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神輿の黙示録(9)(大乗仏教とは何か:鎌倉時代の賎民は何を拝んだのか)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/837.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:02:32: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(8)(芸能民とは何か:平安時代の遊女は、何故読み書きできたのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:57:01)

「イジメはいけない、差別はいけない。」、と世間は言います。それは当然です。しかし、この国では、平安時代に「鬼」なる概念を創作して、王権自身が「鬼」をイジメ、差別してきたのです。
カリスマとは、「私的権威」をある種の儀式により「公的権威」に変身させることに成功したひとのことです。それと逆のことが「鬼」に言えます。「鬼」とは、ある部族が持つ「私的怨念」をある種の儀式により「公的怨念」に摩り替えられたことにより創作された負の概念です。では、王権に追放された部族を「鬼」にしたのはどのような儀式だったのでしょうか。この節では、そのことについて考えてみたいと思います。
ひとが「ことば」を知るようになった歴史は分かりません。でも、文字は、エジプトの遺跡から、神聖文字(ヒエログリフ)が、紀元前2781年には存在していたことが証明できます。
ひとは、「ことば」や「文字」を知ることにより、「思考する悩み」を持ってしまったのです。思考とは、あることを思い、そして考えることです。その行き着く先が、「何故」、「どうして」の疑問です。その疑問に対する答えが、「思考」することにより解決できれば問題はないのですが、ひとの脳には、全てを解決する能力は未だ備わってはいないのです。
その需要に答えるのが宗教です。宗教とは、ひとが持つ「生老病死」に対するあらゆる疑問に答えることができるとする幻想です。ひとが考えることには必ず「ほころび」が生じます。その「ほころび」を繕うために、更なる「答え」が創作されます。そのようにして無数に紡がれた「思考」はやがてひとつの系となります。それが経典の基となるのです。つまり、宗教(幻想)の発生です。
紀元前二千年、カスピ海・黒海周辺からアーリア人が南下するのです。その一部がインドに到達すると、先住民族トラヴィダを倒し、その地を支配するわけです。
紀元前八世紀、アーリア人は、先住民族である遊牧民族トラヴィダ族を支配する目的に、「菜食主義」のバラモン教を発明するわけです。ここから宗教による差別思想(菜食=善、肉食=悪)である「カースト制度」(祭司者バラモン、王族・武士クシャトリア、平民ヴァイシャ、奴隷スードラ、そして不可触賎民アチュート/屠殺者センダラの階級制度。このカースト思想が、平安時代に大乗仏教僧により日本列島に持ち込まれ、弘仁六年・815年編纂の「新撰姓氏録」で「皇・神・蕃」の序列となり、鎌倉時代には、大乗仏教僧により「セダラ」から「穢多」が発明され、江戸時代には、「士農工商・穢多・非人」の日本版カースト制度が完成する。)が、歴史上発生するわけです。
紀元前五世紀、その「カースト制度」に疑問を唱えるひとが現れるのです。それが、ゴウタマ・シッタルタ(釈尊・シャカ)です。
バラモン教は、聖職者であるバラモンが、四姓の最上に永遠に君臨するトリック「輪廻転生」を唱えていたのです。釈尊は、その輪廻転生に対して疑問を持ち、それに対抗する「思想」を考え出したのです。それは、現世のわだかまりの系を断つために「出家」し、物欲の基であるあらゆる生産手段の系を断つために「乞食・こつじき」し、そして輪廻の系を断つために「非人」となることです。釈尊の教えである「仏教修行」の基本は、その「出家」、「乞食」、「非人」にあるのです。
紀元一世紀、中央アジアの地、大月氏(騎馬民族チュルクが支配)を駆逐したクシャナ朝のガンダーラで、ギリシャ系仏像(釈尊は仏像を否定していた。)とサンスクリット語(釈尊は、バラモンが話すサンスクリット語の使用を禁止し、パーリ語を使用していた。)の法華経など多数の経典を持つ不思議な宗教が突然発生するのです。それが大乗仏教です。
大乗仏教は、釈尊が否定した、バラモン教が発明した「輪廻転生」を、その思想に取り入れているのです。更に、釈尊は、「非人」となり転生を否定しているのに、大乗仏教は、死後の「西方浄土」を約束するのです。
この釈尊の思想と全く異なる、バラモン教に類似した大乗仏教が、平安時代の日本国に「鬼」を普及させたのです。そのプロパガンダの手段が、サル・イヌ・キジを伴い鬼退治をする「桃太郎」のお話です。桃太郎物語の種本は、大乗仏教物語のひとつである、ラーマヤナ物語にあるのです。その物語の大筋は、悪魔が王の后をさらって鬼が島に立てこもるのです。それに対して、ラーマ王が、サル・クマ・タカをお供に、鬼が島に乗り込み鬼を退治するというものです。
では、平安時代の日本国で、敗者がどのようにして「鬼」となっていったのかを調べて見ることにしましょう。
平安時代、百済系桓武天皇は、何故に奈良仏教を忌み嫌い「穢れ仏教」として避けたのでしょうか。その謎を解くヒントは、平安時代に作られた金銅の仏像にあります。奈良時代のキンピカ仏像は、アマルガム法金メッキにより造られていたのが、平安時代のキンピカ仏像は、金箔の漆接着で造られていたのです。何故、キンピカ仏像の金塗装法が、アマルガム法から金箔漆接着に変化したのでしょうか。
その原因は、奈良の大仏鋳造(747年〜749年)にあります。反藤原氏の聖武天皇(724年〜749年)は、全国に国分寺(741年発令。平安時代になると各国の国分寺にある仏像は、穢れ仏像と貶められ行方不明となる。源頼朝は、挙兵のため、関東にある廃墟となった国分寺で関東源氏の部将を召集した。)を建立し、奈良には、藤原氏の寺である興福寺(710年山階寺を奈良に移築)を見下ろす丘の上に、その総本尊として大仏を鋳造したのです。その製作過程で、大量の銅とアマルガム法金メッキのために大量の水銀を使用したのです。
医療が発達していなかった古代、中世、近代まで、病気とは目で確認できる症状である皮膚病関連がその範疇だったのです。目で確認できない神経症状を呈する病気は、悪霊の祟りの仕業と信じていたのです。(奈良時代、中臣神道が皮膚病も悪霊の祟りと宣伝し、平安時代には、大乗仏教も法華経で仏罰者がハンセン氏病者だと宣伝したため、鎌倉時代には、目に見える皮膚病も悪霊の祟りと信じられていく。)
奈良の大仏鋳造作業での、多量の銅の精錬カスや金メッキのための水銀のカスは、河に流れ込み奈良の都へ運ばれるわけです。それは今で言う鉱毒による環境汚染です。鉱毒は、身体の神経系を徐々に侵し、やがて手足が萎えてしまうのです。これは当時では、病気ではなく、悪霊の祟りの仕業であったのです。
祟りには、祟られる原因がなくてはなりません。奈良の都を影で支配していた藤原氏の前政権の蘇我氏に対する仕打ちやその同族を数々の陰謀により抹殺した仕打ちは、祟られるのに十分過ぎるほどでした。その藤原氏を祟った本家は、興福寺を見下ろす大仏だったのです。では、祟られる藤原氏とは何者なのでしょうか。
藤原氏は、七世紀半ばに突然権力の中枢に現れたのです。藤原氏の前姓の中臣氏は千葉の鹿島出身と言われていますが、信憑性に欠けます。藤原氏も、蘇我氏と同じに、出自不明の氏族なのです。
藤原氏の歴史上の出現は、蘇我王朝の崩壊の時期と一致します。645年、蘇我王朝が倒れると、すぐに仏教興隆の詔が発せられるのです。(このことは、それ以前は仏教が一般大衆に広く布教されていなかったことを意味します。飛鳥時代は、歴史教科書の言う、聖徳太子と蘇我馬子による仏教興隆の時代などではなかったのです。)それと同時に、古墳や塚の近くに仏寺が建てられるのです。仏寺は、表向きは仏像の安置場所ですが、実際は、先住民や蘇我氏残党に対する「軍事的砦」だったのです。
蘇我王朝時代では、騎馬民族特有の広角外交により多くの国と国際交易を盛んにしたわけです。ですから、交易ルートも、南中国交易ルートの基地としての百済国へは、葛城→紀伊→難波→吉備→筑紫と、北中国交易ルートの基地としての新羅国へは、磯城→山城→近江→若狭→出雲の二系統となるわけです。藤原氏の、蘇我王朝打倒の目的のひとつが、この国際交易ルートの略奪だったのです。
藤原氏の凄さは、その謀略の緻密さです。蘇我王朝を倒すと、その事跡を抹殺する謀略をおこなうわけです。
一般的常識では、一部族には一宗教です。しかし、藤原氏は、仏教系の興福寺を持ちながら、神系の春日神社若宮を新設するのです。藤原氏にとっては、宗教とは先祖を祀ることではなく、臣民を支配する政治的道具であったようです。
春日神社の「若宮」とは、先住民(太陽・月・星を祀る騎馬遊牧民)が祭祀してきた本家筋の祭神の勢いを弱め、本家筋への自然神への信仰を折り曲げ、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神などの人工神の官幣氏族神への信仰にふりむけさせるための装置です。
前政権の氏族(騎馬系蘇我氏、秦氏、新羅系日本人)の抹殺は、前王朝時代の神々の抹殺から始まるのです。その仕掛けとしての装置が、春日社と興福寺です。藤原氏は、神系の春日社で太陽神を祀る神々を消し(秦氏の神は、八幡神、稲荷神に変身することで今に生き残る。)、仏教系の興福寺で月・星を祀る神々を消してしまったのです。(道教は、山岳仏教の修験道として生き残る。室町時代、道教の末裔の賎民と蔑称された堂の者達は、自然と対話して「道」を極める表現として、華道、茶道、剣道、弓道などを発明した。)
そして、敗者を賎民(鬼)に貶める仕掛けとして、中臣神道により、中臣祓を発明し、シロト(白癜)とコクミ(象皮病)の皮膚病を「国つ罪」としてしまうわけです。何故、皮膚病が国つ罪なのでしょう。何故、ハンセン氏病が仏罰なのでしょう。この仕掛けが、敗者を賎民に貶める装置として、平安時代から鎌倉時代にかけて効力を発揮するのです。
藤原氏が支配する中臣氏が発明した中臣祓は、ユダヤ教のヨムキプルに似ていると言われています。では、中臣祓では、どのような罪を祓っていたのでしょうか。
祝詞は十世紀初めに編纂されて今日に伝えられているようですが、その初めは、藤原不比等嫌いの新羅系天武天皇の崩御直後であったようです。その趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。
その祓うべき罪は、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられるのです。天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
この中臣祓の内容を精査すると、藤原氏による、騎馬遊牧民族壊滅戦略が浮かんでくるのです。それは、皮膚病者を罪者として世間から排除するための戦略と、騎馬遊牧民族の生活基盤を破壊するための戦略とです。
菜食民族とは異なり、騎馬遊牧民族は家畜や獣を屠殺しその肉を食料とし、そしてその皮を剥ぎ、加工して生活資材とするわけです。しかし、中臣祓では、騎馬遊牧民族としては生活するための当然の行為を、罪悪の所業と規定しているのです。(この戦略は、インドにおける、アーリア人がバラモン教を発明し、先住遊牧民族トラヴィダを賎民に落としたことと同じです。)
藤原氏と進駐百済貴族は、645年の政変に勝利すると、飛鳥の都を破壊し、難波(浪速・ローラン/高句麗・百済交易の湊)の長柄豊碕宮に遷都するわけです。では何故、飛鳥の都は、簡単に破壊されてしまったのでしょうか。それは、百年後の奈良の都が疎まれたのと同じ理由からです。
飛鳥の都は、輸出製品製造工場都市でもあったわけです。そこには、アマルガム法金メッキを施した装飾品やガラス器を製造する工場群があったわけです。川上の工場から鉛の精錬カスや金メッキの廃液を飛鳥川に流せば、下流の農耕民族にはその鉱毒が作物や身体に悪影響を与えます。つまり、農耕民族にとって、川上の飛鳥の都には祟り神が生息していたのです。
更に、農耕民族と騎馬遊牧民族とは、自然に対する考え方が全く異なることも、飛鳥の都を短期間に消滅させた大きな原因のひとつです。農耕民族の繁栄は、騎馬遊牧民族の衰退を意味します。
