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神輿の黙示録(17)(日本列島史の謎:日本史とは藤原史のことか)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:36:33: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(16)(天皇と役座の謎:何故役座は神輿に乗るのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:32:34)

「藤」は、春の四月から五月にかけて、花を房状に垂れ下げて咲かせる、マメ科の蔓性の落葉木本です。そして、その性質は、「藤原氏」の「生き方」と酷似しているようです。
「藤」は、蔓性のため、自身では子孫を繁栄させることが出来ないのです。大木に、その蔓を樹幹に巻きつけ、天を目指し、その枝葉を広げ、美しい花を咲かせるのです。しかし、藤蔓に巻きつかれた大木は、藤蔓の枝葉に太陽光を奪われ、やがて死滅していくわけです。そして、「藤」は、その大木が死滅し、倒壊する前に、新たな大木を目指して、蔓を伸ばしていくわけです。

日本史において、藤原氏の事跡を除いたら、その物語が綴れないほど、重要な氏族であるのです。しかし、その重要性に反比例するように、藤原氏の出自が不明なのです。
ある歴史書によれば、藤原氏は常陸の鹿島出であるとしているも、その根拠が藤原氏が支配する春日社で、「鹿」が聖獣として扱われているからとしいてるため、その信憑性が疑われます。鹿をトーテムとするのは、ユーラシア大陸の騎馬民族国家スキタイです。そのスキタイの流れを汲む突厥帝国に支援されたチュルク系蘇我氏は、645年(教科書歴史では「大化の改新」と教える。)突厥帝国壊滅を目指す唐進駐軍に支援された藤原氏により滅ぼされてしまったのですが、飛鳥ヤマトで、子鹿の角から、強壮剤のロクジョを生産していたのです。そして、蘇我氏は、飛鳥ヤマトで薬草採取もしていたのです。
薬物創製業は、騎馬民族と関連があるようです。源氏武士末裔の役座が祀る「神農様」も、中国大陸では薬草学の神様なのです。因みに、騎馬民族末裔の徳川家康も、薬草学に詳しく、自らのための薬草調合だけではなく、部下の病にも、薬草を煎じていたのです。
薬草学は、加持祈祷の仏教文化隆盛の平安王朝から江戸時代まで、賎民職業の範疇であったのです。賎民しとて平安王朝以来蔑まれていた秦氏末裔の傭兵軍団である忍者も、薬草学に優れていたのは、その祖が「神農様」系の流れにあったからです。
教科書歴史によれば、藤原氏の先は祭祀氏族の中臣で、645年大化の改新で活躍した中臣鎌足が、天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族であるというのです。
しかし、その中大兄皇子から天智天皇への即位には、疑問符が付いているのです。日本初の天武天皇よりも、四歳年下の「兄・天智天皇」など存在するのでしょうか。そして、異母兄弟と言われる天智天皇(百済系)と天武天皇(新羅系)は、互いの実娘をそれぞれの側室として差し出しているのです。これは一体どういうことなのでしょうか。そして、天智天皇から中臣鎌足に「藤原姓」が下賜されたとされる「きっかけ」となった、645年の「大化の改新」の史実が、志のある学者から疑われているのです。
この天智天皇から藤原姓を賜った物語は、ヤコブが神(エロヒム)からイスラエルの名前を賜った物語と似ています。
その物語では、「旧約聖書」の創世記第三十二章の、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです。」、とあるのです。そして、不思議なことに、このヤコブがイスラエルに変名する物語が、その三章後の第三十五章に再び記述されているのです。「さてヤコブがパンダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現れて彼を祝福された。神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名付けられた。」、とあるのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。それは、サイファー式暗号解読法によれば、同じ文字・文章があるものは、「否定せよ。」、です。つまり、神から、ヤコブがイスラエルの名前を賜ったことは、「ウソ」ということです。その証拠に、その後に続く「ヤコブ物語」は、主人公はイスラエルとなっていなくて、ヤコブのままなのです。
では、藤原氏が、「日本書紀」で記述されているように、天智天皇から賜ったという物語が「ウソ」だとしたら、藤原氏は、何と名乗っていたのでしょうか。
そもそも、645年に「藤原」の姓があったのかは断定できません。それは、藤原不比等が権勢を得た後、713年日本列島各国の歴史を改竄・隠蔽する目的で、風土記撰上の詔を発したと同時に、それまでの中国式一文字の姓名表示を、日本語化する目的の好字令により、二文字に改めたからです。
713年以前では、二文字よりも、中国式一文字表記のほうが、カッコ良かったのです。ですから、奈良時代となっても唐進駐軍が勢力を保っていたため、藤原氏は、公式には「籐氏」と名乗り、権威付けの書籍に「籐氏家伝」としたわけです。
では、645年の飛鳥ヤマト政権の蘇我王朝を革命で倒した「藤原氏」は、誰により、どのような姓を賜ったのでしょうか。推測できるのは、唐進駐軍より、唐→トウ→籐の姓を賜ったのかもしれません。
唐進駐軍は、630年北東アジアの宿敵、飛鳥ヤマトの支援国、突厥帝国を散逸させ、その残存勢力を滅するために、645年飛鳥ヤマトに進駐してきたのです。藤原氏の祖は、南海の海洋交易商人であるわけですから、中国唐軍を、藤原氏の外洋船で渡海させた功績により、「籐姓」を賜ったのかもしれません。
その史実を確認できないのは、645年の革命で、藤原氏により、前政権の書籍が焚書されてしまったからです。そのことを隠蔽するために、「日本書紀」で、「天皇記・国記は、蘇我氏により焼失」、とするのです。
謎の多い藤原氏ですが、現在の「藤原さん」とは、ほとんど関係はありません。藤原は「姓」であり、藤原氏が権勢を誇っていた平安時代は、本姓の藤原氏を公で名乗っていたのが、百済系桓武平氏末裔の北条鎌倉幕府になると、藤原氏の荘園で、アラブ・インド・中国大陸との国際交易地である南九州の島津荘が秦氏末裔惟宗氏に乗っ取られ没落したため、その末裔は、近衛、一条、二条、九条、冷泉、鷹司などの家名を名字としていたのです。では、現在の「藤原さん」の名字はどうかと言うと、それは、1870年(明治3年)平民の苗字使用の発令により命名した「苗字」であるわけです。ですから、貴族の家系において「藤原さん」は、存在しないのです。
では、藤原氏は、何ゆえに「中臣」から「藤原」に変名したのでしょうか。藤原氏が、祭祀氏族の中臣氏を快く思っていないことは、中臣鎌足の子とする藤原不比等が、新羅系天武天皇崩御後に権力を握ると、藤原氏を太政大臣とし、中臣氏を神祇官とし、その神祇官の中臣氏に藤原姓を名乗らせなかったからです。
奈良時代では、神祇儀式といっても、明治時代に発明された日本神道祭祀儀式などではなく、中臣のナーガから推測すれば、インド風祭祀儀式をおこなっていたのでしょう。
六世紀に、南インドのユダヤ・キリスト教のコロニーがあるマラバル沿岸から、ヘビをトーテムとする祭祀氏族と伴に、大型外洋船により南九州坊津に渡来した部族は、日本列島での、朱砂・医薬物の国際交易地の飛鳥ヤマトの三輪山麓のツバキ市の支配を目指して東進するわけです。
藤原日本史では、そのツバキ市がある四世紀のヤマトには、大和王朝が存在していたと言うのです。その根拠のひとつとして、近畿ヤマトには、巨大古墳が存在していたから、と言うのです。そして、その巨大古墳が、日本国歴代の天皇の墓であると言うのです。
しかし、四世紀以降、岩手県以南の日本列島には、巨大古墳は多く存在していたのです。岩手の古の陸奥国が、百済亡命王朝末裔に完全に征服されたのは、「鎌倉時代」であるのです。四世紀の陸奥国は、飛鳥ヤマトとは異なる騎馬遊牧民族による、独立国であったのです。つまり、四世紀から日本列島全国いっせいに築造された、前方後円墳の相似形古墳は、大和王朝の天皇の墓などではないのです。その根拠として、日本国を建国したと言われる、紀元前660年に即位したと伝わる神武天皇の墓である古墳は、江戸時代末期から明治初期にかけて創建されたものであるからです。
と言うことは、四世紀に大和王朝が存在していたと言うのは、藤原氏が創作した「日本書紀の世界」だけの出来事であったようです。
四世紀のヤマトは、三輪山を拠点とする先住民と、国際交易地のツバキ市の支配を目論む渡来の高句麗・百済・新羅進駐軍との戦いの時代であったのです。その地を支配したのは、六世紀、北東アジアを支配した、東アジアを支配する唐軍壊滅を目指す突厥帝国から派遣された騎馬民族「蘇我軍」であったのです。蘇我軍は、大陸より持ち込んだ騎馬軍団の軍事力により、高句麗・百済・新羅の進駐軍を支配下に置いたのです。
「日本書紀」では、この渡来蘇我騎馬軍団によるヤマト侵攻、そして支配を隠蔽・改竄する目的で、536年(宣化天皇元年)の条で、「又蘇我稲目宿爾を以って大臣とす」、と記述しているのです。実際の蘇我稲目は、大臣どころか、飛鳥ヤマトの征服大王であったのです。
