易に使用した船に付けて自船を識別していたものです。
明治維新で藤原氏が復活して、平安時代の王政復古(摂関政治=近衛家が天皇家を支配)を唱えたことは、「そのこと」で説明できるかもしれません。つまり、藤原氏の基本戦略は、平安時代も明治時代も、「夷(百済系天皇=平氏)を以って、夷(新羅系日本人=源氏)を制す」だからです。  

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