ヤマトの地は、前方後円墳築造の結果、湿地帯から広々とした農地に変身したわけです。農耕民族は、やがて開墾という名の自然地の破壊を山の麓までおこなうわけです。すると、騎馬遊牧民族の生活の糧である家畜の生活範囲が破壊されてしまうわけです。ですから、農耕民族が自然を破壊して耕作した畔や用水のための溝を、騎馬民族は自らの生活圏を守るため破壊するわけです。すると、その騎馬遊牧民族が行なった当然の行為は、藤原氏の支配する中臣神道により、「畔放、溝埋」の天つ罪とされてしまうわけです。
645年、飛鳥の地を追われた蘇我氏・秦氏・進駐新羅貴族達は、吉野の山奥や鈴鹿の関を越えて化界の地へ逃れていくわけです。やがて、672年進駐新羅貴族を中心に、反百済勢力が伊勢に集結し赤旗をなびかせて、百済コロニーのある近江宮へ進軍するわけです。それが歴史書の言う、壬申の乱です。
壬申の乱に勝利した新羅系大海人皇子が、672年、日本国初の天皇・天武天皇となり、ここに「日本国」が誕生するわけです。(四世紀のヤマトに大和朝廷が存在し、そこで日本人が活躍していたと誤解しているひと達がいるようですが、672年以前には「日本人」は存在していません。)
そして、蘇我王朝のあった飛鳥の浄御原宮に遷都するわけです。更に、壬申の乱で赤旗を掲げて活躍した、都を追われていた海洋民族の末裔の外物部氏の神を祀るため、685年伊勢に遷宮するわけです。(伊勢神宮は、新羅系天武天皇が建立したため、平安時代から明治時代まで、百済系桓武天皇の子孫達はお参りにいっていなかった。)
686年、天武天皇が崩御すると、天武天皇のお妃が女帝持統天皇(百済系中大兄皇子の娘)となるわけです。その女帝持統天皇を裏で操るのが、天武天皇に左遷されていた藤原不比等であるわけです。
この藤原不比等が企画した日本書紀により、ギリシャ神話を真似た神代の物語や、架空の天皇が発明されたため、日本国建国の歴史が全く分らなくなってしまったのです。そして、更に日本の宗教史を分らなくし、そして、日本列島に差別思想を持ち込んだのが、藤原氏による異民族支配の武器のひとつである、大乗仏教なのです。そもそも大乗仏教とは、釈尊でないのであれば、何を目的に、誰により発明された宗教なのでしょうか。
大乗仏教が発明された時代前後を調べてみましょう。そこに、大乗仏教が、何の目的のために、誰により発明されたかのヒントが見つかるかもしれません。
紀元前一世紀、ユーラシア大陸は、騎馬民族匈奴の支配下におかれていたのです。匈奴の強さは、砂漠地帯にあるオアシス国家を支配していたからです。ローマのガラス器(ローマングラス)と洛陽(後の長安)の絹との交易は、匈奴支配の草原ルートか、砂漠地帯のオアシスルートを通ることなくしてできないわけです。
匈奴は、国際交易商人のもたらす消費財や通行税により、国力を維持していたわけです。匈奴が騎馬民族であるならば、そのオアシス国家も騎馬民族により支配されていたわけです。大乗仏教が発明されたガンダーラも、匈奴がユーラシアを支配していた時代は、騎馬民族チュルクが大月氏国を支配していたわけです。
紀元25年、漢民族の後漢の光武帝が、匈奴壊滅作戦を開始するわけです。その戦術は、匈奴の経済を支え、食料・武器の調達先であるオアシス国家を攻撃して、匈奴軍を追い出し、そのオアシス国家を後漢の支配下におくわけです。
経済的基盤を失った匈奴は、紀元48年、北と南とに分裂し、国力が衰退していくのです。当然、オアシス国家を支配していた騎馬民族も、後漢軍により駆逐されてしまうわけです。ガンダーラの地を支配していた騎馬民族国家大月氏国のチュルク民族も駆逐され、紀元45年には、農耕民族トカラ人によりクシャナ朝が興るわけです。
そのように、騎馬民族に支配されていたオアシス国家の絹とガラス器交易の地は、紀元一世紀になると、農耕民族により支配者が交代したわけです。その時代の東西の真中の交易地のガンダーラで、突然無数の経典と仏像による布教を行なう大乗仏教が興るのです。
ローマと後漢との東西交易の中継地点のガンダーラで、新興宗教の大乗仏教が突然出現するのと前後して、ローマ帝国が、紀元六年、ユダヤ王国を壊滅した地に、新興宗教が興るのです。その新興宗教は、イエス(イエスとは、ヨシュア「ヤハウェは救いの意味」をギリシャ語に翻訳した語。)と言う大工により発明されたと言われています。しかし、この宗教は不思議な成り立ちにより創生されているのです。
「油を注がれた者=ユダヤ王」の意味である「メシア=救い主」をギリシャ語に翻訳すると、「クリストス」となります。この「クリストス」が、日本語訳になると、「キリスト」となるわけです。つまり、「キリスト教のイエス」とは、「ユダヤ教の王であるヨシュア」と言う事になります。と言うことは、キリスト教徒とは、ユダヤ教徒でもあり、ナザレのイエスこそがメシアであるということは、ユダヤ教のイエス派が、キリスト教ということです。
このキリスト教徒達は、ユダヤ王国を壊滅した侵略者ローマ帝国軍打倒のために活動するわけです。しかし、どのような訳か、392年には、打倒ローマ帝国のキリスト教が、ローマ帝国の国教となり、ローマ軍の軍神であるミトラ神(ラテン語でミトラス神)の神殿を徹底的に破壊し、その上にキリスト教の教会を建設するのです。
更に、ミトラ誕生日(再生日)である12月25日は、キリストの誕生日クリスマスに改竄され、ぶどう酒(実際は、ミトラ神の化身の牡牛を屠った時の血。)とパン(実際は、牡牛の生肉)のミトラ教密儀も、キリスト教に模倣されてしまうのです。「七」は、ミトラ教の「聖数」です。この「七」は、新約聖書の文中で多く目に付くことでしょう。そのように、キリスト教の儀式の多くは、ミトラ教からのものなのです。(キリスト教の存在を知らないミトラ教徒は、キリスト教の教義や儀式を見せられたとしたら、その全てを瞬時に理解できるでしょう。日本の戦国時代、金箔塗布技術者の高山右近が、イエズス会に入信したり、山奥に暮すひとびと(隠住・おに→鬼)が、イエズス会の教義を理解できたのも、遠い昔ミトラ教(太陽神・お天道様)を信じていたひと達が、日本列島に渡来していたからでしょう。明治時代、秦氏の末裔の穢多頭弾佐衛門が、耶蘇会・キリスト教に一時入信したのも、秦氏は元々太陽神を祀る景教徒(ミトラ教)であったからでしょう。しかし、弾佐衛門が飲んだ聖杯を飲むのを拒んだキリスト教信者が、弾佐衛門を差別したため、四民平等を標榜しながら実際は差別しているキリスト教に失望した弾佐衛門は耶蘇会を脱会した。)
その新興宗教のキリスト教伝導のための「福音書」には、大乗仏教の経典にある、ブッダの物語とソックリな物語が多くあるのです。「銅貨二枚(福音書では二レプタ)をお布施するやもめの賽銭の話」、「水上を歩くブッダとキリスト」、「少ないパンで多くの弟子のお腹を満たし、更にパンが残る話」、「賎民の娘から水を飲ませてもらう話」、これらのキリスト教と大乗仏教とに共通するソックリ物語は、一体どういうことなのでしょうか。
考えられることは三つ。ひとつは、偶然であった。二つは、どちらかが物語を模倣した。三つは、ある目的を持ったひとが、ふたつの宗教の物語の基を創作した。
一番目の「偶然」は、これほどの共通点が存在していれば、説得力はありません。
二番目の「模倣」はどうでしょう。模倣するには、時差が必要です。ブッダは紀元前五世紀のひとで、イエス(ヨシュア)は紀元一世紀のひとと言われています。そこで、ブッタの物語をキリスト教物語作家が模倣したとも考えられますが、紀元一世紀のギリシャ系仏像をビジュアルとして大乗仏教の輪廻転生、西方浄土を説教する「ブッダ」と、紀元前五世紀の偶像を否定し、輪廻転生の系を断ち切るため非人姿で修行する「釈尊」とは同じ人物ではないので、完全な説得力とはなりません。つまり、キリスト教のイエスも大乗仏教のブッダも、紀元一世紀に突然出現した人物だからです。
では、三番目の考えはどうでしょう。
大乗仏教のブッダの説話で最も感銘を与える話のひとつとして、次のようなものがあります。

多くを持つ者のあいだで何も持たずに、わたしは幸せに生きるであろう。持てる者のあいだで、持たずに生きる。
絆を持たずに、わたしは幸せに生きるであろう。
天の使いのように喜びの声をあげるであろう。
戦う者たちのあいだで思い煩いながら戦うことなく、わたしは幸せに生きるであろう。戦う者たちのあいだで、闘うことなく生きる。

このブッダの説話をよく味わいながら、次の説話(山の上の垂訓)を読んでみてください。

マタイによる福音書、第五章
イエスはこの群集を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えてかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみをうけるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。

以上のブッダとイエスの説話の一部を読み比べてみると、そこで言われていることの核心は、表現こそ異なりますが、同じだということです。このことは、どのように解釈できるのでしょうか。それは、ブッダとイエスとが同じ思想を持ち、同じ奇跡を行い、そして、同じ説話を持つのであれば、それは同じ作家により二つの宗教物語が創作されたと考えるのが自然です。
二つの宗教が発明された時代の背景としては、西ではローマ帝国が東進してパルチア王国(226年、アルタクセルクセスにより倒され、ササン朝ペルシャとなる。)を攻め、東では農耕民族・後漢が騎馬民族・匈奴の領土へ侵攻していたのです。その結果、騎馬民族チュルク支配の大月氏国からのオアシスルートは、農耕漢民族の後漢の支配下におかれるわけです。
その西東のローマ帝国と後漢の両国が領土拡大している時、紀元前四世紀にアレクサンドル大王の東進によりインドのマウリャ朝との異文化接触により起こったギリシャとインドとのヘレニズム文化を保持した、東西貿易の拠点のひとつである騎馬民族大月氏国(支配者の騎馬チュルク民族は、紀元45年トカラ人により駆逐され、四世紀に朝鮮半島辰韓に渡来しギリシャ・ローマ文化保持国新羅を興す。)は、農耕民族のクシャナ朝に飲み込まれてしまったのです。そのクシャナ朝の東西貿易の中心地がガンダーラであるわけです。
ガンダーラに居住する国際交易商人達は、ローマ帝国のローマングラスと後漢の絹との交易を、騎馬民族から農耕民族へ支配者が交代したオアシスルートで、今までどおりに交易する戦術を考え出さねばなりません。
戦乱の異民族国に交易のために進行するには、その国の情報が必要です。更に、交易の手助けをする現地代理人が必要です。その異国で諜報を行い、異国での代理人を育てるには、権力者からの警戒感が少ない世俗から掛け離れたひとが有利です。それが宗教者です。
異民族が闘う戦国時代に、国際交易を成功させるには、今までの宗教色のない、騎馬民族向けでもない、農耕民族向けでもない新しい宗教が有利です。新興宗教は、騎馬民族国にも、農耕民族国にも、まだ軋轢がないため、布教の名目で異国に進入できるからです。
異国への進入順序としては、医療従事者(宗教者)→病院設立→学校設立→代理人育成→商人進出→軍事顧問進出→軍隊進行→植民地化となるわけです。
宗教家が時の権力者に取り入った例は、紀元前三世紀の秦の始皇帝に取り入った「徐福」がいます。徐福は、法士と名乗り、長生術のパフォーマンスにより始皇帝に近づいたのです。いつの時代でも、権力者は、長生術と回春術に強い興味を示すようです。
イエスもブッダも異郷の地での最初のパフォーマンスは、弱者の病を癒す術を披瀝する治療行為です。大乗仏教には、修行僧への治療指導書としての経典、「徐一切疾病陀羅尼経」、「能徐一切眼疾病陀羅尼経」、「仏説療痔病経」、「仏説呪歯経」などが多くあるのはそのためです。
そのようにして、僧侶が治療者として異郷の地で認めてもらえると、次におこなうのは、聖地の確保です。そのひとつとして、治療所としての病院が設立されるのです。
唯の地を聖地にするには、ある儀式をおこなう必要があります。その装置のひとつとして、聖なるシンボルの「像」が必要なのです。唯の地を聖地にする「像」の機能としては、二つあります。移動可能な「像」と、固定式「像」とです。
大乗仏教では、移動可能な像が「仏像」です。固定式の像が、岩山を彫りぬいて築造される「魔崖仏」です。その大乗仏教の移動可能の仏像の姿の遍歴には、不思議なことがあるのです。
紀元一世紀に突然出現のガンダーラで創作された仏像は、苦行するガリガリに痩せ細ったギリシャ系の顔をしたものです。しかし、148年、後漢の首都洛陽にパルチアの僧安世高が渡来するころには、仏像の顔が西洋人から東洋人に作り変えられ、更に、ガリガリの体が、ふくよかなみずみずしい女性肌に変身しているのです。
