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神輿の黙示録(16)(天皇と役座の謎:何故役座は神輿に乗るのか)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:32:34: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(15)(藤原氏と秦氏の謎:藤原氏はユダで秦氏はエフライムか?) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:29:00)

この世は、表世界と裏世界とにより構成されているようです。そこで、表世界を支配する天皇と、裏世界を支配する役座の歴史を調べてみることにしましょう。そこに、天皇と役座との意外な関係を知ることになるでしょう。
役座は、いつの頃からか「暴力団」と呼ばれるようになってしまったようです。しかし、江戸時代初期、騎馬民族末裔の徳川家康が健在だった頃、役座の家業である、賭博、売春、高利貸しは、反社会的ビジネスではなかったのです。
そもそも、その「賭博、売春、高利貸し」は、役座が、日本列島で始めたものではなく、奈良時代の大乗仏教の寺院内でおこなわれていたものなのです。ですから、賭博でのチップのことを「寺銭・てらせん」と言うし、仏教寺院での回春のための内道場は、時代と伴に寺院の外に移動するわけです。ですから、現在、寺院の近郊に由緒ある遊郭が多く存在するのは、内道場が外に移動したためなのです。仏教組織の高利貸しは、「借上」と言われ、現在でも健在です。それらの三大仏教ビジネスは、役座が発生する、騎馬民族末裔源氏将軍三代までの鎌倉時代初期までは、仏教の独占事業だったのです。
では、裏世界を支配する役座は、どのような時代背景により発生したのでしょうか。
役座の歴史を知るヒントのひとつは、役座が祀る神様にあるようです。役座映画などでは、役座は神道の神を祀っているように描写しているようですが、正統役座が祀る神様は、「神農様」です。神農様は、薬草の神様でもあるのです。その神農様は、神道の元祖である、道教の流れにある神様なのです。つまり、役座は、中国で発生した道教の神様・神農様を祀っているのです。
では、何故に、役座が、中国の神様を祀っているのかを、時代を遡って調べることにしましょう。
ハイキングなどで山里の小道を散策していると、ポッンとある老木の下に地蔵を見ることがあります。礼拝をするために一寸立ち止まって地蔵のお顔を見ると、鼻が欠けていることに気づきます。中には、セメントで修復している地蔵も多く見受けられます。誰が、このような悪戯をしたのでしょうか。地蔵は仏の化身であるわけですから、悪戯者には仏罰が当たります。
この仏罰に当たることを逆手に取る者がいたのです。それは、役座の配下の博徒です。博徒は、博打でのツキを得るために地蔵の鼻を削り取り、博打のお守りとしていたのです。
教科書歴史によりますと、日本国は仏教国となっているようです。しかし、仏の化身の地蔵を傷つける者は、アウトローの博徒だけではないのです。戦国時代、織田信長は、イエズス会の軍事力を背景に、京に登るにあたって二条御所の修復時に、近在の多くの地蔵・石仏を集めさせ、それらをわざわざ砕いて、その基礎材として使用していたのです。
役座も、ペルシャ平家末裔の織田信長と同じに、本質的には仏敵であったのです。しかし、役座の配下として、縁日で行商する者を香具師(こうぐし→やし)というのです。
香具師(こうぐし・やし)は、その字のとおり、香木と仏具を商う者であるのです。反仏教の役座の配下は、何故、仏教関連商品を商う肩書きである「香具師」と言われるのでしょうか。その謎解きのヒントは、香木にあるようです。
日本列島の歴史上、香木の伝来は、595年推古天皇の時代、淡路島に香木が漂着し、それを朝廷に献上して、重宝されたという伝説が「日本書紀」にあります。しかし、「日本書紀」は、藤原氏により、オリエント文化の飛鳥王朝の歴史を隠蔽するために創作された物語であるのです。その香木漂着物語は、何かを隠すための記述のようです。(香木には、二種類あり、自然に芳香を放つものと、加熱して芳香を放つものです。加熱して芳香を放つものは、沈水香木(沈香)と言われ、樹脂の塊のため、水より比重が重いので浮きません。漂着できるのは、白檀系の香木です。それらの原産地は、南インドです。しかし、インド洋海流と東アジアを北上する黒潮海流とは、マラッカ海峡で分断されているため、南インドの白檀系香木は、自然の力だけでは、日本列島の淡路島には、漂着できないのです。)
前政権の騎馬民族文化を隠蔽するためのトリックのひとつが、七世紀末の騎馬民族系天武天皇から始る「テングリ・天子→天皇」が、農耕時代の神代からあるように、日本列島の歴史物語を創作したことです。ですから、史実として天武天皇の前には、日本列島には天皇など存在しないわけです。ですから、勿論、香木を献上された女帝推古天皇などは、実在していないのです。
では、この香木漂着物語の記述は、実際は何を物語っていたのでしょうか。
紀元一世紀頃の朝鮮半島の物語として、「駕洛国記」に、駕洛の王のところに、インドのアヨーダ国の王女が船に乗って到来した、とあるのです。そのインドとは、紀元前十世紀ヘブライのソロモン王は、海洋交易民族フェニキア人が駆るタルシシ船により、インドの香木、孔雀、猿などを輸入して、そして、それらをギリシャ都市国家に輸出して大儲けをしていたのです。
そして、紀元一世紀には、ユダヤ民族の住むカナンの地はローマ帝国に支配されてしまったため、インドのマラバル海岸には、ユダヤ・キリスト教のコロニーが存在していたのです。
紀元一世紀の朝鮮半島南端に、インドからの船が漂着したのなら、台湾沖を東の黒潮海流に乗れば、南九州の坊津には漂着できるでしょう。そこから、島伝いに北上すれば、瀬戸内海に入り、更に東進すれば、「日本書紀」にある推古天皇の時代に「香木」は、淡路島に漂着できるわけです。つまり、六世紀に、南インドから日本列島に、香木をもたらしたのは、自然の力による漂着ではなく、藤原氏の先祖中臣氏であったのです。
役座の発生は、鎌倉時代です。飛鳥ヤマト時代を支配していたチュルク系騎馬民族末裔は、平安時代に百済系王朝により、仏敵の「鬼」と呼ばれ、山奥に隠れ住んでいたのです。しかし、新羅(秦羅)系花郎軍団末裔の源頼朝が、百済系末裔の桓武平氏の北条氏の陰謀により担ぎ出され、平安末期の朝廷を支配していたペルシャ平家を打倒し、1192年鎌倉幕府として天下を執ると、唐進駐軍に追われていた騎馬民族末裔は各国の山奥から続々と降りてきて、先祖を祀る「塚=土+家=墓」(藤原氏の神社により、新羅末裔(秦羅)の氏神が隠蔽されている墓。)に集まり、情報交換の地とするのです。
やがて、この騎馬民族・新羅(秦羅)系末裔の武士集団末裔により、各国の神社境内の地を中心に同業者組合の座が開かれるのです。やがて、その同業者組合の座を仕切る顔役が起こり、賭博・売春・借上の三大ビジネスを独占していた仏教組織の僧兵からの「座ビジネス」の妨害を、武力で防ぐわけです。それが神社境内から発展した同業者組合の「座」の顔役(指導者)である「役座」となるわけです。
役座は、社会的に弱い立場にある賎民達のこころをまとめる立場の意味から、「任侠」とも呼ばれていくわけです。つまり、鎌倉時代の役座は、仏教組織の弾圧下にある賎民のヒーローであったのです。
役座が仕切る、その古墳の上に築かれた神社境内で、後に、物品販売や興行がおこなわれるバザールが定期的に開催され、その縁日のバサールが「高市・たかまち」と言われるわけです。
ですから神社とは、日本列島の神代からの建物ではないのです。東北アジアを支配していた突厥帝国を散逸させた唐軍進駐軍と国際海洋交易商人の藤原氏により、645年チュルク系蘇我王朝が倒されると、中臣氏が藤原氏に変身し、仏教隆盛の詔を発し、新羅(秦羅)系の氏神を祀っていた古墳の上や近隣に、神社が続々と建立されるわけです。八幡神社や稲荷神社が、こんもりとした小山の上にあるのは、このためです。オリエント渡来の秦氏の氏神の八幡(やはた)神や稲荷(じゅが→づか→塚→墓)神は、その藤原氏の神社により封印されたのです。
その古墳上に神社建立の意味は、前政権の氏神の祟りを神社により封印することです。そして、古墳の存在を抹殺することにより、前政権の宗教儀式や文化を抹殺することです。更に、前政権の氏子が、神社に近づかないようにする装置が、結界を示すヘビの象徴の「しめ縄」を張った鳥居であるのです。
645年以降、中臣氏末裔藤原氏は、進駐唐軍の軍事力を背景に、仏教興隆の詔を発して、そして、中臣神道を発明することにより、前政権の突厥帝国日本支社の蘇我王朝時代に隆盛した景教寺(ペルシャ寺)や道教の観などの宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、仏寺や神社を建立するのです。(突厥とは、チュルク・トルコの漢語)
飛鳥ヤマト時代の寺や観は、宗教施設というよりも、国際交易のための国際ホテルや交易施設であったのです。異民族との交易は、ウソが前提のため、ウソをつけないように神の下にある「庭」や宗教施設内で契約を交わしたわけです。仏寺もその例外ではありません。飛鳥ヤマトのそれらの宗教施設には、エジプト、アラブ、オリエント、インドなどの国際交易商人達であふれていたのです。
では、中臣氏はどのような思想により、神社を建立したのでしょうか。その中臣神社建立思想と類似の宗教があるのです。それは、ユダヤ教です。
中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。これらの中臣神道とユダヤ教との宗教思想の共通点は、単なる偶然の一致なのでしょうか。
奈良時代の藤原氏は、神を祀る「春日社」だけではなく、仏を祀る「興福寺」も経営していたのです。藤原氏の謎は、この相反すると思われる「神と仏」を同時に経営していることです。しかし、この謎は、キリスト誕生物語とブッダ誕生物語が、同根であることが分かれば、藤原氏の宗教の謎は解かれるのです。
シルクロードの国際交易都市ガンダーラで、紀元一世紀に発明された救世主物語が、国際交易商人と伴に、西に向かったのがキリスト物語となり、東に向かったのがブッダ物語となったのです。それらの救世主物語は、国際的旅の途中で、各国の土着の宗教物語を導入してしまいましたが、その基本物語は共通であるのです。救世主(神・仏)を信じる者は、天国(極楽)に行き、信じない者は地獄に落ちる、と言う因果応報の物語です。この救世主物語を、国際交易商人は、国際交易で、異民族がウソをつかないように教育するために、「ウソをつく者は地獄に落ち、正直者は天国に行ける。」、という物語として異民族交易ビジネスで利用していたのです。
その奈良仏教の宗教儀式での必需品の香木は、南インドからの交易品で、藤原氏の独占商品であったのです。それらの仏教グッズである香木や仏具を商いする者を、香具師(こうぐし)というのです。では、何故、反仏教の役座の支配下が香具師となり、「香具師・やし」と呼ばれていくのでしょうか。
日本列島初の「天武天皇」が、686年崩御すると、藤原不比等は、百済系持統天皇を傀儡として奈良朝廷を支配するために、ギリシャ神話、オリエント史、聖書、百済史を参考に「日本書紀」を創作するわけです。そして、仏教と中臣神道とにより、前政権の景教徒や道教士を歴史上抹殺し、そのペルシャ系秦氏やチュルク系騎馬民族末裔を「鬼」とするわけです。
「日本書紀」物語で、景教や道教を日本列島史から抹殺できても、鬼達は、近畿ヤマトの山奥に隠れ住むわけですが、しかし、唐進駐軍に敗れた天武天皇系軍事勢力は、北に逃れて、陸奥国に健在であったのです。
奈良時代とは、この唐進駐軍を背景とした国際海洋交易商人の藤原氏と、陸奥の天武天皇系残存軍事勢力とが拮抗していた時代です。しかし、この軍事的均衡が崩れるのです。それは、唐軍が、藤原氏に代わり、母国百済を滅ぼした新羅を憎む亡命百済貴族に肩入れしたからです。
770年天武天皇系最後の女帝称徳天皇が、怪僧道鏡により毒を盛られ崩御すると、百済系亡命下級貴族の老齢者を光仁天皇とするのです。そして、781年その息子を桓武天皇とするのです。
百済系桓武天皇は、唐の儀式に則り、藤原氏の発明した天照大神ではなく、父光仁天皇を祖神として、794年平安京に遷都するのです。ここに、新羅(秦羅)系天武天皇と異なる天皇家が誕生するわけです。(平安王朝を支配した百済系桓武天皇家が、京都の泉湧寺の天皇位牌から、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の位牌すべてを排除していることは、天皇家が、新羅系と百済系とに分かれているからです。)
