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(回答先: 神輿の黙示録(18)(消された日本列島史:何故、藤原氏は騎馬民族史を抹殺・隠蔽したのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:39:37)
日本国の正史と信じられている「日本書紀」によれば、「日本は神国」であると云っているわけです。が、しかし、蘇我王朝末裔から言わせて貰えば、「日本は秦国」であったのです。
しかし、「秦氏の国」が、645年唐進駐軍と中臣軍により壊滅すると、南インドから渡来の中臣族が藤原氏に変身し、そして、その藤原氏の政権を乗っ取った亡命百済貴族は、秦氏支配地跡に平安京として遷都し、そして、「日本書紀」、「万葉集」、「懐風藻」、「新撰姓氏録」で歴史を改竄することにより、日本列島の飛鳥ヤマトに蘇我王朝を興したオリエント渡来の騎馬民族文化を、日本列島史から抹殺してしまったのです。
そして、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族は、藤原氏の奈良仏教勢力と亡命百済貴族の平安仏教勢力とにより、賎民に落とされてしまったのです。その貶めの手段としての格言に、「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」などがあり、そして、騎馬民族末裔を罵倒するセリフに、「どこの馬の骨か分からない奴。」、があります。もっと端的には、「馬鹿」、「アホウ」があります。
「馬鹿」の意味は、馬も鹿も分からない「能力の劣る者」、或いは、「馬」を「鹿」と言わせる命令に逆らうことのできない「奴隷状態の者」のことであるわけです。因みに、「鹿」は、騎馬民族スキタイのシンボルであり、飛鳥ヤマトでは、蘇我王朝は、小鹿の角から、現在も高級精力ドリンクに添加されている、ロクジョウを精製していたのです。
その蘇我王朝の二代目オオキミは、「馬子」で、その孫が「入鹿」なのです。「日本書紀」を創作した藤原氏は、六世紀に天皇など存在していないのに、蘇我氏を天皇殺しの大悪人とし、その祖父と孫の名前で、「馬鹿」として貶めていたのです。因みに、入鹿の父は、「蝦夷」で、その意味は、ヒゲのある夷(えびす)のことです。
では、「アホウ」とは何でしょう。それは、古代ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅数詞で「九」の意味です。その「アホウ・九」が、簒奪王権により新羅系日本人にたいしての侮蔑語となり、「ヨエル・十」に対して、ひとつ「足りない者」の意味となってしまったのです。
「アホウ」は、近畿地方の先住民である新羅(秦羅)末裔秦氏の土地を、794年に亡命百済貴族が乗っ取り「平安京」とし、そして、秦氏の神である太陽神ミトラ(簒奪王権により魔多羅となる。)を祀る比叡山に、亡命百済貴族末裔桓武天皇が中国から導入した天台宗の仏寺延暦寺を建立し、先住民の秦氏(新羅系日本人)を侮蔑するために発明されたものであったのです。
唐進駐軍の支援の下、山背国を乗っ取った亡命百済貴族は、何故、秦氏を憎むのかは、それは、663年亡命百済貴族の母国が、唐・新羅連合軍により、滅ぼされてしまったからです。
その母国を滅ぼされ、難民として暮した中国山東半島から平安京へ移民して来た亡命百済貴族にとっては、新羅末裔秦氏は、藤原氏(ユダヤ)が民族・宗教の秘密を知る秦氏(イスラエル)を聖滅したいように、抹殺すべき民族であったのです。その亡命百済貴族が支配する平安京で暮す秦氏は、そのことにより氏名を、秦氏から惟宗氏に代えていたのです。
この亡命百済貴族が支配する比叡山延暦寺は、仏を祀る只の仏寺などではなく、中国系薙刀で武装する僧兵が警備する亡命百済貴族の山城の砦でもあったのです。この比叡山は、1571年イエズス会から仏教聖滅の命を受けた織田信長軍による焼討ち時には、戦国時代最大の難攻不落の軍事要塞だったのです。
つまり、平安時代より日本列島では、簒奪王権により、前支配者であった騎馬民族を貶める「言葉」が、「馬鹿」と「アホウ」の侮蔑語だったのです。
この秦氏末裔を侮蔑する「言葉」が、現在でも、多くのひとにより意味も知らずに使われているのです。それは、藤原氏と亡命百済貴族による「日本書紀」を基盤とした歴史教育の情報操作が、完璧だったからです。
しかし、20世紀「ヨハネの黙示録」の暗号解読により、「旧約聖書」の秘密が明かされ、ユダヤ教の神が解明されたように、「古事記」の暗号解読により、「日本書紀」の謎が解読された結果、騎馬民族を貶めた、藤原氏の武器であった大乗仏教と中臣神道の秘密が解明されたのです。
それは、ユダヤ教、それに類似する中臣神道、そして大乗仏教は共に、太陽神アトン(古代エジプトでミトラ神が変身した神)を祀っていた民族から太陽神を簒奪して、創作された宗教だったのです。
ユダヤ教の唯一神ヤハヴェ←唯一神太陽神アトン←太陽神ミトラ、中臣神道の天照大神←太陽神ミトラ、大乗仏教の大日如来←遍照鬼←太陽神ミトラ、であったのです。因みに、鎌倉時代に流行した阿弥陀様は←エジプトのアミ様←太陽神アトン←太陽神ミトラ、であったのです。
「古事記」の完成は、教科書歴史に記述されているように、712年ではないのです。実際は、百年後の平安初期812年完成だったのです。その「古事記」の奥付に、秦氏末裔多人長が、712年を記載した意味は、藤原氏が前政権のオリエント渡来の騎馬民族文化を消すために、713年に人名・地名を、オリエント色から日本色に変えるために、漢字二字で表記する命令である「好字令」を発していたからです。つまり、奥付に712年「古事記」完成とすることで、「「日本書紀」に記述された漢字二字語で表記した人名・地名は疑え。」、との暗号を発するためだったのです。
そして、「古事記」の序に天武天皇の言葉を記載しているのに、女帝推古天皇の記事で終わらせた暗号は、サイファー式暗号解読法として、文章中にある同じ文字・文章は「抹殺せよ」であることから、「日本書紀」と「古事記」とにある同じ文字・文章を抹殺することにより、女帝推古天皇の存在を「否定」するためだったのです。
そもそも、騎馬民族の天子(テングリ)思想から派生した天皇の始まりは、672年騎馬民族新羅系天武天皇であるわけですから、奈良時代に怪僧淡海三船が架空天皇名を創作した弘文天皇より以前には、日本列島史には、誰ひとり天皇など存在していなかったのです。存在したのは、各国から渡来した民族長である「オオキミ」であったのです。
そして、「古事記」の暗号により、女帝推古天皇の存在が否定されれば、飛鳥ヤマトで仏教布教に貢献した「厩戸皇子」の存在も否定されるわけです。
つまり、平安時代に秦氏末裔多人長は、仏教伝来の謎解きのヒントを、パモス島のヨハネによる「ヨハネの黙示録」の「666の謎」のように、「古事記」で暗号を発していたのです。
平安時代から「馬」は、簒奪王権により侮蔑の対象となってしまいましたが、「牛」はどうでしょう。「牛」と言えば、広隆寺の牛祭りが思い浮かぶひともいるでしょう。その牛祭りの「牛」は、「牛頭天皇」と言われていたのです。後に「天皇」が「天王」に代えられてしまいましたが、何故、牛が天皇なのでしょうか。
牛に関する記述を調べると、奈良時代の741年牛馬を殺すを禁ず、とあるのです。そして、平安時代の804年牛の屠殺を禁ず、とあるのです。何故、王権は、牛の屠殺禁止の詔を発してまでして、牛の屠殺を禁止させたのでしょうか。それは、牛の屠殺は、前政権の秦氏の祭祀に関係があったからです。秦氏は、イスラエル民族と同じに、太陽と牡牛を祀る民族であったのです。
