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(回答先: 神輿の黙示録(10)(戦国時代は第二次源平合戦か:家紋はどこから来たのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:07:38)
日本国の歴史教育で疑問があるのです。それは、何ゆえに歴史を、「日本史」と「世界史」とに分けて教育しているのか、と言うことです。その日本史にしても、ヤマトに古から天皇が統治するヤマト民族が居住していた、というイメージで歴史物語を綴っているのです。
世界史の視点から日本史を眺めてみれば、歴史教科書のように、紀元前七世紀から万世一系で純粋培養された天皇に統治されたヤマト単一民族が、今日まで存続していたことは不可能であることが理解できるのです。だから、明治時代に藤原氏末裔の智慧者が、渡来異民族達(秦氏・藤原氏・新羅系渡来部族・百済系渡来部族)が闘い続けてきた本当の日本列島史を庶民に知られては困るため、そして、奴隷状態の物言わぬ庶民のままにとどめる手段として、教科書歴史を世界史と日本史とに分けたのです。
日本列島は、古よりオリエント・中国大陸からの多くの渡来民族・部族が暮らしていたのです。その歴史の結果が、現在の「イジメ」に繋がっているわけです。「イジメ」は、そう簡単には撲滅できないでしょう。しかし、その「イジメ」の本当の歴史的意味を知ることにより、「イジメ」を回避、あるいは防止できるかもしれません。
「イジメ」の歴史的意味を、辞書で調べてみても、知ることはできないでしょう。それは、権威有る辞書は、体制側に都合よく解釈されるか、知られては困ることはウヤムヤに表現する傾向があるからです。ですから、「イジメ」の歴史的意味を調べるには、野史のトンデモ歴史本とか、言い伝えから推測する以外はないのです。その「説」の文献先はなんですか、との問いに答えることができないけれども、納得できる「言い伝え」は多くあるものです。
「イジメ」の歴史的意味は、「夷を絞める」ことで、つまり、夷(イ=エビス・異民族)を絞める(抹殺する)ことです。ですから、「イジメ」とは、ある地域から異民族を排除する手段として、「異民族を殺す」ことですから、小学校生徒でも「イジメ」られた子は、自殺して(排除されて)しまうのです。本来の「イジメ」の歴史的意味は、それほど深刻なものなのです。
小学校の教室で「イジメ」が起こっても、イジメを止めるはずの教師が、イジメ側になっていることも珍しくはありません。それは、日本国に六世紀に渡来した、体制側にイジメられている賎民を救済するはずの大乗仏教も、体制側の手先となって、異民族の賎民を「イジメ」てきた歴史があるからです。
1568年織田信長は、足利義昭を伴って上洛すると、被差別部族「余部」に対して「禁制」の文書を下します。これは、余部が織田信長の支配下に入ったので、これからは余部を「イジメ」てはならないという意味です。織田信長の仏教嫌いは、この余部に対しての処置でも理解できるでしょう。
織田信長の仏教組織に対する常識外れの行動を調べると、賎民は仏教を憎んでいたことが理解できるでしょう。織田信長は、応仁の乱により荒廃してしまった京都二条御所の修築を行うのです。その修築のための石材の多くは、石仏を破壊したものを、わざわざ使用しているのです。石仏は、仏教聖地を創り出す装置です。その石仏を破壊し、更に京都二条御所の修築材とすることは、仏教に対して二重の否定をしているわけです。
何故織田信長は、そのようなことをしたかの理由を推察すれば、それは、京都が日本列島における民族差別発祥の地であったからです。その民族差別の中心が京都二条御所だったのです。