藤原氏は、唐進駐軍と桓武天皇により、奈良の都に封印されてしまったのです。それは、藤原氏が、奈良の都で三大仏教ビジネスに熱心だった報いです。
百済系桓武天皇は、唐国の支援の下、藤原氏に対抗するために、中国山東半島に亡命していた元百済貴族・軍人を、京都・近江に移住させるのです。更に、藤原氏が支配する奈良仏教に対抗して、804年最澄を唐に留学させ、中国天台宗を輸入するのです。そして、奈良時代の軍制を廃止して、亡命百済系軍隊を組織するのです。それが後の健児兵となるのです。そして、この健児兵と唐進駐軍とにより、新羅花郎軍団末裔とチュルク騎馬民族が支配する陸奥国への侵略をおこなうのです。
奈良の都に封印された藤原氏は、黙っていたわけではありません。桓武天皇が、最澄を唐に留学させるのに合わせて、錬金術師空海を一年で仏籍に入れて、唐に留学させるのです。そして、水銀の霊薬技術を習得させると、子作り好きの百済系三代の嵯峨天皇に接近させるのです。この頃、嵯峨天皇は、政権奪還を画策する藤原氏の政治的動向に敏感になっていくのです。
藤原氏は、嵯峨天皇による政治の乱れを利用して、挙兵するのです。それが、810年の藤原薬子の乱です。しかし、藤原氏の軍団は、嵯峨天皇の軍団により壊滅されてしまうのです。この藤原氏からの危機を逃れるために、816年嵯峨天皇は、令外官として検非違使庁を置くのです。そして、この時期に、武士(武芸者)が発生するのです。
嵯峨天皇には、子供の数が分からないほどいたのです。ですから、それらの皇子・皇女を公費で養育できないため、皇籍を外し、814年源氏賜姓を発明するわけです。これが嵯峨源氏となるわけです。
しかし、平安時代初期の社会不安は、藤原氏の動向だけではなかったのです。それらは、前飛鳥ヤマト政権の新羅(秦羅)末裔の残存軍団と嵯峨天皇の父桓武天皇が、弟早良親王を無実の罪で抹殺したための怨霊とです。
奈良・平安時代では、怨霊は実在すると信じられていたのです。その恐怖を増したのが、つい数十年前の奈良の都での、藤原氏の子息の相次ぐ死です。藤原氏は、奈良の都で、天武天皇系貴族を謀略により次々と抹殺していたのです。ですから、その天武天皇の怨霊により、藤原氏の子息が次々と死んだ、と信じられていたのです。
しかし、その実態は、反藤原氏の聖武天皇による、藤原氏支配の興福寺を封じるための施設、東大寺の遍照鬼(後の大日如来)の鋳造時での、銅と水銀の鉱毒であったのです。奈良の都の飲料用の川は、遍照鬼が鎮座する高台から流れ出る銅・水銀の鉱毒により、汚染されてしまったのです。しかし、当時、鉱毒の知識がなかったため、それらは天武天皇の怨霊と信じられていたのです。
怨霊を鎮めるには、同族の祭祀者が必要です。そこで、嵯峨天皇は、陸奥国侵略戦争で捕虜にした新羅花郎軍団末裔やチュルク系騎馬民族末裔の武人を、検非違使の配下として利用するのです。
唐進駐軍に支援された桓武天皇軍は、母国突厥帝国が西から侵攻するイスラーム軍に苦慮して陸奥国を軍事的に支援できないことを見越して、大軍を陸奥国に派遣するのです。しかし、軍事力では蝦夷(エビのようなヒゲがある夷=チュルク系騎馬民族)軍団に勝利できない桓武天皇軍は、801年金髪の坂上田村麻呂の騙しにより、敵将アテルイを京で惨殺することにより、蝦夷の抵抗を滅したのです。
捕虜となった新羅花郎軍団末裔やチュルクの戦士は、近畿地方に移送され、散所、別所、垣内、湯浅などの捕虜収容所に隔離されるのです。そこで、武器製造や各種の労働に使役されるのです。更に、奈良の興福寺支配の奈良坂の部落に収容され、香木や仏具販売の香具師の手先として使役されるのです。そして、延暦寺配下の清水坂の部落に収容された捕虜は、寺奴として使役されるのです。
この陸奥国の捕虜を、嵯峨天皇は、嵯峨源氏の配下として利用するのです。しかし、いつ反撃をするか分からない者に、実戦用武器を携帯させることはなかったのです。
では、陸奥国の捕虜は、検非違使の配下でどのような仕事をしていたのでしょうか。検非違使とは、現在の警察です。警察の仕事は、二つあります。ひとつは、現在起こってしまった事件を鎮圧するための、治安警察です。もうひとつは、これからおこりそうな事件を未然に防ぐための、公安警察です。
陸奥国の捕虜は、怨霊を鎮魂するための、公安警察業務を担ったのです。それらは、捕虜とはいえ、天皇直属として、宮廷諸行事の奉行、国家的法会・祭礼の守護、行幸路地の巡検・普請・掃清・橋河の公界と結界との管理などです。それらの諸行事や場所での、怨霊が出て、祟らないように、陸奥国の捕虜は、怨霊の鎮魂をおこなったのです。
その鎮魂儀式での用具は、総革製の鎧・冑と実戦的に不向きな、曲がる、折れる、刃毀れする片刃の刀です。この刀は、陸奥国の蝦夷の蕨手刀を改良したものです。これが後の、世界に誇る美術品としての日本刀の祖となるのです。
陸奥国の捕虜は、それらの実践的ではない武具で武装して、武芸(剣舞と歌謡)により、桓武天皇の実弟早良親王の怨霊を鎮魂していたのです。この怨霊を鎮める武芸の祖は、怨霊を歌謡と舞により鎮魂する「能楽」の祖が秦河勝であることがわかれば、オリエント渡来の秦氏の古来からの芸能のひとつであることがわかるでしょう。しかし、平安時代に、オリエントの神(太陽神ミトラ)を祀る秦楽が、百済系平安王権により、秦楽→シン楽→申楽→シン=さる→猿楽と貶められていくのです。
これらの天皇直属としての鎮魂儀式は、清目と呼ばれていたのですが、桓武平氏末裔北条氏が支配する第二百済王朝の鎌倉時代には、源氏武芸者による清目はキヨメとなり、非人の仕事の路外での汚物清掃業務となってしまうわけです。
この鎮魂儀式をおこなっていた武芸者は、939年〜941年の天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)での反乱軍鎮圧での活躍により、武芸者から武人として公に認められるのです。そして、武芸者は、実戦での武人として「武士」となるわけです。
江戸時代末期、武士とサムライとの意味が曖昧になってしまいましたが、武士とサムライの発生は異なるのです。
武士は、別名「もののふ」と言われていたように、「もの」つまり「精霊」の魂を鎮める者として、「もののふ」と言われていたのです。平安初期の「ものの怪・け」は、早良親王の怨霊です。武士(もののふ)は、その「ものの怪・怨霊」から天皇や貴族を守り、その「ものの怪」からの護衛や「ものの怪」の処刑を司っていたのです。
もう一方の「サムライ」は、「王」の近くに侍(さぶらい)て、王の身辺警護と秘書の役目を執り行っていたのです。
この武士とサムライとの違いは、その出自の違いを表しているのです。武士は、反体制の俘囚末裔です。サムライは、体制側で百済亡命貴族末裔です。
更に、日本武士のルーツを辿ると、武家源氏←蝦夷←新羅花郎軍団←ローマ帝国傭兵軍団と、武家源氏←蝦夷←チュルク系騎馬軍団←スキタイ騎馬軍団の二系統です。一方、サムライのルーツは、桓武平氏←健児兵←百済軍兵士←ツングース系物部氏です。つまり、武士とサムライとは、別種の武人であったのです。
ですから、日本武士道と花郎騎士道とローマ騎士道には、戦い前の名乗り、一騎打ち、恥の美学、太陽崇拝(ミトラ神崇拝)、忠誠心、弱者救済など多くの共通点があるのです。
この武士が、源頼朝政権下では羽振りがよかったのが、北条氏の陰謀により源氏三代で滅亡し、桓武平氏末裔北条氏が支配する第二百済王朝の鎌倉時代には、北条氏の陰謀により都から追われ、源氏狩りにあい、山奥に隠れ住むわけです。つまり、武士が、野武士となり、その野武士は、百済系桓武平氏末裔北条政権により「武」を外され「野士・やし」に貶められるのです。
この「野士・やし」は、古墳上の飛鳥ヤマト時代の氏神を封印している神社境内を聖域(高市・たかまち)として、定期的にバザールを開催することにより、武士の先祖が活躍した飛鳥ヤマト時代の再来を夢見て生き延びていくわけです。
しかし、藤原氏は、源頼朝により宋国との密貿易地・南九州島津荘(島津氏の発生順序は、飛鳥時代・秦氏→平安時代・惟宗氏→鎌倉時代・島津氏)を取上げられた恨みで、源氏末裔を新興仏教思想で痛めつけるのです。その新興仏教思想の基本は、ユダヤ・キリスト教と同じで、過酷な宗教修行をすることもなく、「神を信ずる者は天国に行ける。」を、「簡単な呪文を唱えるだけで極悪人でも極楽へ行ける。」、とするのです。
更に、騎馬民族末裔源氏武士に不幸なことには、その新興仏教思想には、インドで遊牧民族トラヴィダを、肉食することで不可触賎民とした、バラモン教が発明したカースト思想を含んでいたのです。それは、それらの新興仏教の祖は、新羅を憎む百済亡命貴族が支配する比叡山延暦寺で、仏法を学んでいたからです。その延暦寺の開祖最澄は、バラモン教・ヒンズー教・ゾロアスター教思想を取り入れて、日本密教を発明した空海に、その密教を学んでいたのです。
平安時代までは、ユダヤ教思想に類似した中臣神道による「屍穢れ不接触思想」だけであったのが、鎌倉時代には、血の禁忌の仏教思想が貴族だけではなく、新興仏教僧の布教により賎民まで浸透していくわけです。貴族仏教の比叡山延暦寺に反発する、賎民を救済すると主張する新興仏教思想でも、「菜食が善で、肉食は悪」、と言うことなのです。
そして、藤原氏の流れにある親鸞が、自ら肉食・妻帯し、騎馬民族末裔賎民の部落に乗り込み、それらの菜食主義のインド・カースト思想の騎馬民族差別を含んだ「穢れ仏教思想」を賎民に布教するのです。その結果として騎馬民族の生活基盤が崩れ、農耕民族賎民が騎馬民族賎民を差別することになるのです。
しかし、飛鳥ヤマト時代では、騎馬民族が王権を支配し、アジア・ユーラシアの国際交易商人が暮し、バター・チーズ(醍醐)を食べていたのです。勿論、飛鳥ヤマト時代は、動物の砕かれた骨の遺跡物からも分かるように、肉食もしていたのです。
この新興仏教と比叡山延暦寺とが、日本列島で末法思想を広める鎌倉時代に、仏教穢れ思想にイジメられていた騎馬民族末裔の賎民の味方として、「役座」が登場するわけです。
そして、役座は、仏教組織からの圧力を、賎民を守るために「武力で阻止」していたのです。朝廷をも凌ぐ仏教組織の軍事力が歴史上壊滅するのは、ペルシャ平家末裔、反仏教の織田信長の登場まで待たなければならなかったのです。
末法思想を振りまく仏教僧が跋扈する時代に、武士から没落した「野士・やし」が、神社境内のバザールで扱う商品に仏教グッズの香木や仏具もあるため、世間から、香具師(こうぐし)ではなく、「やし・香具師」と貶められた蔑称で呼ばれていくわけです。
では、役座の配下が、「テキヤ・的屋」と呼ばれるのはどうしてでしょうか。
江戸徳川時代は、騎馬民族末裔の徳川家康がエド(穢れた土地→穢土→えど→江戸)に、1603年幕府を開いた後も、平和な時代が続いていたと思っているひとが多くいるようです。しかし、江戸時代は、家康・秀忠親子の時代以降、三代将軍徳川家光より、騎馬民族末裔には暮し難い時代になっていったのです。
1600年(慶長5年)徳川家康は、関が原の戦いで、藤原氏傀儡豊臣軍団を壊滅させると、1601年には、エドから京都への東海道に、二里(約8km)ごとに宿を設け、伝馬36疋を常備させるのです。これは表向きは京への物流のためですが、実際は関東の騎馬軍団が、迅速に京へ移動するための軍事道路だったのです。
そして、徳川家康は、この二里ごとの馬宿を、役座に無償で経営させるのです。その見返りが、日没後の宿場での賭博、売春、高利貸しです。これらの宿場を仕切る役座が、街道筋の親分として羽振りを利かせていくのです。ですから、遊女の名を「源氏名」というのは、徳川家康より、宿場での夜の営業者は、源氏末裔に限られていたからです。
しかし、騎馬民族末裔の徳川家康と秦氏末裔の穢多頭弾左衛門とが、ひとも住めぬ湿地帯のエド地を、神田堀の残土で、海抜十mの人工山を造り、江戸城を建設し、住宅地を整地し、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉にイジメられていた大坂の部落から、多くの源氏末裔賎民を呼び寄せて、エドの町を発展させていたのが、二代目秀忠が、1623年秀忠の次男と言われる家光に将軍職を譲り、1632年死去すると、三代将軍家光は、徳川家康の戦国時代から関が原の戦までの忠臣達に難癖を付けて、左遷或いはお家断絶で抹殺するのです。