太陽と牡牛を祀る歴史を辿れば、紀元前十四世紀のヒッタイト帝国に行き着きます。ヒッタイト帝国での契約神ミトラは、やがて、古代エジプトで唯一神の太陽神アトンに変身し、そこで、太陽神の化身として牡牛が選ばれたのです。その太陽神と牡牛を祀る民族は、やがて、廃墟のカナンの地に定着すると、その土着神ミトラと融合して太陽神バアルとなるのです。
太陽は、西の空に沈むと、やがて東の空から出現することで、死と生を繰り返す不死身の神ミトラとして祀られるのです。その自然現象からやがて宗教儀式が発明されるのです。それが、太陽光線が一年中で最も弱くなる日の冬至での、復活祭です。このミトラ神の復活の日、12月25日が、やがて新興宗教キリスト教に導入され、キリストの誕生日「クリスマスの日」となり今日に至るわけです。
太陽を祀る民族には、この冬至の太陽光を浴びると、死から再生できると信じられていたのです。そして、その冬至の太陽光の下で、太陽神の化身牡牛を屠り、その牡牛の生血と肉を食べることにより太陽神と一体になり、太陽神再生の儀式が完成するのです。
この、ミトラ教の再生儀式の生血と食肉とが、新興宗教のキリスト教に導入され、赤ぶどう酒と種なしパンの儀式に変身して今日に至るわけです。
1549年イエズス会のザビエルが鹿児島に渡来し、その後、ゼウス(イエス)の教えを説くわけですが、その教えは、平地の民よりも、後にキリシタン大名となった高山右近などの山地それも山奥の民のほうが、ゼウスの教えや儀式を素早く理解できたのは、ゼウスの教えや儀式の多くの基は、元々飛鳥時代には渡来していたミトラ教(景教)のものだったからです。ネストリウス派キリスト教が中国唐で、景教となった、というのは、飛鳥時代にミトラ教が日本列島渡来していたことを隠蔽する、藤原氏による情報操作だったのです。
日本列島に渡来した、太陽と牡牛を祀る秦氏も、飛鳥・奈良時代そして、平安初期804年まで、秦氏の軍事勢力が健全な時には、牡牛を屠る儀式をおこなっていたのです。
そのミトラ教の復活祭の儀式場は、南北軸から約二十度西に傾けて建てられていたのです。そのひとつが、現法隆寺の境内に隣接する地下から発掘された「若草伽藍跡」と云われている建物跡です。そして、牛祭りがおこなわれている広隆寺は、元は秦氏の景教寺で蜂丘寺といわれていたのです。しかし、現広隆寺は、蜂丘寺ではないのです。蜂丘寺は、現広隆寺から少し離れた所の地下に眠っているのです。その蜂丘寺も、建築軸が南北軸に対して西に約二十度傾いていることでしょう。
奈良時代の741年に牛屠殺禁止令が発せられたのは、騎馬民族系天武天皇の孫長屋王が、藤原氏の陰謀により、729年謀殺されてしまったからです。長屋王は、祖父天武天皇と同じに、仏ではなく、道教の観で北極星(太一)を祀っていたからです。
その星からの啓示を受ける占星術を、仏を祀る藤原氏から「左道」と決め付けられた長屋王は、729年窮地に立たされ自害されられたのです。その後、長屋王の後ろ盾を失った秦氏は、741年の牛屠殺禁止令に従わざろうえなかったのです。そして、やがて、奈良の都から、秦氏による牡牛を屠るミトラ教の儀式が消えてしまうのです。
平安京が遷都される前の山背国は、秦河勝末裔が支配する地であたのです。太陽神ミトラは、山の頂から再生すると信じられていたため、山背国の北東に聳える比叡山には、その儀式場があったのです。
しかし、東アジアでの突厥帝国を散逸させた唐軍が、陸奥国の突厥帝国軍残留部隊(日本武士の祖)を殲滅する目的で日本列島に進駐して、亡命百済貴族末裔の桓武天皇を支援することにより、794年秦氏の支配地に、平安京が遷都され、秦氏一族は、その地を追われるわけです。
そして、比叡山も亡命百済貴族末裔に乗っ取られ、その地に祀られていたミトラ神も、魔多羅神に変身されてしまったのです。そして、804年牛屠殺禁止令が発せられ、秦氏による牡牛を屠るミトラ教(景教)の儀式も、平安の都から消えてしまうのです。
しかし、お上の命令だけで、古くからおこなわれていた儀式がすぐに消えるわけではありません。そこで、王権は、前政権の牡牛を屠るミトラ教(景教)の儀式を抹殺する手段として、広隆寺の「牛祭り」を発明するわけです。そして、その牛祭りの神として魔多羅神が登場するわけです。
そのようにして、前政権の宗教儀式を改竄して、その文化を歴史上抹殺するわけです。ですから、広隆寺の「牛祭り」は、王権の情報操作が成功し、ミトラ教の太陽神復活祭での牡牛を屠る儀式を歴史上抹殺できたため、現在では本来の祀りの意味が解らないため奇祭といわれているのです。
牡牛を屠るミトラ教儀式をおこなっていた秦氏の斎場を、仏教勢力により簒奪され、徹底的に破壊され、そして、その秦氏の宗教施設跡に、奈良の都では、710年仏教の興福寺が建てられ、768年神道の春日社が建てられたのです。そして、京の都では、821年延暦寺が建立されたのです。では、秦氏の支配地でミトラ神の太陽を祀っていた祭祀一族は、牡牛を屠る斎場を追われ、何処へ去ったのでしょうか。
日本古代史が解りづらいのは、簒奪王権により前政権の書籍が焚書・改竄され、そして、文化施設は徹底的に破壊され、その跡に新たな施設が建てられたからです。
飛鳥時代の歴史が解らないのは、奈良時代に藤原氏により、騎馬民族突厥帝国によるオリエント文化が仏教文化に改竄・隠蔽されてしまったからです。
そして、奈良時代が解らないのは、平安時代に亡命百済貴族により、天武天皇系聖武天皇の多くの遺品を保管した、正倉院のオリエント文化色のある書物・絵画・彫刻等が破壊され、亡命百済民族の貧しい暮らし振りや、天武王朝系騎馬文化と藤原氏のインド系文化が改竄・隠蔽されてしまったからです。正倉院に残された多くの書物は、前時代を描いた物は皆無だったのです。そして、正倉院とは一棟だけではなかったのです。
奈良時代と平安時代とでは、その支配民族が全く異なっていたのです。奈良時代は、騎馬民族末裔天武王朝系豪族と南インド渡来の藤原氏との闘争の時代であったのです。そして、それぞれの宗教も異なっていたのです。
天武王朝系では、道教・景教です。それに対して、藤原氏では、インド渡来の仏教とユダヤ教に類似した中臣神道です。
では、平安時代はどうでしょう。桓武天皇は、百済系で、その宗教も中国から導入した天台宗で、藤原氏の中臣神道に対抗して、中国山東半島の土着神の山王(シャンワン)神です。それが、比叡山で、山王(シャンワン→さんのう)→日枝(イルギ→ひえ)→日吉(イルギ→ひよし)の神と変身するわけです。
奈良のインド系に対して、京都では唐系なのです。このふたつの異なる宗教が闘争していたのが、平安時代なのです。では、藤原氏と亡命百済貴族に敗れた、天武天皇系宗教である、道教と景教はどうなってしまったのでしょう。それは、道教は陰陽道に変身し、景教は山の宗教である修験道へ変身し生き延びるわけです。
景教の神である牡牛を屠るミトラ神は、血の禁忌の仏教勢力に敗れると、古墳上の祀り処から、山の洞窟へと代わっていったのです。元々、突厥が日本列島にもたらした製鉄技術のタタラは、山の民の炭と浜辺の民の砂鉄とが融合した技術であったわけですから、藤原氏や亡命百済貴族に敗れ、平地を追われても、その生活圏として、山辺や海辺で暮す技術があったのです。
簒奪王権は、敵対する前政権の王族一族を抹殺するか、賎民として貶めることが、歴史の語るところです。平安時代も、その例外ではありません。