藤原日本史で理解できないことのひとつに、何ゆえに、突厥帝国が支援する騎馬民族により構成された、そして軍事要塞化都市飛鳥ヤマトにより守られていた蘇我王朝が、645年に簡単に滅びたのか、と言うことです。飛鳥ヤマトには、幅十二mの軍事道路が張り巡らされて、その軍事道路の要所要所には、蘇我稲目が設けた「ミヤケ」の軍事施設があったのです。その防衛施設は、唐軍の侵攻を想定して、瀬戸内海の要所には、「ミヤケ」を多く設置していたのです。
馬は、今でこそ、乗馬や競馬などの娯楽で利用されるだけのようですが、古代の馬は、軍事で言えば、ジエット機や戦車に匹敵する「最強軍備品」であったのです。平安時代、唐進駐軍に支援された百済系桓武天皇軍の数万から数十万の陸奥国侵略軍は、騎馬民族末裔の蝦夷軍団の数百を壊滅できなかったのです。
古代では、軍馬一騎は、歩兵数百に匹敵するほどの「ハイテク武器」であったのです。結局、陸奥国の蝦夷軍に軍事力では勝利できなかった平安王朝は、801年金髪の坂上田村麻呂による蝦夷軍棟梁のアテルイを騙し、京で惨殺すことにより、頑強に抵抗する蝦夷軍を滅したのです。
そのような騎馬軍団の最強軍事装備で固めた蘇我王朝が、唐進駐軍と藤原氏により簡単に崩壊したには、何かの仕掛けがあったのでしょう。その仕掛けとして考えられるのが、遣隋使船と遣唐使船です。
教科書歴史では、それらの遣隋・唐使船の目的は、海外情勢や中国隋・唐の先進技術や仏教経典等の収集とされているのです。しかし、この使節団を送り迎えする船の構造に疑問があるのです。
先進国から文化・先進技術・製品等の収集が目的ならば、その航海の安全性が重要視されるのが常識です。しかし、その船は、小さな嵐でも転覆するような、外洋船には竜骨を用いた構造であるのに、それを無視した、内陸の河川を航行するために建造された平底の箱型船であったのです。更に、不思議なのは、外洋船は釘を使い、浸水防止のためにタールを塗るのが常識なのに、その船には殆んど釘が使われていなくて、木組みの構造であったのです。これでは、小嵐でも転覆してしまいます。
更に不思議なことに、この遣隋・唐使船の運行方法です。その運行方法は、予め転覆を予測しているかのように、二隻ないしは四隻編成であったのです。
船の構造と運航方法から推測すると、その遣隋・唐使船は、先進国から文化・先進技術・製品等を収集するためではなく、ある目的のために運行していたように感じられます。そのある目的とは、敵対勢力の合法的な暗殺です。
この推測が可能なのは、894年藤原王朝により、菅原道真が遣唐使に任ぜられたのが、その反対に、宇多天皇に寵愛された菅原道真により、遣唐使の事業が廃されてしまった事件があったからです。その背景は、887年始めて関白となった藤原基経の政策に反対する、菅原道真を疎ましく思った藤原氏は、菅原道真を合法的に暗殺する計画を意図したのです。それが、菅原道真への遣唐使の任であるわけです。しかし、菅原道真は、新羅商人より情報を得ていたのです。それは、菅原道真が乗る遣唐使船は転覆する構造であると言うことです。遣唐使船により無事に唐にたどり着いた者は、帰りは新羅商船で帰朝していたのです。
日本列島から中国大陸への渡海が困難であると言うのは、「ウソ」です。それは、藤原氏が関わる渡海のみ当てはまることです。
607年飛鳥ヤマトの蘇我王朝は、隋に小野妹子を遣わすのです。その翌年小野妹子は、隋使裴世清と伴に帰国し、飛鳥ヤマトの都に、難波から河川を利用して底平の河船により、来朝し、そして、隋使裴世清はそこで男王(蘇我馬子)に謁見するのです。そして、その年に再び小野妹子は、隋使裴世清を隋に送り届け、609年帰朝するのです。このことからも、日本列島から中国大陸への渡海が、死を賭すほどのことではないことが理解できるでしょう。
外洋航海の技術は、地中海・インド洋西域では紀元前1500年には海洋民族フェニキアにより開発されていたのです。東アジアでも、紀元前三世紀、秦の始皇帝を騙した徐福は、童男女2000名と軍団・技術者を百隻の大型外洋船に搭乗させ、東の蓬莱国(日本列島と言われる。)に向けて、中国山東半島から船出していたのです。更に、五世紀の北魏の時代、僧法顕は、洛陽から陸路でインドへ旅し、411年南インドから海路で中国山東半島まで二年足らずで帰朝しているのです。
第十八次の遣唐使船で、唐に渡った最澄は、八ヶ月足らずで帰朝しているほどです。それから推測するには、遣隋・唐使船には、意図して転覆する船と転覆しない船とがあったように推測されます。
第一次遣唐使船は、645年蘇我王朝壊滅の15年前、630年の犬上御田鍬の派遣により始ったのです。この年は、東アジアでは、唐により、飛鳥ヤマト蘇我王朝の支援国、宿敵東突厥帝国が散逸されていたのです。唐は藤原氏と企んで、蘇我王朝壊滅の「仕掛け」を練ったのです。それが、平安時代の藤原氏の宿敵菅原道真の遣唐使としての暗殺計画と同じに、630年の第一次遣唐使による、蘇我王朝の次世代を合法的に抹殺するための陰謀です。この第一次遣唐使船には、飛鳥ヤマト蘇我王朝の明日を担う、多くの優秀な若者達が乗船していたことでしょう。
この陰謀渦巻く遣唐使船と藤原氏との関係は、天武天皇崩御後、藤原不比等が女帝持統天皇、そして文武天皇を傀儡として権勢を誇ると、702年第八次遣唐使船は、それまでの北九州からではなく、南九州の坊津から船出しているのです。その坊津とは、藤原氏が南インドから、日本列島初の渡来地であったのです。
この南九州坊津(津とは大船が接岸できる港のこと。)は、平安時代には、藤原氏の荘園である島津荘の港として栄えたのが、秦氏末裔源氏の源頼朝の鎌倉幕府により、島津荘が秦氏末裔惟宗氏に乗っ取られると、そのアラブ・インド・中国大陸との海洋国際交易の港は、坊津から種子島に移されるのです。
その種子島は、インド洋からマラッカ海峡を抜けて、黒潮に乗ると、海流コンベアーにより自然とたどり着けるため、平安末期に政権を軍事武力で奪取したペルシャ平家である平清盛により、南海交易の中継拠点として占領されてしまうのです。
そして、戦国時代では、この種子島は、藤原氏の密貿易地として、イエズス会に同伴したポルトガルの武器商人から入手した銃弾薬の中継地となるのです。その銃弾薬は、種子島→雑賀→根来寺→本能寺へと運ばれ、戦国大名達に売りさばかれていくのです。その銃弾薬の京での貯蔵所である、約200m先にあるイエズス会の南蛮寺と地下道で繋がれた本能寺で、織田信長は、イエズス会の使者により「爆殺」されるのです。
その織田信長爆殺には、爆殺前夜に茶会を本能寺で開催した、キリシタンの千利休が関わっていたようです。そして、織田信長が爆殺された直後にたどり着いた明智光秀軍団は、織田信長暗殺の主犯として、イエズス会から藤原氏に寝返った関白豊臣秀吉の総監修による「信長公記」に、「敵は本能寺!」の名セリフを記述されてしまうのです。何故、明智光秀軍団が、夜陰にまぎれて本能寺を目指したのかと言うと、前日に織田信長から、朝廷を脅す「馬揃え・軍事パレード」をおこなうための書状を受けていたからです。
更に、藤原氏による種子島密貿易は、鎖国時代の江戸時代末期まで続き、その密貿易船には島津氏(=藤原氏)の船であることを示すために、後の日本国の国旗となる「日の丸」がはためいていたのです。そして、関八州の役座・アウトローを支配する穢多頭弾左衛門と同じマルタ・クロスを家紋とする秦氏末裔島津氏の薩摩藩を中心として、イギリス秘密結社のバックアップにより、明治革命に至るのです。
その秦氏末裔島津氏の薩摩藩は、奈良時代から江戸時代末期まで、実質は、藤原氏の支配地であったのです。明治革命に成功した藤原氏末裔は、1886年(明治19年)東京に創設された帝国大学に、その翌年ユダヤ系ドイツ人の歴史学者ルードヴッヒ・リースを招聘し、日本列島初の史学科を開設し、日本史編纂をおこなうのです。
その「藤原日本史」のハイライトは、中臣(藤原氏の祖)が、オリエント文化の蘇我王朝を乗っ取った、645年の「大化の改新」です。
しかし、「大化の改新」は史実ではなく、新羅国の政変革命(比曇の乱)を借用して創作された物語であるのです。この「大化の改新」を史実とするために、藤原氏編纂による「日本書紀」が活躍するのです。
645年の革命で、蘇我王朝を倒した中臣は、四世紀ローマ帝国でおこなわれた事を、飛鳥ヤマトで実行するのです。
392年ローマ帝国の国教となった、ユダヤ教の一派であるキリスト教(「ヨシュアはメシア」をギリシャ語にすると、「イエス・キリスト」)は、ローマ帝国で広く信仰されていた、太陽神ミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡にキリスト教教会を建設し、ミトラ教関係の書籍を焚書し、ミトラ神再生日である冬至の「12月25日」を、キリスト誕生の「クリスマスの日」とし、ミトラ神のシンボルであるマルタ・クロス(日輪)をキリスト磔の十字架とし、それらをキリスト教に取り入れ、ローマ帝国でのミトラ教の歴史的存在を抹殺してしまうのです。そのキリスト者の、完璧なミトラ教隠ぺい工作により、後のひと達は、キリスト教以前に、ミトラ教がローマ帝国に存在していた史実を知ることができないのです。このローマ帝国での隠ぺい工作と同じことが、日本列島のオリエント文化の飛鳥ヤマトで、中臣(藤原氏)によりおこなわれたのです。