794年百済の血を引く桓武天皇は、長岡京から平安京に遷都するのです。その地は、従来秦氏の支配地であったのです。そして、804年最澄を唐に送り、中国山東半島に亡命していた百済人を平安京に呼び入れるのです。そして、その亡命百済人を政治の中心に置き「公家」とし、穢れ都の奈良(実際は大仏鋳造による鉱毒汚染地)に封じ込めた藤原氏や新羅系貴族を排除するのです。そして、南都仏教も、穢れ仏教として奈良に封じ込めるのです。
平安京は、亡命百済人の都だったのです。そして、山城の機能がある延暦寺を、秦氏の支配地であった比叡山に建立するのです。805年最澄は、中国天台宗のお墨付きを戴き、天台宗日本支社を立ち上げるのですが、八ヶ月での唐留学では、仏教儀式を全て習得することができなかったので、806年帰朝の空海に、仏教儀式のノウハウを教えてもらうのです。
しかし、空海の仏教は、民族差別のカースト思想のヒンズー教・バラモン教の儀式を多く取り入れた密教(加持祈祷・護符・お守り・アラム語の呪文)だったので、日本仏教の基礎となった最澄の仏教は、「釈尊の説いた仏教=輪廻転生を否定。だから極楽浄土は存在しない。そのため前世も後世もない非人となり乞食をする。」とは全く異なった、民族差別仏教(血の穢れ・地獄思想を布教)となってしまったのです。
京や比叡山の地に、ミトラ神(魔多羅神)を祀り百済京都王権にまつろわない秦氏は、桓武天皇により、その支配地を追われ、山の民となるのです。その百済亡命人の山城である比叡山には、天台宗の仏と中国山東半島からの渡来人により持ち込まれた中国土着神・山王(シャンワン)が、日本神・日枝(イルギ→日吉)となり、藤原氏の南都仏教(教典仏教)と春日神(ユダヤ教に酷似した儀式)に対抗するわけです。
秦氏と行動を共にする騎馬・遊牧民族系の新羅系日本人は、その渡来元の新羅は528年までは仏教国ではなくギリシャ・ローマ文化を保持していたので(百済と高句麗人は中国王権と通訳無しに交渉できたが、漢語を知らない新羅人は通訳がなければ交渉できなかった。)、漢字を知らないため仏教にはなじめず秦氏の神(ミトラ神)を祀っていたのです。ですから、新羅花郎(ミトラ)軍団の末裔、源氏武士は、秦氏の神・八幡(やはた)を祀っていたのです。
奈良時代は、チュルク系蘇我王朝の血を引く部族(藤原氏により蝦夷と命名される。蝦夷とは、無ヒゲの漢民族ではなく、チュルク族のヒゲのあるエビスの意味。チュルク=トルコ。トルコ人は今でもヒゲを生やしている。)が、新羅系天武天皇をバックアップしていたので、貴族達は肉食し騎馬で移動していたのです。しかし、645年突然日本列島に現れた藤原氏の陰謀により、770年騎馬民族・天武天皇の血を引く女帝称徳天皇を最後として、百済亡命下級貴族の光仁天皇(桓武天皇の父)が擁立されるのです。
新羅系天武王朝では、女帝を多く輩出していたが、百済系桓武王朝では女帝は二人(109代明正天皇と117代後桜町天皇)を除いて、存在していないのです。騎馬系は女尊男卑ですが、農耕系は男尊女卑です。民族思想が、天皇継承にも現れているのです。だから、現在の百済系天皇家では、女帝が認められていないのです。
ここに貴族の食文化が激変するのです。それは、肉食から菜食です。この菜食する百済亡命貴族は、ヒンズー教化仏教(真言宗・天台宗では、ヒンズー教・バラモン教の神々を日本名に改竄して祀っている。)の「血の禁忌」思想を、肉食・騎馬民族と魚食・海洋民族(織田信長の先祖)「夷絞め・イジメ(抹殺)」に利用するのです。
では、平安時代からの仏教組織による騎馬・遊牧・海洋賎民イジメに対する反撃のための、戦国時代のキリシタン大名からの仏教イジメは、近畿地方だけだったのでしょうか。
戦国時代の仏教イジメは、歴史上には、長崎と大分にもあったのです。その二地区は、日本イエズス会管区内の、マカオ交易の要塞湊の下地区の長崎と交易中継地と教育施設がある豊後地区であったのです。織田信長が支配する都地区と連動するように、イエズス会が支配する二地区でも仏教イジメがおこなわれたことは、イエズス会の布教活動と仏教イジメが連動していたことが示唆されます。