1585年イエズス会の傭兵軍武将から、藤原氏に乗り換えた羽柴秀吉は、関白となり、翌1586年太政大臣となり、豊臣の姓を賜るのです。何故、羽柴から豊臣へ姓を代えたかと言うと、それは、羽柴秀吉の傀儡主の藤原氏への対抗意識からです。生誕から青年時代の履歴が全く不明な羽柴秀吉は、藤原氏が、秦王国(飛鳥ヤマトの祖)を乗っ取った史実を知っていたのでしょう。
秦王国は、六世紀にギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)から北九州に渡来したオリエント色の強い国であったのです。しかし、その秦王国の歴史は、藤原氏が創作した「日本書紀」により抹殺・隠蔽されてしまっていたのです。微かに残る北九州秦王国の史実は、608年隋使裴世清が、隋から小野妹子に伴われて倭国ヤマトへの途中、秦王国を通過した時の記述が、「随書」に残っているだけです。その記述によれば、「男が居ない、そして中国(華)と同じ文化国である。」、と云うことです。
このオリエント色が強い北九州秦王国が、中国大陸からの侵攻軍や南九州坊津からの中臣軍に滅ぼされ、後に仏教国の豊国となるわけです。そして、645年以降、オリエント色の強い飛鳥ヤマトを乗っ取った藤原氏により、豊国にあった平瓦の仏寺の多くが移築されるわけです。その移築仏寺の代表例が、厩戸皇子が建立したと伝わる法隆寺で、670年落雷により全焼し、708年北九州豊国から移築された平瓦の現法隆寺であったのです。
645年以前の、飛鳥ヤマト移築仏寺の前の建物の多くは、丸瓦が使用されていたのです。その丸瓦とは、ユーラシア大陸での突厥(チュルク)様式建物に使われた瓦だったのです。
その秦王国を乗っ取った豊国の歴史を引き継ぐ豊臣秀吉が、1590年徳川家康を、関東の穢れ地(後の江戸)の湿地帯に移封するのです。その意味は、大坂の石山本願寺を支援していた源氏末裔武士団との関係を断絶することと、徳川家康の軍事力の抹殺です。
関東平野の地は、利根川と荒川の定期的な氾濫により、農業に適さない、葦が茂り湿地帯化していたのです。この地に徳川家康を移封してしまえば、農業がおこなえないため、徳川家康の軍事力が衰える、と豊臣秀吉は考えたわけです。しかし、豊臣秀吉は、徳川家康の出自を知らなかったため、後で手ひどいしっぺがえしを受けることになるのです。それは、徳川家康は、日光の山奥の世良田部落出身だったからです。徳川家康には、山の民の血が流れていたのです。
戦国時代のイエズス会も藤原氏も、明国との国際交易の地である、日本一の商業都市大坂を支配することを渇望していたのです。しかし、その地は、古は秦氏の地で、戦国末期には秦氏末裔源氏武士が守る石山本願寺の支配地であったのです。そこで、大坂の地を廻り、織田信長・徳川家康のイエズス会軍団対藤原氏・亡命百済貴族の仏教軍団との宗教戦争になったわけですが、羽柴秀吉による、イエズス会と藤原氏との両天秤戦略が功を奏し、1582年本能寺での織田信長の爆殺により、イエズス会から寝返った羽柴秀吉が1583年石山本願寺支配地に大坂城を建てると、大坂の地の完全支配を目指し、1588年刀狩を、そして、1591年武士と農民とを分けるための「士農工商の身分法」を発して、秦氏末裔の源氏武士残党の抹殺をおこなうわけです。そして、藤原氏傀儡の豊臣秀吉は、一向一揆(実際は宗教戦争)に敗れた秦氏末裔を穢多村に押し込めるわけです。
穢多とは、1569年織田信長に京で謁見したイエズス会宣教師ルイス・フロイスが「日本史」で述べているように、イエズス会の拠点である南インドのマラバル沿岸のボアレ(タミル語で不可触賎民の意味)と同じで、動物の皮を剥ぎ、その皮を売る賎民のことなのです。
この騎馬民族差別思想は、ユダヤ・キリスト教のコロニーがあった南インドのマラバル沿岸から、五世紀の南九州坊津に渡来した中臣族が、日本列島に持ち込んでいた民族差別思想と同じであったのです。書籍に残る騎馬民族差別思想は、藤原氏の陰の力で一年の修行で仏籍に入り、806年唐から帰朝した錬金術師空海の「我および仏弟子にあらずば、いわゆる栴陀羅悪人なり」、があります。空海は、唐からインドの民族差別のカースト思想を、日本に持ち込んできたのです。そして、空海の発明した真言宗のお札には、「栴多羅・屠者のたぐいの穢れたる人を見たらば、このしんごんをとなうべし」、とあったのです。騎馬民族差別思想は、平安仏教から始っていたのです。
そこで藤原氏の野望に邪魔になるのが、秦氏末裔源氏武士や忍者との関係が深い騎馬民族末裔徳川家康であったのです。徳川家康の武将の多くには、比叡山延暦寺軍と闘う一向一揆に味方したものが多く居たのは、騎馬民族は、反平安仏教徒であったからです。
それらの反仏教の徳川家康軍団の四天王とは、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政であり、そして、四天王四名を加えた十六神将とは、松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正です。
しかし、これらの徳川家康古参武将の末裔は、1623年葬式仏教組織を支配下に置いた、百済の血が流れていると伝わる三代目将軍徳川家光の時代から、賎民・穢多として中央政権から追われ、歴史上抹殺されていくわけです。
家康時代とは、二代目将軍徳川秀忠までで、三代目将軍徳川家光からは、第三百済王朝となるのです。キリシタン大名の高山右近も、徳川家康が政権を握っていた間は、山奥で賎民にデウスの教えを説いていたのです。高山右近が、国外追放されたのは、1614年であったのです。そして、イエズス会残党による島原の乱は、徳川家康の死後、1637年であったのです。徳川家康が、イエズス会信者を弾圧したと言うのは、三代将軍側勢力による情報操作であったのです。
戦国時代、騎馬民族末裔は、反藤原氏、反仏教であったのに、何故、一向一揆に加担してしまったのかは、それは、藤原氏末裔親鸞の騎馬民族取り込みの謀略が巧みだったからです。それは、親鸞の発明した浄土真宗の阿弥陀様とは、その祖は秦氏が祀っていた太陽神ミトラであったのです。
紀元一世紀、中央アジアのバクトリア国のギリシャ文化を引き継いだ国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の阿弥陀様とは、エジプトのアミ様のことで、それは、太陽神アトンのことだったのです。太陽神アトンの祖は、秦氏(ヨセフ族→イスラエル民族)の母国ヒッタイト帝国の契約神ミトラであったのです。
その鎌倉時代に親鸞が宣伝する「阿弥陀様の教え」とは、
今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。
親鸞が発明した呪文「ナム・アミ・ダ・ブツ」とは、「私は太陽神アトンに帰依します。」、という意味であったのです。その親鸞は、1262年「歎異抄」で「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べ、比叡山の大乗仏教思想により賎民・穢多に落とされた、平安時代から不可解な民族差別に苦しんでいた秦氏末裔に対して、秦氏末裔武士団の軍事力や商業活動で金銭的に余裕のある賎民・穢多を浄土真宗組織に取り込むため、民族平等思想の「アミ様(太陽神アトン=太陽神ミトラ)の教え」を利用していたのです。
ですから、六世紀に日本列島渡来後も、太陽神ミトラを祀っていたヒッタイト帝国末裔である秦氏末裔は、親鸞の説く阿弥陀様の民族平等思想を全て理解し、共鳴したわけです。しかし、親鸞のバックには藤原氏がいたのです。