三代将軍家光に没落させられた徳川家康の主な忠臣達とは、家康四天王の、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、そして、四天王四名を加えた十六神将の松平康忠、内藤正成、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居元信、大久保忠世、大久保忠佐、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次、本多重次、高力清長、天野康景、石川数正の末裔達です。
実は、徳川家光は、秀忠の実子ではなかったのです。その乳母は、戦国末期の山崎の合戦で、明智光秀をイエズス会の密命で裏切った徳川家康を憎む、お福(春日局)であったのです。そのお福を、天皇にめあわせ、お福を春日局に変身させたのは、藤原氏末裔であったのです。そして、お福は、明智光秀の家系の者であったのです。
三代将軍徳川家光から四代将軍徳川家綱に代わると、騎馬民族末裔への弾圧が激しくなっていくのです。それは、騎馬民族末裔の徳川家康の忠臣達が、春日局の陰謀により、権力中枢から追放され野に下っていたからです。1651年には由比正雪の乱が起こったように、三代将軍家光の政治に反発する源氏末裔の元武士達が多くいたのです。
そこで、四代将軍徳川家綱は、戦国時代に織田信長により仏教軍団を壊滅させられ、更に市・座の利権を楽市楽座により簒奪され、寺所有の関所での通行税が廃止され、比叡山が女人の巣窟であったことが暴かれ、そのため貴族並の生活基盤を失って、葬式仏教に成り下がった仏教組織を利用して、騎馬民族賎民達を弾圧・抹殺することを企てるのです。
それは、没落武士である浪人だけではなく、商人・賎民・流浪芸能民も全て含めて人別帳を作り、仏寺や賎民専用の穢多寺に管理させることです。その当時、武士には名前が名乗れたのですが、商人や元武士の役座には名前を名乗れる権利がなかったのです。そこで、商人や役座に屋号や商号をつけさせて人別帳に登録させたわけです。
バサールで商いをする香具師は、元々は武士であったのですが、その当時では名乗れません、そこで香具師は、先祖が武士の武器である槍・刀・弓矢・鎧・冑などの武器製造をしていたため、町人相手に商売としての矢場を経営していたので、その的屋を屋号として届けたわけです。それがお上から、香具師の商売名を「的屋・まとや」ではなく、「的屋→敵奴→てきや」と蔑称にしてしまうわけです。
騎馬民族末裔、元武士であった役座は、徳川五代将軍綱吉の、1687年騎馬民族末裔の生活基盤を破壊するための殺生禁止の「生類憐みの令」が発せられる頃には、表の世界から闇の世界に暮すことになるのです。
関八州の役座を仕切る弾左衛門(弾左衛門は世襲名。明治初期の十三代目で終わる。)は、徳川家康威光が存続していたまでは、大名と同様に、羽織袴、二本差しで、籠によりで江戸城に登城していたのが、四代将軍徳川家綱の頃には、徳川家康の威光が消えると、五街道の基点である日本橋を整備するという名目で立ち退きを命ぜられ、浅草寺裏の仏寺に囲まれた、堀を廻らされた新町に暮すわけです。しかし、弾左衛門が支配する役座の闇の警察力を必要とした江戸幕府は、大名にしか許されていない冠木門の設置を、弾左衛門の屋敷に許すのです。
徳川家康と秀忠親子が、百済の血が流れていると言われる三代将軍家光にどのように扱われたかは、日光東照宮に行けば分かるでしょう。
徳川家康の死後一年して、遺言どおり、家康の出生地の世良田部落近くの日光に、質素な堂が、騎馬民族末裔の賎民が暮すエドの町を守護するように建立されるわけです。しかし、二代将軍秀忠が死去し、三代将軍家光が支配者となると、日光にあるその質素な堂を移動させ、百済系神道の山王神の思想に則り、豪華絢爛な東照宮を建立するわけです。
しかし、不思議なことに、日光東照宮には、家光の父であるといわれる秀忠を祀る社がないのです。そして、東照宮境内の粗末な建物に猿の彫り物を廻らした、「厩」があるのです。不思議なことに、宗教施設内に厩があるのは、日光東照宮だけです。何か意味があるのでしょうか。
猿と馬は何を意味しているのかと言えば、猿→申→しん→秦で、猿は秦氏末裔弾左衛門を表わし、馬は騎馬民族末裔徳川家康を表わしているのです。猿達(秦氏末裔)に、賎民が開発したエド初期の歴史を「見るな、聞くな、言うな」と、徳川家康の騎馬民族の霊を封印している施設が、日光東照宮であるのです。
そして、北極星を頂く陽明門は、騎馬民族の神・北極星(太一)のエドの町への威光を遮る施設であるのです。そして、騎馬民族末裔徳川家康を祀る日光東照宮が、騎馬民族と新羅(秦羅)国を憎む百済系比叡山延暦寺の流れにある神道の山王(シャンワン)神により祀られている意味は何でしょうか。
そのような視点から、神を祀っていると言われる神社を調べると、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔の怨霊が現れてくるのが分かるでしょう。古来、神社は、祟り封じの施設であったのです。その神社が、何ゆえに死霊を祭る施設になったのでしょうか。そして、神社での「祭り」が「祀り」と言われた時代では、何を祀っていたのでしょうか。
「祭り」を盛り上げるもののひとつに、神輿があります。現在では、神輿は、神の乗り物として認識されています。しかし、何ゆえに、その神の乗り物である神輿の運営に、平安初期に怨霊退治をしていた俘囚末裔の元武士(もののふ)末裔である役座が絡むのでしょうか。役座と神輿には、どのような関係があったのでしょうか。
「祭り」が、「祀り」から何時代から変性したかの歴史は定かではありません。しかし、「祭り」の軽さから比べると、「祀り」には、「生と死」の世界が存在します。そして、その祀りの中心には、怨霊の存在があるのです。では、その怨霊とは何だったのでしょうか。
ひとは、意識を獲得した時点から、「ウソ」が無ければ生きられない存在となってしまったようです。それは、過去と未来を思考して、現在の自分を認識できるからです。しかし、ひとには、未だ、未来を見通す能力が備わってはいないのです。ですから、全てのひとには、未来についての「不安」が常に存在するわけです。
未来を予知できない多くのひとは、これから起こるであろう過酷な自然現象を回避するために、自然現象をひとの行為として解釈することにより、自然神を敬い貢物をして祀っていたわけです。そこに現れたのが、天変地変の自然現象をコントロールできるとする、「人工神」を発明した祭祀者です。
祭祀者は、神ではなく、人間です。が、人工神を発明した祭祀者が、やがて神の代理人として、迷える子ひつじ達を人工神に従わせることにより君臨していくわけです。それが、宗教の始まりです。祭祀者は、神ではなく人間ですから、祭祀者を神の代理人にする奇跡物語を発明するわけです。その教祖の奇跡物語が不安を抱える子ひつじ達に刷り込まれ、やがてその教義も刷り込まれて信者となり、その信者の想像力をその教義で固定し、その結果が思考停止の状態となるわけです。
ひとが生きることにおいては、無限に思考する意識をコントロールできないため、生老病死の不安から逃れることは出来ません。しかし、ひとが思考停止状態である時は、その生老病死の不安から一時的に逃れることが可能なのです。
つまり、「信じる」とは、思考回路を停止して「疑うことを放棄した」状態です。ここに、「宗教は麻薬だ。」と言われているように、想像力を無限にし、思考力の停止を強力に促す宗教の魔力があるのです。
宗教教義を発明した祭祀者は、自らの生活の糧を得るために、迷える子ひつじからの多くの貢物を得るために、「旧約聖書」のレビ記のように、複雑な儀式や神に祈る時の貢物の細則を創るのです。
より多くの貢物を得るために祭祀者は、豊穣と災害をもたらす自然神を真似て、守護と罰の思想を発明し、「信ずる者は天国へ、そうでない者は地獄へ行く。」と脅すわけです。この地獄思想から、恨みを抱いて死去した者の「怨霊」が発明されるわけです。
日本史での怨霊は、桓武天皇を祟る早良親王と藤原氏を祟る菅原道真が有名です。ともに無実の罪をきせられて怨みを抱きながら死去したのです。その怨霊の魂を鎮め、又は封印するために、祟られる者が、役座の先祖である俘囚末裔の武芸者に警護をさせ、或いは、魂鎮めの儀式を神社でおこなわせていたのです。
そこで、祭りの神輿を観察してみると、その造りが神社のミニチュアであることが分かるでしょう。しかし、不思議なことに、神輿にある窓が封印されているか、羽目戸となって、神輿の中の者が外を見えない、或いは出れないようにしていることです。神を乗せるものが神輿であるのならば、神が神輿から下界を観察できるように窓は開けられるべきです。
では、その羽目戸の本当の意味は何かと言えば、それは、祭りでの神輿とは、前政権の氏神を封印したままの移動用施設であったからです。では、祭りでの神を封印する神輿は、いつ発明されたのでしょうか。
神輿を神、或いは神物を棒により担ぐものであるとすれば、歴史上では、ユダヤ教のアークを担ぐ神輿があります。中臣神道にも、ユダヤ教と同じに、神物を棒で担ぐ風習があります。しかし、祭りでの神輿は、神聖な神を乗せて移動したとは、とても思えません。
祭りで、神輿の進行前に塩や水を撒くのは何故でしょう。塩や水を撒くことは、ユダヤ教と中臣神道では、穢れ祓いの清めの意味があるのです。そして、神輿を激しく揺らすのはなぜでしょう。今でも疑問に思うのは、学生時代に比叡山の坂本の祭りで見たものは、大きな神輿どうしがぶつかり合い、更に担ぎ手は、神輿を放り投げていたのです。これらのことを考えると、祭りでの神輿が、神の神聖な乗り物とは思えません。
平安時代初期、唐進駐軍の後ろ盾を得た亡命百済王朝は、奈良時代を支配していた藤原氏を奈良に封印し、京に唐文化の華を咲かせていたのが、907年唐が滅びることにより、桓武天皇系王家の朝廷での勢力が衰えていくわけです。そこに、奈良に封じ込められていた藤原氏の反撃が始るのです。その手先が、奈良の興福寺の僧兵です。
藤原氏が支配する興福寺の僧兵は、神輿を担ぎ、亡命百済貴族(814年完成の「新撰姓氏録」の皇・神・蕃の差別序列により、亡命百済貴族が日本皇族の始めとなる。)が暮す京の都に、強訴するわけです。
それに対して、亡命百済貴族が支配する延暦寺の僧兵も、神輿を担ぎ、藤原氏が支配する奈良に強訴をかけるのです。何故、二方の僧兵は、強訴のために、神輿を担いだのでしょうか。その背景には、京を軍事支配していた唐進駐軍の母国が壊滅したため、京の治安が乱れたことによる間隙をぬっての、仏教ビジネスの市場争奪戦であったのです。
この奈良の興福寺と京の延暦寺との戦いは、長く続き、戦国時代に織田信長に、それらの仏教軍事組織が壊滅されるまで、高利貸し(借上)は、比叡山延暦寺が最大組織を誇っていたのです。
延暦寺の法薬禅師などは、宋商人から大宰府役人への賄賂の融資をうけて、九州の多くの仏寺を借上の活動拠点にすることを画策していたのです。その結果、延暦寺は、宋商人と借上ビジネスで結託することにより、中世における最大の国際的借上集団となっていくわけです。
では、その神輿に何が乗っていたのでしょうか。それは、興福寺の神輿には、桓武天皇を祟る早良親王の怨霊が乗り、それに対して、延暦寺の神輿には、藤原氏を祟る菅原道真の怨霊が乗っていたのです。平安時代の神輿は、そこに封印されている怨霊を放すぞ、と脅すための強訴の道具のひとつだったのです。
役座の祖である神社境内で怨霊退治をしていた武芸者(もののふ)は、907年チベット系の吐蕃の侵攻により唐国が滅びたため、都の治安が乱れ、それに伴い、939年関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友の反乱である天慶の乱での、反乱軍を武力鎮圧したことにより、武人として公に認められ「武士」となるわけです。
唐進駐軍が壊滅したため都の治安が乱れたため、源氏武士の武闘力を利用する者があらわれるわけです。それは、朝廷の支配を企む藤原氏です。
唐進駐軍を頼りにできない平安朝廷は、近衛と検非違使とで構成する都市警察を直轄し、清涼殿には滝口の武士により王族の近辺警護にあたらせていたのです。
陸奥国における、1051年前九年の役と1083年後三年の役で、源氏武士の武闘力を知ると、第72代白河天皇は、院御所に北面の武士をおいて院の身辺警護にあたらせたのです。しかし、チュルク系騎馬民族末裔で、弓馬を得意とする蝦夷末裔の源氏武士と異なり、亡命百済貴族末裔の桓武平氏のサムライ上がりの「武士」は、王族の秘書の仕事が主な仕事であったので、実戦における武闘力では、藤原氏に雇われた源氏武士にはかなわないのです。
