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神輿の黙示録(12)(日光東照宮の謎:江戸時代とは第三百済王朝か)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:16:58: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(11)(日本国統一と新賎民の発生:デウスとブッダは一卵性双生児か) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:14:08)

「歴史とは何か?」と、問われれば、それは、「個人の経験の枠を超えた事象を集めて、物語を綴ったもの。」と言うことが出来るかもしれません。つまり、歴史は、誰が実験しても同じ結果が出る「化学・科学」とは異なり、個人の解釈により色々な結果を導く「文学」の範疇にあるのです。
そこで、歴史物語を綴るため、史料集めをおこなうわけです。しかし、そこで問題が起こるのです。それは、大多数の「公の史料」は、敗者側ではなく、勝者側のものであるからです。それは、「歴史は強力な武器」となるからです。政権を転覆させた王権が最初に行うことが、前政権の歴史を消すための「焚書」と「歴史改竄」です。ですから、歴史を敗者側から眺めようとしても、それが思うようにできないのです。
例えば、「ヤクザ」の歴史を調べようとしても、まともな史料が存在しないため、できないのです。それは、「ヤクザ」は、敗者側のひとであるからです。権威ある辞書でも、ヤクザの家業のサイコロ賭博からきたもので、「893」がその語源である、と掲載しているものもあるほどです。
ヤクザの家業の「賭博、高利貸し、売春」は、埋もれた歴史を丹念に調べれば、平安時代の仏教組織が貴族相手に盛んにしていたことであることがわかるのです。平安時代の賭博は、双六賭博、碁・将棋です。高利貸しは、「借上」と言われていました。売春は、比丘尼と言われる剃髪の女性が「聖婚」としておこなわれていました。これらのことは、治外法権の寺内でおこなわれていたのです。ですから、バクチでのチップ(手数料)は、「寺銭・テラセン」と今でも言われているのです。
ヤクザの発生は、源氏三代滅亡後の鎌倉時代に、北条政権により都を追われた賎民が生き残るために、怨霊封じ込め施設である神社内に集まり商売をしたことから始るようです。その同業者組織を、「座」というわけです。賎民商売のため、神社境内でおこなわれるバザール(屋台)で、勝者がイジメ(夷絞め)をするわけです。そこで、座を仕切る(商売を邪魔する者から護る)者が現れるのです。その役の者を、「役座」と言ったわけです。役座は、弱い立場の者を勝者側から護るひとであるわけですから、弱い立場のひとのこころとの距離を縮める役でもあるため、「任侠」とも言われたわけです。
鎌倉時代、王権に迎合する仏教組織は、まつろわぬ秦氏末裔と源氏末裔を賎民に貶め、更に仏教の血の禁忌思想により、インドの不可触賎民セダラを真似して、「穢れ多し」の「穢多」の蔑称を発明するわけです。その賎民穢多の頭が弾佐衛門と呼ばれるわけです。つまり、弾左衛門は、賎民の商売を仕切る「役座」の親分格であるわけです。
1590年藤原氏に取り込まれた関白豊臣秀吉が、宿敵徳川家康を、人も住めぬ関東に移封するのです。その関東への移封の時、弾左衛門は、徳川家康を鳥越で出迎えるのです。
この弾左衛門と徳川家康との関係は、どのように説明できるのでしょうか。
賎民頭である弾左衛門支配地は、関八州を中心に西は中部、東は奥羽まであったのです。そして、江戸幕府関東直轄地と弾左衛門支配地とが重なるのはどうしてでしょうか。更に、徳川家康存命中は、弾左衛門は羽織袴帯刀で籠により江戸城に登城していたのです。そして、弾左衛門は、江戸幕府と異なる税徴収、裁判・刑罰、政治機構で関八州の支配地を経営していたのです。これは正に日本国の中に賎民独立国が、関東には存在していたのです。
そこで、徳川家康を調べれば、賎民独立国の成立過程と、そしてその独立国が崩壊し、どのようにして日本版カースト制度が江戸時代に完成したのかを知ることができるかもしれません。
徳川家康の賎民性を示すひとつの事例として、三代徳川家光の乳母春日局の「東照大権現祝詞」によれば、三歳の家光の病を徳川家康自身による薬草の調薬により回復させた、とあることです。薬草や外科手術などによる治療行為は、宗教者による加持祈祷全盛の時代では高貴なひとはおこなわなく、賎民でしか行わないことです。つまり、薬草に詳しいことは、高貴な生まれなどではなく、そのような環境に育ったことの証明となります。