キリシタン大名は、仏寺を破壊すると、その跡に南蛮寺を建立するのです。このことは、六世紀から七世紀にかけての飛鳥時代の出来事を連想させます。それは、日本列島のヤマトに侵攻して来た藤原氏により、「景教寺」は破壊され「仏寺」に、「道教の観」は破壊され「神社」に改ざんされたのです。(この藤原氏のトリックにより、日本列島の最古の宗教が神道であると刷り込まれてしまっているのです。神道は、景教、道教、仏教、ユダヤ教を基に発明されていたのです。神社の日本列島出現は、仏寺出現の後なのです。ですから、物部氏と蘇我氏の二度の崇仏戦争は作り話が濃厚です。史実は、仏教対景教・道教の闘争でしょう。)キリスト教も、四世紀のローマ帝国で、ミトラ神殿を破壊してキリスト教会をその上に建設しているのです。侵略宗教組織による前宗教組織の歴史隠蔽は繰り返されるのです。
そして、イエズス会は、仏教のブッダを「悪魔」と罵るのです。何故ブッダは、イエズス会にとって「悪魔」なのでしょうか。
悪魔とは、元は神の仲間であったのです。それが、神を裏切ったことにより、敵側の神(悪魔)となったのです。ですから、神と悪魔とは、同じ霊力を保持しているのです。
フロイスの日本史で、戦国時代の風俗習慣は「外人の目」で鋭く描写されています。しかし、「仏教を悪魔の教え」と記述しているのに、その根拠を明示してはいません。
イエズス会の教育では、宗教学は勿論、音楽、科学、哲学など現代に通じる知識を幅広く習得させていたのです。免罪符を販売したカソリックの堕落からの巻き返しを行うイエズス会は、他宗教の理論的弱点を突く教育にも力を入れていたのです。それが宗論闘争教育です。敵宗教を理論的に、徹底的に叩きのめすことにより、デウスの優位性を示して、キリスト教布教地区を拡大していくわけです。
そこで、フロイスは、織田信長に再三懇願した結果、延暦寺の高僧との宗論をおこなっていたのです。もし、その宗教論争でキリスト教の神・デウスが、仏教の仏・ブッダより勝っていたのなら、そのことを誇らしげに日本史に記述するはずです。それは、デウスの神が崇高であるということを、フロイス日本史で随所に記述しているからです。
しかし、延暦寺高僧との宗論結果は記述されていないのです。ただ、「仏教は悪魔の教え」であると、記述するのみです。延暦寺側も、同様に、その宗論結果を公表していません。延暦寺側が公表できなかったのは、1571年織田信長により、イエズス会が決め付ける欺瞞者の悪魔の館「延暦寺」は、全焼され、そして、全僧侶は斬首となっているのです。この事件は、「デウスとブッダ」の宗論と関係があるのでしょうか。
悪魔の霊力は、「聖なる炎」により抹殺されるのです。ですから、ヨーロッパでのキリスト教による魔女狩りの犠牲者は火炙りとなり、日本国でも正親町天皇より国師の位を受けた高僧も織田信長により火炙りにより抹殺されたのです。この織田信長の、日本歴史上稀な敵対する宗教者の火炙りも、イエズス会からの教えであったのでしょうか。
何故「デウス対ブッダ」の宗教論争の結果をフロイスが記述しないのかは、次のように推測されます。それは、デウスとブッダとは、あまりにも共通点があったから、ということです。共通点どころか、同じであったので、フロイスは、ブッダを敵側の神=悪魔と言ったと推測されます。
宗教の発生は、ひとの苦難を緩和する装置のひとつとして発明されたわけです。その宗教の中核を成す「神」には、二種類あるのです。ひとつが「自然神」で、もうひとつが「人工神」です。
自然神の神とは、太陽、月、星など自然に存在し、ひとびとの生活に大いに影響する存在であるわけです。自然神は、自然の下に暮す、遊牧狩猟民族、海洋漁労民族が、自然神に加護を求め、或いは怒りを静めるために「犠牲」を捧げて祀ります。