そこで、藤原氏の圧力に対抗するために院政をひいた白河上皇は、藤原氏の傭兵である源氏武士に対抗する軍事組織として、平正盛を、出雲目代を殺害した源義親を追討するために雇うわけです。ここに、白河上皇の私兵として、「平家」が興るのです。
平氏と平家との違いは、「桓武平氏」は、825年淳和天皇からの賜姓に対して、「平家」は官位などではなく、白河上皇による呼称にすぎないわけです。
その平正盛の本名は分かりません。しかし、十一世紀の正盛の出身地である伊勢は、アラブ(インド以西はペルシャと言われていた。)からの国際交易商人が多く暮す地であったのです。このことにより、平家がペルシャ平家と言われる由縁です。
平家の系図で、平清盛←忠盛←正盛までは遡れるのですが、戦国時代の尾張の織田信長の三代先が不明なのと同じに、正盛の先が不明です。そして、この伊勢湾は、古来から海洋民族の渡来地だったのです。
八世紀の東ローマ帝国と唐国との国際交易は、イスラーム帝国と吐蕃による陸路のシルクロードが支配されてしまったため、海路の南海ロードに移っていたのです。海には国境を引けないため、国際海洋交易商人は、帆船を駆使して、南の果てから北の果てまでを交易地としていたのです。そのなかでも、フェニキアの血を引くアラブの国際海洋交易商人は、東アジアの果てまで交易のために訪れていたのです。そのアラブ海洋商人による、東アジアでの海洋交易や海賊交易を基にして、シンドバットの冒険物語が創作されたのです。
平安時代、赤い衣を着た国際海洋交易商人フェニキアの末裔は、戦国時代に水銀・銀を求めて伊勢壬生に渡来したイエズス会のように、伊勢の朱砂・水銀を求めて、伊勢に渡来していたのです。
伊勢は、奈良の宇陀と伴に、縄文時代から朱砂の国際交易地であったのです。それは、伊勢→吉野→四国へと、中央構造線が貫かれていたからです。その中央構造線には、地下の鉱脈が地表に現われていたので、鉱脈を掘る技術がなかった縄文人には、鉱物を採取するには都合がよかったのです。
アラブの国際海洋商人は、東アジアとの中継点として、インドにも基地があったのです。ですから、平正盛は、伊勢から京に進出した地を、インドの祇園精舎を真似て「ギオン」(祇園)とするのです。その京のギオンの地は、賀茂川の東の湿地帯で、上流から死体が流れ着く処で、別名骸骨原と言われていたようです。このギオンには、白拍子といわれるオリエント系遊女が住む所でもあったのです。
平正盛を側近とした白河法皇は、有名な寵姫の祇園女御の夫を陥れて流罪にしたうえで、その祇園女御を中心にハーレムを作るのです。そして、白河法皇とそのハーレムの女御(後に平忠盛の后となる。)から生まれたのが、平清盛であったのです。
白河法皇の威光をバックにする平家は、1156年保元の乱、1159年平治の乱により、源氏一族を駆逐し、1167年平清盛は太政大臣となり、天下人として権勢を誇るのです。その平家は、アラブ系であったので、神道と仏教が発明した怨霊思想を持っていなかったようで、祟り神を封じ込んでいると言われる神輿に矢を射掛けたり、1180年には平重衡などは、遍照鬼(大日如来)を祀る東大寺に火をつけて全焼させているのです。これらの平家の狼藉により、僧兵の強訴の道具である怨霊を封じた神輿の威力が消失していくわけです。
武力で源氏軍団を壊滅させた平家の清盛は、宋国との貿易を計るのです。しかし、それは、藤原氏と百済亡命貴族が支配する延暦寺を刺激するわけです。
平清盛は、1152年ベンガラ(インドのベンガル地方産出の酸化鉄の染料)塗りの厳島神社を修復し、1170年には第77代後白河天皇にたいして、福原の宋国交易用別荘で宋国の商人を引見させるのです。この出来事は、中国・朝鮮を蔑視する百済亡命貴族の朝廷には許しがたい行為だったのです。
そのような、平清盛による、宋国との国際交易により、宋銭が多量に日本列島に持ち込まれるわけです。この宋銭の持込は、藤原氏と平安百済王朝にとっては、大打撃であったのです。それは、平安王朝が、奈良時代まで続いていた銭の流通を廃止して、土地を支配することで貴族や庶民を支配していた体制が崩れるからです。(飛鳥ヤマトでは、和同開珎より前に、富本銭を鋳造していた。)
この宋銭の流通は、藤原氏と平安百済王朝によりイジメられていた騎馬民族末裔には有利に働いたのです。それは、土地がなくても、宋銭を溜め込むことにより、資財を蓄積できるからです。土地を所有しない、漂泊する騎馬民族は、商業取引に長けていて、古代ユーラシアでは為替制度も発明していたのです。それに資本を集積する株仲間も、騎馬民族が発明していたのです。
宋国との交易の独占を図る平清盛に対して、藤原氏と平安王朝とが、1177年平家打倒で密議をおこなうのですが、その企ては平清盛に発覚され、その首謀者は島流しにされるのです。
そこで、祟り封じの神輿を利用して強訴する僧兵を蹴散らす平家軍団により、都を追われて関東にくすぶるサムライの桓武平氏末裔の北条氏が、武家源氏末裔の源頼朝を担ぎ出し、奥州を支配する、元飛鳥ヤマトを支配していたチュルク系騎馬民族末裔の軍事力を引き出すのです。そして、1185年壇ノ浦の戦いで、赤旗のペルシャ平家は白旗の源氏軍団に敗れるわけです。
南宋貿易を独占していたペルシャ平家が滅ぶと、源頼朝軍を支援していた百済系平氏末裔の北条氏は、藤原氏と源氏武士軍団を壊滅するための謀を着々と進めるのです。
1189年藤原泰衡が、チュルク系騎馬軍団棟梁の源義経を衣川にて殺害すると、北条氏のロボットである源頼朝は自ら奥州に出陣し、藤原泰衡一族を滅ぼすのです。ここに奥州藤原三代王朝が滅ぶのです。
そして、南九州の島津荘を経営する藤原氏本流(近衛家)を壊滅するために、オリエント渡来の秦氏末裔の惟宗氏に、その荘園を支配させるのです。ここに、明治維新で活躍する、「島津氏」が始るのです。
島津氏が、秦氏末裔であることは、秦氏末裔・穢多頭弾左衛門の家紋・丸に十の字があることで証明できます。その家紋の意味は、景教徒(=ミトラ教)の太陽のシンボル・マルタクロス(ミトラ教の儀式を導入したキリスト教は、このマルタクロスも十字架として導入したのです。)であるわけです。
北条氏は、百済亡命貴族末裔であるわけですから、百済平安王朝と同じ方法で、臣民・庶民を支配することを計画するのです。それが、1192年源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、銭貨の使用停止を命ずるのです。そして、次の年1193年には宋銭の通用を停止し、米を以って推挙の利を弁償させるのです。
この宋銭の通用停止は、土地を所有しない騎馬民族末裔・源氏武士の抹殺手段であるわけです。
平清盛の南宋交易により、膨大な宋銭の輸入により、土地を持たない商業取引に才能がある騎馬民族末裔は、日本の神仏を敬わない平家による神社・仏閣の破壊により、僧兵の管理が薄くなった神社境内を商業取引所として、同業者組合の「座」を構成するに至るわけです。そして、その地で、騎馬民族がユーラシア大陸でおこなっていたバザールを、定期的に開催するのです。これが後に、縁日となっていくわけです。
平家が滅び、騎馬民族末裔の蝦夷末裔の源氏武士が勢力を増すと、百済亡命平安王朝により、山奥に追いやられたチュルク系騎馬民族末裔・元飛鳥ヤマト支配者の末裔は、里に降りてきて、氏神を神社により封印された地(塚)に集まり、宋銭を通貨として全国的に商取引を始めるわけです。騎馬民族末裔による馬の機動力(馬借の発生。馬借は、戦国時代、百姓一揆の武装中心勢力となる。)により、「座」のビジネスは全国的になっていくのです。この神社境内での「座」による商業は、仏教組織には脅威であったのです。
戦国時代のイエズス会に支援された織田信長に、仏教軍団が壊滅されるまでは、仏教組織は、仏を祀るよりも仏教ビジネス(賭博・売春・高利貸し)に勤しんでいたのです。そのなかでも、借上と言われる「高利貸し」を、商業取引に長ける騎馬民族末裔により席巻されることは、中世の日本列島最大の借上集団を支配する比叡山延暦寺には耐えられなかったのです。
仏教が、権力から離れ葬式仏教(大乗仏教には、元々庶民を対象の葬儀のノウハウがなかったので、中国から渡来の禅宗の簡略な葬儀と、キリスト教のホーリーネームを戒名として導入して、今日の仏式葬儀に至る。)となるのは、江戸時代の三代徳川家光の第三百済王朝からです。本国百済を滅ぼした新羅を憎む百済亡命貴族末裔は、騎馬民族系新羅末裔の源氏武士末裔を徹底的に差別するために、織田信長軍団により落ちぶれた仏教組織は、第三百済王朝の手先とされ、戦国大名の夫役台帳を基にして、仏教徒と非仏教徒に分類した「宗門人別帳」の管理者となり、騎馬民族末裔の賎民を徹底的にイジメるわけです。騎馬民族は、人工神の仏教徒ではなく、自然神の太陽・月・星を祀っていたのです。
ちなみに、役座は、薬草の神・神農様(神農様には、二本の角があるといわれています。このことは、神農様は、牛頭天皇で、太陽の化身牡牛を屠るミトラ神でもあるわけです。このことからも、役座←武家源氏←新羅花郎軍団←ローマ帝国傭兵軍団の流れが見えます。それらの軍団は、伴に太陽神ミトラを軍神として祀っていたからです。太陽神ミトラは、中国で「弥勒」となり、日本列島では「魔多羅」と変身するわけです。)を祀っていたのです。出自を隠す鎌倉時代の源氏武士は、新羅の神・八幡様(「はちまん」、ではなく「やはた」)を祀っていたのです。
平安時代、比叡山延暦寺の僧侶により、庶民による銭の通貨を阻止するために「銭は穢れている。」とする宣伝力よりも、平家による宋銭の流通により、米による取引の煩雑さよりも、宋銭が流通することの簡便さが、庶民に受けたのです。その結果、平安末期には、宋銭は、瞬く間に日本列島を駆け巡ったのです。その宋銭は、「座」を支配する、元飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔に集まっていくわけです。そのことにより、飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔の勢力が復活していくことは、645年にチュルク系蘇我王朝の飛鳥ヤマトを乗っ取った藤原氏と、794年に百済系桓武天皇により、新羅系天武王朝を乗っ取った百済亡命貴族末裔には許せないわけです。
そこで発令されたのが、1193年の宋銭通用停止令であるわけです。そして、藤原氏と百済亡命貴族末裔は、騎馬民族末裔と庶民とを分離する謀を練るのです。それが、貴族ではなく、賎民に布教する鎌倉仏教民族差別思想であるわけです。
その民族差別思想とは、つまり、古代エジプトの唯一神である太陽神アトン(ミトラ神を導入して発明した神)を基にして創作した「ヤハヴェ」を祀る一神教のユダヤ民族(藤原氏)が、太陽神アトン(旧約聖書ではバアル)と牡牛を祀る多神教のイスラエル民族(秦氏)を貶めるために、不可触賎民サマリア人(穢多)を創作したように、勢力を再び復活させていく騎馬民族末裔を、インドの遊牧民族トラヴィダを貶めるための、バラモン僧が発明したカースト制度の不可触賎民セダラを真似て、「穢多」と民族差別するわけです。
1199年北条氏による源頼朝暗殺後(日本史では落馬死とする。)、1204年源頼家の暗殺、1219年源実朝の度重なる暗殺により鎌倉源氏三代滅亡後に、不可触賎民「穢多」が発明された裏には、仏教ビジネスに対抗する、源氏武士が支援する騎馬民族末裔による「座」の存在があったのです。
そして、源頼朝の威光を継いだ、百済末裔の尼将軍北条政子の北条鎌倉幕府(第二百済王朝)により、新羅末裔の源氏狩りの謀略で、梶原氏、比企氏、畠山氏と次々と源氏寄りの武将が抹殺され、その結果、源氏武士の後ろ盾を失った騎馬民族末裔の同業者組合の「座」を、敵対仏教軍団から守る「役座」が現れるわけです。(「役座」が、「シロウトさん」に手を出さないとは、「シロウト」とは、「白徒」で、それは白旗をシンボルとする源氏末裔の同族であるからです。)
鎌倉源氏三代の時代(1192年〜1219年)、北条氏のロボットにすぎなかった源頼朝は、1192年征夷大将軍に着任すると、源氏棟梁の立場で政をおこなうようになったのです。そのひとつが、秦氏末裔の、関東役座の元締め浅草弾左衛門の先祖の長吏に、御朱印状を与えていたのです。これは、母国百済を滅ぼした新羅を憎む百済末裔には許しがたい行状であったのです。このことが、源頼朝が、北条氏に暗殺される原因のひとつとなったのです。
江戸時代、弾左衛門が幕府に提出した御朱印状とは、