その訳は、後漢の地には、土着宗教から発展した「道教」が活躍していたからです。道教の武器のひとつは、長生術だったのです。大乗仏教は、道教の長生術に対抗する手段として、ギリシャ系の写実的ガリガリ像から、みずみずしい女性肌に仏像を改良したのです。大乗仏教を信じれば、何百年経っても若々しい姿が保てると、ビジュアルとしての仏像で、大乗仏教を宣伝するわけです。現代の広告宣伝手段のキャラクターの元祖が仏像であるわけです。
そのようにして、異国民に仏像が受け入れられると、仏像安置の建物を造ることになります。表向きは、仏像安置ですが、実際は「砦」です。何故、平和の使者である仏像安置の建物の周りに、堀や強固な塀が必要なのでしょう。何故、耐火用の瓦が必要なのでしょう。何故、何キロ先にも聞こえるような大きな鐘が必要なのでしょう。何故、遠くを見晴らす展望台のような高い塔が必要なのでしょう。仏像が、本当に平和のためのものであるのならば、野原に安置するのが自然です。しかし、実際は、堀や壁を廻らせた堅牢な建物の中に安置されているわけです。
その仏像が安置された寺は、どういうわけか神聖な場所となり、治外法権のアジールとなるわけです。そこに、どこからともなく国際交易商人達が集まるのです。しかし、仏寺では、聖地の範囲が寺内だけです。そこで、知恵者が考え出したのが、「魔崖仏」です。(鎌倉時代、魔崖仏の戦略が持ち込まれ、宇陀の山奥の交易要地や水銀鉱脈を埋蔵している山肌に、魔崖仏を彫り、そこを仏教の聖地とすることにより、先住民を追い払った。)
ローマ帝国と後漢との交易ルートとしては、ローマ帝国→パルチア王国→クシャナ朝→西域諸国→後漢となるわけです。このルートで問題なのは、政情不安定な西域諸国です。一応、騎馬民族を駆逐した後漢軍の支配下となっているのですが、騎馬民族を全て抹殺したわけではないのです。そこで、国際交易商人が考え出したのが、「魔崖仏」です。魔崖仏が造られた岩山一体が、唯の山から「聖地」となるからです。その聖地を創り出す魔崖仏は、交易ルートに沿って、サマルカンド→カシュガル→ローラン→敦煌の巌谷に沿って造られていくわけです。
交易道路沿いの岩山に魔崖仏を彫るには、先住民を追い出さなければなりません。それには、先住民に魔崖仏の効力を示さなければ、立ち退きは成功しません。では、大乗仏教はどのような手段で、先住民を立ち退かせたのでしょうか。
大乗仏教布教の武器のひとつとして、経典があります。しかし、紀元一世紀に突然ガンダーラに出現した仏典の数々は、バラモン僧が使用のサンスクリット語で書かれていたわけです。西域諸国や後漢では、サンスクリット語は通用しません。そこで漢語バイリンガルの龍樹(ナーガルジュナ・180年〜240年)などが漢訳するわけですが、そこで不思議なことが起こるのです。それは、漢訳されると原本のサンスクリット経典は全て焚書されてしまったのです。ですから、今日のサンスクリット仏典は後世のものなのです。
その理由は、中国領土を支配した王族が原因です。秦の始皇帝が紀元前三世紀に中国を統一するまでは、農耕民族や遊牧民族の国々が点在していたのです。
紀元前221年、秦国の建国により漢民族が台頭してきたのですが、紀元前205年、秦国が倒れ、北方から騎馬民族匈奴の冒頓単于(ボクトツゼンウ)が来襲してくると、農耕民族の漢族では対抗できません。後漢の光武帝が一世紀に匈奴軍を打ち破るまで、騎馬民族匈奴が、北東ユーラシアを支配していたのです。
五世紀、大乗仏教が西域諸国での布教に成功し、仏教僧が大挙して渡来した北魏(423年、鮮卑拓跋部の太武帝。騎馬民族拓跋部は、奈良時代晩期、日本列島の渡邊津に渡来し、源氏の基となる。)では、支配層は漢化に染まった騎馬民族鮮卑の末裔で、被支配の事務職が漢民族であったわけです。中華思想は、騎馬民族には武力では劣るが、頭脳明晰の農耕民族の漢族の屈折した心境により創作されたものです。
北魏の太武帝(423年〜452年)は、鮮卑末裔の騎馬民族であるので、騎馬民族蔑視観を内在する仏教を弾圧して、僧侶200万人を国外追放したのです。(この一部が朝鮮半島経由で北九州秦王国に渡来した。)このことは、仏教史で、三武一宗の法難(仏教弾圧皇帝は、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗。)とよばれているものです。元々大乗仏教は、騎馬民族蔑視のバラモン教に類似の教義を持つために、騎馬系皇帝には良く思われていなかったのです。そして、騎馬系皇帝の支配構造は、隋(589年〜618年)→唐(618年〜907年)→宋国(960年〜1129年)まで続くわけです。
そのように、中国大陸での支配者は、農耕民族と騎馬民族の覇権争いの結果により、そのたびに代わっていたのです。サンスクリット仏典の漢訳は、その時の支配者である皇帝の許可がなければできません。つまり、漢訳仏典は、騎馬系か農耕系皇帝か、その時々の皇帝の勢力都合により内容を改竄されていたわけです。
そのような時の権力により内容が変化する仏教経典だけでは、大乗仏教思想は異民族には受け入れられません。そこで、大乗仏教は、キリスト教がミトラ教の儀式を取り入れたように、他宗教の魅力ある教義や儀式を取り入れたのです。
異民族に受け入れられる技術は、基本として、医療技術と長生術と回春術です。医療技術は、紀元前六世紀にはアユルベーダ医術が開発されていました。長生術としてのヨーガも紀元前五世紀には、釈尊も実践したように、開発されていました。しかし、それらの有能な技術は、一般の人には受け入れられない高度な知識と技術が必要です。
ヨーガの達人になるには、長い年月の苦行が必要なのです。ヨーガ実践の八段階として、自制(ヤマ)、規律(ニヤマ)、座法(アーサナ)、調息(プラーナーヤーマ)、制感(プラティヤーハーラ)、留意(ダーラナー)、黙想(ディヤーナ)、専心(サマーディ)の苦行が必要なのです。釈尊は、ヨーガの辛い修行の途中で挫折し、うつ病となり、木の下で黙想することにより病回復後に、苦行を避け「中庸」の思想を発明するわけです。
ですから、一般のひとたちには、アユルベーダ医学やヨーガより簡単で、魅力ある「術」が要求されるわけです。そのひとつが、「タントラ」です。
「タントラ」とは、バラモン教を取り込んだヒンズー教と大乗仏教の境界に位置するものです。そのタントラの特徴は、呪力ある言葉(マントラ・ダーラニー)、護符(ヤントラ)、お守り(カヴァチャ)、手印(ムドラー)などのまじないを含む「魔術的技術」です。その「タントラ」とは、日本語では「密教」と呼ばれているものです。
魔術と科学とは、古代では区別がありません。両方とも、手でおこなう操作を必要とし、その手の操作により、不可思議な現象を起こすことを意図するものです。つまり、密教とは、原初的な科学により意識変格を目指す、技術であるわけです。(平安時代初期、錬金術師空海は、密教を中国から輸入し、アラム語の呪文と手印で信者を惑わせていた。江戸時代、藤原氏にとっての奈良の穢れ大仏(遍照鬼=ミトラ神?反バラモンの神)は観光資源として、悪霊を放つ手印を封じる目的で、顔だけ観覧できる「窓」を造ることにより、飛躍的に観覧者が増えたのはそのためです。)
密教開発者達は、ひとの意識の変格を興すために、薬物の開発(水銀薬・アルコール類・大麻・芥子の樹液)と視覚幻覚装置としての像・図画(マンダラ)を開発するわけです。
医療技術と長生術は、「表の技術」として発展していくわけですが、回春術は「裏の技術」として発展していくわけです。平安時代初期、空海が中国唐から輸入した真言密教の流れを汲む「立川流」は、そのひとつです。
何故、聖地の近くに遊郭が存在するのでしょうか。それは、世界共通のことのようです。何故でしょうか。
宗教が発明される前は、魔術や呪術が隆盛でした。その魔術・呪術の基本は、類似魔術と感染魔術です。
類似魔術とは、似ているものは影響し合うという錯覚を起こさせる技術です。顔をメイクで似せることにより、同じ性格をしていると錯覚させるようなことです。例えば、影武者などです。この錯覚技術を発展させると、太陽神のシンボルが牡牛となるわけです。
感染魔術とは、触れたものは、その影響力が感染すると錯覚させる技術です。強いもの、聖なるものに触れるのはこのためです。その反対が「えんがちょ」です。
農業技術が発展し、自然との対決が過酷になっていくに従い、自然をコントロールできるとする人工神の需要が強くなるのです。農耕民の人工神に対する要求は、豊穣です。そのために、祭祀者は、豊穣を約束するための儀式を新たに発明するわけです。そのために使われる魔術・呪術が「類似魔術」です。
農耕民が豊穣を期待して大地に種を蒔く様子を、ひとに置き換える儀式のために発明されたのが「大地母神」です。その神に、ひとの種を蒔く儀式により、農耕民に豊穣を約束するわけです。
大地母神は、豊穣を約束する神ですが、ひとの意識や理性が発達してくると、羞恥心のためにその儀式に拒否反応を示すひとが現れてくるわけです。その拒否反応に対して、祭祀者は、ひとの種を蒔かれる大地母神を、聖母、観音、弁天、比丘尼、巫女などに変身させ、種を蒔く儀式を止め、「お祈り」と「踊り」(舞)の儀式に改変するわけです。
ヒンズー教に吸収される前のバラモン教は、生活手段と資金稼ぎのために、献馬祭(アシュヴァメーダ)の儀式を発明していたのです。その儀式とは、女王に馬の種を蒔く儀式です。この儀式には、金儲けの意味と、もうひとつの意図があります。それは、女王を貶めることです。
騎馬民族のスキタイやギリシャ・ローマ文化保持国新羅の女王の墓の遺跡から金の王冠が発掘されるように(因みに、男王の墓からは銀・金銅の王冠が発掘される。)、騎馬民族は、時には女王が支配する「女尊男卑」の国なのです。それに対して、大乗仏教は、男尊女卑を目指すわけです。
そのようにして豊穣を約束する卑猥な儀式は、意識が覚醒したひとには受け入れられないものです。そこで、やがて、聖所と「種蒔き儀式場=遊郭」とが程よい距離に分離され、今日に至るわけです。(江戸時代、粋な遊び人は、遊郭に行くことを、「観音様を拝みにいく。」、「弁天様を拝みにいく。」、「宮参りする。」、「お篭りする。」などと言っていたわけは、それらの遊女のいる「遊郭」は、大昔は大地母神により豊穣の神事をおこなう「聖所」だったことを知っていたからです。)
北東ユーラシアの市場開拓を目指す、ガンダーラに居住する大乗仏教のバックスポンサーである国際交易商人は、その地に土着するシャーマンや道教士による実生活に密着する魅力ある儀式に対抗するために、大乗仏教に他宗教の魅力ある儀式を導入するわけです。
そのひとつとして、バラモン教の護摩の儀式があります。バラモン教は、護摩を焚き、その中に乾燥大麻を投入することにより、信者を至福の世界に誘うわけです。
更に、大乗仏教布教のキャラクターとして、バラモン教やヒンズー教の神々を導入するわけです。元々、修行中心の釈尊の仏教には、念仏頼みの仏像など存在していません。
紀元一世紀に突然、国際交易商人の居住するローマ帝国(ローマングラス)と後漢(絹織物)との交易地であるギリシャ文化保持国の大月氏国のガンダーラで、国際交易商人の支援のもとに、キリスト教(ギリシャ語訳のヨシュア教)の福音書物語ソックリの仏教物語とギリシャ系仏像のセットによる大乗仏教が誕生したわけです。
その大乗仏教に導入されたバラモン教とヒンズー教の仏像群は、基本的には四つの群に分けられるようです。それらは、「如来群」、「菩薩群」、「明王群」、「天群」です。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の大乗仏教に導入された仏像は、時の支配者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な仏像として開発されていくわけです。
そのようなバラモン教やヒンズー教の神々や儀式やカースト差別思想を取り込んだ大乗仏教は、国際交易商人と供にガンダーラから東進して北東ユーラシア、そして朝鮮半島を経て、日本列島に渡来していくわけです。
372年には、前秦は、僧順道により経典を高句麗に送り(実際は、仏僧による諜報活動のため)、384年には、東晉は、西域人(青い目の仏教僧は沢山存在していた。)の僧摩羅難陀を百済に派遣するわけです。
朝鮮半島三韓の新羅が、528年まで仏教導入拒絶のわけは、356年新羅建国の奈勿王は、ギリシャ文化保持国大月氏から渡来の反仏教の騎馬民族チュルクの末裔だったからです。国際交易商人は、騎馬民族の経済活動と競合します。その国際交易商人のバックスポンサーが支援する大乗仏教は、新羅にとっては受け入れられない存在だったのです。