645年蘇我王朝を革命で倒した、唐進駐軍に支援された、南インドマラバル沿岸から渡来した中臣軍(藤原氏の祖)は、1868年(明治元年)太政官布告神仏分離令により、明治新政府に指示された役座を中心とする新平民達により日本列島全島の仏教施設が徹底的に破壊されたように、七世紀のオリエント文化を誇る飛鳥ヤマトの寺を破壊尽くすのです。そして、その破壊されたオリエント色の強い寺跡に、446年北魏の道教に敗れ、仏教弾圧で朝鮮半島経由で、北九州秦王国(後の豊国)に渡来した大乗仏教系寺を、移築するのです。
「寺」とは、一般的に「大乗仏教系仏像」を安置するための施設と考えられているようです。しかし、古代中国大陸での「寺」は、仏像とは関係のない建物であったのです。
「寺」は、音読みで「ジ」、訓読みで「テラ」です。その古代中国での「寺・ジ」とは、雑務をこなす役所のことで、後に、外国からの渡来者を取り調べる施設となり、紀元前一世紀ローマ帝国が強大になると、前漢(紀元前202年〜紀元8年)で生産される絹織物の需要がローマ帝国で急速に起こり、金と絹の重さが同じ価値となったため、ローマ帝国やその隣国のパルチア王国の国際交易商人達が、絹を求めて東進し、やがて前漢の「寺・ジ」は、国際商人達の居留施設のようになっていくわけです。
そして、後漢(25年〜220年)の頃になると、国際交易都市ガンダーラに突然現れた新興宗教の大乗仏教徒が、無数の経典と仏像を伴って、後漢の都・洛陽に渡来するのです。そして、その「寺」に大乗仏教僧が経典・仏像を伴って居留することにより、仏像の置き場所が、「寺」となっていくわけです。
しかし、「寺」の本来の意味とは、大乗仏教の仏像を安置する施設ではなく、そこは雑事をおこなう役所であり、交易商人を取り調べる関税所でもあり、国際交易の施設でもあったわけです。そして、やがて、その「寺」に付随して宿泊施設の「院」が建設されるのです。つまり、寺院とは、仏像が安置される「寺」と、ひとが宿泊する施設の「院」が合体した施設であるのです。
では、訓読みの「テラ」とは何かと言えば、それは「死者」が安置される「処」であるのです。つまり、日本列島に存在していなかった漢字と一緒に大乗仏教が渡来する以前の日本列島では、「テラ」は、「寺・ジ」ではなかったのです。
では、オリエント文化の飛鳥ヤマトには、どのような「寺・ジ」があったのでしょうか。
720年に完成した「日本書紀」によれば、552年に仏教伝来としているのです。そして、百済系桓武王朝の平安時代に改竄された仏教伝来物語では、538年百済の聖王が仏像と経典を大和朝廷に献じた、とあるのです。そして、仏教伝来物語で不思議なのは、大和王朝の大臣である蘇我稲目が、仏教信仰に賛成したことにより、日本列島に仏教が普及するようになった、と説明しているのです。
しかし、その説明には納得がいかないのです。それは、蘇我稲目は、538年少し前に日本列島史に突然現れた渡来人物であるからです。更に納得がいかないのは、645年蘇我王朝を倒した年に、仏教興隆の詔を発しているのは何故なのでしょうか。「仏教推進者の蘇我王朝を倒した後の、仏教興隆の詔」、藤原氏の仏教伝来物語には深い謎(ウソ)が隠れているようです。
古代史の書籍を読む時に気をつけなければならないことのひとつは、国の概念です。1776年のアメリカ合衆国の建国までは、世界史には、「国民国家」など存在していなかったのです。その国民国家とは、国民が主体で運営する国家で、国民軍により国境を守り、国民国家としての固定した国境が存在するのです。
しかし、それ以前の国家とは、軍事力に優れた部族が、他の部族の支配地を武力で奪い、その被征服民を奴隷として使役していたのです。ですから、固定した国境などないため、古代国家を運営する王族は、軍事力を増すために、軍事力にすぐれた外国の異民族の傭兵軍団を組織し、経済を盛んにするために国際交易商人の活動を保護し、そして、奴隷としての被征服民が反乱を起こさないよう、従わすために、宗教力を利用したのです。
その古代国家の代表例が秦国(紀元前221年〜紀元前206年)です。秦の始皇帝による軍隊は、エジプト系、騎馬戦車のスキタイ系、長槍歩兵のローマ軍系、弓馬のチュルク系、腰弓のツングース系などの各国の傭兵軍団の寄せ集めです。そして、国際交易を盛んにするために度量衡制、貨幣制を定めた結果、秦国の経済は隆盛し、ローマ共和国、マケドニア王国、エジプト王国、パルチア王国などの国際交易商人が、秦国に交易に訪れていたのです。そして、秦の始皇帝の不老不死の神仙思想崇拝が昂じた結果、道士の徐福に騙されて、莫大な財産を宗教儀式に散財したために、優秀な部下に疎まれることにより、紀元前206年三世皇帝子嬰の時には、秦国は滅んでしまうのです。中国を始めて統一した秦国は、15年で歴史から消えてしまうのです。
古代国家をうまく運営するには、傭兵軍の調達、国際交易商人との良好な交易、そして、異民族・被征服民を屈服させる宗教力が必須なのです。
藤原日本史によれば、四世紀の飛鳥ヤマトには、強大な大和王朝が存在していたようです。そして、その大和王朝の二十九代欽明天皇の時代に、552年仏教が伝来したことになっているようです。そして、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との親子二度にわたる神仏戦争により、崇仏派が勝利し、日本列島の飛鳥ヤマトに仏教が導入された、ということです。
では、552年以降の神仏戦争で、「仏教」に敗れた「神」とは何なのでしょうか。一般的概念では、その「神」とは、神道の「神」と思われているようです。しかし、日本神道の渡来は、645年唐進駐軍と中臣軍とによる蘇我王朝壊滅後であるのです。その日本神道の始めは、中臣氏による、ユダヤ教儀式と多くの共通点がある中臣神道なのです。
中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点は、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。
そうなると、仏教渡来以前には中臣神道など存在していなかったわけですから、552年以降二度にわたる蘇我氏と物部氏との神仏戦争とは、何を物語っていたのでしょうか。
キリスト者に抹殺されたミトラ教の存在を知らしめたのは、キリスト者が徹底的に破壊したと思われた、破壊されたミトラ教の地下神殿の存在でした。歴史書には全く記述されていないミトラ教は、ローマ帝国内のキリスト教の教会の地下神殿に眠るミトラ教の痕跡を発掘されたことにより、ローマ帝国内でのミトラ教の存在が証明されたのです。
では、飛鳥ヤマトではどうでしょう。飛鳥ヤマトを中心に発掘された遺跡の数々は、中臣神道では説明できないものばかりなのです。何に使用されたか分からない巨大石物群、石を敷き詰めた噴水のある庭園、石を敷き詰めた幅十二mの直線道路、石を敷き詰めた堰、ガラス工場跡、富本銭製造工場跡、大運河跡、石造りの宗教祭祀場跡などなどです。これらの「石の文化遺跡」を飛鳥ヤマトに残した民族は、何処から渡来して、何処に消えてしまったのでしょうか。
藤原日本史では、それらの遺跡の謎を解明できないでしょう。と言うのは、「日本書紀」には、その遺跡群が造築される前の三世紀後半から、日本列島に登場した古墳群、更に四世紀の古墳から馬具が発掘されたことを知るための記述が、全くないからです。
更に、歴代の天皇の墓であると主張する畿内にある巨大古墳の築造記述も、「日本書紀」には全くないのです。ですから、藤原日本史で言うところの、日本国初の神武天皇稜などは、「日本書紀」にその記述がないため、その場所を特定することが出来ないため、自然丘を人工山で覆い、江戸時代末期から明治時代初期にかけて創造されたのです。
飛鳥ヤマトの遺跡と、藤原氏の仏教伝来物語の神仏戦争の記述を基に、その飛鳥ヤマトの「神」を特定するとすれば、巨大運河、幅広の直線道路、巨大石造物、巨大古墳を造る技術を持った民族の「神」と推測されます。そして、その民族は、鉄器を発明したヒッタイト帝国末裔が考えられます。それは、それらの造築物を造るには、鋼鉄工具を制作する技術が必要であるからです。
では、飛鳥ヤマトの「神」を祀る支配民族は、天皇家なのでしょうか。神仏戦争物語によれば、大和朝廷の大臣の崇仏派の蘇我氏が飛鳥ヤマト在住とすれば、敵対する廃仏派の物部氏の軍団は何処を拠点としていたのでしょうか。
藤原氏の仏教伝来物語では、神仏戦争で勝利した蘇我氏が「仏像」を祀ったところ、疫病が流行り、それに乗じて反撃した物部氏と中臣氏は天皇に直訴して、その仏像を「難波の堀」に捨てたと、蘇我稲目の第一次神仏戦争と蘇我馬子の第二次神仏戦争で、二度も記述しているのです。何故、疫病神の仏像投棄が二度とも「難波の堀」なのでしょうか。そもそも「難波」とは、いかなる歴史を持った処なのでしょうか。
難波は、712年の日本語化革命以前(713年藤原氏による、二文字の漢字の地名・人名表記の「好字令」と、地域の古代歴史を改竄するための物語である「風土記撰上の詔」により、アラム語、パフラヴィ語、ゾグド語などの国際交易商人言語が盛んに使われていたオリエント文化の飛鳥ヤマトや、ユーラシアのチュルク・ツングース族文化が渡来した日本列島各地の歴史を抹殺したのです。ですから、日本古代史は、713年以降に発明された二文字漢字表記の地名・人名では、解明できないのです。)は、「浪速」と言われていたのです。713年以前の浪速とは、「なにわ」ではなく、「ローラン」と読みます。その浪速(ローラン)は、朝鮮半島の高句麗の楽浪(ローラン)からの渡来港で、その高句麗は、シルクロード交易都市の楼蘭(ローラン)から、西域の国際交易商人が、絹を求めて訪れていたのです。