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

北条鎌倉幕府の陰謀に敗れた源氏武将は、再び山奥に逃避するわけです。しかし、同族の「座」ビジネスを守るために里に留まり、反体制の「役座」として生きる者も多くいたのです。そして、源頼朝による神社でのビジネスの既得権を得た騎馬民族末裔は、仏教ビジネスを真似て、賭博、売春、高利貸しをおこなうわけです。
1221年尼将軍北条政子は、源氏の残党を結集した京の朝廷軍を破ると(承久の乱)、六波羅探題を設置し、源氏残党狩りを行い、1235年僧徒の武装化を禁じ、仏教組織の財源を枯渇させるため、1238年仏寺での双六賭博を禁止するのです。そして、騎馬民族末裔の財源を枯渇させるため、1244年神社での賭博の禁止令を発令するのです。
双六賭博は、平安時代までは貴族の娯楽で、禁制ではなかったのです。軍事力を持った治外法権の仏寺では、賭博は、戦国時代の織田信長による仏教軍団壊滅と比叡山延暦寺の壊滅まで続いていたのです。
鎌倉時代に流行った仏寺での賭博は、中国南宋の禅僧がもたらした茶を利用して、産地当てを競う闘茶です。その鎌倉時代の博打である闘茶から、戦国時代に、キリシタンの賎民・千(賎)利休が、「わびさびの茶道」を発明するわけです。
北条鎌倉幕府に破れた源氏武将の後ろ盾を失った騎馬民族末裔は、役座の保護により神社境内でビジネスをおこなうわけですが、北条鎌倉幕府の騎馬民族差別政策により、定住の地を追われ、頼朝公の御朱印状にあるように、漂泊の芸能民として生き延びていくわけです。
鎌倉時代、秦氏末裔の芸能民の職種に、舞舞、猿楽、陰陽師、鉢たたき、方下、鐘打、獅子舞など、神社での祭りを彩るものが多くあるのは、平安時代、前政権(蘇我王朝と天武王朝)の氏神の祟りを封じるためと、早良親王の怨霊を鎮めるために、それらの怨霊に怯える桓武天皇が、前政権の武人の陸奥国の蝦夷の捕虜を、武芸者として神社境内で怨霊の魂鎮めの儀式をおこなわせた流れに、鎌倉時代の芸能の祖があるからです。
漂泊芸能民による猿楽とは、簒奪王権により貶められた蔑称で、その祖は、景教の祭祀者の秦河勝で、猿楽←さる楽←申・シン楽←秦楽であったのです。オリエント渡来の秦氏の祭祀舞踏が、猿楽の本来の姿であるわけです。その猿楽の流れから、源氏支配の室町時代に、秦氏末裔の賎民の世阿弥により「能楽」に発展するわけです。
秦河勝は、教科書歴史によれば、聖徳太子の命で仏像安置のために、広隆寺を創建したそうです。仏教伝来物語では、その聖徳太子から与えられた仏像の名は、弥勒菩薩です。しかし、その弥勒菩薩とは、実際は、ミトラ神(ミトラ神は、仏教に取り入れられ弥勒菩薩と変身した。)のことなのです。
そこで、平安時代に創作された、聖徳太子主演による百済仏教伝来物語のトリックが明かされるのです。それは、広隆寺の元は、蜂丘寺と言い、それは太陽神ミトラを祀る景教寺(ペルシャ寺)であったのです。百済平安王朝は、ペルシャ寺の景教寺を仏教寺の広隆寺と変身させ、ミトラ神を魔多羅神と変身させ、前政権のオリエント渡来の秦氏の宗教を、日本列島史から抹殺するわけです。
奈良時代末期、東アジアの宿敵騎馬民族国家・突厥帝国(飛鳥ヤマト蘇我王朝の母国)を離散させた中国・唐軍の支援により、秦氏の支配地山背国を乗っ取った百済亡命貴族は、その地の簒奪を隠すためと、平安時代初期、百済系桓武天皇が、藤原氏の奈良仏教に対抗するため、中国山東半島から導入した天台宗が、飛鳥ヤマト時代から存在していたと偽造史を創作するため、自然神を祀る騎馬民族を蔑視する法華経のキャラクター、モーセ(十戒を授けられたモーセのように、憲法十七条を制定した聖徳太子)・ダビデ(敵将を倒す少年ダビデのような、物部軍の敵将を倒すため呪いで支援する少年聖徳太子)・キリスト(厩で生まれたキリストのような、聖徳太子)の合成人物である「聖徳太子」を発明して、「日本書紀」の仏教伝来物語の552年よりも前の、538年百済の聖明王による仏教伝来物語を創作し、その百済仏教伝来物語のトリックとして、太陽神ミトラを祀る秦氏支配の山背国の祭祀者である秦河勝を、聖徳太子の臣下としたわけです。
オリエント文化の蘇我王朝を倒して、645年以降に発明された神社は、死者を祀る施設ではなかったのです。それは、古墳に眠る前政権の氏神の祟りを封印するための施設であったのです。ですから、歴史のある神社は、こんもりとした小山(古墳・塚)の上に設置されているのです。その施設境内が、ペルシャ平家により神社・仏閣を破壊する平安末期、騎馬民族末裔のビジネスの地となるわけです。その理由は、その結界地には、祟りを恐れた王権は近づかなかったからです。その神社の祭りで、芸能民を仕切る「役座」は、当然芸能興行にも携わるわけです。ですから、現在の歴史のある正統役座と芸能民との繋がりの歴史は、鎌倉時代からのものなのです。
北条鎌倉時代に、現れた武装集団がいます。それらの武装集団は、自ら「悪党・アク党」と名乗っていたのです。では、その「悪党」とは何を意味していたのでしょうか。
645年前政権のオリエント文化の蘇我王朝を倒した後、藤原氏により仏教隆盛の詔が発せられ、奈良・平安時代に、王権にまつろわぬ者は、仏教思想により、仏敵の「鬼」と貶められてしまったのです。その深山に隠れ住む「鬼」とは、前政権の王族・軍属末裔であったのです。
では、北条鎌倉時代、深山を根城とする武装集団の「悪党」とは、何でしょうか。武装集団は、自ら「悪党」と名乗ったからには、「悪党」とは「悪い意味」ではないのです。その意味は、「アク」とは、古代オリエント語で、「勇者」の意味であったのです。ですから、「アク党」とは、勇者の集団の意味だったのです。それを北条鎌倉幕府は、「勇者・アク」に仏教用語の「悪」を当てはめて、オリエント渡来の騎馬民族の存在を抹殺していたのです。このことは飛鳥ヤマトでの「スクネ」も、古代オリエント語で「勇者」の意味であったのを、オリエント文化の抹殺を図る、飛鳥ヤマトの簒奪王権は、「勇者・スクネ」を「宿禰」との官位としてごまかしていたのです。
北条鎌倉幕府は、武士の源氏と異なり、文官であるサムライ上がりの武家であったので、源氏のように武力で統治するよりも、法律で臣民を統治することになるわけです。それが、1232年51ヶ条による御成敗式目となるわけです。
武力統制できない北条鎌倉幕府の弱体を見抜いた仏教勢力は、再び軍事力を増していくのです。その中心が、奈良の興福寺と京の延暦寺です。そして、「座」ビジネスで銭を溜め込んだ、深山に住む源氏の騎馬民族末裔は、再軍備をして源氏の世の再来を目指していたのです。
この源氏「悪党」の変革は、室町初期に著された「峯相記」に、

正安・乾元(1299年〜1303年)の悪党は、柿帷に六方笠を着て、柄や鞘のはげた太刀を佩き、竹長柄・サイ棒をした、「異類異形ナルアリサマ、人倫に異ナリ」とあるのが、正中・嘉歴(1324年〜1329年)には、悪党は、良い馬に乗って、五十騎百騎と打ち続き、引き馬、唐櫃・弓箭などの兵具に金銀をちりばめ、鎧・腹巻は照り輝くばかりであった、とあるのです。