その藤原氏の他民族に対する基本的思想は、親鸞を得度した慈円の「愚管抄」によく表れています。慈円の思想を簡略に述べれば、
日本国においては、皇室以外から国王を絶対に立てることはない。そして、天皇家は万世一系、永遠不滅の原則がある。それは、皇室の祖である天照大神が、その孫のニニギを地上に送るときに定めたもので、藤原氏の祖神である天児屋根命ととり交わした約束によるものである。しかし、万世一系でとりおこなわれてきた歴史のなかで、不都合が生じ、天皇の政治が衰えた時代もあった。そういう時には、化現した人物が現れて天皇の政治を助けた。その重要化現は、四人いた。ひとりは聖徳太子。仏法を積極的に取り入れ、王法と融和して国を支える道を示した。ふたりめは、藤原鎌足。皇統が常に日本の中心であるための補佐として力を尽くした。そして、さんにんめは、菅原道真。日本国は小国だから、補佐する臣は藤原氏ひとりでよいと、自ら身をひいた。最後に、慈恵大師良源。良源は、藤原氏の数々の系統の中で、九条右大臣師輔流のみを補佐の臣とした。
藤原氏がユダヤ的だと云われている理由のひとつは、「日本書紀」物語で、神から藤原氏に祭祀権が与えられた、と主張する思想形態のユダヤ教「旧約聖書」との類似性にあるようです。その類似性とは、唯一神ヤハヴェ(天照大神)→モーセ(天児屋根命)→祭祀者レビ族アロン(祭祀者中臣族藤原氏)の神の啓示の流れがあるからです。そして、五世紀には、藤原氏の祖中臣族は、南インドのユダヤ・キリスト教のコロニーがあったマラバル沿岸から、南九州坊津へ渡来していたからです。そして、八世紀の飛鳥ヤマトに現れた春日社でおこなわれた、中臣氏の神道儀式の多くは、ユダヤ教儀式と酷似していたからです。
このような、「旧約聖書」を創作したユダヤ民族の祭祀者・レビ族アロン一派の思想に類似した、藤原氏独善思想を持った慈円を師とした親鸞が、騎馬民族・秦氏末裔の穢多に対して、真の民族平等思想を持っていたのかは疑問符の付くところです。
かくして、百済系比叡山延暦寺に対抗する、藤原氏系親鸞を祖とする石山本願寺は、秦氏末裔武士の軍事力を利用して、「イエズス会軍団」対「亡命百済貴族の比叡山延暦寺軍団」対「藤原氏石山本願寺軍団」との三つ巴の宗教戦争に突入していくわけです。
しかし、イエズス会から供給された鉄砲・大砲・火薬などの圧倒的な武器と、日吉丸がいた外国傭兵軍に支援された織田信長軍団は、反仏教の騎馬民族末裔徳川家康軍団と供に、1571年比叡山延暦寺を陥落させ、1573年には伊勢長島の一向一揆を壊滅するわけです。
この後の十年戦争であった、1580年石山合戦終結により、平安時代に台頭した、藤原氏と亡命百済貴族による武装仏教軍団が歴史上壊滅するわけです。その宗教戦争に敗れたことにより、織田信長に、寺社領や市・座・関所での各種権益を奪われた仏教組織は、それまでは朝廷権力と覇権を争っていたものが、やがて、生き残るために葬式仏教となり、百済系三代目将軍徳川家光により、反権力勢力である秦氏末裔・穢多を取り締まるための、権力の手先機関となっていくわけです。
794年秦氏の支配地に、唐進駐軍の軍事支援の下、平安京に遷都した百済系桓武天皇は、戦国末期の豊臣秀吉が徳川家康を荒川河口の湿地帯に移封したのと同じ事をおこなったのです。
663年母国百済を滅ぼした新羅末裔秦氏を憎む桓武天皇は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝を高度技術で支援していた秦氏一族を、平安京から追い払い、淀川河口の湿地帯に移封したのです。
戦国末期から江戸時代初期、関白豊臣秀吉により荒川河口の湿地帯に移封された徳川家康は、秦氏末裔穢多頭弾左衛門配下の高度土木技術を利用して、人口運河の神田堀を造り、その残土で、河口を埋めて、十mの人工山を造り、その上にエド城を造るわけです。そのエド城は、埋め立ての人工山に造られた城ですから、その堀の地下には、緊急時の脱出用トンネルも造ったほどの高度技術を駆使していたのです。
更に、秦氏末裔はその高度土木技術力により、荒川上流の流れを、利根川に流れるように変え、葦の茂る湿地帯の関東平野を農耕地に変えていたのです。
1600年オランダから渡来した、東京・八重洲の語源である、徳川家康の外交顧問、ヤン・ヨーステンは、自宅から地上を通らず、地下道から江戸城に登城していたほど、秦氏末裔のエド城築造技術は軍事的に優れていたのです。そして、エド城地下に張り巡らされていた地下道の一部は、現在では市谷の地下鉄操車場となっているようです。
秦氏は、その祖は鉄器を発明したヒッタイト帝国末裔で、古代エジプトでは、石切、石材建設、運河削掘などの高度土木・建設技術を習得していたので、湿地帯を農地や居住地に換えることはそれほど難しいことではなかったのです。
秦氏の土木・建設技術は、七世紀まで古代エジプト・メソポタミアの建設技術を用いて近畿地方に巨大古墳を築造していたほどですから、淀川の川口の湿地帯を居住地にすることは、それほど困難な工事ではなかったのです。
そして、その淀川河口に面した埋め立て地は、古代エジプト語の「わた」、つまり、「波」がおしよせる「辺り」で、統一新羅国商船が接岸できる湊でもあったので、「ワタナベ津」と呼ばれるようになっていくわけです。意外なようですが、古代エジプト語は、ヤマト言葉に多く溶け込んでいるのです。例えば、「マナ娘」の意味は、何でしょう。「マナ」とは、古代エジプト語で、「愛・愛しい」の意味なのです。ですから、「マナ娘」とは古代エジプト語とヤマト言葉の合成で、「愛しい娘」となるわけです。
そして、反新羅(秦羅)の平安王権により、京の都から追放された秦氏末裔が住む「ワタナベ津」の地から、百済亡命王朝三代目で、子供の数が多くてその皇子・皇女の実数が分からない、嵯峨天皇に嫁いだ娘の子が、814年嵯峨天皇から、源氏賜姓を受け「源綱」と名乗り、そして、源綱が、京の都から「ワタナベ津」に移住することにより、源綱が「渡辺綱」となるわけです。
平安末期、その秦氏末裔が住む渡辺津は、源平合戦での、短弓で騎射に優れた蝦夷軍を率いる、ユーラシア大陸騎馬民族のシンボルである笹リンドウ紋を旗印にした源義経が、1185年屋島の戦いに出陣した処であったのです。
しかし、戦国末期、織田信長爆殺後、イエズス会から藤原氏に寝返った関白豊臣秀吉により、その秦氏末裔源氏の支配地に大坂城築造のため、渡辺村が、再び湿地帯に移転させられ、穢多村に落とされてしまうのです。
何故、豊臣秀吉は、渡辺村を穢多村に落としたのかの理由のひとつは、その石山合戦の十年戦争に耐えた戦闘力の他に、渡辺村の住人である秦氏末裔が保持する、巨石を組上げ石垣を造り、そして、深い堀を掘削する高度土木・建設技術であったのです。
何故、イエズス会が供給する最新式武器と外国傭兵軍を投入しても、織田信長軍団が、石山本願寺を陥落できなかった理由のひとつは、阿弥陀仏を信じる賎民側武士団の信仰によるのです。
阿弥陀仏は、秦氏末裔の武士にとっては、軍神だったのです。その意味は、阿弥陀←アミ様←太陽神アトン←太陽神・軍神ミトラの流れにより説明できます。ミトラ神は、ローマ帝国軍の軍神で、敵軍と味方軍との戦闘の境に降臨し、ミトラ神を信じる軍人の死を再生することができる、と信じられていたからです。ですから、阿弥陀(ミトラ神)を信じる、秦氏末裔武士は、敵の最新式武器を恐れず、死を恐れず、十年間も闘い続けられたのです。
イエズス会傀儡の織田信長軍が、正規の鉄砲隊数千が十年もかかっても、摂津の上町台地にある石山本願寺を壊滅できなかったもうひとつの理由は、秦氏末裔の巨石を使った築城技術であったのです。