医療従事者としての大乗仏教僧が送り込まれた後には、現地支配者に仏像が贈呈され、そのために、仏像を安置する仏寺(表向きは病院・学校。しかし、実態は砦。)が建立され、そして、その僧達の諜報活動による情報を基に、どこからともなく国際交易商人が仏寺に現れるわけです。その後は、軍隊の侵攻、そして大乗仏教が定着した地は、国際交易商人達に植民地化されてしまうわけです。そして、国際交易商人達により意図された、傀儡支配者が、大乗仏教を武器に、カースト思想の基にまつろわぬ原住民や先住民を賎民(寺奴)として支配していくわけです。では、日本列島は、どのようにして仏教化(ヒンズー教化→カースト化=差別化)されていったのでしょうか。
四世紀、大乗仏教を武器に、国際交易商人が日本列島を侵略することを意図に、北九州を窺がっても、そこには先住民族がいるわけです。海洋民族呉・越末裔の倭族や北方遊牧民族のツングース族、そしてオリエントから渡来の秦氏(紀元前三世紀渡来の徐福の末裔。)などです。それらの民族は、ヤマトの宇陀の朱砂を求めて日本列島に渡来していたのです。呪術全盛のその当時、殺菌力がある朱砂は、貴重な国際交易品であったわけです。(皮膚の化膿を治癒させることは呪術者として認められる条件のひとつ。それが転じて、朱砂は魔除けの素材となる。)
高句麗に居住する国際交易商人は、倭族とツングース族との混成軍団(後の物部氏)により日本列島に侵攻しても、ヤマトの地を死守する先住民族縄文人を攻略できずにいるわけです。難攻不落のヤマトの地は、河川が入り乱れる湿地帯であったからです。しかし、オリエントの土木建設技術を駆使した前方後円墳築造戦略により湿地帯を平地とし、更に前方後円墳築造過程の作業訓練により、現地人を、鍬から武器にかえ号令一番で行動する傭兵軍に仕立て上げることにより、ヤマトの地を死守するエウカシやオオクニヌシやナガスネヒコを壊滅するわけです。つまり、軍事部族の物部氏は、「夷を以って、夷を制す」ることに成功したわけです。
前方後円墳築造中の四世紀のヤマトの地には、遠く遥かオリエントから渡来の国際交易商人達や土木建設技術者達(前方後円墳の石室の内側の寸法は、古代エジプトの石室と同じ長さの単位キュビトで割り切れるのです。)で溢れかえっていたのです。当然、高句麗、百済、新羅の軍隊も、朱砂の交易のために、ヤマト三輪山麓のツバキ市に侵攻してくるわけです。
では、その四世紀に、ヤマトの地に「ニッポン人」がいて、天皇や豪族が統治する「大和朝廷」が存在していたのでしょうか。
歴史書は、基本的には書く側の利益のために創作されるわけです。その創作過程で、自己に不利な事柄は改竄、あるいは削除するわけです。ですから、世にある歴史書とは、勝者の物語であるわけです。そこで、敗者側の知恵者が、子孫のために敗者としての自己の正当性や、勝者の実態を暴くべく、勝者側の物語を装って、勝者側に覚られないように暗号で記述するわけです。
聖書物語におけるユダヤ民族とイスラエル民族との関係(異教神を祀る異民族)は、「ヨハネの黙示録」にある「666の謎」を解くことりより知ることができるでしょう。
聖書物語をベースに創作されたと言われている「日本書紀」物語により、謎の多い氏族である藤原氏と秦氏の関係(両民族ともオリエントからの渡来民)は、多人長による「古事記の謎」を読み解くことで知ることができるかもしれません。
多人長が「古事記」から発する暗号のひとつは、推古天皇から以前の歴史を抹殺せよ、ということです。では、推古天皇期では何があったかというと、聖徳太子と蘇我馬子による仏教の受容です。
日本書紀では、天武天皇が崇拝した道教や秦氏が祀る景教の渡来は無視して、仏教渡来の経緯を詳しく記述しているのです。しかし、日本書紀の552年仏教渡来の記述に疑問が生ずるのは、「元興寺縁起」や「上宮聖徳法王帝説」には仏教渡来538年とあるからです。では、これは、どのように説明できるのでしょうか。
その説明として考えられるのは、国際交易商人により医療従事者として仏教僧は、それ以前から日本列島に、諜報活動のため送り込まれていたのではないかということです。
そして日本書紀仏教伝来物語で疑問が起こるのは、蘇我稲目が祀った仏像が疫病を流行らせたからといって、何故、「飛鳥の堀」ではなく、「難波の堀」へ投棄したのでしょうか。それは、難波(楼蘭→楽浪→浪速/ローラン)の津は、高句麗と百済が支配するオリエントからの国際交易港の地であったからでしょう。つまり、ヤマト侵略の手段としての高句麗・百済の国際交易商人からの仏像贈呈に対して、先住民(騎馬民族チュルク)が拒否した経緯を物語したのが、物部尾興(ツングース族)と蘇我稲目(チュルク族)との廃仏・崇仏論争物語の実態でしょう。
その論拠は、物部氏は、高句麗の影響下にある軍事部族だからです。高句麗が372年、前秦の圧力で仏教を受容しているので、その影響下にある物部氏も仏教を当然受容していたはずです。
それに対して、蘇我氏は、その娘が刀自子(トジコ=トルコ=チュルク)の郎女と言われていたように、騎馬民族チュルクの末裔です。だから、蘇・醍醐(ヨーグルト・バター・チーズ)を食する騎馬遊牧民族の蘇我氏が、「肉食する者は悪人だ。」、「獣の皮を剥ぐのはセダラだ。(アウトカーストの不可触賎民)」などの騎馬遊牧民族の生活を破壊するような「呪文」を唱える大乗仏教など、受容するはずはないのです。
しかし、日本書紀では、事実とは逆に「物部氏が廃仏」で、「蘇我氏が崇仏」となっているのです。これは可笑しい。
このような、一寸考えれば不自然な仏教伝来物語が、頭脳明晰な藤原不比等により日本書紀に記述させている意味は、大乗仏教が、藤原王朝を支える重要な武器だったからです。
「日本書紀」の仏教伝来物語のトリックは、「古事記」が発する暗号を解くことにより、つまり、その歴史物語から推古天皇を消去すれば、簡単に解けます。推古天皇が実在しなければ、聖徳太子も歴史上存在できません。その聖徳太子が実在しなければ、聖徳太子が607年創建した法隆寺などの太子建立七仏寺も存在しないことになります。(法隆寺の謎のひとつは、塔の大地に着かない寸足らず心柱と他の建築木材の伐採時期が75年ほどのズレがあることです。その謎解きのひとつが、北九州秦王国からの法隆寺移築説です。北九州秦王国に仏寺が多くあった理由は、六世紀中頃までには、446年中国・北魏の廃仏令により仏教僧200万人が国外追放となり、その一部が、仏教国高句麗・百済を経由して、北九州秦王国に渡来し、無数の仏教寺院を建設していたからです。仏寺建築は、騎馬遊牧民族スキタイの越冬用建築様式を踏襲していたので、釘を使わない組み立て方式なので、解体そして移築は簡単にできるのです。つまり、飛鳥時代に存在していたと言われる法興寺(558年着工)、難波四天王寺(593年創建)、広隆寺(=蜂丘寺は景教寺・603年創建)、法起寺(638年創建)、浄土寺(山田寺・641年起工)、百済大寺(大安寺・642年造営)等の仏寺の全ては、キリスト教徒達がローマ帝国のミトラ神殿を破壊した跡にキリスト教教会を新築したように、645年以降、藤原氏により、ヤマトの地に建立していた多くの「道教の観」や「景教寺」の全てが徹底的に破壊され、その跡に仏寺が、北九州秦王国からゴッソリと移築されたとの仮説です。この仮説に説得力があるのは、北九州には廃仏寺跡が極めて多くあることです。更に、大型荷物を九州から近畿地方に瀬戸内海の海運を利用して運ぶ技術は、前方後円墳の石室の石材が九州阿蘇産であったことも、この仏寺移築説を裏付けします。この北九州秦王国からの仏寺が移築されたヤマト国のことを、759年編纂の万葉集の枕詞の暗号では「空虚大和・そらみつヤマト=ウソッパチのヤマト国」と言うわけです。)
つまり、推古天皇が日本の歴史上存在しなければ、552年の日本書紀の仏教伝来物語の論拠は崩れ、飛鳥時代(蘇我王朝期)には、仏教は公伝などしていなかったことが証明できるのです。
では何故、藤原氏は、日本書紀で仏教伝来552年にこだわったのでしょうか。それは、蘇我王朝存在の抹殺のためです。その蘇我王権簒奪の事実を隠蔽する装置のひとつが、「架空の推古天皇」と「架空の聖徳太子」と「実在の蘇我馬子大王」を物語した仏教伝来物語だったのです。更に、藤原氏による簒奪の正当性を証明する装置のもうひとつが、蘇我馬子が592年崇峻天皇を謀殺し、蘇我入鹿が仏教擁護の聖徳太子の子孫を抹殺し、天皇家を出し抜いて丘の上に大宮を建て、天皇の舞を勝手に開催したと言う「極悪人蘇我一族」物語なのです。
もし、蘇我氏が本当に崇仏であるのならば、その蘇我王朝(587年〜645年)の跡目を継いだ天武王朝(672年〜686年)も崇仏でなければ理論的破綻を生じます。それは、宗教は王権の虚構権威を支える重要な要素だからです。しかし、天武天皇は、天文台を建設し、道教の占星術を駆使して「祀りごと」をおこなっていたのです。更に、伊勢神宮を685年遷宮し、太一(北極星=天御中主神。古事記に最初に出てくる神。日本書紀では国常立尊。)を祀っていたのです。(騎馬民族は、自然神の月・星を祀る。農耕民族は人工神を祀る。)その自然神の星祭は、百済系桓武天皇が統治する平安時代には、人工神の仏の敵の祭り、と言われ禁止されるのです。
仏寺に占領されたヤマトの地は、自然神を祀る民族が、まともに住める地ではなくなったのです。
天武天皇が崩御した後、藤原不比等は藤原王朝確立のために、戦略をめぐらせるのです。その戦術のひとつが、中国・唐から輸入した律令制度です。(律:犯罪や刑罰に関する法律。令:政治制度を定める法律。律令制度は権力を天皇一極に集中させるためのトリック。その天皇を、藤原氏がコントロールすることにより日本国を乗っ取る戦略。)
藤原氏に反抗する氏族の軍事力を削ぐために、武力により各地を支配している氏族が所有する財産を取り上げるための戦術が、701年発令の大宝律令です。
女帝持統天皇を取り込んだ藤原不比等は、697年傀儡の文武天皇を擁立して、大宝律令の発令により、氏族の私有地を天皇に献上させるのです。そして、恭順を示す氏族には、天皇から領地が与えられ、その反対に歯向かう氏族は国領地から追放するわけです。
更に、歯向かう氏族追放の第二弾が、718年の養老律令です。この二つの藤原不比等が画策した律令戦略により、藤原氏に対抗できる有力な氏族が滅亡してしまうわけです。
藤原氏に反抗した氏族は、元王族の蘇我氏、技術部族の秦氏、武闘派の新羅系日本人です。これらの氏族は、自然神を祀るオリエントから渡来の騎馬民族の末裔です。そこで、藤原氏は、仏教と中臣神道で、それらの民を賎民に貶める戦術をおこなうわけです。その戦術とは、「穢れ思想」の布教です。
しかし、藤原氏一族だけでは、それら軍事力のある騎馬民族末裔を相手にはできません。そこで百済・高句麗亡命貴族と結託するわけです。
七世紀の東アジアでは、中国の覇者が北魏から隋に代わる頃、中央ユーラシアに興った小国の騎馬民族突厥が勢力を増し南下してくるのです。それにより、隋の経済を潤していたオアシスロードは、突厥の支配下に再び置かれてしまうわけです。
隋の経済的打撃はそれだけではありません。絹をつくる繭が、西域の僧により盗まれてしまったのです。それにより、絹織物は、どこでも生産可能な中国地方の特産品ではなくなってしまったのです。更に、草原ロードとオアシスロードとが、騎馬民族に再び支配されてしまったことが、南海ロード開発に拍車をかけたのです。つまり、東西世界の物流革命が起こったのです。
七世紀の物流は、草原ロード、オアシスロードから南海ロードに代わることにより、大量の交易品が運ばれることにより、内陸よりもアラビア→インド→南海→江都(南京)の港町が栄えていくわけです。
そのような時代に618年隋が倒れ、唐が興るわけです。唐は、南下を試みる突厥を撃退すべく、朝鮮半島三韓のうちの小国新羅と同盟し、高句麗・百済を攻めるわけです。その結果、663年に百済が滅び、668年には高句麗が滅ぶわけです。そのことにより、百済と高句麗の亡命貴族が、多数日本列島に渡来するわけです。
この頃にはまだ日本国は存在していません。日本国建国は、672年だからです。ですから、百済や高句麗の亡命貴族は、日本列島につくっていたコロニーが亡命先であったのです。
百済と高句麗が仏教国家であったことが、藤原氏の戦略に合致するのです。それは、飛鳥文化抹殺のために、国家運営での使用文字を漢字化することです。