源氏武士末裔が、「異類・異形」であるのは、ツングース系・南方系農耕民族と異なるからです。源氏武士の先祖には、ギリシャ・ローマ・スキタイ・チュルクなど西欧・オリエントの血が流れていたからです。それらのオリエントから渡来の民族は、日本列島への渡来時に、「秦氏」と名乗っていたのです。ですから、芸能民の祖は、秦氏ですから、江戸時代の芸能民も、目の細いのっぺりした顔のツングース系農耕民族達に、役者顔と言われる目が大きく鼻が高いため、異類・異形の異民族と言われていたのです。
北条鎌倉幕府に追われて、山奥に隠れ住んでいた源氏末裔が、「峯相記」にあるように短期間に再軍備を可能にしたのは、源氏武士は騎馬民族のため農耕を全くしないため、その財源元が「座」ビジネスによるものが多かったからです。
仏教勢力の妨害から役座の保護の下、神社境内でのバザール(高町)での商売を盛んにしたのは、1206年北東アジアを席巻した騎馬民族のテムジンが南下して、金帝国(1115年〜1234年)を滅ぼし、南宋(1127年〜1279年)を圧迫したからです。その結果、南宋の禅宗組織が、日本列島の北条鎌倉幕府に亡命して来たからです。
南宋の禅僧は、茶だけではなく、中国の書画骨董を多量に日本列島に持ち込んできたのです。そして、国際交易商人の顔を持つ禅僧は、日本から日本刀を美術品として持ち出して、中国で捌いていたのです。そのチュルク系騎馬民族の武器である蕨手刀からの改良の日本刀を製造する刀鍛冶師は、源氏武士と同根の秦氏末裔であったのです。オリエント渡来の秦氏の遠い先祖には、鍛造鉄器製造法を発明したヒッタイト人の血が流れていたのです。
そして、大乗仏教を嫌う武士は、中国渡来の禅文化に染まるのです。それは、法華経などの肉食民族を差別する思想を布教しない、と言うよりも、禅宗は、ヨーガと類似する、只座し瞑想により解脱を試みる宗教組織なので、瞬く間に禅文化は、反仏教のため漢字の苦手な武士社会に入り込むのです。その禅寺が、後に改良され武家屋敷となり、床の間には、中国の水墨画が掛けられていくのです。そのため、禅宗組織が中国から持ち込む書画骨董品は、役座が仕切る神社境内の「座」ビジネスを盛んにしたのです。
更に、役座は、仏教ビジネスの賭博・売春・高利貸しを、庶民に対しておこなうことにより、その結果として、役座と繋がる山奥の源氏武士末裔の暮らし向きは、照り輝くばかりであったのです。
ここで疑問を持つひとが現れるのです。その疑問とは、何故、仏教組織が、高利貸しは理解できても、「賭博・売春」をおこなっていたのか、と言うことです。
賭博・売春は、現在の法律では「悪」のビジネスと決め付けられていますが、古代では、賭博・売春は、宗教施設内でおこなう「神事」だったのです。
その賭博とは、宗教儀式の「占い」から派生したものなのです。将来を見極めることができないのが人間です。そこで、将来を占うことを専門としたひとが現れるのです。宗教施設内でその占い師は、ひとびとの将来だけではなく、国の将来までも占っていたのです。
しかし、未来を見通す能力がないことがバレた占い師は、「占い」から未来の出来事を当てる、「賭博・ゲーム」を考え出すのです。つまり、「宗教占い」から派生した賭博は、未来を予測する知的ゲームとなったのです。ですから、徳川家康の時代までは、未来の出来事を予知できる有能な賭博師は、ひとびとから畏怖されていたのです。(現在でも、株式バクチの名人は、株価の預言者となり、ビジネス誌で金儲けの神様扱いです。)
戦国末期から江戸初期、エドから京までの軍事道路の運営管理費を、徳川家康が一文も払わなかったのは、役座が仕切る賭博・売春・高利貸しでまかなっていたからです。(東京都の財政に苦しむ都知事が、お台場ギャンブル化構想を計画しているのは、徳川家康の財政手法そのままのようです。)
では、売春はどうでしょう。売春は、江戸時代の遊び人が、遊郭に行くことを、「宮参り」「観音様を拝みに行く」「お篭りする」と言っていたように、古代の売春は宗教施設内でおこなわれていたのです。それは、「聖婚」と言われていたのです。そして、相手をする聖婚者は、地母神、聖母マリア(古代エジプトの地母神イシスが、キリスト教に導入されて聖母マリアと変身した。キリスト聖書物語では、キリストの母。)、比丘尼、巫女などと呼ばれていたのです。
因みに、日本国で、売春が法律で禁止となったのは、1945年太平洋戦争敗戦後、1946年GHQの指導による売春禁止法からです。
古代オリエントでは、ジクラッドの聖殿、バベル塔の聖殿で、「聖婚」はおこなわれていたのです。聖殿とは、外界から隔離された所で、それは「エデンの園」であり、古代バビロニア語では、「ハレム」といわれていたのです。大乗仏教も、キリスト教と同根ですから、「エデンの園」はあったのです。その名は、「内道場」です。それらの聖殿で、生殖とは関係なく、不特定多数のひと達が、神と交わるために「聖婚」をおこなっていたのです。その聖婚の管理者とは、宗教者であることは言うまでもありません。
645年突然日本列島史に現れた藤原氏が、天皇の取り巻きとなって、現在に至っているのは、その「聖婚」儀式を管理していたからです。
672年唐軍に支援された近江・百済亡命政権を倒した新羅系大海人皇子は、日本列島初の天武天皇となり、その王権の正当性を示すため、大嘗祭をとりおこなうのです。大嘗祭とは、天皇が行う秋の収穫祭などではなく、太陽が再生する日である冬至(ミトラ神復活の日)におこなう、前政権の王権を、天神を媒介として、地神(天皇)に引き継ぐ道教の流れを汲む儀式で、その儀式は一世一代であったのです。
しかし、686年天武天皇が崩御すると、そのお后を持統天皇として、藤原不比等は、大嘗祭を変革してしまうのです。その変革とは、天皇が行う宮廷の儀式を、一代一度の大嘗祭と毎年おこなう新嘗祭に分けたことです。
そして、奈良末期になると、やがて、大嘗祭は、唐風・陰陽道(道教が変身したもの)などの儀式を取り入れて、道教色がなくなってしまうのです。更に、亡命百済政権の平安時代半ばには、その大嘗祭はおこなわれなくなり、大嘗祭が復活するのは、1868年明治天皇からなのです。
では、その大嘗祭の儀式がおこなわれなかった期間は、どのような儀式をしていたのでしょうか。それは、錬金術師空海が発明した秘印をむすび、ダキニ天(インド・ヒンズー教の鬼女が変身した神)の真言(アラム語の呪文)を唱えていたのです。
つまり、七世紀末、天武天皇が始めた宮廷儀式は「道教風」であったのが、平安時代から江戸末期まで、百済系天皇家は「神仏混交儀式」で、宮廷儀式をおこなってきたのです。ですから、百済系天皇家の菩提寺である泉涌寺では、道教儀式を貴んだ天武天皇家の位牌を全て排除しているわけです。それは、道教と仏教とは、中国大陸で死闘を演じた仲であったからです。(446年中国・北魏の太武帝による仏教弾圧は、仏教が「内道場」などにより風紀を乱した、との道教の密告が原因と言われる。この北魏の仏教弾圧により、200万人とも言われる仏教僧が北魏を追われ、その一部が、朝鮮半島を経由して、六世紀に日本列島に渡来した。)
では、毎年宮廷でおこなわれる新嘗祭では、何がおこなわれていたのでしょうか。それは、新嘗祭の儀式後、天女に似せた衣装を着た若い「藤原の女」が、天皇・貴族の前で、五節舞の踊りをおこなっていたのです。
この藤原氏による五節舞の儀式は、インドのバラモン教の儀式と似ていたのです。そのバラモン教の儀式とは、王族達の前で、裸同然の若い女達が舞いをおこなっていたのです。「踊り」とは、男捕り(おどり)と言われているように、男の情念を刺激します。その儀式が終わると、気に入った舞姫を、王族はお持ち帰るのです。その舞姫の儀式を管理することにより、バラモン僧は、インドの王族を支配していたのです。
ここで疑問が起こるのです。それは、道教の流れを汲む神農様を祀る反仏教の役座が、道教を貴ぶ天武天皇と血の繋がりのない、仏教儀式の祭祀者である百済系天皇を、何故崇拝し擁護するのか、ということです。
その謎は、1868年の「明治維新」といわれる、イギリス秘密結社が支援する革命にあったのです。イギリス秘密結社のメンバーと言われる武器貿易商人グラバーは、イギリス秘密結社と薩摩・長州との仲介者となり、幕府政策不満下級武士や賎民をあつめ、明治革命の手先とするのです。その中心国の薩摩・長州は、戦国時代、イエズス会との繋がりがあったのです。そして、薩摩と長州に武器弾薬を売り込むグラバーの手先が坂本竜馬で、後に、イギリス秘密結社による日本列島侵略の秘密を知りすぎ、幕府公安警察をつかさどる賎民出身の勝海舟の手先でもあったため、坂本竜馬は、結社員により暗殺されるのです。
因みに、明治維新という革命では、第三百済王朝の江戸幕府には、フランス秘密結社が軍事援助をしたのです。つまり、明治維新とは、見方を変えれば、戦国時代のイエズス会の日本列島侵略政策の続きで、イギリス秘密結社とフランス秘密結社との日本列島争奪戦争でもあったのです。
慶応三年(1867年)12月9日、王政復古の大号令が発せられたのです。イギリス秘密結社が提供する最新式銃や機関銃により、戊辰戦争に勝った薩摩・長州を中心にする勢力は、その革命の正当性を示すために、七世紀に藤原氏が、685年天武天皇が創建した伊勢神宮を乗っ取り、その後、発明した天照大神と、血統において繋がるとされる天皇の宗教的権威にもとめたのです。
その前例として、672年近江・亡命百済王朝を倒した新羅系天武天皇は、伊勢神宮を創建し、その革命の正当性を示すために、北極星(太一)を祀る道教儀式により、大嘗祭を発明して、前王権から王権を受け継いだとされる例が、日本列島史にあったからです。
そこで、明治新政権は、それまでの百済系天皇家の錬金術師空海が発明した仏教式・唐制風儀式を廃止することになるのです。その結果、明治新天皇がおこなう儀式は、十三となるのですが、元禄元年(1688年)に復興されて以来続けられてきた藤原氏が仕切る五節舞をおこなう新嘗祭と、藤原氏が仕切る伊勢神宮の祭祀をとりいれた神嘗祭を除いた、十一の祭祀は、古代飛鳥ヤマト時代から続くものではなく、すべて明治維新の後に、新発明された儀式であるのです。
明治維新とは、天皇だけではなく、藤原氏の政治復活でもあるわけです。ここに645年に日本列島に突然現れた藤原氏の歴史が、明治維新により復活するのです。
645年オリエント文化の飛鳥ヤマトの蘇我王朝を倒してから明治維新までの藤原氏は、794年唐進駐軍に支援された百済系桓武天皇により奈良の都に封印されて以来、平安時代の907年桓武天皇家を支援した唐滅亡後の藤原氏による摂関政治時代、戦国武将の豊臣秀吉をイエズス会から寝返らせて傀儡関白とした時代を除くと、政権の中枢から外れ、南九州島津荘で中国大陸と密貿易をしながらくすぶっていたのです。
明治維新で復活した藤原氏は、古代飛鳥ヤマト政権を乗っ取った手法を、再びおこなうのです。宿敵天武天皇が崩御した後、701年藤原不比等は、大宝律令を発して、豪族の所有地を天皇に拠出させ、そして、その土地を再び天皇から豪族に与える、というトリックを考え出すのです。これにより、全国(近畿一帯)の土地を支配する天皇を、藤原氏が「藤原の女」を使ってコントロールすることにより、各国の豪族を支配できることになるのです。
藤原氏(近衛家)が支配する薩摩・島津家が暗躍する明治新政府は、明治二年(1869年)に、各地に教論書を頒布するのです。その内容は、「天皇が天照大神の子孫である。土地と人民はみな天皇の所有となる。天皇は日本国の父母であり、人民はその赤子である。」、とあるのです。
このような、藤原氏だけに都合の良い「詔」に対しては、明治革命により突然現れた明治天皇など知らない多くの人民は黙っていたわけはありません。そこで、その詔に反発する人民を黙らすため、明治新政府は、ペルシャ平家の反逆者を黙らす手法を使うのです。その手法の手先として、役座組織が利用されたのです。
平家が、平清盛より三代先の正盛以前の出自が不詳により、そして、「牛祀り・祇園会」などのアラブ・インド色の強い文化を持っているため、百済亡命平安貴族より賎民視されていたのが、三代目平清盛が、1167年太政大臣となり、権勢をほしいままにできたのは、白河上皇のご落胤の威光だけではなかったようです。
それは、赤い直垂を着る「六波羅殿の禿・かぶら」と言われる、平清盛に忠誠を誓う童形の秘密結社メンバーの働きによるところが大きかったからです。古来、赤い衣を着るのは、フェニキアの国際海洋民族の風習であるのです。平家の出身地の伊勢には、古くからアラブから国際海洋貿易商人が渡来していたのです。672年の壬申の乱でも、新羅系大海人皇子を支援する、伊勢の軍勢は、赤旗を掲げて、百済亡命近江王朝に攻撃を仕掛けていたのです。
その「六波羅殿の禿」は、都の隅々まで探索し、平家の悪口を言っている者がいると、その者の家に集団で押し入り、家屋を破壊して、口封じをしていたのです。
では、その「六波羅殿の禿」の「六波羅」とは何を意味していたのでしょうか。六波羅の地は、賀茂川の東に位置し、そこには上流から死体が流れ着くところで、「髑髏ヶ原」と呼ばれた葬送の地であったのです。その「髑髏ヶ原」が、「どくろが原」→「ろく原」→「六波羅」と変化していくわけです。その平家の都・六波羅は、源平合戦で勝利した源氏武将を謀略で抹殺した桓武平氏・北条鎌倉幕府の、反体制の源氏残党狩りのための施設である「六波羅探題」となるわけです。そして、源頼朝を暗殺して政権を乗っ取った北条政子は、源氏の神を祀る八幡神社から、平家の神を祀る厳島神社に祀り処を代えることにより、平家の歴史も乗っ取るのです。これらのことにより、後の人は、平家を「伊勢平氏」などの「姓」を創作して、平家も平氏も同族だとしてしまうわけです。
では、平家と言わず、その後、平家を倒し隆盛した源氏も、地獄谷と言われた鎌倉盆地の葬送地を根城としたのは何故でしょうか。それは、平家も源氏も、百済系平安王朝から敵視されていたからです。