1570年織田信長が、石山本願寺が支配する国際交易都市の大坂を奪うことを目的に、矢銭の要求と立退きを石山本願寺に要求すると、それを拒否し、親鸞の説くアミ様の「民族平等」の教えを信じた秦氏末裔武士(豊臣秀吉総監修「信長公記」では、秦氏末裔武士の巨石砦を「えったが城」と蔑視しているのです。)を中心とした石山本願寺軍は、織田信長軍に対して攻撃をしかけるのです。それに対して、鉄砲の最新武器で武装した織田信長軍の度重なる攻撃を、十年間も防いだのは、石山本願寺を廻る、周囲四キロの深堀と巨石の石垣だったのです。
攻めあぐねた織田信長は、石山本願寺と太いパイプを持つ藤原氏末裔近衛前久に願って、朝廷による石山本願寺との和睦を打診するのです。この交渉中に、防御体制を解いた石山本願寺軍に対して、織田信長軍は総攻撃をかけることにより、初戦から十年後1580年石山本願寺軍は壊滅するのです。織田信長が、だまし討ちをしなければ、石山合戦はとうぶん続いたかもしれません。
その石山合戦に、羽柴秀吉として参戦していた豊臣秀吉は、その秦氏末裔が持つ、戦闘力の他に、高度土木・建設技術を恐れたのです。
1615年、宿敵藤原氏傀儡の豊臣軍団を滅ぼした、騎馬民族末裔徳川家康は、神と祀る豊臣秀吉の墓を徹底的に破壊すると、秦氏末裔穢多頭の弾左衛門配下が開発した関東のエドに、大坂の渡辺村の住人を呼び寄せたのです。しかし、1623年百済系三代目将軍徳川家光による、洛中の浪人追放令を口実に、弾左衛門の屋敷は、江戸街中央から、浅草寺裏の湿地帯に移封されてしまうのです。そして、その弾左衛門屋敷がある新町(シン町→秦町)は、多くの仏寺が囲んでいたのです。
平安初期、801年坂上田村麻呂が、蝦夷棟梁アテルイを騙し、それにより蝦夷を軍事的に平定した桓武天皇は、秦氏末裔に更なるイジメをおこなうのです。それが、804年の牛の屠殺禁止令です。それにより、太陽神ミトラを祀る秦氏の祭祀儀式は歴史上抹殺されたのです。
そして、京に連行された陸奥国の蝦夷軍の捕虜は、散所、湯浅、垣内、別所などと云われる部落に押し込められるのです。そして、部落に収容できない者達は、河の中州や農耕に適さない坂地に、奴隷として追いやるのです。これが、夙(宿)の始まりです。
唐進駐軍と桓武天皇軍と闘った、陸奥国の蝦夷軍とは、アイヌ民族ではないのです。アイヌ民族には、弓馬の戦闘技術はなかったし、蝦夷軍の刀は、騎馬民族特有の反りのある蕨手刀(日本刀の祖)で、それは、騎馬民族突厥軍の刀と類似していたのです。
蝦夷軍の実態は、飛鳥ヤマトを支配していた蘇我王朝軍残党で、それらは、新羅花郎軍団と突厥帝国軍団末裔であったのです。その後、京に捕虜として連行された蝦夷軍末裔が、939年天慶の乱を武力平定したことにより、朝廷からその武闘力を認められて、検非違使配下の怨霊封込めの武芸をおこなう「もののふ」から「武士」となるわけです。
平安初期、桓武天皇は、秦氏末裔を中州や坂の部落に封じ込め、農業生産をおこなわせないように仕向けたのです。そして、開拓農地を奪われ、農業生産をおこなうことが出来なくなった秦氏末裔は、生き延びるために次の収入手段を考えるわけです。それが、河原での芸能の始まりとなるのです。
1402年秦氏末裔の世阿弥の花伝書「風姿花伝」によれば、能の祖は猿楽で、その猿楽の祖は秦河勝と述べているのです。平安時代に発生した河原での芸能のひとつ、猿楽とは、秦氏一族の祭祀芸を、平安王朝が貶めるための蔑称です。猿楽←申楽←しん楽←秦楽の流れを辿れば、猿楽の原型が解明されるわけです。
芸能の「芸」とは、神を喜ばせるための歌と踊りのことです。元々、秦氏一族には、太陽神ミトラを祀るための祭祀一族もいたわけです。太陽神ミトラを祀るための、牡牛を屠る儀式は、血の禁忌の仏教思想により、抹殺・封印されましたが、歌や踊りは仏教思想には抵触しないため、平安王権も禁止することができなかったのです。
更に、現金収入手段として、平安京を支配していた亡命百済貴族相手の、宗教儀式としての、売春と博奕があったのです。しかし、これらの現金ビジネスは、後に、平安王朝からの銭通貨の禁止令により、困難を極めていくのです。平安時代、京では「米」、東(あずま)では「絹」が、貨幣の代わりとして使われていたのです。銭通貨禁止令も、為替を発明し貨幣経済に優れる、騎馬民族秦氏末裔を貶める手段だったのです。
古代、売春と博奕は、世界的には「神事」であったのです。宗教施設内でおこなわれる売春は、古代では「聖婚」と言われ、それは外界と隔離された宗教施設の神殿、エデンの園、仏教施設では内道場でおこなわれていた「神事」だったのです。その神の代理としての聖婚者は、地母神、聖母、比丘尼、巫女と呼ばれていたのです。
江戸時代、遊郭に遊びに行く(宮篭り・観音参りする)主人を「本社」、付き人を「末社」と言ったのは、売春を神事にかけた、江戸人の洒落だったのです。
博奕は、未来を占う神事が、ゲーム化したものであるのです。ですから、優秀な博奕打ちは、ひとびとから尊敬されていたのです。博奕打ちが、尊敬されなくなるのは、江戸時代の三代目将軍徳川家光からです。
徳川家康は、騎馬軍団が短期間に移動できるために、小田原から京までの軍事道路にもうけた駅舎を、その地を仕切る役座に無償で管理させる見返りとして、役座に日没後の博奕と売春を許していたのです。江戸時代、売春ビジネスは、誰でもおこなうことができなかったのです。それは、源氏末裔だけに許されていたのです。ですから、遊女名を「源氏名」と言うのはそのためです。
平安時代、その売春と博奕とが宗教施設内でおこなわれていたことを裏付ける史料として、真言宗の別格本山、高雄山神護寺の再興のための起請文に、次のような一文があるのです。
当寺の威を借りて、他人の田園や資財を押し取ってはならず、寺の大事にあらざるときに、私心にまかせて刀杖や甲冑を帯びてはならない。寺中においての酒宴、歌舞音曲等の遊興、囲碁双六将棋蹴鞠等の博奕を禁ずる。寺内に女人を泊めたり、魚鳥や五辛を持ちこんだり、猿楽や田楽の法師を入れたりしてはならない。
そのようなビジネスを河原でおこなっていた秦氏末裔に対して、平安王朝は、貶めの手段として、比叡山延暦寺天台宗の経典「法華経」(法華経に、「聖書」ヨハネの福音書とソックリの物語が多くあるのは何故でしょうか。)の思想を使うわけです。その思想とは、「法華経に敵対する者は、仏罰としてハンセン氏病になる。」、というのです。「法華経」の「普賢菩薩勧発品」(ふげんぼさつかんぽつほん)の一節です。「法華経」や持経者を軽んじた者がこうむる「罪報」として以下のように述べています。
かくの如き罪の報は、当に世世に眼なかるべし。(略)この経を受持する者を見て、その過悪を出さば、(略)この人は現世に白ライの病を得ん。若しこれを軽笑せば、当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は縺れ戻り、眼目はすがみ、身体は臭く穢く、悪しデキモノの膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし。
そして、河原や坂にある秦氏の部落に、そのハンセン氏病患者の世話をさせるのです。
ハンセン氏病は、現在では感染症のひとつで、薬剤で治療できる病と知られているのですが、平安時代ではその知識が無かったため、太陽神ミトラ教(景教)の牡牛を屠る儀式をおこなっていた秦氏の部落は仏罰者の部落と、平安王朝は情報操作したわけです。