では、徳川家康は、どこで育ったのでしょうか。教科書歴史では、三河と言うことになっているようです。しかし、それには疑問符がつくのです。
一般的には、ひとはあの世に旅立つと、その墓は生地に埋葬されるのが普通です。しかし、1616年徳川家康が、75歳で死去すると、最初の埋葬地が久能山であるのです。三河と久能山が近いからこれは理解できます。しかし、翌年栃木県の日光に改葬されているのです。これは理解できません。三河と日光との関連性がないからです。
このことは、ものの本の説明によれば、江戸の鬼門が日光だから、江戸を護るために、徳川家康の墓は、久能山から日光に改葬された、というのです。しかし、これも納得できません。だったら最初から日光に埋葬しなかったのは何故でしょうか。
この日光改葬には、何かの謎があるようです。
日光の地名は「二荒・にっこう」の音読みと言われています。日光輪王寺の前身は、782年勝道上人が四本竜寺を建立したのが始りのようです。寺の表の機能は、仏像を安置することです。しかし、裏の機能は、山城で砦の機能を持っているのです。修験道者の表の行動は仏教修行の山登りですが、裏の活動は鉱脈の開発です。山岳修験者が携帯する金剛杖は、固い岩を砕き鉱脈を探索する道具なのです。
では、日光の山々には何があったのかと言えば、男体山の山中には、大砂鉄層があったのです。その証拠に、古代から中禅寺湖の中宮祠付近では産鉄が行われていたのです。山岳修験者が、その先住産鉄民族末裔の地を略奪して、砦を建てたのが日光輪王寺の前身四本竜寺だったのです。
その日光近くの世良田部落は、産鉄民族末裔が住んでいたようです。一説には、徳川家康は、その世良田部落から、ひとさらいにより拉致されて、松平氏からの今川氏への人質として三河に銭五貫で売られてきた、と言われています。
日光輪王寺に奉納されている「家光公の御守袋」には、家光直筆の「二せこんけん、二せ将くん・二世権現、二世将軍」があるのです。これはいったい何を意味しているのでしょうか。家光は、二代ではなく、徳川三代将軍なのです。二代将軍は徳川秀忠です。そして、更に納得できないのは、徳川家康の東照宮の横には、二代将軍の秀忠ではなく、三代将軍家光の「大猷院・たいゆういん」があるのです。秀忠の墓は、江戸芝の増上寺(増上寺は浄土宗・日光東照宮は天台宗。徳川家の宗教組織が二派にわかれている。これはどのように説明されるのでしょうか。)に葬られているのです。
徳川三代の宗教の違い(浄土宗と天台宗)も不可思議ですが、この徳川三代の政治も不可思議です。
初代徳川家康は、関が原合戦の二年半後の1603年征夷大将軍に任ぜられたのですが、その二年後1605年二代徳川秀忠に征夷大将軍を譲ってしまうのです。しかし、その後も「大御所」として実権を握り続け、1615年大阪夏の陣と冬の陣で、豊臣家を滅亡させるわけです。
そして、1616年てんぷらの食べ過ぎで、75歳で没するのです。(一説には毒殺。)それに対して、1605年二代将軍の座に着いた徳川秀忠も、1623年には十九才の徳川家光に征夷大将軍を譲ってしまい、徳川家康に倣い「大御所」として駿府城に居を構えるのです。
しかし、二代目の「大御所」は、徳川家康と異なり、独自の政治ができなかったのです。それは、三代将軍徳川家光も、春日局をバックにして、秀忠の大御所政治に介入したからです。つまり、「大御所」(西の丸年寄)対徳川家光(本丸年寄)の確執です。(何故春日局は、「大御所」と対等の権力があったのでしょうか。)
そして、1632年二代将軍徳川秀忠が、五十四歳で死去すると、その秀忠の家臣団は、三代将軍徳川家光により排斥されるのです。つまり、徳川家康の従来からの家臣が、政治的に抹殺されるのです。これは正に、鎌倉源氏三代滅亡後に、百済系平氏末裔・北条氏による源氏軍団抹殺と同じです。
1632年三代将軍徳川家光は、公方として親政を始めるのです。そして、徳川家康から疎まれた外様系大名を招集し、老中・若年寄・奉行・大目付の制度を定め、諸士法度を制定し、1635年には、徳川家康による武家諸法度を改定し、大名に参勤交代を義務付けるのです。そして、1637年島原の乱を経て、1641年鎖国を完成させるのです。
この三代将軍徳川家光には、賎民を保護した徳川家康の血が流れていないようです。それは、徳川家光の三男五代将軍徳川綱吉は、天台宗の血の禁忌思想の流れにある「生類憐みの令」を発令して、騎馬系賎民の生活を破壊したからです。
何故三代将軍徳川家光が、徳川家の浄土宗ではなく、百済系桓武天皇が保護した天台宗であるのかは、家光の妹和子(東福門院)が後水尾天皇の中宮として入内して、皇女興子内親王(後の女帝明正天皇)を生んでいたからです。つまり、三代将軍徳川家光は、百済系女帝明正天皇の伯父であったのです。