それに対して、人工神とは、ひとの智慧により発明された神で、主に人間を神格化して創られた神です。その目的は、ひとがコントロールできない自然の驚異に対して防御或いは回避するために発明されたもので、それらの脅威の「ケガレ・気が枯れる」を回避又は除去する儀式として、「御祓い」をおこないます。つまり、人工神は、自然の脅威を敵視するわけで、自然と戦い、克服して暮す農耕民族が芸能(生殖に関連する行為)を奉じて祀ります。
デウスもブッダも供に人工神です。人工神は、ひとが神格化されて「神」に成るわけです。そこで、ただの人間を神格化させるために、奇跡の物語が創作されるわけです。
キリスト教と仏教との教えの同一性を論証するには、更なる時間が必要ですが、その奇跡の物語の共通性を述べることは簡単です。そこで、デウスとブッダの共通事項を羅列してみましょう。
デウスもブッダもその家系は王族につながります。デウスの母マリアは、夢の中で白い鳩が体内に入り込むのを見て、デウスを懐妊するのです。それに対して、ブッダの母マーヤー妃は、白い象が天から降りてきて腹に入り、ブッダを懐妊するのです。ふたりの母は伴に、処女懐妊だったのです。
その話を聞いたマリアの婚約者ヨセフも、マーヤー妃の夫シュッドーダナ王も、その不思議な出来事を躊躇なく信じるのです。
やがて、マリアとヨセフは税を払うためよその町に旅をしている時、マリアは厩でデウスを生むのです。それに対して、夫シュッドーダナ王が税を払うため旅をしている時、マーヤー妃は羊飼いの家のかいば桶のなかでブッダを生むのです。
その誕生の時、マリアの産所が眩むばかりの光に包まれ、その星を見た東方の博士が祝福におとずれるのです。それに対して、ブッダの誕生の時、大いなる光があまねく世界を照らしたのです。
そして、幼児デウスは、空中浮遊ができたのです。それに対して、ブッダは、生まれてすぐに七歩あるいたのです。そして、宙に浮くこともできたのです。
神殿での話しで、信心深いシメオン老人は、幼児デウスを抱き、救い主に会ったので安らかに死ねると言うのです。それに対して、信心深い老人アタシは幻の中で、須弥山の神々が大喜びしているのを見るのです。何故神々が喜んでいるのかと、アタシが尋ねると、ブッタとなるものがこの世を幸福にするために生まれたからだと言うのです。
十二歳になったデウスは、神殿で迷子になってしまったと思った両親が見た光景は、そこで学者と議論をしていたのです。それに対して、姿が見えないブッダを探していた父親は、木の下に座り宗教的瞑想にふけるブッダを見つけるのです。その木陰は、夕暮れだと言うのに、真昼のように輝いていたのです。
そのようにデウスとブッダは、共通した奇跡の成長過程を経て聖者となるのです。そして、迷える民に教えを説くのです。デウスの教えでは、「殺すな、姦淫するな、誓いを立てるな、復讐するな」です。それに対して、ブッダの教えでは、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄言、不飲酒」です。
そして、人間から神に変身するための奇跡をおこすのです。デウスは、腹を空かせる弟子達に、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、十二籠のパンの屑を余させるのです。それに対して、ブッダは、物乞いの鉢の中のパンをもって、弟子五百人と僧院のすべての者の飢えを満たし、更にパンを余らせたのです。
更に奇跡は続くのです。マルコの福音書によれば、デウスは弟子達を船に乗せ、自分はひとりで祈りに行くのです。そして、強風のため漕ぎ悩んでいる弟子達の前に、デウスは水の上を歩いて現れたのです。それに対して、ブッダは、雨が降りしきる中、逍遥しながら瞑想しているのです。それを心配した弟子達は、豪雨になったので、ブッダが濁流に流されてしまうのではないかと心配し、小船で探していると、ブッダが水の上にまったく濡れずに歩いているのを発見するのです。