そして、平安仏教の血の禁忌思想にからめて、牡牛を屠り、その生血や生肉を食べ、その牛の皮を剥ぎ、なめし皮を作る、太陽神ミトラを祀る秦氏の部落を、「穢れ」とするのです。
本来の釈尊の教えには、「血の禁忌」思想などはなかったのです。釈尊は、乞食修行での与えられた食べ物は、肉と野菜を選り分けずに、全て食べていたのです。その平安時代に発明された「血・肉食の禁忌思想」の元は、中国大陸では肉食するため肉食禁忌の思想はなかったので、騎馬民族を差別するインドのバラモン教思想からのものと示唆されます。
「血の穢れ思想」が日本史上記述されたのは、亡命百済貴族支配の平安時代、908年の「延喜式」施行からです。血・肉食の穢れ思想は、日本列島古来の思想ではないのです。陸奥国の騎馬民族の蝦夷軍が健在であった、奈良時代以前には、「血・肉食の禁忌」、「血の穢れ」思想などはなかったのです。その根拠のひとつとして、奈良時代の食物のごみ遺跡から砕かれた獣骨片が多く出ているからです。
奈良時代、768年藤原氏が、日本列島初の神社である春日社を建て、そこでおこなっていた穢れ祓いも、その趣旨は、国内に起こった災難や不幸や疫病などは、人民どもが犯した罪悪の所業が原因であるので、それらを拭い取れば平穏安息が得られる、としているのです。そして、その祓うべき罪とは、「天つ罪」と「国つ罪」との二つに分けられたのです。
天つ罪は八つあり、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸です。
国つ罪は十三あり、生膚断、死膚断、白人(シロト)、胡久美(コクミ)、おのが母犯す罪、おのが子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母を犯す罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災、高つ神の罪、畜仆し、蠱物する罪です。
奈良時代の中臣神道が発明した穢れ祓いには、「血・肉食の穢れ」など、どこにもなかったのです。
平安時代、比叡山延暦寺が「法華経」を利用して発明した「血・肉食の穢れ」とは、騎馬民族秦氏末裔を差別し、貶めるための思想であったのです。
しかし、その「穢れ思想」の大宣伝も、難民として暮していた中国山東半島から、京に移民してきたばかりの、そして、ミトラ神を祀っていた秦氏の支配地跡に、仏寺として延暦寺を建て、中国の神・仏を祀っている宗教思想では、古く飛鳥ヤマト時代から宗教活動をしていた秦氏末裔には、その宗教的効力はなかったのです。
そこで、平安王朝は、「比叡山の法華経を祀る天台宗の百済仏は、538年に飛鳥ヤマトに渡来していた。そして、その百済仏は、騎馬民族の蘇我稲目が導入したものだ。」、との情報操作を考えるわけです。そして、その538年百済仏教伝来物語の情報操作の主人公として、厩戸皇子を「聖徳太子」に変身させるわけです。そして、その「百済仏教伝来物語」の宣伝隊長が、聖徳太子の玄孫と宣伝する、年下の空海に、密教の教えを請いた最澄であったのです。
この、後から創られた物語を先住民族の物語の前に挿入する、「百済仏教伝来物語」戦略は、「旧約聖書」にみられるのです。
ヘブライ王国のソロモンが死去し、ユダ国とイスラエル国に分裂後、レビ族末裔に虐げられていたイスラエル民族は、ソロモンを「簒奪者」と唱え始めるのです。それは、ダビデの祭祀権を、ソロモンが不正な手段で奪ったからです。
そして、ソロモンを「ヤコブ」(不正な手段の簒奪者)と、イスラエル民族が唱えると、それに対して、レビ族末裔は、イスラエル民族の祖ヨセフを、なんと、ヤコブの息子とする物語を創作して、ヨセフ族物語の前に挿入していたのです。それにより、イスラエル民族は、「ソロモンをヤコブ」と二度と言えなくなってしまったのです。
歴史は、百年経てば、「古代史」も同然です。実際に検証できないからです。ですから、百年前を知るには、書物の記述を基に推測するしか方法がないわけです。そこで、簒奪王権は、書物の改竄をおこなうわけです。
平安王朝は、藤原不比等が創作した「日本書紀」の552年仏教伝来を、538年に改竄して、百済仏教伝来物語を、蘇我王朝の時代に挿入するわけです。では、何故、比叡山延暦寺は、「仏教伝来538年」とし、厩戸皇子を「聖徳太子」に換えたのでしょうか。それには、何かの戦略(意味)があったのでしょうか。
538年百済国では何があったのでしょうか。その年は、扶余に遷都の年であったのです。その頃の朝鮮半島は、東アジアでの騎馬民族(北)対農耕民族(南)との激闘時代の只中であったのです。百済も、その東アジアの動乱の影響を強く受けていたのです。
527年「日本書紀」で述べるところの北九州筑紫国磐井の反乱とは、朝鮮半島から北九州への侵攻であったようです。その頃の朝鮮半島は、北から押し寄せる騎馬軍団により侵略され、そのため、朝鮮半島の先住民は渡海して、北九州へ逃れてきたのです。
古来より、朝鮮半島南端と北九州とは、同じ文化圏を形成していたのです。それは、韓族と倭族とは、元は同じ呉・越(紀元前473年呉滅亡。紀元前334年越滅亡。)の南方系海洋民族であったからです。ですから、玄界灘は、潮目を読める両民族にとっては内海であったのです。
そして、528年仏教を始めて導入した、百済の隣国新羅は、ユーラシアからの騎馬民族渡来により軍事力を増し、532年には朝鮮半島南端の伽耶の金官国を乗っ取るのです。その伽耶の先は、海を隔てた対馬列島で、その先は、隠岐、そして、北九州であるのです。
356年漢語を知らない奈勿王により始る新羅は、高句麗・百済と異なり、騎馬民族国であったのです。西域から渡来した新羅軍の主力部隊は、騎馬軍団で、その軍備はローマ軍と似通っていたのです。それを裏付けるものとして、新羅・慶州の古墳から、オリエントでローマ軍が使用していたのと同等の脛当ての防具・馬冑・馬鎧が出土しているのです。
そして、その古墳とは、騎馬民族スキタイの流れを汲む、大きな穴を掘り、小石を敷き詰め、木製の柩を納め、土を饅頭状に盛り小山を作る、石積木柩墳であるのです。そして、その古墳からは、多くの金メッキを施した馬具や、ギリシャ系金製の装飾品や三本樹の王冠やローマン・グラスが多く出土しているのです。その馬具に施した金メッキのアマルガム法は、騎馬民族スキタイが開発していたのです。
百済の「538年の遷都」は、新羅侵攻からの防衛のためのものだったのです。そして、538年百済から飛鳥ヤマトに仏典を送ったと云われる聖王(523年〜554年)は、554年新羅に敗れ絶命していたのです。
六世紀の東アジアでは、北から侵攻する騎馬民族柔然と闘っていた北魏は、534年滅び、東西に分裂していたのです。その西魏と東魏もやがて滅び、550年東魏を北齊が引き継ぎ、557年西魏を北周が引き継いでいたのです。そして、その北周と北齊を、581年統一したのが隋というわけです。
騎馬民族側にも政権交代が起こっていたのです。それは、552年西域から侵攻してきた突厥が、柔然を倒し、突厥帝国を興したのです。
突厥とは、チュルクを漢語化したもので、トルコ系民族のことです。そして、ユーラシアの東から西までを支配した、この突厥帝国は、その後、中国南方の北周・北齊、そして、隋・唐と軍事対決することになるのです。
ユーラシア大陸を支配した突厥は、当然、極東の日本列島にも侵攻していたのです。その根拠のひとつは、日本列島で三世紀後半から始る古墳が、五世紀から六世紀にかけての古墳と異なるからです。そのひとつが、五世紀以降からの古墳からは、今まで無かった実用的馬具が多く出土し、六世紀以降では、装飾を施した金メッキの非実用的馬具が多く出土するからです。これは、騎馬民族王族の渡来を示唆しています。そして、その墓は、騎馬民族特有の石積木柩墳であるのです。