つまり、難波とは、中国大陸シルクロードから、日本列島への渡来港であったのです。その国際港の「難波の堀」に、二度も疫病神である仏像を投棄したとは、一体何を物語っているのでしょうか。
結論から言ってしまえば、藤原氏による仏教伝来物語は、「ウソ」なのです。そのウソは、その仏教伝来物語の主人公である「聖徳太子=厩戸皇子」が証明します。
平安時代、「聖徳太子」は、百済系桓武天皇王朝により、藤原氏の奈良仏教に対抗して、最澄により中国天台宗を比叡山に導入した時、中国天台宗の教義である「法華経」を、比叡山延暦寺の「教え」として日本列島に宣伝するために創作されたキャラクターだったのです。その性格や事跡は、何故かモーセ、ダビデ、ヨシュア(イエス)に類似しているのです。
藤原日本史では、厩戸皇子は、593年女帝推古天皇の摂政となり、603年官位十二階を制定し、604年憲法十七条を制定し、607年隋に小野妹子を遣隋使として遣わした、となっているようです。そして、それらの厩戸皇子の事跡をみれば、日本国の基盤を創ったのが、正に女帝推古天皇の時代であるようです。しかし、この藤原日本史は、「ウソ」なのです。それは、二つのことで証明できます。
ひとつは、608年飛鳥ヤマトを訪れた隋使裴世清の証言が、「隋書」に、「倭国の都で「男王」に謁見した。」、とあるからです。つまり、藤原日本史の女帝推古天皇(593年〜628年)の存在は、隋使裴世清の「隋書」での証言で否定されるのです。
ふたつめは、「古事記」が証明します。「古事記」は、一般的に、712年完成と思われているようですが、それは違います。「古事記」は、平安時代の812年秦氏末裔言語学者の多人長による、唐進駐軍の支援の下、日本列島を乗っ取った百済亡命王朝の桓武天皇系が814年「新撰姓氏録」を創作し、新羅系日本人の偉大な事跡抹殺に対しての、反撃の書であるのです。
つまり、百済亡命王朝である平安王朝は、藤原氏による「日本書紀」の仏教伝来物語の「厩戸皇子」を「聖徳太子」に摩り替え、552年を538年百済から仏教が伝来した、と改竄したのです。更に、オリエント渡来の蘇我氏の祖を百済としたり、ギリシャ・ローマ文化の新羅渡来文化を抹殺したのです。百済系桓武天皇が、藤原氏に反旗を翻した聖武天皇の遺品を納めた正倉院の数々の遺品・書物を破壊・焚書したのは、オリエント飛鳥文化、新羅文化の隠蔽・抹殺であったのです。
平安時代、秦氏末裔多人長は、その桓武王朝の「百済日本史」で、オリエント文化の飛鳥ヤマトを、仏教文化都市として偽る「百済仏教伝来ウソ物語」を、後世のひと達に知らせるために、サイファー式暗号により、「古事記」の物語を「女帝推古天皇」で終わらせているのです。つまり、「日本書紀」物語の、女帝推古天皇までの物語を、「否定せよ」、ということです。そのことにより、日本列島に仏教を広めたと信じられている「聖徳太子」は否定されるからです。
体制側書籍を管理する藤原氏と百済系桓武王朝を騙すための、多人長のトリックとして、「古事記」の序に、天武天皇を登場させ、その序で、暗に「日本書紀」(藤原日本史・百済日本史)には「ウソ」が多いから気を付けよ、と述べさせているのです。そして、「古事記」が、「日本書紀」を意識して創作した、と言う根拠のひとつとして、それぞれの書籍に現れる「尊・神」の表現があります。
「日本書紀」では、最初に現れるのは、「国常立尊」です。「国常立尊」とは、常→トコ→東胡=ツングース族が建てた国の王、と言う意味です。
それに対して、「古事記」では、天之御中主神です。「天之御中主神」とは、天の真ん中に住む王の意味で、それは北極星(太一)を示し、その太一(北極星)を、日本列島で最初に祀った王は、新羅系天武天皇であるわけです。つまり、多人長は、日本国を建国したのは、新羅系天武天皇である、とコード式暗号で述べているわけです。
そして、「日本書紀」には、「高天原」がないのに対して、「古事記」では、「高天原」に最初の神々が現れてくるのです。「古事記」は、正に「日本書記」を否定するために創作された書物です。それは、多人長が、親新羅の立場で物語っているわけは、平安時代に百済亡命貴族に虐げられた新羅(秦羅=秦氏)系末裔であるからです。
「古事記」が、「日本書紀」よりも「新しい」ことは、神話の物語でも、「日本書紀」が、古い思想である「陰陽二元論」で語っているのに対して、「古事記」では、新しい思想である「ムスヒ」の「一元論」で物語っていることにより明らかです。更に、「古事記」には、713年以降に創作された「各国の風土記物語」の引用例が多くあることだけでも、「古事記」の完成は、712年以前ではありえないことを証明します。
そして、「古事記」が、奈良時代ではなく、平安時代に創作された最強の証拠として、万葉仮名の「用字」にあります。「用字」とは、アラム語をペルシャ発音で読むと言うパフラヴィ語のように、漢字をヤマト言葉で読むための方法です。その万葉仮名の用字は、奈良時代の720年の「日本書紀」では不整序であったものが、平安時代に安定した用字法となったのです。その万葉仮名の用字法が完璧に現れているのが、「古事記」であるのです。その訳は、多人長が、万葉語の言語学者であったからです。以上の証拠により、「古事記」は、712年の作品ではありえないのです。
では、藤原日本史の仏教伝来物語で、疫病神の仏像が、「難波の堀」に二度も投棄された物語とは、どのような背景があるのかと言えば、それは、中臣と伴に渡来した、仏教の渡来地を誤魔化すためのトリックだったのです。では、日本列島初の仏教伝来の渡来地を推定するとすれば、それは、「難波」ではなく、南九州坊津が考えられます。
仏教が「日本書紀」で述べるように、552年飛鳥ヤマトに伝来したとすれば、その流れは、694年藤原京、710年平城京へと仏教が広がるわけです。しかし、その奈良時代の寺(ジ)では、経典講義の他に、奈良貴族相手に、仏教とは全く関係のない賭博、売春、借上がおこなわれていたのです。
何故、仏教寺での、賭博、売春、借上なのでしょうか。それは、仏教を武器として、異国の市場開拓を目論む、国際交易商人の存在があったからです。つまり、僧形の国際交易商人が、奈良の都に渡来していたのです。僧形の国際交易商人は、奈良の貴族を商売に取り込むために、特殊な接待を文化・娯楽施設でもある「寺」でおこなっていたのです。
その賭博の双六・碁・将棋の原型は、インドを発祥地とするのです。誰が、インド発祥の賭博を、奈良の寺(ジ)にもたらしたのでしょうか。(「日本書記」によれば、日本初の双六賭博を「寺」でおこなったのは、天武天皇です。)
飛鳥時代、インドからの渡来民族と言えば、中臣が考えられます。南インド・マラバル沿岸から、宗教儀式グッズの白檀や沈香を売り込みに渡来した中臣は、多くのインド僧を伴っていたことでしょう。
それらの交易品を商いすることにより日本列島に勢力を伸ばした中臣が、645年に、唐進駐軍の協力のもとに、飛鳥ヤマトの蘇我王朝を倒し藤原氏となり、672年壬申の乱で政権を獲得した日本初の新羅系天武天皇が、686年崩御したことにより、女帝持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇を傀儡として藤原氏が権勢を誇った奈良の都には、多くのインド僧(インド僧とは、仏教僧とは限りません。その実態は、バラモン・ヒンズー教僧、そして、ユダヤ・キリスト教宣教師であったかもしれません。)が居たのは、そのためでしょう。
紀元一世紀の南インドのマラバル沿岸には、バラモン教を取り込んだヒンズー教はもとより、国際交易商人と結託した新興宗教の大乗仏教、更に、ユダヤ・キリスト教のコロニーも存在していたのです。
では、645年以前の飛鳥ヤマトには、南インドのマラバル沿岸から渡来のインド僧により、仏教が隆盛していたのでしょうか。その飛鳥ヤマトが、インド仏教文化でなかったことは、法隆寺が証明します。
「日本書紀」によれば、607年聖徳太子が建立したと言われる「法隆寺」は、670年跡形もなく炎上したことになっているのです。ですから、現在の法隆寺は、その後再建されたものです。
その現法隆寺の境内に隣接する地下から、元法隆寺の一部が発掘されたのです。その発掘された夢殿の遺跡(一般的に「若草伽藍跡」と言われている。)と思われる建築基準が、現法隆寺と異なるのです。現法隆寺が、南北線を基準に建立されているのに対して、遺跡は南北線よりも西に約二十度傾いているのです。この建築基準の違いは何を意味するのでしょうか。それは、645年以前と以後とでは、祀る神が異なると言うことです。
では、仏教伝来前の飛鳥ヤマトには、どのような「神」が祀られていたのでしょうか。神道の「神」ではないことは、確かです。それは、神道は、仏教渡来後、日本列島に現れた「神」であるからです。
仏教以外ではライバルの道教が考えられますが、道教では、太一(北極星)を祀るため、その建築物は、真北を基準に建立されます。では、南北線から西に約二十度傾けて建立する宗教は、何が考えられるのでしょうか。それは、冬至の太陽を祀る宗教です。冬至の太陽を祀る、と言えば、ミトラ教が考えられます。
ミトラ教は、死と再生を繰り返す「太陽」を神として祀るのです。ミトラ教では、「太陽が死ぬ冬至の光を浴びることにより、死んだ太陽が再生する。」、と信じていたのです。ですから、冬至の太陽が神殿に差し込むためには、その寺(ジ)は、南北線に対して西に約二十度傾けて建立されなければならなかったのです。西に二十度の建築基準は、飛鳥ヤマトの道幅十二mの直線道路(平安時代に太子道と改名された。)にも応用されていたことは、飛鳥ヤマトの支配者は、太陽信仰民族と深い関係にあったことが示唆されます。