デウスとブッダの愛弟子アーナンダの話にも共通点があるのです。不可触賎民サマリアの女に、デウスは水を所望するのです。しかし、サマリアの女は、自身の身分の低さゆえ辞退するのです。それに対してブッダの弟子は、不可触賎民チャンダーラに水を所望するのです。チャンダーラは自身の身分の低さゆえ辞退するのです。アーナンダは言うのです。「妹よ、わたしはあなたのカーストや家柄について尋ねているのではありません。あなたがわたしに飲み水をわけてくださるかどうかを尋ねているのです。」
そして、貧しい寡婦の献金の話にも共通点があるのです。ひとりの貧しい寡婦が神殿の賽銭箱に二レプタを入れるのです。その行為に対してデウスは言うのです。「貧者のわずかな献金は、金持ちのもっと多くの献金よりも価値が高い。」、それに対して、貧しい寡婦が、ゴミ捨て場で拾った銅貨二枚を布施するのです。それを目撃した阿羅漢は、金持ちの布施には注意を払わなかったが、その貧しい寡婦の敬虔さを讃える歌を歌ったのです。
詳細に調べれば、デウスとブッダとの共通点は、更に見つけることができるでしょう。では、何ゆえに、そのようにデウスとブッダとに、偶然では済まされない共通点が多くあるのでしょうか。推論できることは、それは、ふたりの「神」が、共通の物語から創作されたからです。(キリスト教と大乗仏教との共通性は、教祖の奇跡物語のほかに、色々あります。キリスト教のマルタクロスの十字架は、大乗仏教ではマンジ・卍です。ともに太陽をシンボルとしてデザインしたものです。キリスト教のロザリオは、大乗仏教では数珠です。ともに呪文の唱えた数を確認するものです。キリスト教のホーリーネームは、大乗仏教の戒名です。ともに神・仏の僕となった者の名前です。)
比叡山延暦寺での、フロイスと高僧との宗論が目に見えるようです。お互いに「悪魔と罵りあい」激論を戦わした二人は、やがて長い沈黙に浸るのです。
1570年織田信長は、大阪の地を支配する浄土真宗本願寺に対して、矢銭と立ち退きを要求するのです。大阪の地は、戦国時代の日本国最大の国際港がある処です。イエズス会を支援する国際交易商人は、その大阪の地を奪取することを熱望していたのです。
当然浄土真宗本願寺は、その織田信長の要求を拒否するのです。それは、堺を支配する三好三人衆の存在があったからです。ここに、織田信長と三好三人衆との石山合戦の初戦の火蓋が切られるのです。しかし、この戦いは、この後十年も続くのです。
織田信長の仏教組織壊滅作戦は、1569年イエズス会宣教師フロイスと京で謁見後に行われたのは、イエズス会の指示があったからでしょう。
1570年石山合戦始る。
1571年比叡山延暦寺焼き討ち。
1573年伊勢長島の一向一揆を壊滅。
1577年紀伊雑賀一揆討つ。しかし、雑賀鉄砲隊に反撃される。
1580年石山合戦終わる。加賀一揆鎮圧。
織田信長は、それらの仏教軍団との戦いでは、何万と言う非戦闘員も乳幼児も焼き殺しているのです。その行為は、悪魔の手先を「聖なる炎」で浄化するためなのでしょうか。
イエズス会が軍事援助をするキリシタン大名と連携し、矢継ぎ早に仏教軍団やそれらを支援している傭兵軍団を壊滅し、1580年大阪の地は、織田信長の軍門に下ったのです。ここに、平安時代から寺社領を自営し、僧兵の軍事力により治外法権を確立し、時には天皇に逆らい、政治をほしいままにした仏教組織を支えてきた、日本の仏教軍団は全て壊滅したのです。そして、壮大な寺社領を失った大乗仏教組織は、この後、禅宗の葬儀儀式を導入することにより、葬式仏教となって、江戸幕府の三代徳川家光からの賎民支配の手先になっていくのです。