初代日本国天皇・新羅系天武天皇は、北極星(太一)を祀る道教信仰であったものが、平安時代の百済系桓武天皇は、星祭を禁止して、最澄をして、中国から天台宗を導入していたのです。つまり、桓武天皇系は、天武天皇系の北極星(太一)ではなく、天台宗の仏を祀っていたのです。だから、三代将軍徳川家光は、百済系後水尾天皇の姻戚でもあるわけですから、騎馬系民族にも布教する浄土宗ではなく、反騎馬系の天台宗の仏を祀っていたのです。
では何故、浄土宗の徳川家康が、天台宗の日光輪王寺に祀られたのでしょうか。これには何かの謎があるようです。
1603年から1623年までの初代徳川家康から二代目徳川秀忠との政治と、1632年以降の三代目徳川家光との政治において、賎民に対する態度が全く異なっているのです。
1615年大阪夏の陣・冬の陣により、徳川家康は、藤原氏傀儡政権の豊臣家を滅ぼすと、武家諸法度と禁中並公家諸法度を制定し、抵抗武装勢力、朝廷と宗教集団を統制し始めるのです。それは、朝廷勢力は、奈良時代より宗教集団(奈良時代の藤原氏の興福寺・春日社。平安時代の百済系延暦寺・日枝・日吉神社)を利用して、仏教武装集団を背景に政治に介入してきたからです。
戦国時代に、織田信長により仏教軍団が壊滅される以前は、仏教組織はその軍事力と経済力と呪術力により、「さいころの目・加茂川の流れ・僧兵」には手が付けられないと言われるごとく、天皇家を上回る権勢を保持していたのです。
その織田信長に壊滅された仏教組織は、関白豊臣秀吉の援助により、再び勢力を増していたのです。特に、百済系天皇家と深い結びつきのある延暦寺復活には、自称源氏の徳川家康は警戒していたのです。そこで徳川家康が、1615年禁中公家諸法度を発令し、みだりに僧侶に対して朝廷が、紫衣と上人号を与えない方策を考え出したのです。
その方策に対して、朝廷と宗教組織が猛反対したのです。何故、その方策に朝廷と宗教組織が猛反対したかは、紫衣(紫衣は、道教思想の北極星・天皇の側近が着たものです。何故仏僧が、道教の衣を着るのでしょうか。儒教では、紫衣は下賎と決め付けている。)の朝廷からの授受は、宗教組織の権威付けを増すからです。その授受の見返りに対して、朝廷は莫大な献金を受けるわけです。つまり、紫衣の朝廷から僧侶への授受により、朝廷と宗教組織との利害関係が強く増していたのです。
紫衣の朝廷からの授受禁止の戦略は、朝廷と宗教組織との関係分断と、朝廷経済の圧迫を狙った、自称源氏棟梁の徳川家康の戦略だったのです。
大御所の徳川家康が存命中は、朝廷勢力は、この「勅許紫衣法度」に素直に従っていたのが、徳川家康が1616年没するとしばらくは情勢を窺がっていたのが、二代目秀忠大御所の時、後水尾天皇は財源確保のため、従来の慣例どおり、幕府に諮らずに十数人の僧侶に、宗派を問わず紫衣着用の勅許を与えてしまったのです。
1627年幕府(幕府内は、大御所・秀忠(西の丸年寄)対徳川三代家光(本丸年寄)と対立していた。)は、朝廷が幕府に事前に相談がなかったことを理由に、勅許紫衣法度違反とみなし、勅許状無効の宣言をするのです。この処置に対して朝廷は、徳川家康の時代とは異なり、強く抗議したのです。これが1629年の紫衣事件と言われるものです。この紫衣事件の決着の過程で、不思議な現象がおこるのです。
それは、後水尾天皇の怒りを静めるために、幕府より無位無官の中年女性「お福」が使わされるのです。お福とは、三代徳川家光の乳母のことです。この当時、無位無官では、どのような者でも天皇に拝謁できないのに、何故お福にはできたのでしょうか。そして、不思議なのは、お福は、後水尾天皇より、「春日局」の名称を受けるのです。この事件の背後には藤原氏が居たことが想像されます。それは、この「春日局」から、藤原氏の氏神を祀る「春日社」が連想されるからです。(山崎合戦で、イエズス会日本巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノの密命で、高山右近ジュストと徳川家康が、官軍明智光秀を裏切って、賊軍羽柴秀吉に加勢したことに対する復讐に燃える明智一族末裔「お福」は、天皇を裏でコントロールする藤原氏末裔近衛家により、徳川家に送り込まれた「駒」であった可能性があります。春日局が、「おんな」を使い将軍をコントロールする戦術は、正に藤原氏の戦術そのものだからです。)
結局、幕府(大御所側の西の丸年寄)は、その朝廷からの紫衣授受を無効として、1629年命令に従わなかった大徳寺の住職沢庵・前住職宗珀、妙心寺の単伝・東原を流罪としたのです。この処置に抗議したのか、後水尾天皇は、突然退位してしまうのです。そして、即位したのが、三代徳川家光の妹和子(東福門院)が生んだ皇女興子内親王が、1629年に第109代女帝明正天皇として即位するのです。