飛鳥で使用されていた「やまと言葉」は、「蝶」が古代エジプト語の紐の蝶結びを「てふ・てふ」と言うのと同じように、特殊な言葉です。それは、飛鳥が、世界各国から渡来した国際交易商人が暮らしていた国際都市であったからです。そこでは、ポリネシア語、タミル語、エジプト語、アラム語、ソクド語、チュルク語、古代朝鮮語、騎馬遊牧民族の言葉などが入り乱れることにより、独特の言葉が形成されていたのです。しかし、漢字は使用されていなかったでしょう。それは、漢字は、仏教と供に渡来したからです。
645年の藤原氏による蘇我王朝の焚書は、飛鳥の国際文化を証明する物を抹殺する意図もあったのです。飛鳥時代の文字資料を焚書してしまえば、それと同時に飛鳥文化も抹殺できるわけです。そのようにして、藤原朝廷で使用する言葉を漢字としてしまえば、漢字を知らない前政権の重臣は、朝廷での出来事を把握できません。つまり、合法的な政治からの追放です。
そのようにして、漢語による国史・日本書紀を創作しても、漢字が読めない前政権の重臣は、反論もできません。何を記述しているかを把握できないからです。
そのように、亡命百済・高句麗貴族を取り込み皇族とし、前政権の臣民を中央から追い落とした藤原不比等の日本国乗っ取りの戦略も、思わぬ事態により、混乱が生じるのです。それは、藤原氏の武器のひとつである仏教の貴族化と、藤原一族からの反乱です。
二つの律令制度のため、氏族の私有地を取り上げ公有地にしたため、臣民の開墾意欲が減り、その結果、農業が衰退することにより税である祖の収入が減るのと、重い税負担のため農奴の逃亡により多くの田畑が荒れてしまうのです。そこで朝廷は、743年墾田永大私財法を発するのです。
その法律により、国際交易商人の手先であった仏教教団は、寺奴や流人を集め、荒地や未開拓地を開墾することにより、寺の私有地が大幅に広がっていくわけです。これらの私有地からの収入と、貴族相手に至福の煙が出る護摩を焚き、バラモン教のような加持祈祷の大げさな儀式による収入とにより、奈良の仏教教団は莫大な資産を築くのです。更に、有り余る金融資産を基に高利貸もおこなう仏寺もでるわけです。その結果、仏教僧の貴族化がおこり、仏寺が貴族相手に双六や将棋などの博打をおこなう娯楽施設化がおこるのです。
お金でコントロールできるのは貧民だけです。貴族化した仏教僧は、朝廷の命令を聞きません。藤原氏の言うことを聞くのは、秦氏が支配していた山背国にあった山階寺(景教寺)を仏寺に変身させ、710年に奈良に移築した興福寺と、道教の観を抹殺する装置である春日大社若宮だけです。それに追い討ちをかけるように、724年(神亀元年)、聖武天皇が即位すると、藤原氏に公然と反旗を翻すのです。藤原氏のロボットと思われた聖武天皇は、藤原氏のためではなく、藤原氏に貶められた「鬼」のために行動を起こすのです。
聖武天皇は、701年(大宝元年)藤原氏のロボットの文武天皇(19歳)と藤原不比等の娘(宮子夫人)との間に誕生。そして、716年(霊亀2年)藤原不比等の娘(母は橘三千代)の安宿媛(後の光明皇后)を夫人とされる、名実供に藤原氏のサラブレットであるわけです。それが、どのようにして反藤原氏となったのでしょうか。
その転機のひとつと考えられるのが、740年(天平12年)難波宮行幸の折、河内国大県郡智識寺(知識寺)で盧舎那仏像の拝礼です。そして、そのことが、大仏建立の動機となったと考えられています。
何故、盧舎那仏像(大仏)建立が、反藤原氏なのかと言えば、それは、盧舎那仏は、別名遍照鬼(鬼とは敵側の神)と言われ、バラモン教の神の系列から外れた敵神であるからです。藤原氏が支配する大乗仏教の教義は、バラモン教から多く取り入れているのですから、その系列に入らない神は、敵神であるわけです。
聖武天皇は、天武天皇系の旧勢力の巻き返し時期に即位したことも、反藤原氏になった理由とも考えられます。それは、藤原氏は、729年(神亀6年)、漆部(ぬりべ)造君足等の「左大臣正二位長屋王ひそかに左道(道教から派生した陰陽道)を学び国家を傾けんと欲す」とのウソの密告により、長屋王(反藤原氏の天武天皇系皇族)を謀殺したことも、聖武天皇が藤原氏を疎む原因のひとつかもしれません。聖武天皇が、藤原氏による強引な王権簒奪戦略に嫌気がさした、とも考えられるからです。
その長屋王の謀殺の反動か、737年(天平9年)藤原不比等の息子が相次いで死去するのです。4月17日次男死去。7月13日四男死去。7月25日長男死去。8月5日三男死去。このことは、歴史教科書では、天然痘がその原因と述べていますが、あまりにも不思議な事件です。
聖武天皇の行動にも不思議なことがあるのです。藤原氏の子息が相次いで死去した翌年の9月2日に、藤原広嗣が兵を起こすと、聖武天皇は10月29日に伊勢国に行幸するのです。しかし、伊勢神宮には行きません。(天武天皇が建立した伊勢神宮は、そのころ藤原氏の支配下にあったからです。)そして、伊勢より美濃国を経て山城玉井頓宮に行くのです。それらの地は、奈良の都からすれば、他界の「鬼」が住む所なのです。
そして、741年(天平13年)1月11日恭仁遷都を告げ、2月24日諸国に国分・国分尼寺建立の詔を発し、3月9日平城京の兵器を甕原宮に運ばせるのです。
そのようなきな臭い時期の743年(天平15年)盧舎那仏造顕の詔を発するのです。この頃、反藤原氏の行基(15歳で出家し仏門に入るが、18歳〜37歳まで山岳で過す。当時山岳には、藤原氏に都を追われた自然神を祀る道教士や景教僧が「鬼=天狗」となって逃げ込んでいた。その鬼が住む山岳で行基は、道教士から薬草学・治療術を、秦氏の景教僧からオリエント渡来の土木技術を習得する。723年(養老7年)の開墾奨励のための「三世一身法」により、強欲な豪族達が未開拓地開墾のため、行基の土木技術を切望することにより、反仏教の行基の勢力が増す。)が、聖武天皇に接近し、大仏建立のための勧進を始めるわけです。
大仏を建立するために、信楽(紫香楽)に寺地を開くのですが、藤原氏の陰謀による火災により信楽京を放棄して、平城京に再び移るわけです。そして、745年(天平17年)盧舎那大仏鋳造を大和国添上郡山金里(藤原氏の興福寺を見下ろす東大寺の寺地)でおこなうわけです。
その東大寺の大仏建立に、全国の鬼達が協力するのです。では、鬼となった者達とは、前身は何だったのでしょうか。
686年天武天皇が崩御すると供に、藤原不比等に都を追われたのは、道師です。684年に天武天皇が中央集権確立のために発明した階級制度「八色の姓」の内訳は、上位から真人・朝臣・宿祢・忌寸・道師・臣・連・稲置です。その道師とは、道教教団の指導者のことなのです。
道教と大乗仏教とは、歴史的因縁があったのです。それは、中国大陸での「三武一宗の法難」と言われる、四人の皇帝からの廃仏が原因です。この廃仏には、大乗仏教の戒律の乱れも原因のひとつですが、金ピカの仏像とバラモン教やヒンズー教の護摩の儀式や加持祈祷、バリトンの聖歌隊による読経の派手なパフォーマンスを導入したことにより、薬草学による長生術や天に祈る四方拝の儀式をおこなっていた道教が衰退した結果、道教が巻き返しのため、皇帝に大乗仏教の在らぬことを密告したことが原因のひとつと言われているからです。
そのことにより、大乗仏教僧200万人は、中国大陸を追われ、やっとのことで日本列島にたどり着けば、道教士は天武天皇の重臣の「道師・みちのし」として活躍していたのです。大乗仏教教団としては、これは許されるものではなかったのでしょう。そこに目をつけたのが藤原不比等です。騎馬民族の天武天皇系の氏族達を抹殺する戦術に、大乗仏教の「血の穢れ」思想は強力な武器となるからです。その思想は、肉食の禁止を意味するからです。肉食ができなければ、騎馬遊牧民族の日常生活や経済が成り立ちません。それに、獣の皮は、当時では、重要な軍事物資であったのです。武器や防具を作るは、皮革が必要なのです。
そのような大乗仏教の道教追い落としの中、大仏鋳造製作中、聖武天皇の健康が不調となるのです。それは、一説には大仏鋳造の銅毒や塗金のアマルガム法による水銀中毒ではないかということです。それらの鉱毒は、大仏建立後の奈良の都の祟りの原因となるものです。
749年(天平感宝元年・天平勝宝元年)、聖武天皇の娘が孝謙天皇として即位するのです。そして、大仏建立がまだ完成していないのに大仏開眼を強行する中、孝謙天皇と聖武太上天皇が東大寺に行幸の折、八幡大神の禰宜尼大神朝臣杜女(もりめ)が、「紫色」の輿に乗り東大寺を拝するのです。この輿が、日本の歴史上に現れた初の「神輿」と言われているのです。つまり、神輿とは、鬼の神様を祀るものだったのです。
孝謙天皇・聖武太上天皇をバックに、この鬼達の振る舞いに対して、藤原不比等なき後の光明皇后の甥の藤原仲麻呂は黙ってはいませんでした。孝謙天皇の母の光明皇后(藤原不比等の娘)が後見し、皇太后のために紫微中台を新設し、その長官に藤原仲麻呂を任命したのです。
藤原仲麻呂は、その地位を利用して、敵対する橘奈良麻呂を謀殺し、新羅末裔の天武天皇系の豪族を謀略・密告でことごとく抹殺してしまうのです。そして、758年(天平勝宝2年)孝謙天皇を無理やり退位させ、藤原仲麻呂の娘の子供の大炊王を淳仁天皇(758年〜764年)として即位させて、権力を藤原仲麻呂と光明皇后とが握ってしまうのです。そして、藤原仲麻呂は、国璽(国の印)をこともあろうことか、藤原仲麻呂の自宅に移してしまうのです。つまり、日本国の政治の中心が、藤原仲麻呂私邸になってしまったのです。
更に、百済国を滅ぼした新羅国討伐を試み、新羅の敵対国唐の制度にならって国内制度の名称を独断で変更してしまうのです。(日本の歴史上、藤原氏が権力の中枢を握ると、対朝鮮侵略行動を起こすようです。平安時代の新羅国蔑視政策、藤原氏の傀儡政権の豊臣秀吉の朝鮮出兵、藤原氏の本流近衛家による明治維新政府の征韓論。その原因は、藤原氏の先祖が高句麗・百済亡命貴族の末裔だったからです。つまり、その両国を滅ぼした新羅国の存在がゆるせないのです。21世紀の今も。しかし、日本民族が藤原氏の行動を全て支持しているわけではありません。それは、韓族と倭族とは、海洋民族呉・越の末裔の同族で、日本の武士氏族の源氏はギリシャ・ローマ文化保持国新羅の末裔です。つまり、倭族と源氏とは、韓族と新羅人と同族だからです。日本民族は、歴史教科書が言う単一民族などではないのです。)
760年(天平宝字4年)光明皇后が死去。その翌年孝謙上皇も体調を崩したが、その看病を弓削道鏡が行なうことにより回復したのです。そのことが、藤原氏のロボット淳仁天皇との対立を起こし、762年(天平6年)孝謙上皇は、蝦夷(エミシ・アイヌ民族ではなく、都を追われた主に騎馬系軍事部族達の総称=鬼)の武力を背景に、平城京に帰還し、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げるのです。そして、藤原仲麻呂が行なった新羅討伐計画を中止し、唐制の制度を元にもどすのです。
それに対し、764年(天平宝字8年)光明皇太后の後見を無くした藤原仲麻呂は、鬼達の武力を背景に専制政治を行なう孝謙上皇に焦りを感じ、挙兵するわけです。(恵美押勝の乱)しかし、鬼達の軍事力に圧倒され敗れてしまうのです。勝利した孝謙上皇は、淳仁天皇を都から追放し、孝謙上皇が重祚し、新羅系、天武天皇系最後の女帝天皇、称徳天皇となるのです。(天武天皇系は騎馬民族系なので女帝は常識ですが、百済系桓武天皇系は騎馬民族系ではないので、原則女帝は認めていない。例外、117代後桜町天皇は女帝。)
鬼の勢力を背景に返り咲いた称徳天皇は、聖武天皇の遺言「王を奴となしても、奴を王と言っても、孝謙の好きなようにすればよい。」、を実行に移すのです。藤原氏の勢力を押さえるため、下級貴族の吉備真備を右大臣に用い、道鏡を太政大臣禅師とし、更に、769年(神護景雲3年)宇佐八幡の託宣「道鏡を皇位に就けよ」を受けるのです。これに対し、藤原氏は、和気清麻呂を再度宇佐八幡へ行かせ、神託を受け道鏡の皇位阻止を行なうのです。(伊勢神宮が天皇家の宮であると言うのなら、何故、伊勢神宮で託宣を受けなかったのでしょうか。)
770年(宝亀1年)、天武天皇系最後の女帝称徳天皇が崩御するのです。歴史教科書では、原因は天然痘と言っていますが、一説には毒殺とも言われています。称徳天皇が崩御するとすぐ、藤原永手と藤原百川とが、陰謀により、無名の百済亡命下級貴族の白壁王を天皇に仕立て上げるのです。それが、光仁天皇(770年〜781年)です。しかし、藤原氏の謀略は、ここで再び挫折するのです。それは、光仁天皇の息子の百済系桓武天皇(781年〜806年)は、藤原氏と同じに謀略の名人だったからです。