飛鳥ヤマトの多くの仏寺を疑問の目で眺めると、更に不可思議なことに気づくのです。それは、聖徳太子建立七寺といわれる存在です。それらの寺とは、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺です。
特に不可思議なのは、「日本書紀」によれば、厩戸皇子(聖徳太子)が秦河勝に仏像安置のために建立させた「広隆寺」です。現広隆寺は、以前蜂岡寺と言われていましたが、その蜂岡寺は、現広隆寺とは連続性はないのです。蜂岡寺跡は、現広隆寺より離れた地域で発掘されているのです。そして、その蜂岡寺遺跡は、仏教寺なのではなく、太陽を祀る景教寺を示していたのです。
「日本書紀」は、厩戸皇子(聖徳太子)主演の「仏教伝来物語」により、飛鳥時代の「何」を隠蔽したかったのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトへの「仏教伝来の時期・552年」の歴史です。
五世紀の古代ローマ帝国で太陽神のミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊して、その跡にキリスト教教会を建てたように、七世紀の飛鳥ヤマトで太陽崇拝施設を徹底的に破壊して、その跡に仏教施設(聖徳太子建立七寺等)を北九州秦王国(豊国の祖)から移築した大乗仏教とは、どのような国際組織により運営されていたのでしょうか。
大乗仏教の経典に対して、日本列島で最初に疑問を持って、その持論を堂々と出版したのは、血と肉食の禁忌を広める仏教思想が民族差別の道具とされた江戸時代の富永仲基です。大阪の商家生まれで町儒者の富永仲基は、1745年「出定後語」で「大乗仏教関係の経典は、すべて後世のひとの創作であり、釈迦の説法を書きとめたものではない。」、と述べていたのです。
その八年後、1753年のヨーロッパでも、町医者のジャン・アストリックが聖書への疑問の書を出版したことにより、二十世紀には、大乗仏教とキリスト教との「経典」が研究されることにより、そのふたつの宗教の「経典」だけではなく、「キリスト」と「ブッダ」との生誕・奇跡物語の多くの共通性が指摘されるようになってきたのです。何故、大乗仏教とキリスト教とには多くの共通点があるのでしょうか。
藤原日本史と百済日本史とには、「日本書紀」により、仏教伝来の史実を隠蔽する理由があったようです。それは、「大乗仏教」は、藤原氏にとっても、百済亡命貴族にとっても、オリエント文化の飛鳥ヤマトを支配していた、肉食する騎馬民族を、賎民として貶め支配するための「強力な武器」であったからです。
奈良時代の藤原氏が支配する奈良仏教と、平安時代に百済系桓武天皇により、中国山東半島から導入された天台宗の平安仏教とには、なんらの歴史的関係もないようです。
一般的に、宗教組織は、その組織拡大のため、支社又は末社を布教先に設置します。ところが、奈良仏教の末社が、平安京にはひとつもないのです。ないどころか、藤原氏支配の奈良仏教のリーダ興福寺と、百済亡命貴族支配の平安仏教の主・比叡山延暦寺とでは、貧民に対して「仏の慈悲の心」や「極楽往生思想」を布教するのではなく、薙刀で武装した僧兵により戦闘を繰り返していたのです。
そして、比叡山延暦寺では、極楽思想よりも、「借りた物(金)を返さない者は地獄に落ちる。」、と言う内容の「日本霊異記」などを制作し、源信が著した「往生要集」で地獄思想を布教していたのです。それは、比叡山延暦寺は、京における借上(高利貸し)の営業権を、奈良の興福寺と争っていたからです。
しかし、百済日本史によれば、538年百済から聖王により仏教が伝来し、その仏教を聖徳太子が、秦河勝に命じて仏像安置の広隆寺を建てさせたことにより、仏教が飛鳥ヤマトに広まった、と言うことです。では、何故に、飛鳥仏教を引き継いだ奈良仏教の末社が、平安京にひとつもないのでしょうか。それは、聖徳太子(厩戸皇子)が、飛鳥仏教など広めていなかったからです。
大乗仏教に対する疑問を羅列すると、大乗仏教には深い謎があるようです。その謎を解明すれば、大乗仏教を道具として藤原日本史に隠蔽された、古代日本列島史が出現するかもしれません。
奈良仏教と平安仏教とに断絶され、戦闘を繰り返す大乗仏教。キリスト教経典と類似した大乗仏教経典。「旧約聖書」創世記の出だしソックリな「日本書紀」の創世記物語。モーセ、ダビデ、ヨシュア(イエス)の事跡を持つ聖徳太子。ユダヤ儀式と多くの共通点のある中臣神道。藤原氏が支配する仏寺の興福寺と神道の春日社。謎の多い藤原日本史を解明するには、渡来歴史が不可解な大乗仏教を解明する必要があるようです。
紀元一世紀、ローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西ローマ帝国に分裂)と後漢(紀元25年〜紀元220年)との絹貿易のためのシルクロードが通過するパルチア王国と匈奴・後漢に挟まれた小国・大月氏国の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教の特徴を述べれば、仏像、無数の経典、立派な伽藍、立派な法衣、極楽往生思想、護摩による加持祈祷、護符、先祖崇拝のお盆の儀式、血・肉食の禁忌、葬儀等が思い浮かびます。
しかし、釈尊(紀元前566年〜紀元前486年。一説では紀元前463年〜紀元前383年)の教えを伝えていると自負する大乗仏教を特徴づけるそれらの物・思想・儀式は、釈尊の仏教とは関係ないだけではなく、全く正反対の思想であるのです。
紀元前二千年カスピ海沿岸からアーリア人が南下し、紀元前800年頃インドの先住民・遊牧民族トラヴィダを支配するために、侵略者のアーリア人は、バラモン教を発明するのです。
そのバラモン教義によれば、バラモン僧が最高の地位で、臣民を差別的四姓に分けるのです。しかし、先住遊牧民のトラヴィダ族は、その四姓のアウトカーストの不可触賎民セダラとされてしまうのです。
そして、バラモン僧は、その四姓の差別的カースト制を永遠に維持するために、輪廻転生の思想を発明するのです。つまり、一度バラモン姓となった者は、永遠にバラモン姓であり、そして、アウトカーストの不可触賎民セダラは、永遠にセダラとして輪廻転生する、ということです。
それらのバラモン教の差別的思想に疑問に思った釈尊は、そのバラモン教の永遠のカルマを断ち切る方法を考え出したのです。それが、出家して「非人」となり、「乞食」により生きることです。釈尊は瞑想することにより、「非人と乞食とにより、バラモン教思想のカルマを断ち切ることができる。」、と考えたのです。
バラモン教の思想によれば、一度そのカーストとなった者は、来世もそのカーストのままです。では、人間でもなく、死人でもない「非人」であれば、死んでも来世がないわけですから、来世でカースト姓に属さないわけです。更に、カースト制により職業の差別があるのなら、出家して、現世での一切の生産活動にたずさわらずにいれば、カースト制下で暮すこともないわけです。つまり、出家して、ひとの施しだけにより、現世の一切のしがらみから解かれて暮すことが、釈尊の教えの基本であったのです。
しかし、その釈尊の教えと全く正反対の大乗仏教は、釈尊崩御の五百年後の紀元一世紀、何を目的に、誰により発明されたのでしょうか。その解明のヒントは、キリスト教にあるようです。
大乗仏教の数々の経典は、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラに突然現れたのです。それと同時に、キリスト教の経典(福音書)もオリエントに現れたのです。そして、それらの二つの宗教の開祖ブッダ(紀元前五世紀の釈尊ではない。ブツダとは覚醒した者の意味。)とイエスとは、その生誕・奇跡物語に共通事項が多くあるのです。何故でしょうか。
大乗仏教は、一般的にサンスクリット語で書かれたものが、東進し、中国で漢語に訳され、日本列島に伝来した、と思われているようです。しかし、サンスクリット語の原典は、中国で漢訳されると全て焚書されているのです。仏の教えを伝えるサンスクリット経典の原典が全て焚書されている事実には、何かの謎があるようです。
その謎は、サンスクリット経典には、知られたくないことがあったからです。伝聞によると、そのサンスクリット経典は、サンスクリット語に堪能なひとにより書かれたものではなかったようです。サンスクリット言語圏で生活していなかった誰かが、「原典」をサンスクリット語に変換したのが、サンスクリット経典であったようです。
サンスクリット語と古代ペルシャ語とは、文法も発音も殆んど同じです。異なるのは、使用する文字だけです。ササン朝ペルシャ(226年〜642年)では、アラム語から派生したパフラヴィ語が使用されていたのです。そして、古代オリエントでは、国際交易商人達は、国際商人語であるアラム語で交易をおこなっていたのです。
そのアラム語は、紀元前一千年頃、アラビア半島から出現したアラム民族の言葉です。そして、アラム語を話す民族は、メソポタミア、シリア全域に浸透し、紀元前722年イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)では、アラム人はその活動範囲を一挙に拡大し、それに伴いアラム語もオリエントで国際共通語となっていくわけです。そして、アラム語は、系統的にはフェニキア語やヘブライ語などと同じ、北西セム語に属すのです。そのアラム語で、シリアのキリスト教宣教師は、聖書の物語を布教していたのです。