しかし、この事件処置の沢庵の流罪も、1632年二代将軍徳川秀忠の「大御所」が没すると、三代将軍徳川家光により許されるのです。そして、徳川家康の三河譜代から苦労してきた忠臣団(家康家臣団には、浄土宗のみならず、元一向宗・浄土真宗信者が多くいた。)は、三代将軍徳川家光により、遠方移封かお家断絶の憂き目に会ってしまうのです。(江戸時代半ばには、「三河譜代と犬のクソ」と蔑まされたのは何故か。)
そのような反家康(源氏)親百済(平氏)とも疑える三代将軍徳川家光により、日光東照宮が建立されるのです。(1617年二代徳川秀忠により改葬のために、日光輪王寺境内に建立された質素な寺は、後に三代徳川家光により、世良田村に移築されてしまうのです。)そして、江戸城は、1603年徳川家康により人工山に建設されていくわけです。そして、1636年徳川家光の時代に江戸城が完成するのですが、その城下町は、百済系桓武天皇による平安京に倣って、陰陽学の四神相応の原理(東に青龍の利根川、南に朱雀の江戸湾、西に白虎の東海道、北に玄武の日光連山)に基づき、天海の天台密教の加持祈祷による幕府護持の法力により造られたと言われているのです。
徳川家康の家臣団からも分かるように、徳川家康の出自は騎馬系色(源氏)が強く、その浄土信仰からも分かるように、反天台宗(反百済平氏)であるわけです。その徳川家康が、百済系天台宗の日光輪王寺に祀られることが、常識的にあるものなのでしょうか。その謎を解くヒントは、1624年に建立された日光東照宮陽明門にあるようです。それは、陽明門の真上に北極星(太一)があるからです。
北極星は、新羅系天武天皇が祀った神聖な星(天の皇)です。それが何故、反新羅の百済系天台宗の陽明門の真上にあるのでしょうか。
星(自然神)を祀る民族は、反仏教(仏教は人工神)です。ですから、奈良時代、藤原氏は反仏教民族を取り込むために、仏教の興福寺の他に、春日若宮なる神を発明したわけです。では、平安時代の百済系桓武天皇にとっては、反仏教に対抗する民族を取り込むための神は何かと言えば、それは日枝(イルギ→日吉・ヒヨシ)の神であるわけです。その神は、元々は中国山東半島から渡来した中国土着の神・山王(シャンワン)です。
この山王は、比叡山延暦寺により、山王一実神道の神に変身し、天台宗の教理「三諦即一」(空・仮・中の三諦は本来は一つと言う意味。ミトラ教の「三神一体」と同じか。キリスト教は、そのミトラ教の教義を導入し「三位一体」と言った。)を、「山」は縦棒三本横棒一本、「王」は、縦棒一本横棒三本で書かれていることから、「山王」の字で「三諦即一」を表わしたと方便(ウソ)を言うわけです。その山王→日枝→日吉を、比叡山延暦寺では、仏の垂迹神とするわけです。
北極星は、道教の最高神であるわけです。その道教の神を祀った天武系天皇達は、藤原氏と百済亡命貴族により謀殺されていたのです。謀殺された者は、その恨みを怨霊神となり祟ると信じられていたのが、奈良時代からの常識です。
平安時代に、仏教に敗れた道教から、陰陽道が発明されるわけですが、その陰陽師の仕事は、怨霊を鎮めることです。その怨霊の多くは天武天皇系の末裔だったのです。
チュルク系蘇我王朝の流れを引く新羅系天武天皇が、日本国初の天皇であるのを隠蔽するために、藤原不比等は、720年「日本書紀」を著すのです。しかし、平安時代になると、桓武天皇が、敵国新羅を貶め、母国百済を有利にするために、更に「日本書紀」を改竄したのです。
その改竄は、538年仏教が、百済からヤマトに渡来したとするために、生誕時のキリストと少年期のモーセをモデルにしたような「聖徳太子」を発明し、比叡山の僧侶達が、法華経のキャラクターとして「聖徳太子」を宣伝するわけです。そして、架空の人物「聖徳太子」を実在したようにするためのトリックとして、山背国を支配していた「景教徒」の秦河勝に、仏像安置のために広隆寺(実際は、蜂丘寺=景教寺)を建立させた、とする物語を創作するのです。
そのような新羅潰しの桓武天皇の「日本書紀」の改竄に対して、秦氏末裔の多人長が、奥付に712年を記した「古事記」を、812年に著すのです。
多人長は、日本国初の天皇は、神武天皇ではなく、天武天皇であることを後人に知らしめすために、「日本書紀」の神武紀にある神武天皇の橿原宮での即位前年の勅令「六合を兼ねて以って都を開き、八紘をひらいて宇と為す云々」を否定するために、「古事記」の序で太安万侶に、「天武天皇、乾符を握りて六合をすべ、天統を得て八荒を包みたまう」と述べさせているのです。(サイファー式の暗号術で、同じ言葉、同じ文章がある場合、それを否定せよ、と多人長が「古事記」で知らせたわけです。)