794年唐進駐軍に支援された百済亡命貴族出身の桓武天皇は、奈良王朝の儀式とは異なり、唐の儀式により天皇の詔を発したように、百済の敵国であった新羅の末裔である源氏は、中央政権から追放され、農地以外の辺境の地へ追いやられていたのです。
平安王朝を支援する唐進駐軍は、北東アジアを支配していた、そして、飛鳥ヤマト蘇我王朝を支援していた突厥帝国を、630年に散逸させると、日本列島の陸奥に残存する突厥帝国軍残党狩りをおこなうわけです。その陸奥国侵略の過程で、京から関東平野までが、平安王朝の支配下となり、それらの農耕地に適した肥沃な地には、百済系の農耕民が移住させられ、その管理に百済系桓武平氏があたっていたのです。
それらの桓武平氏末裔には、秩父氏、千葉氏、上総氏、三浦氏、そして、北条氏がいたのです。その桓武平氏の北条氏が、源平合戦で源氏の源頼朝を担ぎ、蝦夷軍の棟梁である源義経の活躍で勝利するわけです。つまり、源平合戦とは、赤旗の「平家」対白旗の「源氏+平氏」であったのです。
ですから、百済系平安王朝から敵視されていた平家も源氏も、葬送地以外の肥沃な平地には住めなかったのです。そのような穢地から成り上がった者には、上流階級から悪口を言われるのは昔も、今も同じです。そこで、前政権に反感を持つ賎民を使って、成り上がり者に対して悪口を言う者に、組織的暴力で口封じをおこなうのです。
1868年明治革命での主役である薩摩・長州藩は、譜代大名ではなく、外様大名が統治していた藩であったのです。外様大名の藩には、いつ寝返るかも知れないため、その動向を探る施設のひとつとして仏寺を多く設置していたのです。
薩摩藩の前身は、鎌倉初期に源頼朝より秦氏末裔惟宗氏が、藤原氏の島津荘を乗っ取った地であったのです。ですから、薩摩藩には、平安時代に仏教組織にイジメられていた秦氏の末裔が多く暮していたのです。
長州藩の前身は、戦国大名毛利氏の支配地です。毛利水軍は、戦国時代末期東洋一と言われる国際都市大坂を守る秦氏末裔の賎民軍団に対して、大坂の地の支配を目論むイエズス会が軍事的支援をし、最新装備をした織田信長軍団との十年にも渡る一向宗との宗教戦争では、武器弾薬・食料を供給していたのです。この大坂十年戦争は、織田信長軍が、賎民軍団との休戦条約を破ることにより勝利するわけです。「織田信長の本能寺の爆殺」後に天下を執った関白豊臣秀吉が総監修した「信長公記」では、織田信長軍の攻撃を十年も持ち堪えた秦氏末裔軍団の砦を「えったヶ城」として蔑んでいたのです。
そのように薩摩・長州藩は、百済亡命王権より賎民として落とされた秦氏末裔と深い関係のある藩であったのです。1864年蛤御門の変の後、第一次長州征討に破れた長州藩では、高杉晋作が率いる奇兵隊が、正規軍に代わり主導権を得て、鳥羽・伏見、そして、戊辰戦争で活躍するわけです。
では、長州藩の正規軍ではない、その奇兵隊とは何でしょうか。それは、幕府の政策に不満を持つ下級士族と穢多と言われる賎民との混成部隊であったのです。
穢多は、北条鎌倉時代より王権・庶民から賎民視されていましたが、江戸浅草の穢多頭弾左衛門が、穢多身分ながら大大名並の生活をしていたように、表向き土地を所有できないため、商業・技能職・芸能職で暮しを立てていたため、「銭」の蓄財知識があったのです。長州藩の賎民達も、自ら蓄財した銭で、武器商人グラバーが捌く最新式銃弾薬を買い求め、騎馬民族差別思想を粉砕するための倒幕を目的に、奇兵隊に参加していたのです。
そのような賎民軍隊に敗れた幕府の庇護の下にあった仏教組織は、危機感を募るのです。その予感は、1868年太政官布告神仏分離令により、現実のものとなるのです。
騎馬民族末裔、賎民部落出の徳川家康の威光が消え、百済の血が流れていると言われる三代将軍徳川家光より始る、騎馬民族末裔抹殺のための檀家制度・寺請制度をもとに、幕藩権力の一翼を担っていた仏教寺院は、平安時代より仏教思想により長い間苦しめられていた騎馬民族末裔の反感を、一気に受けるのです。
その賎民のエネルギーを、明治新政府は、王政復興の虚構物語キャンペーン支援に利用するのです。その王政復興のトリックとは、日本神道は仏教伝来の後に日本列島に現れたのに、そして、神社は仏寺の後に日本列島に創建されたのに、「日本列島古来の宗教は神道である。外来の仏教は破棄せよ。」、とするのです。実際は、仏教伝来の前には、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、道教と景教とが存在していたのです。
明治維新以前の神道は、平安時代に発明された「本地垂迹説」により、神は仏の配下とされ、仏教組織に呑み込まれていたのです。その思想により、平安時代に神社は仏寺に習合されて、神宮寺となっていたのです。そして、錬金術師空海の発明した日本密教により、インド・バラモン教・ヒンズー教の神々が、○○天や○○明王などの仏像となり、仏寺に仏の化身として安置されるわけです。そしてそれらの外来の仏は、仏教組織にイジメられていた役座に牽きいれられた、そして、明治革命により開放されたと信じた賎民達により、破壊されていくわけです。
1868年の神仏分離令に合わせるかのように、比叡山延暦寺が支配する日吉山王権現社が、役座に牽きいれられた新平民達により徹底的に破壊されるのです。これは正に、1571年戦国時代の織田信長による比叡山延暦寺焼討ちの再来です。そして、その廃仏毀釈運動に刺激された、江戸時代に幕府の手下である仏教組織にイジメられていた薩摩の人民は、藩内の仏寺を破壊尽くすのです。いかに、薩摩藩の秦氏末裔が、江戸時代に仏教組織にイジメられていたかの証明のように、その破壊された数は1616寺であったのです。
何故、比叡山延暦寺は、海洋民族賎民を先祖に持つ織田信長や穢多と呼ばれる賎民達により、眼の敵にされたのでしょうか。それは、飛鳥ヤマト時代には秦氏の支配地であった比叡山を、唐進駐軍に支援され百済亡命貴族達が乗っ取り、そして、秦氏の神ミトラを魔多羅と貶め、そして前支配者も、中国大陸から導入した仏教差別思想により、賎民として貶めイジメていたからです。そのイジメ思想の発信地が比叡山延暦寺であったのです。穢多の差別語が発明された鎌倉時代の仏教僧の多くは、その比叡山延暦寺で、肉食する騎馬民族を差別する仏法を学んでいたのです。
平安初期、百済亡命貴族が、中国山東半島から土着の神「シャンワン・山王」を日本列島に持ち込み、藤原氏の春日社に対抗して発明されたのが、「イルギ社」→「日枝社・イルギ社」→「日吉社・イルギ社」であるわけです。神仏分離令により、その日吉山王権現社が、役座の組織的暴力により、日吉神社となったのに対して、藤原氏が支配していた南都七寺のひとつである興福寺は、僧侶自ら金目の物は処分して、伽藍に火を放ち、僧侶全員が春日社の神主として変身してしまうわけです。ここに明治維新と藤原氏との謎が発覚するのです。
明治新政府樹立を企む国際組織は、用意周到に計画を進めたようです。それは、1866年薩長連合の盟約が成立すると、それに合わせるかのように江戸・大坂で打壊し騒動が同時に起こり、その翌年1867年名古屋から「ええじゃないか運動」が起こり、その群集は、平安時代より百済系桓武天皇から見向きもされなかった、そして、江戸時代の参勤交代ではその地を迂回していた、平安貴族より穢れ地とされた伊勢の神宮を目指して無銭の旅を始めたのです。
そして、神武天皇稜が人工山を改装して創作されるのと時を同じくして、江戸末期まで荒れ果てていた伊勢神宮が、明治新政府により改装され、それまであった仏教色のある建物・像は徹底的に破壊・処分されて、参道にはダビデの星が刻まれた灯篭が整然と設置されたのです。そして、新羅系天武天皇が、太一(北極星)を祀るため「伊勢の宮」を685年に創建し、初めて参拝してから千数百年後に、正式に明治天皇が、天照大神を祀るため「伊勢神宮」に参拝することになるのです。
「明治天皇の禿」の仏教組織に対する暴力の嵐は、三年後の1871年ごろには収まったのですが、明治天皇も見たこともない民間人への急速な「神道の祀り」を実施したために、神道の儀式など知らない民間人に大混乱を起こしてしまったのです。そこで、明治新政府は、天皇の民間人への「神道」のプロパガンダとして、「祭り」を始めるわけです。
明治四年(1871年)明治新政府は、廃藩置県の発令に合わせるように、大嘗会告論により、村々の人民に大嘗祭にあわせて、村々の産土神を参拝するように強く命じたのです。ここから、日本全国の村の「鎮守の祭り」が始るわけです。
その大嘗会告論のトリックは、天武天皇が発明した一世一代の政権交代の儀式であった大嘗祭を、天皇による秋の収穫祭として改竄し、日本列島全人民の産土神への秋祭りとし、その祭りの主催者として天皇を位置づけるわけです。つまり、天皇が主催する秋の産土神の祭りを、日本国全人民が祝う、という図式です。
そこで登場するのが、祭りを煽る神輿です。しかし、平安時代より神輿は、前政権の怨霊を移動させるための施設であったわけです。そして、それは、僧兵の強訴の手段のひとつでもあったわけです。移動用神社である神輿は、前政権の氏神を封じ込める施設であったのです。その神輿に乗る氏神の魂を鎮めるには、氏子が必要となるのです。
役座は、元は前政権の武人であったわけですから、役座が神輿を担ぐことは、氏神の魂を鎮めることになるわけです。そこで、祭りで役座が神輿を担ぐことになるのですが、神輿に乗る氏神は、現政権には怨霊神でもあるわけです。そこで、神社から神輿が通るところへ、神主が穢れ祓いの「塩」、キヨメの「水」を撒くことになるわけです。このことが、神輿に塩や水を撒く歴史的ルーツであるわけです。
明治初期、「明治天皇の禿」である役座の活躍により、新興神道に敵対する仏教組織は壊滅し、「天皇は天照大神の子孫」「天皇家は万世一系」「日本列島古来の神社」などの明治新政府が発明したスローガンに疑問を持つ者の口封じをしたことにより、やがて明治天皇は、現人神となっていくわけです。
明治天皇が、新人芸能人の売り込みのためにキヤラバン隊を組んで派手な宣伝カーで全国行脚するように、白馬にまたがり全国行脚のパフォーマンスにより全人民に認知され、そして、神社での神事が「祀り」から「祭り」に替わった頃、「明治天皇の禿」であった役座は、明治政府王権にとっては邪魔者となっていくわけです。そして、怨霊を封じ込めていた神社が、明治新政府の御用学者のプロパガンダにより、死者を祀る施設として人民の意識変換に成功すると、今まで神社での神事を仕切ってきた役座は、明治政府王権にとって邪魔者となっていくわけです。そして、邪魔者は、やがて王権により社会的に抹殺される運命にあるわけです。そして、村の鎮守の祭りで神輿を担いでいだ役座も、やがて、王権により神輿担ぎから排除されてしまうのです。
役座が「明治天皇の禿」でなかったならば、明治天皇は現人神になれなかったかもしれません。それは、突然明治革命で現れた天皇の存在は、民衆にとって遥か遠いものであったからです。それを証明するかのように、天皇という名称も、大日本帝国憲法が発令された明治二十二年(1889年)前には、主上、天子、天子様、帝、天皇陛下、陛下、聖上、ミカドなどと呼ばれて、統一してはいなかったのです。
役座が闇の世界から天皇の登場を支援していたとすれば、御用学者は「藤原氏の日本史」を創作することにより、真昼の世界で天皇のイメージ作りに励んでいたのです。
1886年(明治19年)東京に創設された帝国大学に、その翌年ユダヤ系ドイツ人の歴史学者ルードヴッヒ・リースが招聘されたのです。これにより日本列島初の史学科が開設されたのです。
リースが教えた歴史は、ヘロドトスの流れを汲む地中海・西ヨーロッパ的歴史観であったわけです。それは、今ある大国も昔は弱小国であった、そして、昔大国であったものが、やがて小国となったと言うことを物語るのが、その歴史観です。しかし、帝国大学の史学科では、リースの教えに反して、今までどおりの司馬遷が創った中国型の「正統史観」を主幹として、地中海・西ヨーロッパ的歴史観を枝葉としてしまったのです。
正統史観とは、誰が正統に王権を継承したかを物語る歴史観です。これにより、日本列島史は大混乱をおこすのです。それは、藤原不比等が720年「日本書紀」で創作した神代の神話が、そして、その「日本書紀」の物語を否定するために秦氏末裔多人長が、812年に創作した「古事記」(712年完成はウソ。その根拠は、多人長が、「古事記」が「日本書紀」より前に著作されたものとするために、奥付に和銅五年(712年)と記載したため。)の神話が、歴史の顔を持ってしまったからです。
それにより、日本列島の神代から天皇家が継承され続けてきた、と多くのひとが信じてしまうのです。しかし、天皇の名称が日本列島史に現れたのは、672年新羅系天武天皇が初めであるのです。
この帝国大学史学科の正統史観が、日本列島史を物語るなかで、藤原氏が創作した「日本書紀」が語る歴史を金科玉条とし、日本列島には古来から神道が存在していたとし、仏教組織が抹殺した北極星を祀る道教・太陽を祀る景教など日本列島に存在していなかったとし、役座の先祖であるオリエント渡来の秦氏末裔を賎民とし、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族・チュルク系蘇我氏を、飛鳥ヤマト時代に天皇など未だ存在していないのに、天皇殺しの大悪人としてしまったのです。
そして、役座の威圧を恐れた学者やマスコミは、明治初期から現在まで、天皇の歴史を解明することをタブーとしてきたのです。しかし、天皇の謎など何もないのです。天皇が祀る宗教を調べれば、天皇家が、天照大神の子孫でもなければ、万世一系でもないことなどは明らかとなるのです。
天皇に謎があるとすれば、それは藤原氏の謎です。つまり、天皇のタブーとは、645年日本列島に突然現れた藤原氏のタブーなのです。藤原氏の祖である中臣氏は、なか→ナーガ→古代インド語でヘビの意味で、藤原氏はヘビを祀る氏族だったのです。ですから、七世紀に藤原氏が、仏寺に対抗して開発した神社では、ヘビは守護神であるわけです。  