藤原氏が、平城京を支配し、騎馬系貴族を都から追い落とすために、大乗仏教の「血の穢れ」思想の布教や中臣神道の「穢れ祓い」の儀式を行うために、怨霊による「祟り」思想を布教したのですが、遍照鬼(平城京を見下ろす奈良の大仏)が本当に祟ってしまったからです。(実際は、銅毒と水銀汚染による鉱毒公害)平城京の都は、鉱毒神経症の患者で溢れてしまったのです。更に、中臣神道で単なる皮膚病のシロトやコクミを、国つ罪として宣伝し、大乗仏教は、法華経でハンセン氏病を仏罰だと宣伝し、前政権のまつろわない騎馬系貴族達を坂地に集め部落とし、そこに、それらの国つ罪者や仏罰者を収容させたのです。その戦術は、触れた物はその影響を受けると言う「感染魔術」です。これにより、まつろわぬ元貴族達は「穢れ者」に貶められてしまったのです。
藤原氏は、騎馬系元貴族の貶めが成功したと思っていましたが、しかし、一枚上手の謀略家の桓武天皇は、平城京を「穢れ都」とし、更に藤原氏の影響下にある奈良仏教を「穢れ仏教」としてしまうのです。つまり、「穢れ思想」を逆手に取り、藤原氏の武器のひとつである奈良仏教と中臣神道の抹殺です。その桓武天皇の戦略が成功するのは、奈良仏教の民衆を相手ではなく、貴族・豪族・富者による多額の布施や堂塔の建立、造仏の寄進に対して行う、まがまがしい複雑怪奇な仏教儀式をおこなっていたからです。鉱毒公害に侵された奈良の都の庶民には、僧侶のおこなう持戒・精進・禅定・複雑な教学の研鑽・難しい仏法修行などは、無用の長物でしかなかったのです。
そこで、794年(延暦13年)桓武天皇は、秦氏の元支配地を平安京とし遷都するのです。そして、桓武天皇は、奈良の三論・成実・華厳・倶舎・法相・律の南都六宗を、穢れ仏教として奈良に封印してしまうのです。ですから、平安京には、藤原氏の影響下にある宗教集団は存在しないのです。
そこで、桓武天皇は、漢族の末裔最澄を唐の山東半島(日本国からの中国への貿易先)に留学させ、805年帰朝した最澄は天台宗を創むのです。(中国語も知らない最澄が8ヶ月の留学で何を学んできたのでしょうか。最澄は、空海が唐から持ち込んだ仏典史料を借りて勉強しているのです。)そして、最澄は、秦氏の元支配地であった、ミトラ神(魔多羅神)を祀っていた比叡山の地に、延暦寺を建立するのです。ここから、藤原氏支配の奈良の興福寺と百済系桓武天皇支配の比叡山延暦寺との戦いが始まるのです。
平城京(710年遷都)から平安京(794年遷都)への複雑怪奇な理解を超えた遷都は、見方を変えて見れば、新羅系貴族と藤原氏と百済系亡命貴族との地下での三つ巴の戦いの現われでした。(四世紀から続く朝鮮半島での争いが、日本列島に持ち込まれたのです。)
この争いは、結果的には、百済系亡命貴族の勝ちのようです。それは、藤原氏の勢力を奈良の都に封じ込め、そして、新羅系貴族を賎民に落しこめることに成功したからです。その仕上げとして、百済系新仏教組織構築のために最澄を唐に派遣させ、中国天台宗の日本支部を比叡山に開設できたからです。(仏教寺院は、国際交易に深く関わっていた。)
そこで不思議に思うのですが、最澄の渡唐の遣唐使船(四隻中二隻難破)に合わせて、一年前まで仏籍になかった空海が、何故遣唐使船に乗れたのかということです。ここに、遣唐使船の謎があるようです。
遣唐使船は、630年に始められたようです。それは、蘇我王朝が崩壊する15年前のことです。では何のための遣唐使船なのでしょう。歴史教科書では、唐の文化を輸入するためと、白鳳時代の貴族子弟の留学のため、との説明です。しかし、この遣唐使船には不思議なことがあるのです。それは、度重なる難破です。
何故不思議なのかと言えば、630年に遣唐使船が始まる23年前の、遣隋使船は、607年小野妹子を隋に遣わし、608年小野妹子は隋使裴世清(日本書紀では推古天皇統治時期ですが、裴世清は唐皇帝に男王「蘇我馬子か?」に謁見し、倭国は中国と同じ高度文化を保持していると報告しているのです。)を伴い帰朝し、その年に小野妹子は再び入隋し、609年には小野妹子が帰朝しているのです。23年前の中国渡海を、二年で二往復するほど安全に行なわれていたのに、何故遣唐使船の難破が多発したのでしょう。常識的には、あらゆる技術は、時代と供に、後退ではなく、進化・進歩するものなのです。
一つの考えとして、遣唐使船は、ある目的を持って難破するように仕掛けられていたのです。それは、古代のタイタニック号(相続人のいない富豪が多く乗船していた。)だったのです。遣唐使船は、藤原氏に不都合な人物の合法的抹殺手段だったのです。その犠牲になったのは、蘇我王朝や天武王朝の将来を支える多くの優秀な若者(藤原氏にとっては脅威)だったのです。
その論拠として、894年の遣唐使の廃止令です。下級貴族出身の菅原道真は宇多天皇(887年〜897年)の重臣として反藤原行動を起こすのです。それに対して、藤原氏は、菅原道真を遣唐使に任ずるのです。菅原道真は、藤原氏の遣唐使船による陰謀を良く知っていたので、宇多天皇をして、菅原道真の遣唐使を中止するだけではなく、唐との交易や文化輸入は無意味だと遣唐使制度そのものを廃してしまうのです。(日唐交易は、藤原氏の経済を支えていた。)
それに対して、藤原氏は、901年(延喜1年)菅原道真を大宰権帥に左遷するのです。その二年後に菅原道真は大宰府にて死去してしまうのです。このあまりにも強引な藤原氏の処置に対して、菅原道真の祟りを恐れ、菅原道真を「天神」として神社に封じ込めてしまうのです。(怨霊封じ込め装置の神社が、いつから死者の魂を祀る施設になったのかは不明。日本国における神社設建の歴史は謎です。分かっているのは、仏寺の後に出現したことです。つまり、神社は、日本古来の建築物ではないことは確かです。古墳の近く、或いは古墳上に建設されていることが多い事実が、神社設立の謎解きのヒントのようです。)
では、最澄の渡唐の本当の目的は、何だったのでしょう。唐の優れた仏教を学ぶためだけではないでしょう。通訳を伴うほど、最澄は中国語が分りません。それが、八ヶ月滞在での帰国です。とても天台宗や密教をマスターしたとは思えません。その証拠に、帰国後、年下の空海の弟子と自認して、最澄は空海に密教を学んだり仏典を借りて勉強をしていたのです。
では何かと言えば、それは、山東半島に亡命していた百済貴族の日本国への導きでしょう。
藤原氏の支配を避けるため、百済系桓武天皇は、平安京を「百済の都」にしたかったのです。そのために、中国・唐に亡命していた百済貴族の日本渡来の導きを、漢族末裔の最澄に命じたのです。
では、空海の目的は何だったのでしょうか。
歴史教科書では、最澄を学究の僧、そして空海を修行の僧と説明しています。空海は、その説明のように、弟子を養成するために仏寺で学問をするのではなく、全国各地の山々に分け入り、山岳修行の名目に実際は鉱脈探索に勤しんでいたのです。
日本列島は、十六世紀にメキシコ銀山が開発されるまでは、世界有数の銀産出国であったのです。
唐経済は、菅原道真が指摘していたように、交易の重要商品である「絹織物」が、その原料である「繭」を西域人に盗まれることにより、更に、交易方法が、内陸から海路に代わったことにより交易通行税激減により、疲弊していたのです。そして、ヨーロッパでの交易商品の需要は、絹織物から「銀製品」に変化していたのです。唐の経済立て直しのためには、属国日本列島での銀山開発が急務だったのです。
奈良時代の日本列島での交易戦争に勝ち抜いたのは、蘇我王朝、天武王朝を数々の陰謀で倒した、藤原氏です。しかし、反藤原氏の聖武天皇の祟りにより、その地位が危ぶまれていたのです。その隙を突いたのが、百済国が663年滅亡し、日本列島に亡命していた百済貴族達です。
ひとは理念だけでは生きられません。食物をとらなければ身体を維持できないようになっているからです。国を身体とすれば、食物は経済です。経済は物と物との交換において成り立っています。その経済の流れをみることで、日本史の本流が分かるかもしれません。
大仏造鋳過程で、奥州から金が産出することを知った百済系光仁天皇は、奥州経営のために侵略軍を組織するのです。780年、光仁天皇は、百姓より徴兵し、武術に優れたものを選び出し軍事訓練し、792年桓武天皇は健児兵軍団として組織するのです。
しかし、騎乗弓射する騎馬民族末裔の蝦夷には、何十万の農耕民族軍隊でも太刀打ちできません。そこで騎馬民族末裔である金髪の坂上田村麻呂を鎮守府将軍として、敵将アテルイを、和平条約を結ぶためと、京に連れ出してだまし討ちすることにより、奥州侵略に成功するのです。(奥州は、歴史教科書地図での白地の未開の地などではなかったのです。縄文時代から岩手県久慈では琥珀が産出され、国際交易商人達が訪れていたのです。)
桓武天皇による奥州侵略には、金山略奪のほかに、もうひとつの目的があったのです。それは、蝦夷軍団には騎馬系新羅武士団が多くいたからです。桓武天皇は、百済国滅亡に導いた新羅国に並々ならぬ憎しみをもっていたのです。この憎しみが、百済の都「京都」での差別部落を発生させる原動力となっていくわけです。その差別に手を貸すのが最澄開祖の日本天台宗の、騎馬民族蔑視の法華経の布教です。そのプロパガンダのキャラクターとして開発されたのが「聖徳太子」だったのです。
何故、成人しているのに「聖徳皇子」ではなく「聖徳太子」なのかと言えば、新羅系日本人には、「太子信仰」が受け入れられやすいことを、中国渡来の天台宗僧が知っていたからです。
ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅(356年〜528年・女帝が統治。新羅と同族の天武王朝も女帝が多い。しかし、民族が異なる桓武王朝では女帝は皆無。例外は1人。)では、ギリシャの地母神イシスとその子供ホルスとの「母子神」(このイシス・ホルス母子神がキリスト教に導入され「聖母マリアと幼児キリスト」となる。)が信仰されていたからです。その「母子神」は、やがて母神だけが忘れられ、子神(アル)が祀られていくわけです。それが「太子信仰」の発生となるのです。そして、最澄は、百済仏教布教のため、法華経のキャラクターの聖徳太子の宣伝隊長としてガンバルのです。(桓武焚書と日本書紀の改竄による、百済勢力による新羅追い落とし宣伝に脅威を感じた新羅系秦氏の末裔多人長が考え出した戦術が、「奥付に712年を記述した古事記」出版だったのです。552年の百済仏教伝来物語は、百済系桓武天皇の創作です。古事記の序にある天武天皇の詞「諸氏族が持っている帝記および本辞は、もはや真実と違っていて虚偽を加えている」は、桓武天皇による「日本書紀」改竄を指したものです。)
藤原氏は、桓武天皇の亡命百済人による都建設戦略を見抜くように、「夷を以って、夷を制す」戦略で、秦氏の末裔空海に目をつけるのです。そして、仏籍のない空海を短時間で仏僧に仕立て上げ、遣唐使船に乗船させたのです。
空海は、唐に約二年間滞在中に、仏教や密教の経典を掻き集めながら、錬金術・鉱山開発技術習得や鉱山開発用工具類の購入をおこなっていたのでしょう。
その論拠として、空海が建立した仏寺近くには、銀山や銅山が点在するからです。勿論、空海の本拠地高野山は、中央構造線上にあるのです。空海は、この中央構造線に沿って仏寺を建立しているのです。その中央構造線では、縄文時代から朱砂のとれる場所であったわけです。朱砂(硫黄と水銀の化合物)が採掘されれば、そこには水銀・銀が眠っている可能性があるからです。
では、空海が唐から輸入した仏教とは何だったのでしょう。元々空海は地方下級士族出身で、更に百済ではなく秦氏の末裔でしたので(クダラナイ=百済ではない=高貴ではない)、大学を卒業しても官僚となる道が閉ざされていたのです。空海が大学に入学したといっても、従五位以上の子弟でなければ入学できなかったのを、聴講生の身分で通学していたわけです。中途退学は予定の行動でしょう。それに、漢文を理解できる語学力があったので、仏典の無意味さも知っていたのでしょう。(江戸時代、白隠禅師が、「仏典に仏を求めて無駄な時間を費やしてしまった。」と述べていたように、文殊の徒が創作した六千点もの仏典には、釈尊の真理など存在していなかったようです。)
では、空海は何に興味を示したのでしょうか。それは、七世紀の中国大陸で流行っていた「タントラ」です。
バラモン教を取り込んだヒンズー教が開発した「タントラ」の特徴は、呪文、護符、お守り、手印です。それに、バラモン教の水銀薬の回春術とヒンズー教の護摩と加持祈祷を加えれば、平安時代の秘密仏教(密教)の完成です。
空海は、この「タントラ」を大乗仏教(密教)のひとつとして日本国に持ち込んだのです。しかし、反新羅・反秦氏の桓武天皇は、空海の登都を認めませんでした。空海が京に登れたのは、百済天皇四代目の嵯峨天皇(809年〜823年)の時です。子作りが好きな嵯峨天皇(子供が多すぎて公費では養育費が払えないため、812年皇族籍を抜いた嵯峨源氏を創め。公家桓武平氏は825年淳和天皇が創め。)は、空海の水銀薬を使う回春術に大変興味を持っていたようです。