「六合」とは、全宇宙を表わす道教で使われる言葉です。「八紘」と「八荒」とは同義で、宇宙或いは世界全体を八角形として把握認識する道教的思想です。「八紘一宇」、「八紘為宇」とは、道教の最高神である天皇が、全世界を神聖な政治理念で治めることを意味しているのです。(八角は道教の聖数。天武天皇の墓は、八角五段で造られていた。)
その道教を抹殺し、歴史的隠蔽をした仏教は、藤原氏の興福寺、桓武天皇の延暦寺の支配下にあり、反仏教者(道教士・景教僧→山に逃れ修験者となる。)を、謀略により抹殺していたのが、奈良時代であり、平安時代であったのです。その抹殺された者達が、怨霊となって平安時代に漂っていたのです。
その怨霊神で有名なのが、903年藤原氏の謀略で抹殺された菅原道真です。その原因のひとつとして、藤原氏による中国大陸との交易のための遣唐使船を、菅原道真が廃止したからだと言われています。
平安時代の藤原氏は、無名の空海を一年で僧籍に入れて、空海を僧侶として遣唐使船に乗船させることができるほどの権勢があったのです。(百済系二代目桓武天皇は、空海が藤原氏により唐に送り込まれた者であることを知っていたので、存命中は空海を平安京に近づけなかったのです。空海が平安京へ登れたのは、百済四代目嵯峨天皇の時代です。)
遣唐使廃止を断行したため、藤原氏により太宰府に左遷され、失意のうちに亡くなった菅原道真は、雷神に化身し、平安京の貴族達に祟ったのです。(カミナリが轟くと、「クワバラ、クワバラ」と呪文を唱えたのは、菅原道真の生誕地が「桑原」だったからです。呪文は、神秘的な響きがありますが、その意味は意外と単純です。空海の密教呪文もアラム語でキリスト教関係の言葉が多く使われているようです。)その祟りを鎮めるための施設が天神神社なのです。古の神社は、神を祀る処ではなく、怨霊を封じ込める施設だったのです。
では、徳川家康は、日光輪王寺で、神として祀られているのか、怨霊として封じ込められているのか、どちらなのでしょうか。
徳川家康の墓が日光に改葬されたことの謎は、次のようなことです。二代目秀忠は、徳川家康の霊を祀るために、質素な寺を建立するのです。それに対して、三代目家光は、その秀忠建立の寺を「世良田」(何故世良田か?)に移築し、その跡にピカピカの「宮」を建立したのです。
そのピカピカの「宮」には、不可思議なものが多くあるのです。
そのひとつとして、何故回廊の梁に「眠り猫」の彫刻があるのでしょうか。それも、徳川家康の墓への入り口にあるのです。その家康の墓は、217段もの階段の先にあるのは、お参りするには困難を生じます。
「宮」は神の宿る処で、陰陽道思想により運営されています。祈祷や占いをおこなう陰陽道は、その基本思想は道教ですから、占いに使う干支は、子、丑、寅、卯、辰、巳、馬、未、申、酉、戌、亥の十二の動物です。その中には、「猫」はいません。何故、道教、陰陽道に、「猫」がいないのでしょうか。
猫が歴史上に現れるのは、古代エジプトからです。古代エジプトでは、聖獣ライオンの代わりとして、或いは穀物をネズミから護るために、猫は大切にされていたのです。猫には、他の動物と異なる習性があります。そのひとつに、湿度に敏感であることです。この習性に目を付けた海洋交易民族フェニキアは、猫を乗船させて低気圧の予測のために利用するのです。このフェニキアの国際交易商人船により、猫は世界に運ばれていくわけです。(港町に猫が多くいるのはこのためです。)
紀元一世紀に突然ガンダーラで、多数の仏典を持った宗教が発明されるわけです。その教祖は、キリスト(=ヨシュア・デウス)とソックリな出自と奇跡物語をもったブッダと呼ばれる「仏」です。それが、大乗仏教です。大乗仏教のウリは、多数の仏典です。その商品の仏典を、ネズミから護るために猫が利用されるのです。猫は、大乗仏教と伴に、道教・儒教の中国大陸に渡来してきたのです。つまり、猫は、道教・儒教の敵宗教の大乗仏教側の動物であったのです。ですから、道教・儒教を信じる中国大陸の民は、猫を好ましく思わなかっただけではなく、妖怪猫として認識していくわけです。
その猫は、奈良時代に日本国に、仏典と伴に渡来するわけです。つまり、日本国では、猫は仏典を外敵から護る、道教・陰陽道の敵であり、仏教側の動物だったのです。その猫が、何故道教思想を基に創られた「宮」に彫刻されているのでしょうか。考えられることは二つです。ひとつは、徳川家康の墓をネズミから護るためです。もうひとつは、徳川家康の霊が祟った時、それを猫(仏教思想)で封じ込めるためです。