歴史で記述された初の渡来突厥と考えられるのが、530年飛鳥ヤマトに突然現れた、蘇我稲目(蘇我稲目は、713年以降に簒奪王権により付けられた名で、チュルク本名不詳。)であるのです。そして、飛鳥時代は、その蘇我稲目の出現から始るのです。
東アジアで、突厥帝国と戦闘を繰り返していた隋の煬帝が、608年偵察使として裴世清を、飛鳥ヤマトに送り込んできたのです。六世紀から七世紀の日本列島の飛鳥ヤマトも、朝鮮半島と同じに、東アジアでの、北の騎馬民族突厥と南の農耕民族・隋・唐との死闘に巻き込まれていたのです。
六世紀から七世紀にかけての東アジアの民族動乱は、朝鮮半島に影響を及ぼし、その朝鮮半島の動乱は、日本列島にも強い影響を及ぼしていたのです。
騎馬・遊牧民族と農耕民族との戦いは、歴史的必然であったのです。それは、古代には、国境などなかったからです。ですから、農耕民族は、村や耕作地を異民族の侵入から守るために柵を設けるわけです。その柵は、農耕民族の人口増大に比例して、農地開拓という自然破壊をおこないながら、南から、騎馬・遊牧民族の支配地の北方草原へと侵攻していくわけです。
それに対して、騎馬・遊牧民族の民族移動は、季節により決まっていたのです。それは、暑い夏には、涼しい北方草原に移動し、寒い冬には、南方草原に移動していたのです。騎馬・遊牧民族の越冬用の掘っ立て柱の支倉造り(奈良正倉院の祖)は、移動する騎馬・遊牧民族に適した建築様式であったのです。飛鳥ヤマトの建築遺跡が、敷石形式ではなく、掘っ立て柱形式の建築物が多いのは、騎馬民族の居住を示唆します。
大草原では、移動のための目印がないため、騎馬民族は、北極星を目印に季節ごとに民族移動をしていたのです。ですから、騎馬民族にとって、北極星は、民族を導く「神=天子・テングリ」であったのです。
騎馬民族の基本的移動は、南北であったのです。しかし、南方から北方へ、ジワジワと野山の自然を破壊しながら侵攻する農耕民族の柵は、やがて、自然と暮す騎馬・遊牧民族の冬の移動地と重なるのです。そこに、野山の自然を破壊する農耕民族と墓を地下式として地表の自然を守ろうとする騎馬・遊牧民族との民族戦争が勃発するわけです。そして、南方農耕民族による長城が築かれるようになると、騎馬民族の民族移動が、南北から、東西になるわけです。その結果、中央アジアで暮していた騎馬民族は、ユーラシアの東西へ拡散していくわけです。
そのような、東アジアの動乱の中、飛鳥ヤマトでは、「538年百済聖王から仏像と経論を、欽明天皇に献じられた。」、と比叡山側は、百済仏教伝来物語で述べるのです。
何故、538年に、まだ天皇など存在していないのに(672年天武天皇以前の天皇名は、奈良時代に淡海三船が創作した。)、天皇に仏像と経論を献じられるのでしょうか。
百済末裔にとっては、538年は、忘れられない年だったのです。それは、ユーラシアからの騎馬民族軍団南下の影響で、朝鮮半島の北から南下する高句麗軍を避けるため、百済の首都を沿岸の熊津から、内陸の扶餘へ移した年であったのです。
しかし、仏教伝来物語は、ふたつあるのです。ひとつめは、奈良時代、藤原氏による「日本書紀」での「552年仏教伝来物語」です。そして、もうひとつは、平安時代、亡命百済貴族による「538年百済仏教伝来物語」です。このふたつの物語は、歴史改竄の法則にあてはまるのです。それは、古い物語は、新しく創られる、と言うことです。
奈良時代の藤原氏による仏教伝来物語のトリックは、藤原氏の祖、中臣族を祭祀氏族として登場させることです。そこで創作された物語に、まだ日本神道など存在していなかったのに、物部守屋の忠臣として、神道の祭祀者として中臣鎌子を登場させるわけです。
平安時代の亡命百済貴族による百済仏教伝来物語のトリックは、秦氏の支配地の山背国と比叡山を乗っ取り、秦氏の神・ミトラ神を抹殺・隠蔽するために、「聖徳太子」を登場させたことです。それにより、秦河勝は、「聖徳太子」の忠臣となり、仏像安置のために広隆寺を創建したことになってしまうのです。
このふたつの仏教伝来物語の最大のトリックは、物部氏対蘇我氏との二度の神仏戦争です。この神仏戦争により、仏教以前に、日本神道が古来から存在していたと、信じられてしまうのです。
実際は、飛鳥ヤマトには、645年唐進駐軍と中臣族とにより仏教勢力が侵攻して来るまでは、北極星(太一)を祀る「道教」と、太陽の化身牡牛を屠る「景教」とが存在していたのです。そして、その「道教」は、道観(後の伊勢神宮)で北極星(太一)を祀っていた天武天皇の孫長屋王による太一(北極星)の祀りを、藤原氏により「左道」として抹殺されるまで、そして、「景教」は、太陽の化身牡牛の屠り儀式を百済系桓武天皇により、804年に抹殺されるまでは、歴史上存在していたのです。
実際の日本神道は、仏教よりも後に、中臣神道として日本列島に現れたのです。その根拠としては、奈良の都では、藤原氏により、710年仏教の興福寺が建てられ、768年神道の春日社が建てられたからです。
何故、それまで、仏寺や神社が建立されなかった理由としては、それは、古墳を築造していた民族の勢力が存在していたからです。古墳は、七世紀まで築造されていたのです。その古墳での埋葬思想では、死者を不浄として火葬する仏教・神道思想とは異なり、死者は穢れなどではなく、古代エジプトの単位キュビトで設計された石棺に安置され、冬至の太陽光を浴びることにより再生する、と信じられていたのです。
このような死者再生思想を持った民族支配地に、死者を火葬し、穢れとする仏寺や神社を建立することなどできるはずはありません。埋葬儀式の変化は、その地の支配者が替わったことを意味するのです。それは、オリエント文化の飛鳥ヤマトを継承した、騎馬民族系天武天皇崩御後に、藤原不比等により、宗教改革がおこなわれた結果、仏寺の後に、前政権の神を、怨霊として封じ込めるために神社が現れたのです。
そのような視点で、仏教伝来物語を眺めてみると、今までと異なる日本列島史が現れてくることでしょう。
もし、538年百済から飛鳥ヤマトへ、使者を送り込んだことが史実だとすれば、それは、仏像や経論などではなく、飛鳥ヤマトの百済コロニー(後の葛城。新羅コロニーは磯城となる。)に、「聖王の亡命依頼の書状」であったのかもしれません。
その根拠は、百済仏教伝来物語の、蘇我稲目と物部尾興との崇仏戦争が、その後に起こったとされる、蘇我馬子と物部守屋との崇仏戦争と、経緯が全く同じであるからです。
歴史改竄において、同じ物語があるときは、「旧約聖書」で最も古い創世記物語から出エジプト記を語る「モーセ五書」が一番新しく創作されたように、古い物語のほうが、新しい物語より、新しく創作される傾向があるからです。
その二度の崇仏戦争は、蘇我氏が物部氏を敗退させ、仏像を祀ることになるのですが、疫病が流行り、その仏像が「難波の堀」に投棄されてしまうのです。
難波とは、奈良時代に改名されたもので、その前は、浪速(ローラン←楽浪・ローラン←楼蘭)と呼ばれた西域・高句麗・百済からのシルクロード交易の貿易港であったのです。その百済からの交易湊の難波に、二度とも仏像が投棄されたことの意味は、飛鳥ヤマト政権に、仏教(百済聖王の依頼)の上陸を拒否されたことを示唆しているようです。
その後、百済仏教伝来物語では、蘇我馬子と物部守屋との第二次崇仏戦争時に、十四歳の「聖徳太子」が登場し、やがて、女帝推古天皇の摂政になると、蘇我馬子と共に仏教を擁護し、その「聖徳太子」から賜った仏像の安置のための施設として、秦河勝が、支配地の山背国(後の山城国)に広隆寺を建立したことになるわけです。そして、その仏像が、弥勒菩薩というのです。