空海が持ち込んだ密教は、多くの仏教関係者に歓迎されたことでしょう。それは、少数の金持ち相手の仏像販売ではなく、多くの庶民相手にビジネスができるからです。それは、護符・お守りの販売です。神社仏寺での護符・お守り販売の元祖は、高野山であったのです。
しかし、空海のもたらした密教は、良いことばかりではありませんでした。それは、バラモン教のカースト思想そのものを直接日本国に導入してしまったからです。それは、高野山で販売していた「お札」の文句が、バラモン教(=ヒンズー教)の「律法教」からの借用だったからです。
「セダラに触れたとき、彼らと言葉をかわしたとき、彼らを見たときには、穢れを受ける。そのさいには浄化儀礼をせねばならない」の宣伝文句で、バラモン僧は浄化儀式を行い金儲けをしていたのです。その文句を高野山のお札では、「栴多羅(せんだら)・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」と借用していたのです。(現在は削除)
この密教の穢れ祓えは、中臣祓えより強烈に騎馬民族にダメージを与えたことでしょう。更に、空海は、騎馬民族末裔の蝦夷を「非人のともがらなり」と蔑んで呼んでいるのです。
これらの空海の言動がやがて、藤原氏と百済系天皇による、騎馬民族末裔の新羅系日本人と秦氏を単なる賎民としてではなく、化界の不可触賎民(穢多)としてしまうのです。
何故それまでして、百済系天皇と藤原氏は、新羅系日本人と秦氏を貶めるのでしょうか。それは、元天武王朝の王族の新羅系日本人の武闘力と臣下であった秦氏の武器製造・土木建築技術を恐れていたからです。それらの技術を持って庶民を味方につければ、簒奪王朝である藤原王朝や百済王朝などは簡単に崩壊されてしまうからです。(桓武王朝は、白壁王(光仁天皇)の皇后である天武天皇系の井上内親王とその子・天武王権相続者の他戸親王を毒殺し、更に実弟の早良親王も自殺させることにより創られた王朝なのです。つまり、桓武王朝は簒奪王朝であったのです。このことを隠す装置が、812年編纂の「新撰姓氏録」です。この名簿には、新羅国出身者がほとんど掲載されていないのです。「新撰姓氏録」は新羅系日本人の歴史上の抹殺です。そして、氏族を「皇・神・蕃」に分け差別するのです。秦氏は、「蕃」の渡来系です。勿論、藤原氏と百済亡命貴族は「皇」です。つまり、「皇族」とは、出自不明の藤原氏と百済亡命貴族のことなのです。)
そのような桓武天皇は、王権簒奪時での自らの行いに対しての「祟り」に怯える毎日だったのです。それは、元の都の「平城京」で「祟り」(鉱毒中毒)に冒されたひと達による本物の地獄絵を見てきたからです。それに輪をかけるように、桓武天皇が支配する延暦寺では、法華経布教の手段として、「極楽」ではなく、「地獄」をビジュアルとしての「地獄絵」(地獄絵は、まさに平城京の都での情景だったのです。)で強力に宣伝していたからです。その「地獄」宣伝の集大成が、985年天台宗の学僧源信による「往生要集」となるのです。(地獄世界描写のリアルさに驚嘆した宋国の商人周文徳は、日本天台宗の本社国清寺に寄進したところ、宋の信者に爆発的な人気となり、「往生要集」は宋国へ書籍として多く輸出されたのです。)この書物が創りだした「地獄界」の概念は、21世紀の今もひとびとの「トラウマ」となっているのです。
怨霊に祟られる京の都で、怨霊退治を行なうひとが現われるのです。それが、密教の呪文と道教の方位術・占星術・薬学術を応用した「陰陽道」です。陰陽師は、超能力者を装う呪術で「怨霊」退治を行なうビジネスを平安京で始めたのです。
怨霊を退治するのは、超能力者の「陰陽師」ですが、怨霊を静めるのは、怨霊者側のひとです。ですから、怨霊を封じ込める神社の神主は、敗者の同族がおこなうわけです。
平安京で祟るのは、無念の死を遂げた元王族達です。それらは蘇我氏・秦氏・新羅系貴族です。すると、それらの怨霊を静めることができるのは、敗者の元王族の賎民達しかできないわけです。元王族の賎民達は、新しい職業を手にするのです。それが、「キヨメ」です。
「キヨメ」は、鎌倉時代になると、北条氏(ペクチェ=百済)が、源頼朝の妻北条政子の謀略により、鎌倉源氏一族(新羅武士団の末裔)を滅ぼすと、単なる清掃業に貶められてしまうのですが、平安時代での「キヨメ」は、天皇・皇族を祟る怨霊を静める警護業であったのです。
そのキヨメ業務者は、816年(弘仁7年)には、王権組織の一員の検非違使(810年薬子の乱後に設置された「令外の官」の嵯峨天皇の親衛隊。やがて、都市警察機能を担うようになり、宮城内部と首都の治安を守る業務を行なう。この首都治安が「キヨメ」の業務と重なり、「キヨメ」も貴人の護衛や処刑を補助するようになる。つまり「キヨメ」の業務が、怨霊から天皇を警護する役目だけではなく、犯罪者の逮捕やその処刑を行なうようになる。武士・モノノフと侍・サムライの違いは、「武士」が怨霊から天皇を警護する業務であるのに対して、「侍」は天皇の側近として賊からの攻撃に対する警護と天皇と官僚組織との連絡係の秘書の業務をおこなうひとです。この武官と文官を兼ねるひとを「蔵人」というわけです。つまり、平安時代では、護衛や刑吏をおこなう「武士」と、天皇の側近にいて「武・警護」と「文・秘書」をおこなう「侍」とは、同じではなかったのです。)の補佐業務をおこなうようになるわけです。しかし、キヨメ達は、ただの賎民ではなく、騎士道精神を持ったローマ軍末裔(太陽神・ミトラ神が軍神)の新羅花郎軍団(花とはミトラの借字)の末裔だったのです。やがて、その武闘力により、武家源氏(太陽神の八幡神を祀る。八幡神は秦氏の神)として伸し上がっていくわけです。その台頭に脅威を感じた、百済五代目の淳和天皇は、825年公家桓武平氏を興すのです。これが後に、武家源氏(新羅系日本人)と公家平氏(百済系日本人)との源平合戦に発展していくわけです。
嵯峨天皇は、その「キヨメ」達を、嵯峨源氏(公家源氏)の配下(後の武家源氏)とするのです。そこで、キヨメ達は、怨霊を静める儀式を発明するのです。それが、鎧兜で武装し(実戦用のためではないので、鉄製ではなく、総皮革製。)、刀(実戦用ではないので刃が薄く軽い。)を持ち舞う「武芸」であるわけです。「武芸」の「芸」とは、神を祀るパフォーマンスであるわけです。(神を祀る「芸」が、一般人を祀る(楽しませる)「芸能」に変化していくのは、鎌倉時代以降から。)
「武芸」は、源平合戦での勝利もつかの間、北条氏の陰謀により、賎民(鎌倉源氏一族は、北条氏の源氏残党狩りを逃れるため、北条氏の同族「平氏」と偽つわり、山奥に平家落武者部落にて、源氏再興の好期を待った。1335年源氏の足利尊氏が、仇敵北条氏に反旗を翻す。)に落とされた鎌倉源氏一族の無念が、室町時代に源氏の足利時代になると、足利氏に保護された秦氏の末裔・賎民の観阿弥・世阿弥親子により「能」に生まれ変わった。鎌倉源氏一族の無念は、平家一族(北条氏の百済平氏ではなく、氏名の無い「平○○」と名乗るペルシャ平家)の無念と重なるため、「平家物語」は、源氏系武士により多く舞われた。)
百済亡命貴族の都「平安京」に遷都し、藤原氏の興福寺・春日社の宗教戦略に習って百済系宗教組織、中国天台宗の日本支社を秦氏の元支配地の比叡山に延暦寺として建立し、騎馬民族末裔の蝦夷の支配地を坂上田村麻呂侵略軍のだまし討ちにより略奪し、奥州の金山から産出された砂金をもとに、唐との交易をおこなうことで経済基盤を確立し、百済純血を保っていた桓武王朝も、六代目の仁明天皇の時代になると、藤原氏の「女」を使う戦略により、徐々に藤原氏に百済王朝は侵食されていくのです。
藤原氏は、天武天皇が発明した、太陽神の冬至再生の儀式の大嘗祭(天皇が一生涯で一度だけ行う、前王権者の死から新しく再生する王権を受け継ぐ儀式)を、収穫祭(真冬に行う収穫祭とは何か。)と改竄し毎年真冬に行うことにより、天皇に「まぐわい=神婚」の相手に「藤原の女」を提供し始めるのです。更に、大嘗祭において五節舞を開催し、藤原の幼女を着飾らして、天皇の前で舞わすのです。天皇が気に入った舞姫は、側室となることは、藤原氏の計画済みです。
そのように藤原氏の血が注入された百済王朝の経済も、907年唐が滅ぶと、疲弊していくわけです。更に、唐王朝崩壊後の935年には、統一新羅国(675年〜935年)が滅亡し、その難民の多くが、新羅系日本人・秦氏(平安時代、出自を隠すために秦氏を惟宗氏に改名。)を頼って日本列島に渡来してくるのです。それらの人たちは、富士山の噴火灰が降り注ぐ不毛の関東の地に追放されるわけです。(713年の好字令:二文字の日本語化により、新羅亡命人達は、関東海岸部は七・八世紀渡来の高句麗・百済系日本人に占領されていたため、関東内陸部に白○部落、志○部落を形成し、後に源氏の元となる。)
日唐交易は、百済王朝の管理下、延暦寺に寄宿する国際交易商人達によりおこなわれていたものが、907年唐が滅亡し、960年宋が興るまで、中国との交易は無秩序となったため、その間、日本列島に南方のアラブ国やインド国からの交易船が直接訪れるのです。それに伴い、外国人も多く渡来するのです。
16世紀イエズス会の渡来の例でも分かるように、国際交易商人は軍隊を伴うのが常識です。大阪の難波は百済系日本人(百済平氏)に、渡邊津は新羅系日本人(武家源氏)が支配していたため、インド・ベンガラ染め衣装を着るペルシャ平家の先祖となる商人と軍隊は未開の伊勢を目指すわけです。伊勢は、中央構造線上に位置するため、海外に宇陀と並んで水銀産地と知られ、後に国際交易人やアラブ・インド傭兵軍隊が渡来して、南蛮交易湊として栄えることになるのです。
戦国時代、尾張に出自不明の織田信長(自称平氏。三代先の出自不明。比叡山の僧侶全員虐殺は反百済か。仏教嫌いで海外文化に染まるのはペルシャ平家の末裔か。)、豊臣秀吉(自称平氏。出生地不明。子供の頃日吉・イルギ丸と呼ばれていたのは中国山東半島渡来の百済の末裔か。)、徳川家康(自称源氏。朝鮮半島の朱子学を尊び、穢多頭の弾佐衛門との親交は、部落出身か。)などの武将が多く輩出されるのは、海外の傭兵軍団が多く渡来したためです。
桓武王朝の百済の血が薄くなると、延暦寺の僧侶達のなかには、仏のこころを忘れ、自己の利益のために行動する者も現れてくるのは自然の流れでしょうか。
延暦寺領の末寺や荘園の預所を兼任していた法薬禅師は、宋商人から賄賂資金を受けて大宰府の役人に賄賂を贈り、大宰府近郊にある大山寺の支配権を有利に進めたのです。そして、その大山寺を拠点として、宋人を神人(神社所属の奴)として借上(高利貸し・奈良時代の仏寺が創め。)をおこなっていたのです。このような優秀な僧侶がいることにより、延暦寺は中世において日本国最大の借上集団を抱え込むようになっていくわけです。
百済王朝の京都の宗教・交易拠点である延暦寺の規律が乱れると、藤原氏の奈良の興福寺の勢いが再び興るのです。藤原氏は、キヨメの武家源氏の武力を背景に、藤原道長(995年〜1017年)が、大嘗祭・五節舞システムにより百済王朝を完全に牛耳るのです。それに対して、百済系天皇・貴族が、藤原氏のそのシステム支配から逃れる装置が、1086年の白河上皇が発明した院政です。
日本国唯一の権力者である天皇を藤原氏の女を使ってロボット化するのが、摂政関白制度です。その摂政関白システムを無力化させるために、天皇が自ら譲位し上皇となって、無力化天皇をコントロールするのが、院政です。この上皇による院政装置により、藤原氏は、天皇をコントロールして朝廷政治を支配できなくなってしまうわけです。
そこで、無力化した天皇の藤原氏側と実権を握った百済系上皇側との闘争が、武力闘争に発展していくわけです。
奥州の乱(藤原氏による金山略奪戦争)で武家源氏が、1051年の前九年の役と1083年の後三年の役で、武闘力を発揮したため、1098年源義家が、初めて昇殿を許されるのです。そこで、武家源氏の昇殿に脅威を感じた百済系白河上皇は、対抗軍事族として、伊勢での水銀南蛮交易で財を成し、天皇家に多大な寄付、ペルシャ系舞姫、南蛮渡来の珍しい品々(孔雀・羊・ベンガルトラの毛皮)などを贈賄する、ペルシャ平家を登用するのです。
この武家源氏とペルシャ平家とが、藤原氏と百済王朝との闘争に参加すると、百済亡命貴族支配の延暦寺を武家源氏が攻撃すれば、それに対して、藤原氏支配の興福寺をペルシャ平家が攻撃することになるわけです。この争いの元は結局、院司(百済系貴族)と朝臣(藤原氏)との代理戦争なのです。