ここで、疑問が浮かぶのです。806年唐より帰朝した空海は、真言密教を発明するわけです。しかし、その真言密教の呪文は、仏教の原語であると思われるサンスクリット語ではなく、アラム語なのです。そして、その呪文の文句には「イエスのアラム語言葉」が多くあるのです。唐で仏教を学んだ空海が、何故に「アラム語」の呪文を唱えたのでしょうか。「アラム語」と言えば、キリスト教の経典(福音書)も、アラム語(=東方シリア語)からギリシャ語訳で出版されていたのです。
そこで、ひとつの仮説が現れたのです。それは、大乗仏教とキリスト教との経典は、元々はひとつで「アラム語」で著述され、それぞれの布教先で、それぞれの言葉で翻訳された、と言うことです。
つまり、アラム語原典→古代ペルシャ語経典→サンスクリット語経典→漢語経典の流れが大乗仏教です。そして、アラム語原典→ギリシャ語福音書→ヘブライ語福音書の流れがキリスト教です。この仮説により、大乗仏教の代表作品である「法華経」物語と、キリスト教の「ヨハネ福音書」物語の基本思想が全く同じことを、証明することができるのです。ひとつの例として、

「法華経」では、「四十年ほどしかたっていないお釈迦様が、こんな菩薩をお弟子だといわれるのは、まるで二十五歳の青年が、百歳の老人をわが子だというようなものではありませんか。そこで釈迦は、私は四十年前に悟りを開いて仏陀になったのではない。じつは、かぞえきれない年月の以前から、仏陀なのだ。」と言う思想表現は、「ヨハネ福音書」では、「しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ。そこでユダヤ人たちはイエスに言った、あなたは五十にもならないのに、アブラハムを見たのか。イエスは彼らに言われた。よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである。」

では、「法華経」と「ヨハネ福音書」とのアラム語による共通原典は、いつ誰により著されたのでしょうか。
ここにひとつのヒントがあるのです。それは、前漢(紀元前202年〜紀元8年)に、大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)の使者イソン(漢語で伊存)が「浮屠教・フト教」という経典を伝えた、とあるのです。つまり、サンスクリット語の大乗仏教経典が出現していなかった紀元前二世紀に、「浮屠教」は、前漢に渡来していたのです。
「浮屠」とは、ブッダの漢訳で、その「浮屠」が、四世紀後半に朝鮮半島に渡来すると、その「浮屠」に尊敬語の「ケ」が付けられ、「フトケ」となり、その「フトケ」が、六世紀(?)の日本列島に渡来すると「ホトケ」となり、今日に至るわけです。
仏教史によれば、大乗仏教の興りは、大月氏国をトカラ人が征服したクシャナ朝で、紀元一世紀と言われているのです。大乗仏教が発明される二三百年前に、大月氏国から前漢に渡来した「浮屠教」とは、「何教」だったのでしょうか。
そもそも、大乗仏教が発明された地の「大月氏国」とは、何なのでしょうか。
大月氏国は騎馬民族国で、元は「月氏」と言われていて、紀元前250年中央アジアに現れたギリシャ系王国バクトリアを、紀元前140年に倒し大月氏国となったのです。しかし、その民族の渡来元が不明なのです。民族として推測されるのは、チュルク、イラン、モンゴルなどですが、中央アジアで異質なギリシャ文化を保持していたのです。その大月氏国の後裔国の弓月国は、日本列島に渡来した秦氏の渡来元であるのです。
秦氏が祀るのは、太陽神で、それは中国大陸では「景教」と言われていたのです。「浮屠教」と「景教」とには、何かの共通点があるのでしょうか。
一般的に「景教」は、431年エフェソスの公会議で異端として追放されたネストリウス派のキリスト教であると言われていますが、それは違います。キリスト教は、景教(ミトラ教)の思想・儀式を模倣した宗教であることが分かれば、説明の必要もないでしょう。
このアジアで異質ギリシャ文化の保持国は、東アジアにもあったのです。それが、356年朝鮮半島で奈勿王により建国された騎馬民族国新羅(秦羅=シン国=ローマ国)なのです。新羅文化は、漢語を知らないギリシャ・ローマ文化であったのです。(前秦や東晉に朝貢する時、高句麗や百済と異なり、新羅は漢語の通訳を必要としていたのです。)そして、東アジアでは異質な、ローマン・グラスで飲み物を、冑や鎧で武装した馬に乗る武将は金のネックレス・ブレスレット・指輪を着け、そして、ギリシャ系三本樹の金冠を被る女王国でもあったのです。しかし、528年新羅は、ギリシャ・ローマ文化から仏教文化へと大変換しているのです。その528年日本列島の北九州では、筑紫国造盤井の反乱がおこっているのです。その数年後、飛鳥ヤマトにチュルク系騎馬民族の蘇我稲目が突然現れるのです。そして、飛鳥ヤマトにはガラス器製造工場があったのです。
そのような、中央アジアで異質なギリシャ・ローマ文化を保持していた大月氏国を支配していた民族は、どのような民族であったのでしょうか。その民族を知ることで、その民族が伝えた宗教を知ることで、大乗仏教とキリスト教との経典の原著を知ることができるかもしれません。
大乗仏教とキリスト教の経典が同じであるのならば、その儀式やシンボルの共通点を辿れば、そのふたつの宗教の源泉にたどり着くことが出来るかもしれません。そこで、それらを羅列すれば、大乗仏教では、「法華経」の出だしで、釈迦の眉間から光が発せられたり、そして、弥勒菩薩が存在することにより、「太陽」と関係があると推測されます。
キリスト教では、十字架はマルタ・クロスで、太陽の光を表わしているし、キリストの誕生日と言われている「クリスマスの日」は、太陽の死である「冬至」におこなわれていた、太陽神を祀るミトラ教の儀式を導入したものです。と言うことは、ふたつの宗教に共通することは、「太陽とミトラ神」であるわけです。
大乗仏教とキリスト教の共通点が、「太陽とミトラ教」であることは、その原著が国際交易都市ガンダーラで創作されたことと関係があるのです。その国際交易都市ガンダーラの歴史を辿れば、クシャナ朝(45年〜五世紀中頃)←大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)←バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)となるわけです。そのバクトリアとはギリシャ系文化国で、その構成部族には、ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427年〜紀元前347年)の一族がいたのです。そして、そのバクトリアの国教は太陽神のミトラ教だったのです。ですから、国際都市ガンダーラには、ギリシャ文化が流れていたので、初期の大乗仏教の仏像はギリシャ型であったのです。そして、大乗仏教に弥勒菩薩がいるのは、弥勒(ミロク)とはミトラ神が変身したものであるからです。
中央アジアのギリシャ文化国のバクトリアは、ギリシャのアレクサンドル大王(紀元前336年〜紀元前323年)が、東進し、アケメネス朝ペルシャ帝国を呑み込んで、アレクサンドル大王領としたのが、紀元前323年アレクサンドル大王の病死後も、中央アジアに留まったギリシャ傭兵軍により建国された国なのです。
紀元一世紀に突然現れた、ミトラ神やアラム語原典を基に発明された大乗仏教の地・クシャナ朝の国際交易都市ガンダーラを、西アジアから中央アジアまでを歴史的に辿れば、クシャナ朝(紀元45年〜5世紀中頃)←大月氏国(紀元前140年〜紀元45年)←バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)←アレクサンドル大王領(紀元前336年〜紀元前301年)←ペルシャ帝国(紀元前525年〜紀元前330年)←メディア王国(紀元前625年〜紀元前550年)←アッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前782年)となるのです。
騎馬民族の大月氏国は、製鉄部族も有していたのです。そして、その前身のバクトリアは、後に興るローマ帝国(紀元前27年〜紀元395年東西に分裂)と同じに、中国大陸では大秦国と言われていたのです。そのバクトリアからのギリシャ・ローマ・スキタイなどの西方異民族の傭兵軍団を纏めて、中国大陸を始めて統一したのが、秦の始皇帝(紀元前221年〜紀元前210年)であるわけです。
日本列島で、釈尊の教えと全く正反対の思想である、血・肉食の禁忌の大乗仏教思想布教により、インド・バラモン教が発明したチャンダラー(セダラ)を鎌倉時代に改名した、不可触賎民「穢多」の蔑称でイジメられた、製鉄・石切・運河削堀の高度技術を持つ秦氏は、自身では秦の始皇帝の末裔と言っているわけですが、その秦氏の歴史は更に西のバクトリアからオリエントへ辿ることになるのです。
紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンは、イスラエル王国を滅ぼすのです。しかし、ユダ王国は紀元前586年バビロニア王国により滅亡されるまで存続していたのです。そして、イスラエル民族は、やがてアッシリア帝国の砂漠に消えてしまうのです。
一般的常識では、ユダヤ民族とイスラエル民族とが同じ民族と考えているようですが、それは違います。祀る神が異なるからです。(現在のイスラエル国は、イスラエル民族ではなく、ユダヤ民族の国。イスラエル民族は、紀元前八世紀に歴史上消えてしまった。)