しかし、この百済仏教伝来物語には、不思議なことが沢山含まれているのです。そのひとつは、百済仏教伝来としているのに、何故、弥勒菩薩が登場するのでしょうか。
弥勒とは、その元はインドのヒンズー教のマイトレーヤのことで、その元はオリエントのミトラ神のことなのです。弥勒菩薩とは、弥勒(中国・日本)←マイトレーヤ(インド)←ミトラ(オリエント)、の流れにあるのです。
六世紀の朝鮮半島で、百済と対峙していた、隣国新羅の軍団は、花郎軍団(花=ミトラ)と言われ、その花郎軍団とは、軍神ミトラを祀るローマ帝国軍の流れにあったのです。その弥勒(ミトラ神)菩薩像が、何故、百済の仏像なのでしょうか。
そして、飛鳥時代まで山背国を支配していた、能楽の祖秦河勝が、「聖徳太子」の命を受け、広隆寺を仏像安置のために建立したというのですが、その百済渡来の仏像安置の寺を建立した秦河勝の墓が、何故、平安初期には、その地から赤穂に追放されているのでしょうか。
更に、秦河勝が建立したと云われる広隆寺は、数々の仏寺名に変更されているのですが、その元は、蜂丘(岡)寺で、蜂丘寺は、その地にはなく、少し離れた地下に遺跡として眠っているのです。そして、蜂丘寺は、弥勒(ミトラ神)を祀る景教寺で、仏寺ではなかったのです。
奈良時代まで、蜂丘寺(景教寺)でおこなわれていた、太陽神ミトラを祀るための、秦楽(→申楽→猿楽)を舞う秦氏祭祀者による牡牛の屠り儀式は、平安時代になると、「血の禁忌」の仏教思想により、広隆寺の牛祭り、と改竄され、ミトラ神は、魔多羅神に変えられてしまうのです。
平安時代初期、恐らく、このような百済仏教伝来物語に、イスラエル民族が「ソロモンはヤコブ」だと言ったように、部落賎民に落とされた秦氏末裔も、「飛鳥時代に、百済仏教を広めたと言う聖徳太子などはいない。」との反論を強く唱えたことでしょう。しかし、「日本書紀」の解説を平安貴族に講義し生計の糧とする、万葉語学者の秦氏末裔多人長が、812年「古事記」の暗号で、平安王朝による歴史改竄の解明を示しても、やがて、その声は消えてしまうのです。それは何故でしょうか。
それは、814年「新撰姓氏録」により、日本人を「皇・神・蕃」と差別し、亡命百済貴族末裔を日本列島古来からの皇族と偽装し、そして、古代新羅語で読まれた「万葉集」を菅原道真が古代万葉語に改竄して、オリエント文化の蘇我王朝の存在を、架空の歴代天皇の歌で隠蔽したこともあるのですが、最大の功績は、「聖徳太子」のネーミングなのです。
「聖徳太子」このネーミングの呪縛は、平安時代だけではなく、平成時代の現在までも続いているのです。「聖徳太子」の実在性は、大山誠一氏の著書「聖徳太子と日本人」等で否定されているにもかかわらず、今尚、その太子虚構は健在なのです。
「聖徳太子」の虚構物語構築は、ユダヤ・キリスト教「聖書」の登場人物、十戒を授けるモーセ、敵将ゴリアテを倒す少年ダビデ、馬小屋で誕生したキリストを素材としているようで、日本列島の思想からはみ出ているようです。
そして、その「聖徳太子」物語を一度疑うと、色々な疑問点が浮かぶのです。そのひとつは、飛鳥ヤマトに都があるのに、何故に、女帝推古天皇摂政の「聖徳太子」が、約二十km先の斑鳩の寺に住んでいるのか、と言うことです。
「隋書」によれば、飛鳥ヤマトのオオキミは、夜に政(まつりごと)を行ない、日の出には仕事を終える、と記述されているのです。政治を終えた摂政「聖徳太子」は、その後、二十km先の斑鳩まで、どのようにして帰ったのでしょう。その答えとして、天馬の黒駒が、直線道路の太子道を疾走した、と言うのです。
斑鳩は、飛鳥ヤマトと難波の湊との中間点で、恐らく、幅十二mのローマ軍式軍事道路は、飛鳥ヤマトを基点に、斑鳩を中継点として、難波の湊まで続いていたのでしょう。
そのように疑えば、「聖徳太子」建立七寺は、仏寺などではなく、608年隋の偵察使の報告に基づいて計画された、東アジアで突厥帝国と闘っている、隋国の飛鳥ヤマト進駐軍に備えた、蘇我王朝側の防衛軍事施設であった可能性も疑えません。
蘇我稲目の登場と同時に、北九州から飛鳥ヤマトにかけて現れた軍事施設「ミヤケ」が、その「聖徳太子」建立七寺と云われる建物の実態でしょう。つまり、645年以降、藤原氏により、ヤマトの「ミヤケ」が徹底的に破壊され、その七つの施設跡に、北九州秦王国(後の豊国)の仏寺を移築したのが、後に「聖徳太子」建立七寺となるのです。
そして、「聖徳太子」の謎として、女帝推古天皇の摂政として成人している大人が、何故、子供を表わす「太子」なのでしょう。「日本書紀」での「厩戸王」を「聖徳太子」と、子供扱いにした本当の意味は、何なのでしょうか。
平安王朝により部落民に落とされた秦氏末裔には、桓武天皇による正倉院遺物の破壊や焚書により、騎馬民族が支配していた蘇我・天武王朝の歴史を証明する書物がないため、百年も経てば、オリエントの飛鳥ヤマト文化の記憶も薄れていくわけです。後に残るのは、伝承のみです。
五世紀新羅から渡来した秦氏には、「太子」信仰文化があったのです。その新羅文化とは、それは、土着の海洋民族末裔韓族を武力制圧した、ユーラシア・オリエントから騎馬民族が持ち込んだ文化であったのです。
文化は常に、勝利者の文化に、敗者の文化が呑み込まれていくのです。その逆はありえないのです。
その朝鮮半島の新羅文化とは、ギリシャ・ローマ文化だったのです。その新羅文化を構成する宗教思想に、ローマ帝国で流行っていた、古代エジプトの子神ホルスを抱く地母神イシスの「母子信仰」があったのです。この子ホルスを抱く母イシスの母子神は、やがて、キリスト教に導入され、子イエスを抱く聖母マリア像となるわけですが、新羅では、やがて、時と共に、「子神」信仰が「母神」信仰を呑み込み、その結果、「太子」信仰となっていたのです。
このギリシャ・ローマ文化国新羅での「太子」信仰は、秦氏の渡来と共に日本列島に持ち込まれ、その秦氏末裔の薩摩藩では、その「太子」信仰が、「稚児様」信仰に変身するわけです。日本列島に渡来した秦氏末裔には、「太子」とは、誰も疑うことが許されない、神聖な「子供神」であったのです。その思想により、「聖徳太子」の虚構を疑うことは、現在でも、できないのです。劃して、比叡山延暦寺の「聖徳太子」主演の百済仏教伝来物語は、現在も、健在であるわけです。
こころあるひとが、「聖徳太子」の歴史を消し去ることが出来れば、そこには、猿(秦河勝)が馬(蘇我馬子)を守る、オリエント文化の飛鳥ヤマト騎馬民族の史実が現れることでしょう。
戦国時代末期にも、同じことが起こるのです。それは、秦氏末裔穢多頭弾左衛門(猿←申←秦)が、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、1590年関東の穢れ地に移封された騎馬民族末裔徳川家康(馬)を鳥越で待ち受けて、荒川河口のひとも住めぬ湿地帯を開拓していくのです。正に、歴史は繰り返すのです。
エド(穢れ地)は、秦氏末裔と徳川家康により開発されたのです。そして、秦氏末裔の土木・建設技術で築かれた「秦王国」のエドの歴史が、三代将軍徳川家光の支配時代から、改竄・抹殺され、そして、徳川家康が朝鮮国の朱子学者から学んだ朱子学が否定され、亡命百済貴族末裔により仏教文化が復活して、やがて「江戸文化」と言われていくわけです。
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