更に「宮」には不可思議な建物があるのです。それは神厩と呼ばれている「馬小屋」です。何故に「宮」に馬小屋があるのでしょうか。(東照宮以前に建立された神社には、「馬小屋」は存在していません。)そして、不思議なのが、他の建物と異なり、ピカピカではありません。そして、その壁を彩る彫刻の動物が「さる」なのです。多く彫刻された「さる」に、謎掛けするような「三さる」があるのです。そのさる達は、「見るな、聞くな、言うな。」、と表現しているように感じられます。
猿は、古より侵略王権より、山神の使者としてはばかられ、えびす、きむら、やまびと、の「忌み言葉」で呼ばれていたのです。しかし、その猿は、馬を守護する「神」として、騎馬民族末裔には崇められていたのです。
馬は、「魏志倭人伝」に「其の地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し」とあるように、三世紀の日本列島には、馬は生息していなかったのです。それが、四世紀に古墳が全国いっせいに出現し、その出土品には多くの馬具があったのです。これは、馬を伴った民族の渡来を示唆します。五世紀頃の紀州の古墳からは、新羅古墳から出土したような、馬の冑が発掘されています。これはギリシャ・ローマ文化保持国の新羅から、鎧騎馬武者の渡来が示唆されます。その「外来動物の馬」と「在来動物の猿」とが、侵略王権と異なり、何故に共存共栄だったのでしょうか。
猿が馬の守護神であることの歴史上の出現は、鎌倉時代のようです。それは、百済系天皇支配の平安時代を破壊した、騎馬民族末裔・新羅花郎軍団末裔の武家源氏の天下の時代です。(源氏三代が滅亡すると、百済系北条氏により、源氏軍団は壊滅し、まつろわぬ源氏武士は賎民に貶められた。)
古代の出来事が分からないのは、645年に蘇我王朝を滅ぼした藤原氏により、チュルク系騎馬民蘇我王朝の歴史資料が焚書・改竄されてしまったからです。しかし、書籍は焚書・改竄されても、言葉や風習は、焚書も改竄もできません。
猿が馬の守護神であることは、徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により、ひとも住めぬ湿地帯の穢れ地(穢土→えど→江戸)に移封(態の良い追放又は左遷)された時、徳川家康の馬が病気となり、その馬を弾左衛門が伴ってきた「猿」で癒したことが、逸話としてあります。
弾左衛門と「猿」との関係は、猿廻し、猿曳き、猿飼、猿遣い、と呼ばれる「猿まわし」は、誰でもおこなうことができるものではなく、弾左衛門の配下の者ではなくてはならない限定職であったのです。弾左衛門の書上によれば、寛政十二年(1800年)でも、猿飼は、新町に十五軒、関八州他十二カ国の支配下では四十六軒あったのです。
徳川家康と猿飼との関係は、天保十四年(1843年)阿部正信の「駿国雑志」に、「天正十一年(1583年)ごろ、家康の召馬三頭が病に罹った。猿飼を呼び寄せ、祈祷をおこなったところ、馬三頭が平癒したので、その猿飼に駿府に土地を与えて住まわせた。」とあるのです。
猿飼は、穢多頭の弾左衛門の支配下の者です。その穢多の猿飼に、「土地を与え住まわせた。」、と言うことは、徳川家康と弾左衛門との関係が、「馬と猿」つまり、「騎馬民族末裔と先住民(秦氏)末裔」の関係を示唆します。つまり、猿は、馬を守護するとは、侵略王権との戦いで、秦氏が騎馬民族を軍事的に援助した、ということです。
弾左衛門とは個人の名前ではなく、族長の世襲名です。その族長の弾左衛門は、「弾左衛門由諸書」によれば、摂津国川辺郡火打村から東国にやってきた、ということです。弾左衛門が、歴史上に現れたのが、源頼朝が石橋山の合戦で敗れたとき、その危機を救ったのが縁で、源頼朝より「長吏」のお墨付きを貰ったことからのようです。
長吏とは、江戸時代末期には、穢多と同義語となってしまいましたが、飛鳥・奈良時代では、下級仕官ではあるが六百石以上の比較的俸禄・官位の高い役人の呼称だったのです。
その弾左衛門が祀る神は、白山神です。この白山信仰は、産鉄刀工集団の精神的支えでもあるのです。刀工の鍛造鉄器製造技術は、秦氏が日本列島に持ち込んだものです。秦氏は、弾左衛門の先祖です。つまり、弾左衛門の配下には、皮で武具を作る穢多と仏教組織に蔑まれた者の他に、産鉄刀工集団もいたのです。
六世紀から七世紀にかけて大乗仏教が、戦国時代のイエズス会のように国際交易商人と伴に中国大陸から日本列島に侵攻して、チュルク系騎馬民族の蘇我王朝を倒し、先住民が信仰していた「道教」や「景教」を歴史的に抹殺して、先住民を奴隷化し「猿」と蔑視してきたのです。
仏教組織は、「さる」の漢字「禺」を使い、偶(ひとかた)、寓(かりずまい)、愚(おろか)などの語により、「禺=猿=先住民」を人間より劣る者とするのです。(馬や猿の負の熟語や諺が多いのは、このためです。)