ユダヤ民族は、一神教のヤハヴェ神を祀るのです。しかし、それに対してイスラエル民族は、太陽神バアルと金の牡牛です。祀る神が異なると言うことは、同じ民族ではないということです。
そして、歴史上で異民族が異民族を侮り、勝者が敗者に蔑称を付けるることはよくあることです。日本列島でも、645年突然飛鳥ヤマトに現れた中臣(藤原氏の祖)が、オリエント文化の蘇我政権を乗っ取ると、蘇我氏(チュルク民族名は抹殺。)一族の名前を「日本書紀」で、「稲目、馬子、蝦夷、入鹿」などの蔑称(敗者名は動物・醜い昆虫名)を付けたように、ユダ王国とイスラエル王国が分裂する前のヘブライ(紀元前1230年〜紀元前932年)では、不正な手段でヘブライの王権を乗っ取ったレビ族末裔ソロモン王は、一神教のヤハヴェ神ではなく、太陽神バアルを祀るヨセフ族末裔のサウル王の子エシバアル(太陽神バアルの子の意味)をイシボセテ(恥の子)と書き換えているのです。
そして、その後、アッシリア帝国に滅ぼされたイスラエル民族には、アッシリア人と混血するひとも現れるわけです。その混血児を、ユダヤ人は、サマリヤ人として蔑視するだけではなく、鎌倉時代に藤原氏末裔が秦氏末裔を不可触賎民「穢多」と蔑称したように、不可触賎民としていたのです。(「聖書のサマリアの女」参照)
そして、このサマリア人の居住していた地域では、アラム語を使用していたのです。太陽神バアルを祀り、そして、アラム語を話すイスラエル民族は、アッシリア帝国の砂漠に消えてしまったのですが、その足跡を辿れば、その行き先を探し出すことが出来るかもしれません。
四世紀のローマ帝国で、ミトラ地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に教会を建てたキリスト教、そして、七世紀の飛鳥ヤマトでオリエント文化の寺(ジ=雑務をおこなう建物→外国人用ホテル)を徹底的に破壊してその跡に仏寺(テラ=死者を安置する処)を建立した大乗仏教、このキリスト教と大乗仏教がおこなった、前宗教施設の徹底的破壊と隠蔽とにより前文化を歴史上抹殺した行為には、アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族と関係があったのでしょうか。
イスラエル民族が祀る、太陽神バアルと金の牡牛とは、何なのでしょうか。太陽神と牡牛と言えば、飛鳥時代の秦氏も、太陽神(平安時代、百済亡命王権により、太陽神ミトラは「魔多羅」に変名された。)と牡牛(平安時代、百済亡命王権により、インドの鬼神と合体され「牛頭天皇」と変身してしまった。)を屠って(祀る)いたのです。
太古の太陽神ミトラは、元々は三神であったのです。その三神とは、日の出の太陽、天中の太陽、日没の太陽、です。このミトラ教の三神思想は、キリスト教では父と子と精霊となり、大乗仏教では仏像配置の三神像となるわけです。では、イスラエル民族が祀る太陽神バアルと金の牡牛の源は、何処から来たのでしょうか。
宗教と言うと、何か神秘的な響きがあり、俗人には解明できない領域のように思えます。更に、「聖書」とか「経典」などと言えば、俗人が疑問を持つことが出来ない雰囲気があります。そのような宗教を物語った宗教史などは、全く疑う余地がないほど「神聖」な物語であるように思えます。
しかし、神はひとが、日常生活で困難な場面を乗り越えるために発明した「もの・概念」であると認識すると、それらの宗教物語の舞台裏を少し覗けるようです。
宗教には、神がいます。その神には二系統があります。自然神と人工神です。太陽や星、月を神とする民族は、ひとが創造した人工神を祀ることが出来ません。そこで、人工神を祀る司祭者は、色々な物語を創作するわけです。その人工神の物語を創作する時、古の人工神物語を真似て創作する傾向があるようです。
例えば、平安初期、藤原氏の奈良仏教から離別するために、百済系桓武天皇が唐に最澄を留学させ、「ヨハネ福音書」とソックリの「法華経」を信奉する中国天台宗を導入して、比叡山延暦寺に日本天台宗を開設したわけです。
それに対抗して、藤原氏は、藤原氏の資金で錬金術師空海を一年で僧籍に入れて、804年最澄と伴に唐に留学させるのです。そして、空海は、806年帰国後に、真言密教を発明するわけです。
しかし、空海の発明した真言密教の呪文は、仏語であると思われているサンスクリット語ではなく、アラム語であったのです。そして、空海は、インド・バラモン教やヒンズー教の神々を「仏」とし、その頂点の「仏」として「大日如来」を発明するわけです。
一般的常識では、密教とは、表の教えである「顕教」に対して、裏の「秘密の教え」であると思っているようですが、それは違います。
密教の「密」とは、アラム語がササン朝ペルシャ帝国時代に変化した、中国諸国とペルシャとの国際交易で使われたソグド語の、太陽を表わす「ミル」を漢音訳したものであるのです。つまり、「密」とは、「ミル」で、「太陽」の意味なのです。と言うことは、密教とは、「太陽の教え」と言う意味なのです。ですから、「大日如来=太陽神」を発明した空海の密教呪文には、太陽神ミトラから派生したキリスト教のアラム語呪文が多くあったのです。
イスラエル民族の祖は、ヨセフ族です。そのヨセフ族は、紀元前十四世紀、鉄器を発明したヒッタイト王国(紀元前1900年〜紀元前1190年)から、エジプトのアメンホテプ四世(紀元前1377年〜紀元前1358年)の統治時代に現れたのです。そのヒッタイト王国での国際取引には、ミトラ神が契約の神として存在していたのです。
アメンホテプ四世は、エジプトの神官が勝手に神々を創作して政治の実権を掌握していることを快く思わなかったので、奈良末期に藤原氏が支配する奈良仏教の呪縛から解放されるため、百済亡命貴族の桓武天皇が、794年平安京に遷都したように、宗教改革を目的に新都アケトアテンの造営にとりかかったのです。
エジプトの建設資材は、「旧約聖書」で述べている「日干レンガ」などではなく、石材です。石材を切り出すには、鋼鉄工具が必要です。そして、巨石を遠方から運ぶには、運河を造るための削掘技術が必要です。そこで、鉄器を発明したヒッタイト王国から、鋼鉄工具を持つヨセフ族がエジプトの新都建設のために現れたわけです。
アメンホテプ四世は、エジプトの神官が勝手に創作した神々を否定するために、新しい神を創作するのです。それが、唯一神の太陽神アトン(アテン)です。この太陽神アトンも、オリジナル神ではなく、前神がいたのです。それは、太陽神ミトラです。
太陽神ミトラは、ヒッタイト王国からメソポタミアまで広く、交易を見守る神として信仰されていたのです。その太陽神ミトラは、オリエントから迎い入れられたアメンホテプ四世のお妃と伴にエジプトに渡来したのです。
エジプトの多神教の神官を排除した新都では、唯一神の太陽神アトンが祀られるわけですが、その宗教改革があまりにも急激だったので、エジプト神官だけではなく、民衆にも不満が蓄積していたのです。そのような折、紀元前1358年アメンホテプ四世が崩御し、政権を取り戻した多神教の神官に、その息子もアメン神の息子の意味のツタンカーメンと変名させられたように、アメンホテプ四世の宗教改革は短命に終わったのです。
イスラエル民族の祖であるヨセフ族は、アメンホテプ四世から、新都市の建設技術者として絶大な信頼を得て、高官の地位に就いていたので、アメンホテプ四世が崩御すると、多神教のエジプト神官から追撃されるのです。そこで、ヨセフ族はエジプトを脱出するわけです。
エジプトを脱出してアラビア半島に逃れた頃には、ヨセフ一族は大部族となっていて、エフライム族が指導権を握っていたのです。そのアラビア半島を彷徨っていたエフライム一族に、メソポタミアを流離っていた部族、レビ族が加わるわけです。そして、その連合部族は、やがてイスラエル民族を形成していくわけです。そして、エジプト軍が徹底的に破壊した、廃墟のカナンの地に、それぞれの部族が国を造るのです。それが、十二部族連合国のヘブライ国(紀元前1230年〜紀元前932年)です。
ヘブライ国でもヨセフ族の直系エフライム族は、アメンホテプ四世が発明した唯一神の太陽神アトンを信仰し、太陽の化身牡牛を金で造り、太陽神と金の牡牛を祀っていたのです。しかし、そのカナンの地は、太陽神バアルを祀るフェニキアの地でもあったのです。やがて、唯一神の太陽神アトンは、多神教の太陽神バアルと変身していくわけです。
これらのエジプト脱出物語は、「旧約聖書」の「出エジプト記」にあるのですが、その「出エジプト記」は、紀元前586年レビ族の末裔のユダ王国が、バビロニアに滅ぼされ、バビロンに幽囚された時、レビ族末裔の祭祀氏族のザドク一派が、ユダヤ民族を永遠に支配するために創作した物語であるのです。ですから、イスラエル民族がアッシリア帝国に滅ぼされた後に、レビ族末裔のザドク一派に創作されたモーセ五書と言われる書物は、イスラエル民族のものではなかったのです。その書物では、イスラエル民族が滅んだのは、異教の多神を祀ったからだ、と何度も記述されているのです。
ですから、ヨセフ族がエジプトから脱出した時には、モーセなどいなかったのです。唯一神ヤハヴェから十戒を授けられたと言われるモーセは、平安時代の百済亡命貴族が「法華経」を広めるために発明した、十七条の憲法を発明した「聖徳太子」と同じに、架空の人物であったのです。そして、モーセとは、○○の子と言う意味の一般名詞であったのです。