この代理戦争は、やがて、1156年の保元の乱と1159年の平治の乱へと発展し、結果的には、ペルシャ平家が、武家源氏を敗退させ、平清盛の時代(1167年〜1181年)となるのです。そして、源義朝が惨殺され、その息子源頼朝が、1160年に伊豆(夷・エビスの居住地。夷住→イズ。鈴鹿の関以東には、民族差別思想が以西に比べて普及しなかったのは、ヤマト征服者の渡来元の朝鮮半島に向いて「ヤマト」に立ち、右手側が東国・アズマは、それに対して左手側は西国・サツマ、645年から夷・エビスの国であったから。)に配流となるわけです。
1167年平清盛が太政大臣となると、父の平忠盛を真似て、福原に国際交易湊を構築し、宋国との交易独占を図るのです。交易品は、砂金、銀、水銀、朱砂、硫黄、などの鉱物で、宋国からは宋銭を多量に輸入するのです。宋国の貨幣が一般に通用すると言うことは、平安時代の臣民は、中国の経済圏に暮らしていたと言うことです。
平清盛は、藤原氏の国家乗っ取り戦略を真似するのです。平清盛の娘徳子を天皇に嫁がせ、1181年には建礼門院に変身させるのです。そして、その子を安徳天皇とし、後白河法皇を幽閉し、日本国乗っ取りを図るのです。
この行状に対して、藤原氏と百済皇族達は、ペルシャ平家壊滅を図るのです。しかし、後白河法皇や藤原氏によるペルシャ平家打倒の陰謀は、ペルシャ平家の圧倒的な海軍を主とした軍事力によりことごとく粉砕されてしまうのです。その反動として、1180年には、平重衡が鬼の守護寺の東大寺を焼き討ちしてしまうのです。
この時代、海洋軍事部族のペルシャ平家を壊滅できるのは、騎馬民族末裔の武家源氏しか存在していません。そこで、桓武平氏(百済平氏)の末裔北条時政は、その娘政子の夫源頼朝を担ぎ出すのです。しかし、京の公家社会に染まった源頼朝には、モノノフ・武士の魂は存在していなかったのです。
そこで、奥州の金山を支配する奥州藤原清衡は、出自不明の源義経を源頼朝の弟として、ペルシャ平家打倒の尖兵として送り込むのです。
源義経の出自解明のヒントは、屋島の合戦での出陣地が、渡邊津であることです。渡邊津は、ギリシャ・ローマ文化保持国の新羅末裔の居住地であるのです。その同族として、北九州松浦党がいるのです。松浦党は、主に海洋民族ですが、同調する者は異民族でも同族として迎え、日本列島にはない合議制(ギリシャ・ローマ軍は合議制により軍事行動を行っていた。)により行動する軍事部族であるのです。松浦党の主な経済活動は、朝鮮半島との交易です。朝鮮半島とは、珍島(メズラ島→マズラ→松浦)を拠点に交易をおこなっていたのです。(鎌倉源氏滅亡後、百済北条王朝により、中央から追放され「倭寇」となる。)
1185年壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し、ここにペルシャ平家は滅ぶのです。そして、1192年返り咲いた後白河法皇により、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開くのです。しかし、鎌倉源氏は、百済平氏の末裔北条氏の陰謀により、頼朝、頼家、実朝の三代で滅亡してしまうのです。
ここから、北条氏により、645年に蘇我氏、秦氏が藤原氏により賎民に落とされたように、鎌倉源氏一族は賎民に落とされてしまうのです。つまり、鎌倉時代とは、平安時代が百済王朝とすれば、第二百済王朝だったのです。
そこで、第二百済王朝は、仏教を武器として、騎馬民族末裔の賎民を「穢多」と蔑む戦略を展開するのです。その尖兵となるのは、百済が支配する比叡山天台宗の卒業生達です。
平安時代末期の京都比叡山は、中国天台宗本社との交易や借上の事業に勤しむのですが、平安二大仏教のひとつ、空海開祖の真言系の仏寺は、どのような状態であったのでしょうか。文覚上人の、空海が得度を受けた由緒ある高尾山神護寺再興の起請文には、次のような一文があります。

当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師をいれたりしてはならない。

平安時代末期は、その起請文の禁止事項が仏僧により実際におこなわれていた、大乗仏教が述べる、正に末法の世であったわけです。
末法の世は、日本列島だけではなかったのです。東アジアでは、唐が滅び、宋が興る頃、北方に騎馬民族の女真が勢力を伸ばし、南下を試みるのです。その南下は、日本海をまたぎ、1019年北九州に来襲するのです。この賊を、日本史では「刀伊の入寇」と述べています。
この騎馬民族女真は、やがて勢力を伸ばし、契丹(遼)、高麗を滅ぼし、1115年に金帝国を興すのです。この金帝国は、宋を脅かし、その結果、1127年宋は南退して、南宋(南朝)となり、北半分を金帝国(北朝)に侵略されてしまうのです。
そのような政治的に不安定な中国大陸で、布教活動をしていた禅宗の臨済宗と曹洞宗は、組織の海外脱出先を模索していたのです。
禅宗とは、インドのヨーガに中国土着の思想を加えたものです。「禅」は、サンスクリット語のディヤーナ、パーリ語のジャーナの音写です。意味は、静慮、思惟修習、つまり、「瞑想すること」、或いは、「思うこと」、です。このインドのヨーガ(禅)が、中国に伝来したのは、後漢の頃と言われています。その後、北魏時代に達磨によりヨーガが布教され、中国土着思想(神仙術・儒教・道教)と融合することにより「禅宗」として完成したようです。
鎌倉源氏一族を抹殺した北条政権は、北条王朝の基盤を固めるための装置を開発するのです。それが、1232年御成敗式目の制定です。そして、京都朝廷の手先である延暦寺の支配を鎌倉から排除する装置が、中国からの「禅宗」の導入です。(この戦術は、桓武天皇が、藤原氏の支配を封じるために南都仏教を奈良に封印し、平安京に中国から天台宗を導入したことと同じです。)
北条氏は、百済系ですが、京都を支配する桓武王朝の流れから外れている、百済皇族ではない、武家平氏です。だから、伊豆(夷住)に配置となっていたのです。武家源氏の騎馬による武闘力を利用して、ペルシャ平家を打倒して、やっと手に入れた関東の支配地を、再び桓武王朝に渡すわけにはいかないのです。
京都の桓武王朝は、鎌倉支配の尖兵として比叡山の延暦寺で洗脳した百済仏教修行僧を、北条氏の支配する鎌倉に送り込むのです。それに対して、北条氏は、中国から導入した「禅宗」で対抗するのです。(現在の鎌倉には寺が多くあるのですが、禅宗以外の寺が少ないのは、そのためです。)
歴史教科書や仏教史で、奈良・平安時代は貴族仏教で、鎌倉時代にやっと庶民のための仏教が興った、と述べていますが、実態は、鎌倉大乗仏教が庶民のために布教を創めたのではなく、北条氏により京都百済仏教が鎌倉の地から排除され、それに代わり「禅宗」が鎌倉武家社会に受け入れられたため、大乗仏教は東国で布教する武家相手がいないため、しかたなく庶民を布教対象にしただけです。
更に、布教活動が一歩遅れた者は、鎌倉の都に入れず、自ら「セダラの息子」と名乗り、辺境の賎民居住地や地獄谷近くで賎民相手に布教していたのです。これらの仏教僧が、仏典に記述してある騎馬民族差別思想(カースト制度下の不可触賎民=仏罰者)の本質を知ることもなく法華経を一般庶民に布教することにより、仏罰者といわれる「セダラ」が「穢多」となり、新しい賎民階級が鎌倉時代に生まれるわけです。
そもそも、騎馬民族を蔑視する「法華経」を布教する天台宗の流れを汲む鎌倉大乗仏教は、小難しい宗教教義や宗教儀式などすることもなく唯黙って座るだけの禅宗とは異なり、騎馬民族末裔の「モノノフ・武士」には受け入れられない宗教だったのです。(何故、仏前で、胡坐ではなく、正座をするのでしょう。この正座とは、他国では罪人が座る様式です。胡坐・アグラは、「胡=ペルシャ」で、つまり騎馬遊牧民族のペルシャ式座り方なのです。座禅での座り方は、騎馬遊牧民族には自然な座り方だったのです。もし、座禅が、大乗仏教のように正座だったとしたら、騎馬民族の末裔の武士には受け入れられなかったでしょう。何故、仏前での罪人座りが「正座」なのでしょうか。そこに、大乗仏教の本質があるようです。)
更に、禅宗のシンプルな建築様式は、武家社会に受け入れられ、床の間に中国の神仙を描く墨絵の掛け軸が流行るのです。(その中国禅宗の建築様式は、室町時代になると書院造となるのです。室町時代、中国から神仙の掛け軸が多く輸入されるのはそのためです。)そして、禅宗のシンプルな葬儀様式は、後に、何でも模倣する大乗仏教に取り入れられ、今日に至っているのです。
一般的に、鎌倉時代は、武家源氏の武士が支配していた、と思われていますが、実際に支配していたのは、1192年から1219年までの、わずか27年間に過ぎないのです。後は、百済平氏の末裔北条氏が1335年までの116年間も支配していたのです。この116年間、武家源氏末裔とその一族は、賎民として、源氏再興の時まで待つのです。
百済末裔の北条氏は、藤原氏による倒幕陰謀や源氏再興の芽を摘み壊滅するために、1221年京都に六波羅探題を置き、全国に反北条の情報収集のために密使を放つのです。
更に、落武者源氏一族と庶民との接触による蜂起を恐れ、それに対する装置を開発するのです。それが、まつろわぬ武家源氏末裔を、賎民以下の不可触賎民「穢多」に貶めることです。そこで鎌倉大乗仏教は、平安時代に空海が中国からもたらしたバラモン教祈祷ビジネスの宣伝文句「セダラに触れたとき、彼らと言葉をかわしたとき、彼らを見たときには、穢れを受ける。そのさいには浄化儀礼をせねばならない」を布教するのです。更に、真言宗系の寺では、「栴多羅(せんだら)・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」の御札を信者に販売するのです。(平安時代では、セダラ=穢多ではなかった。)
「穢多」が歴史上に現れるのは、13世紀後半に編纂された「塵袋」に「イキ物ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也」が初めとされています。更に、武家に取り入れられた禅宗の、庶民への布教拡大に脅威を感じた比叡山の大乗仏教側は、「天狗草紙」の宣伝物で、禅宗を広めていた「放下集団」を天狗(奈良時代に都から追放され山に住む道教士・景教僧)が操る「畜生道」「魔業」として激しく非難しているのです。しかし、「天狗草紙」では、仏敵の天狗は、穢多童(童とは、一人前ではない意味の蔑称)に退治されてしまうのです。(この物語は夷を以って夷を制す戦略を述べたもの。)この天狗草紙出版頃は、「穢多」は、「不可触の穢れた存在」よりも、武士のイメージが残る「武闘力」を認められた存在であったのでしょう。
やがてその第二百済王朝による、新羅末裔の源氏武士壊滅のための、仏教による賎民思想布教も激しくなるのですが、関西と関東とでは、その勢いに差が出るのです。関西の穢多布教は、百済支配の比叡山の法華経の天台宗が直接おこなうわけですが、関東の都の鎌倉は、白隠禅師が江戸時代に述べたように、禅宗は法華経などの仏典に興味はなかったので、仏罰者の「セダラ思想」や「穢多思想」などを禅宗は布教しなかったからです。
関東での賎民思想布教は、結果的には、カースト制度の意味を知らない比叡山延暦寺で法華経を洗脳された、百済平氏末裔の地・千葉出身の「セダラの息子」や鎌倉の地で仏教布教ができなかった者達だけだったのです。(この鎌倉新興仏教に洗脳された賎民は、やがて仏教貴族組織拡大の手先として利用されていくのです。)それに、アズマは、奈良時代からエビス(賎民)の住む地であったのです。ですから、関東では、賎民思想は、関西より流行らなかったのです。
そのような比叡山僧による騎馬民族に対する思想攻撃に対して、鎌倉源氏残党は、自ら「平家落武者」と名乗り、源氏再興まで山奥の「平家部落」でひっそりと暮らすのです。
しかし、武家源氏の臣下にあった技術集団・秦氏の末裔は、百済北条氏の支配する鎌倉時代を逞しく生き抜くのです。新羅系秦氏は、蘇我王朝、天武王朝期では、王族直属の技術集団だったのです。穢多は、唯の賎民ではなかったのです。
穢多頭の初代弾佐衛門(秦武虎)は、1180年源頼朝の挙兵での功労で、源頼朝より御朱印状を賜っていたのです。更に、鎌倉幕府設立に貢献した秦氏一門は、源頼朝より南九州薩摩の島津荘の領主に任命され、惟宗氏改め島津氏を名乗るのです。明治前夜、江戸の弾家を尋ねた島津氏の密使が、「弾家と島津は同族ぞ」と言った根拠が鎌倉時代にあったのです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

 

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