しかし、先住民に根付いた宗教行事は、新来仏教では短期間には抹殺できません。それは、宗教や信仰は、ひとの感性に直接働きかけるから、方便(ウソ)の仏教説話では簡単に払拭できないからです。そこで、仏教は、先住民の宗教を抹殺するのではなく、長い時間をかけて歴史的に改竄していくわけです。
例えば、お盆です。お盆は、今の日本国では、仏教専属の行事となっているようです。そして、仏教では、お盆のことを盂蘭盆(うらぼん)と正式には言っているようです。しかし、盂蘭盆がお盆だとすると、矛盾が生じてしまいます。それは、お盆が「極楽から先祖の霊を迎える日」であるならば、「盂蘭盆」は「お盆」にはならないからです。それは、盂蘭盆とは、語源がサンスクリットの「ウランバーナ」で、その意味は、「逆さにつるされた激しい苦しみ」だからです。盂蘭盆がお盆の正式な言葉ならば、極楽での苦しみを取り除く儀式が、お盆ということになってしまうのです。つまり、死者が向かう極楽浄土は、死者が逆さに吊るされる場所になってしまうからです。(仏教徒に逆さに吊るされたのは、実際は仏教にまつろわぬ異教の先住民達です。)
お盆のルーツは、日本列島の先住民が祀る「道教の祭事」からきているのです。申(さる)月十五日(7月15日)は、道教の祖霊を祀る日なのです。陰陽五行思想では、水の三合の生(せい・うまれた)、旺(おう・いきた)、墓(ぼ・しんだ)は、申(さる)、子(ね)、辰(たつ)の動物で表わされるのです。申は、陰陽五行思想では「うまれた」ですから、申の月は、道教の祖霊祭の日であったのです。仏教が、「道教の祖霊祭」を「お盆」に摩り替えたことは、正に、キリスト教が、太陽神・ミトラ神再生の誕生日12月25日を、イエス(ヨシュア)の誕生日クリスマスに摩り替えたことと同じことです。
「猿」の漢字が、「先住民」の隠語であるのならば、猿楽とは、先住民の芸能ということが言えます。猿楽は、百済系鎌倉政権を打倒した、源氏系足利氏の室町時代に、秦氏末裔賎民の世阿弥により、「能」として表の世界に現れるわけです。その世阿弥の能の奥義書「風姿花伝」には、能の歴史を次のように語っています。「申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮つて、この遊びのなかだちとせり。その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。」その申楽の効能を、「第四、神儀伝」で語ります。仏教僧が御説教をしているのに、外道は踊り叫びして聞きません。しかし、「外道、笛・鼓の音を聞きて、後戸に集まり、これを見てしづまりぬ。」
外道とは何か、と言えば、それは、国家権力により反逆の罪を負わされて、無念の思いで死んでいった者たちの怨霊です。この場合の外道とは、国家権力により抹殺された秦氏と蘇我氏末裔の怨霊です。
その怨霊を鎮めるのが、申楽です。怨霊は、同族の者でなければ鎮められない、と信じられたのが奈良時代からの常識です。世阿弥は、その申楽の祖が、秦河勝というのです。その秦河勝の先祖が、どこの地を略奪され、誰に抹殺されたかを、風姿花伝の序にさりげなくヒントを述べているのです。それは、「かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり」、の文章です。河勝は景教徒です。ですから、景教徒は、敵神の春日・日吉の神職にはなりません。その文章の裏の意味は、「春日」とは、奈良時代に藤原氏により、「日吉」とは、平安時代に百済系亡命貴族末裔により、「秦氏が猿にされた」ことを述べているのです。(敗者の真実の歴史は、勝者の焚書の対象です。ですから、敗者は、勝者に気づかれないようにして、「敗者の真実の歴史を勝者の歴史書の中にさりげなく」残すのです。これは、パモス島のヨハネによる聖書の「ヨハネの黙示録・666」と、秦氏末裔多人長の「古事記の序」で使われたものと同じ手法です。)
「宮」には、更に不可思議なものがあるのです。それは、唐門です。何故、宮に唐門なのでしょうか。この唐門に、徳川家康と弾左衛門との関係の謎を解く、ヒントがあるようです。
唐門の「唐」とは、中国の唐国の意味でしょうか。唐には他の意味があるようです。戦国時代、徳川家康が戦闘時に着用していた鎧は、「唐鎧」と言われていたようです。では、家康の唐鎧は、唐国の中国製かと言うと、そうではなく、イエズス会から贈られたヨーロッパ製の鎧のようです。戦国時代では、唐とは、中国のことではなく、広く「外国」の意味があったようです。
そのように、唐門を外国の門という視点で眺めてみると、不思議なことが気がつきます。それは、唐門の壁を飾る子供達の無数の彫刻像です。