では、「旧約聖書」で言うところのモーセによる唯一神ヤハヴェは、何を基に発明されたのでしょうか。
ヘブライ時代は、ヨセフ族の直系エフライム族が主導権を握っていたわけですから、エルサレムの神殿では、太陽神アトン(バアル)と金の牡牛が祀られていたのです。しかし、レビ族の末裔ダビデ(紀元前1004年〜紀元前965年)が王権を、エフライム族から搾取すると、太陽神アトン(バアル)を排除しにかかるわけです。
そして、ダビデ王が崩御すると、多くの息子の一人ソロモン(紀元前965年〜紀元前932年)が不正な手段で、ダビデの王権を奪取するのです。この行為に怒ったエフライム族を中心に十部族が、「ソロモン王はヤコブ(不正な手段で王権を搾取した者の意味)だ!」と非難して、紀元前932ソロモン王が崩御すると、ヘブライ国から分離してイスラエル王国を興すのです。
ここに、ヒッタイト王国出自のヨセフ族を祖とするイスラエル民族と、メソポタミアを放浪していたレビ族を祖とするユダヤ民族とが分離するわけです。そして、ユダ王国は、太陽神バアルに代えて、唯一神を発明するわけです。しかし、その神の名は、一部の神官でしか呼べないのです。その訳は、唯一神とは、エジプトのイクナトン(アメンホテプ四世)が発明した唯一神「アトン」であったからです。
イスラエル民族の祖ヨセフ族は、鉄器を発明したヒッタイト王国出自で、古代エジプトで石切、運河削掘、都市建設の高度技術を習得していたので、それらの技術はイスラエル民族に伝承されていたのです。イスラエル民族は、ヒッタイト王国の製鉄技術、そして古代エジプトの石切・運河削掘・都市建設の高度技術者集団だったのです。
それに対して、ユダヤ民族の祖は、メソポタミアを放浪していた商業民族であったので、ソロモン王時代に、国際海洋商人のフェニキアと連合して、南インドのマラバル沿岸国から香木、孔雀の羽、猿、香辛料などを輸入して、ギリシャの都市国家に輸出して大儲けをしていたのです。
紀元前722年イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国は、その後、北方から押し押せる騎馬民族スキタイに攻撃されるのです。
騎馬民族スキタイは、黒海、カスピ海沿岸に、紀元前八〜七世紀に現れた民族です。鹿をトーテムとする異部族連合国のスキタイは、獣の毛皮を商う民族でもあったのです。常に移動するスキタイは、動産としての金製品に異常な興味があり、そのことにより、金製品を製造するギリシャ植民都市と交易を始めるわけです。スキタイの王は、手柄を立てた武臣に褒賞として金のネックレス・ブレスレット・指輪を与えていたのです。ですから、ギリシャ植民都市と交易をするスキタイには、ギリシャ文化が流れていたのです。
スキタイは、ギリシャから金製品を得るために、毛皮だけではなく、原料の金を求めて南下、東進するわけです。しかし、金を採掘するには、鋼鉄工具が必要です。そこで、アッシリア帝国を攻撃し、その臣民で、製鉄技術のある者を奪取していくわけです。
金は貴金属で、大量に採掘することは困難な金属です。そこでスキタイは、青銅表面に金をメッキする技術を、開発したのです。それが、水銀アマルガム法です。
因みに、メッキは日本語です。水銀に金を溶かすと金色が消えるから滅金(メッキン)で、銅にその溶液を塗り熱で水銀を蒸発させると金が銅に渡るから鍍金です。この鍍金をメッキと読ませたのです。
金は、アラム語から派生したモンゴル語で、アルタンと言います。スキタイは、そのアルタンの産出するアルタイ山脈を占領し、そこから産出する金を、ギリシャ植民都市国家の生産する金銀製品との交易に使うのです。しかし、金の産出は多くはないのです。そこで水銀アマルガム法により、金製品の代用品の金銅製品を作るために、水銀を求めて更に東進するわけです。
当時、水銀の素材としての朱砂の産出処は、国際交易商人には、中国中部と極東の島、日本列島の奈良宇陀が知られていたのです。
日本列島の縄文時代では、朱砂は化膿傷を治す、「霊力あるモノ=カムイ」であったのです。その当時は、水銀の殺菌力が知られていなかったので、霊力が朱砂にあると思われていたのです。ですから、死者の体や木棺などに、悪魔よけとして、朱砂が塗られていたのです。その朱砂の一大生産地の奈良宇陀から産出される朱砂を求めて、広く海外から朱砂の市が立つ三輪山に、紀元前から国際交易商人が渡来していたのです。
時代が飛んで、紀元前二世紀の中央アジアのギリシャ文化国の騎馬民族を主体とする大月氏国に製鉄部族がいたことは、大月氏国には、騎馬民族スキタイがいたことで説明がつくようです。それは、アッシリア帝国で奪取された、アラム語を話すイスラエル民族末裔が、騎馬民族スキタイと伴に東進して、大月氏国にたどり着いたからです。
水銀を求めたのは、騎馬民族スキタイだけではありません。インドをまがまがしい宗教儀式で支配していたバラモン僧も、水銀を求めていたのです。水銀には、殺菌の効力の他に、神経を麻痺させる作用もあるからです。その水銀の神経麻痺作用を、バラモン僧はバラモン教の霊力として使用するために、水銀を求めていたのです。この宗教儀式に水銀が使われていたことは、インドのバラモン教やヒンズー教の神々を日本列島に持ち込み「仏」とした錬金術師空海が、山岳修行と称して、多くの弟子達に金剛杖を持たせ水銀鉱脈を日本列島で探索させていたことでも、理解できるでしょう。
大月氏国に居留していた秦氏の祖は、太陽神を祀る民族であったので、目的もなく東進したわけではないようです。太陽神ミトラは、冬至に再生する(誕生)と信じられていたので、太陽神を祀る民族は、オリエントから冬至の方位を目指して東進したのです。
大乗仏教とキリスト教の原典を求めた旅は、大月氏国で終わるのです。大月氏国で、太陽神バアルと牡牛を祀るヨセフ末裔で、アッシリア帝国の砂漠に消えたイスラエル民族のエフライム族(=秦氏)の足跡を見つけたからです。
紀元前二世紀に、大月氏国から前秦に伝播されたという「浮屠教」とは、アメンホテプ四世時代のエシプトで発明された「太陽神アトンの教え」であったようです。そして、その教えは、後に、アッシリアの砂漠に消えたイスラエル民族によりアラム語で書かれていたようです。
大乗仏教が宣伝する「阿弥陀様の教え」では、

今から二千年前(当時)エジプトの地にアミ様と呼ばれていた尊いお方が居られ、「太陽の教え」を説かれ広められました。太陽はご自分の身を燃やし、犠牲にして私達人間に熱と光をお与え下さいます。その熱と光は人間にとって無くてはならない物であります。その熱と光は誰にでも「平等に分け隔てなく」頂くことが出来ます。その熱と光は無償で頂くことが出来るのです。太陽はご自分の身を持ってして私達人間に対し慈悲と愛を教えて下さいます。その太陽の御心を知ったなら私達も無償で慈悲と愛の実践を行わなければなりません。そして実践することで私達に幸せを頂くことが出来るのです。

一般的常識では、西方浄土とは、インドに浄土(極楽処)があるように思われていますが、それは違います。それは、西方浄土思想は、北インドのガンダーラで発明されていたからです。ですから、ガンダーラから西とは、インドなどではなく、エジプトであるわけです。
この大乗仏教オリジナルの教えと信じられている文章から、次のことが推測できます。それは、エジプトのアミ様とは、エジプトの太陽神アトンである、と言うことです。
ユダヤ人は、消えたイスラエル十部族を今でも探している、と言われています。何を目的に探しているのでしょうか。昔の同朋と再会をして、又、古のヘブライ国でも建設して、仲良く暮すことを目指しているのでしょうか。
しかし、それは別の目的があるようです。それは、「聖滅」です。「聖滅」とは、神の命令により異教民を、ユダヤ民族がイスラエル民族を不可触賎民「サマリア人」としたように、藤原氏末裔が秦氏末裔を不可触賎民「穢多」としたように、物理的に、それが出来ない時は、社会的に不可触賎民として抹殺することです。
何故、四世紀のローマ帝国で、ミトラ教地下神殿が徹底的に破壊され、その跡にキリスト教教会が建てられたのでしょうか。何故、七世紀の飛鳥ヤマトで景教(ミトラ教)の寺(ジ)が破壊され、その跡に北九州の秦王国から移築された仏寺が建てられたのでしょうか。それらの行為は、「聖滅」であったからです。
それらの「聖滅」は、ユダヤ教もキリスト教も大乗仏教も、その源の神が、太陽神ミトラであったからです。ですから、それらの宗教組織は、ミトラ教の存在を許せなかったのです。つまり、ミトラ教の「平等に分け隔てない教え」が広く布教されたら、国際交易商人と結託したそれらの宗教の基盤が崩壊するからです。
ミトラ教の流れを辿れば、太陽←三神の太陽神ミトラ←唯一神の太陽神アトン←多神の太陽神バアル←二神のゾロアスター神←唯一神ヤハヴェ←キリスト・ブッダ(釈尊ではない)、となるわけです。

藤原日本史の目的のひとつは、日本列島における秦氏の歴史を抹殺することだったのです。  

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コメント
1. YZR3[1] WVpSglI 2022年10月08日 12:22:19 : 1SBMTKMqik : a1I1V0tORGRzUUU=[1] 報告
この動画が凄く興味深いので参考にしてください。
https://www.youtube.com/watch?v=kBJztMyHQaY

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