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コメント
1. 中川隆[-11074] koaQ7Jey 2019年3月29日 20:15:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[947] 報告

皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式


厳かに執り行われる皇族の初夜。神武天皇の染色体だか遺伝子だかは、こうして受け継がれていった…


皇族初夜の儀式は束帯と十二単の正式な衣装をまとって宮中三殿の賢所で行う「賢所大前の儀」や、親と子の杯を交わす「朝見の儀」ら、一連の結婚の儀をとどこおりなく終えると初夜を迎えるための準備「入浴潔斎の儀」を行う。

簡単に言えば、風呂に入って身を清めるということだが、花嫁は巫女と呼ばれる女官[正式には神社の娘(処女)だが、実際は皇族に仕える中高年の女性が大半]と一緒に入浴する。

浴室に入ると花嫁は、仁王立ちのまま一切自分の体に手を触れてはならず、巫女が服を脱がせ、体の隅々まで洗う。

隅々というからには外側から触れることのできる内部(耳・口・鼻からアソコ・肛門など)にも手指を入れて清める。

これは暗に花嫁の生殖機能を確かめる意味合いも併せ持つと言われている。

ちなみに花婿も巫女と一緒に入浴し、同様に体を清めてもらうのだが、この時の巫女は花婿にとってみそぎ相手でもあり、すでに生殖機能については確認済みということになる。

みそぎとはつまり筆おろしの意。これは皇族代々の風習で、皇族の直系男子は年頃(15歳から18歳)になるとみそぎを済ませる。正式にはみそぎの段取りを教え込まれた巫女、つまり性技に長けた処女がお相手を務めるが、実際は経験豊富な熟女の女官になる。

入浴潔斎の儀を終えると「初夜装束」と呼ばれる白い着物に着替えて(その下には一切下着をつけない)いよいよ初夜の床入り。これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、平安の時代から続く伝統的な儀式である。

まず、花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。元々は3日間繰り返すものであったが、近代は初夜のみとされる。要するに初めてのセックスで子宝に恵まれるよう霊力を与える儀式ということらしい。

さらに特筆すべきは、以上の儀式には夫と妻、それぞれの身分を保証する、一組の男女が介添人(仲人夫婦にあたる立場の人で部屋の隅で行為の一部始終を見届ける)として立ち会っていることと、儀式が終了した(性行為を終えた)ということを知らせる露見という、お披露目する点である。

露見とは、寝所の扉を開け壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで座る夫婦の姿を廊下で待っていた親族に見せ、行為終了後は再び初夜装束に着替え、寝具(厚手の布団)の掛け布団を外しシーツに処女の証である血がついているところを見せるのが正式な方法である。

さらに皇族には「一世一代の秘事口伝」なるものがある。これは代々の帝が口頭で直接申し送りするもので…その中にはセックスに関する風習も多く含まれており初夜の段取りから作法、体位、出産しない時期の避妊法などが伝えられている。

この儀式、少なくとも大正天皇までは行われていただろうと推測される。それにしても、一般人にとっては驚愕の事ばかりだ。他人に初夜の一部始終を見てもらい、終いには「血のついたシーツ」を見せなければならない。

何れにしても、穢れを基本とした内容は、朝鮮半島からの影響が大きいと思われる。


歴代天皇で妾が一番多いのは、嵯峨天皇で29人。毎日違う女性を相手しても1ヶ月かかる。以下、桓武天皇が26人、清和天皇が25人、亀山天皇が21人、後醍醐天皇が20人となっている。金正日の喜び隊なみなのだ。
http://anarchist.seesaa.net/article/11013180.html


▲△▽▼


皇族の性処理はタブー?天皇のセックス事情 2018年12月18日
https://thepartner.jp/3114


最近、小室圭さんと眞子様の婚約発表&延期や、新たな元号の発表でも話題の皇室。外からはうかがい知ることのできない世界ですが、そんな世界だからこそ気になってしまうの皇族のセックス事情。

天皇の初夜の迎え方や、やり方に関して特別なルールがあると言いますが、実際の所どうなのでしょうか。今回は、皇族のセックス・性処理事情について、歴史を踏まえて解説していきます。


天皇のセックスに関するしきたり

皇族には、代々の天皇から口頭で直接セックスに関する申し送りをするしきたりがあると言われています。これには皇室ならではのセックスに関する風習などが多く含まれており、初夜の作法、体位、出産しない時期の避妊法など多岐にわたります。

結婚をして、初夜を迎える者に対して代々申し伝えられているという仕組みです。こうした儀式・しきたりは、主に大正天皇の時代まで続けられていたと言われており、形式に変化はありつつも長い歴史の間続けられてきたと考えられています。

巫女の存在

こうしたしきたりの中でも重要な存在が、巫女です。皇室には巫女と呼ばれる女官が存在し、性において重要な役割を果たしてきました。女官は皇族の世話をおこなう女性たちのことで、性に関するものを含め多岐にわたる領域で役割を担ってきました。

皇室のセックスにおいては、巫女が重要な役割を果たしてきたと言われていますが、たとえば皇族の初夜において巫女がともに入浴するなど、数々の儀式において側には巫女がいたようです。

では、こうした儀式について見ていきましょう。

皇族の初夜の迎え方

皇族のセックスは巫女が手助けしますが、そのための準備や作法など、皇族の初夜はやらなければいけないことがたくさんあります。

初夜の床入りの際に白餅を用意しなければならなかったり、花婿と花嫁、巫女の3人で入浴をする入浴潔斎の儀など、皇族ではない私たちにとっては耳慣れないものばかり。

みそぎ

みそぎは皇室代々の風習で、皇族の直系男子である皇太子が、年頃(15歳から18歳頃)になると、性技に長けた巫女から性に関する技術を学ぶものです。

いわるゆる筆おろしの行為であり、このみそぎを担当した女官が巫女として、皇室男子の花婿とともに入浴をします。

入浴潔斎の儀

この入浴のことを、入浴潔斎(にゅうよくけっさい)の儀と呼びます。巫女とともに風呂に入り、体中を清めてもらいます。この際、花嫁も花婿も巫女とともに入浴すると言われています。

すでに述べた通り、ここで入浴する巫女はみそぎにおいて花婿に性に関する手ほどきをしており、花婿の生殖機能を確認しています。皇室にとって家系を途絶えさせないことは重要な役割のため、入浴潔斎の儀よりも前にみそぎを済まして、生殖機能に問題がないことを確認していることが大事なのです。

初夜装束を身につける

その後、花婿と花嫁は初夜を迎えますが、この時に初夜装束と呼ばれる着物を身に着けます。これは入浴潔斎の儀をすませた花嫁花婿が、初夜のために着る白い着物のことです。

この着物にはその下には一切何も下着をつけないと言われています。

初夜の床入り

いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

露見

床入りをへてセックスに至りますが、この際には介添人が、花嫁花婿のセックスの場に立ち会い、一部始終を見届けます。

またセックスが終わったあとは、寝所の扉を開けて、壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで寝ている夫婦のシーツに処女の証である血がついているところを確認する役目も果たします。

現在の皇室におけるセックス事情は?

以上、皇室に代々伝わるセックスに関する話を紹介しました。皇室のセックスにおいては、巫女含めて3人で入浴をしたり、他人にセックスを見届けられなければいけなかったりと、一般人には驚きのしきたりが数多くあります。

もちろんこれらの儀式は、歴史的な皇室においておこなわれてたきもので、現在の天皇家において、どの程度まで続けられているかは不明です。一般的に、明治・大正天皇の時代までは儀式が重んじられていたと言われていますが、一部の儀式については現在も残っている可能性もあります。

ただし、人権意識が高まった現在においては、こうした儀式が天皇や皇室にとって負担になっている事実もあり、SPがついていたり、日々の行動が制限されているとはいえ、皇室や天皇も普通の人と同じような生活をすることが目指されていることから、あくまでも歴史的なセックスの儀式・しきたりだと考えていた方が良さそうです。
https://thepartner.jp/3114

▲△▽▼


>花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。

>新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。

>いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

>花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16
あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。


空港まで車で三宅さんを迎えに行った。


高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。


あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。


天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。


いま、あのときの顔を思い出しています。


三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

2. 2019年6月30日 17:30:21 : bsgOlDN0SM : cy5JbDV2bkF1VEU=[9] 報告
藤原氏の謎解きが日本史である。五月晴郎氏は明確に解明した。画期的偉業だ。

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