徳川家康の霊が、鬼門において「宮」に安置され、江戸の街を守護するというのならば、何故に、その門の壁を飾る無数の子供達が、日本人の子供ではなく、外国人(中国服を着ているように思える。)の子供達なのでしょうか。
そして、その唐門をくぐり(外国界へワープか。)、本殿のなかを観察すると、そこには夥しい仏像群が安置されているのです。それらの仏像群は、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天」に分けられます。
「如来」とは、悟りを開いた者の意味です。
「菩薩」とは、悟りを求めて修行している者の意味です。
「明王」とは、ヒンズー教の神で、仏を護衛する神の意味です。
「天」とは、ヒンズー教の天に住む神で、仏を守護する神の意味です。
その四群の仏像は、空海が密教の神として中国から持ち込んだもので、殆んどはバラモン教・ヒンズー教の神々であったのです。それらを、平安時代から、時の権力者の需要に答えて、○○如来、○○菩薩、○○明王、○○天など色々な日本名仏像として開発されてきたわけです。(これらは、インドの遊牧民族トラヴィダを不可触賎民に貶めた神々です。)
平安時代に発明された思想、本地垂迹説により、先住民の宗教である道教・景教の神々は、仏教との熾烈な戦いに敗れ、仏の化身と成り果て、仏寺に祀られてしまうわけですが、更に、空海により日本国に持ち込まれたバラモン教やヒンズー教の神々をブレンドされ、先住民の神々のルーツが完全に隠蔽されてしまうわけです。
更に、藤原不比等が仕掛けた「日本書紀」のトリックにより、日本人の多くは、日本国最初の神が「国常立尊」と刷り込まれてしまうわけです。それに対して秦氏末裔多人長は、「古事記」の創作神話で、日本国最初の神は、「天御中主神」(北極星=天武天皇)であると記述し、「日本書紀」の神話物語を否定するわけです。(神社の本殿に祀られている神々は、日本列島古来の神「カムイ」ではなく、七世紀以降に王権簒奪者により発明されたものです。日本列島本来の神「カムイ」、道教の神、景教の神は、神社の裏のジメジメした所にある朽ち果てた「小さな祠」に封印されているのです。)
この「仏」と「神」を同時に祀る、日光東照宮の謎解きは、一度や二度の考察の旅で解決できるようなものではないようです。その謎解きをしながら、陽明門を出て、振り仰ぐと、陽明門の天頂に「北極星」が輝いているのです。徳川家康の霊は、東照宮に祀られているのか、封じ込められているのか、その謎は未だに解けません。
しかし、徳川家康と世良田には、何かの関係があることだけは、二代目秀忠が日光輪王寺に、久能山から改葬のために建立した質素な寺が、三代目家光により、世良田に移築されたことにより明確です。
徳川家康とは、何者だったのでしようか。そして、徳川家康は、ひとも住めぬ湿地帯の関東を、弾左衛門の多大な援助の下に開拓し、関東でどのような国を作ろうとしていたのでしょうか。
歴史教科書では、戦国武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の活躍を記述しますが、徳川家康については、誤解されるような刷り込みをしているようです。それは、徳川家康が、キリシタンを弾圧し、島原の乱で女子供を虐殺し、そして三百年の鎖国を始めた、と誤解させていることです。しかし、それらのことは、徳川家康ではなく、徳川三代目家光がおこなったことです。
徳川家康は、他の戦国武将達と異なり、外国の学問や情報収集に熱心だったようです。朝鮮国の学者に朱子学を学び、そして、オランダ船リーフデ号で遭難したヤン・ヨーステン(日本名耶揚子・東京駅「八重洲」の語源)を顧問として迎え、江戸城近くに住まわせ、外国の情報を入手していたのです。
しかし、未だにその徳川家康の出自は謎です。林羅山(1583年〜1657年・儒学者)の「駿府政治録」の慶長17年(1612年)の記述に、「御雑談の内、借年御幼少のとき、又右衛門某と云う者あり。銭五貫にて御所を売り奉るの時、九歳より十八、九歳に至るまで、駿府に御座の由、談られ給う。諸人伺候、衆皆これを聞く」、とあるのです。
この林羅山の、銭五貫で三河に売られてきたと言う、徳川家康の問わず語りについての、記述が正しければ、戦国時代の徳川家康(馬)と賎民達(猿)との関係が解明できるかもしれません。
教科書歴史は、徳川家康の出自から江戸時代初期までの事跡を正しく伝えていないようです。では、時の権力者は、江戸時代の歴史に一体何を隠しているのでしょうか。  

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