1582年東国の覇者武田勝頼が自害すると、イエズス会の都地区支配が完成するわけです。そこで、イエズス会の次の戦略(明国征服)を実行するにも、織田信長の存在が問題になってくるのです。1576年安土城を完成させると、織田信長は、デウスの神を祀るどころか、自分を神として祀るように周囲のものに要求していたのです。
京での馬揃え(軍事パレード)を見学した主賓イエズス会日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、日本国を商業(座・市・関所税)・金融(高利貸しの借上)・軍事力(僧兵)で支配する仏教軍団を壊滅したため、もはや織田信長の使命は終わったことを、イエズス会地下組織に知らせるのです。そして、1582年6月2日に本能寺での暗殺が成功したことを、安土城で知ったアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、高山右近ジュスト(織田信長の暗殺に関わった千利休は、高山右近ジュストの茶道の師匠です。織田信長の茶頭だった千利休は、暗殺後、羽柴秀吉の茶頭に抜擢されるのです。)に、ポルトガル語で密命を出すのです。その内容は、「明智光秀に味方するな、羽柴秀吉に味方せよ。」と言うことです。(このキリシタン大名高山右近ジュストの明智光秀に対する裏切りが原因となり、江戸時代に明智光秀の末裔春日局による、百済の血が流れる三代将軍徳川家光をして、キリシタンの秦氏・源氏末裔が賎民・穢多としてイジメられていくわけです。)
1582年織田信長の暗殺後、数日して、明智光秀軍と羽柴秀吉・高山右近ジュスト軍との戦いが山崎にておこなわれるのです。この山崎の弔い合戦は、正親町天皇から「刀」を享け賜っている明智光秀軍の官軍対賊軍羽柴秀吉(織田信長はこの時点で賊軍であった。)であったのが、旗色の悪い明智光秀軍を正親町天皇は見限って、羽柴秀吉に「刀」を授けることにより(官軍に変身)、その立場が逆になってしまったのです。つまり、初戦は官軍明智光秀対賊軍羽柴秀吉であったのが、途中で明智光秀軍は、主君織田信長を暗殺した極悪賊軍に貶められてしまったのです。
1582年山崎合戦の羽柴秀吉の勝利を確認したイエズス会日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、日本国征服完了の報告をローマ教会のグレゴリウス十三世にするために、日本国を旅立つのです。
しかし、インド管区を任されたアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、1581年(天正9年12月)豊後管区支配の大友宗麟(フランシスコ)、下区管区支配の大村純忠(バルトロメオ)に命じて派遣した、十三歳の伊藤マンショ他三名の少年使節団と伴にローマ教会には行けなかったのです。1585年日本国キリシタン使節四名は、アレシャンドロ・ヴァリニャーノをインドに残し、ローマ教会グレゴリウス十三世に謁見するのです。(アレシャンドロ・ヴァリニャーノの、デウスの誕生を祝う東方の三博士にちなむ、演出により東方よりの日本人キリシタン三名が謁見した。)1590年インドで待機していたアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、ローマ少年使節団を伴って再度来朝するのですが、その留守中の八年間で日本国の政治が激変していたのです。それは、1587年九州の拠点イエズス会二管区を支配していた大友宗麟と大村純忠とは共に死去していたからです。
その激変の原因は、1585年羽柴秀吉が、藤原氏の末裔近衛前久の猶子となり、名義上藤原氏となったからです。そして、出自不明の賎民であった日吉(イルギ)丸が、織田信長が熱望しても手に入れることができなかった「関白」になったからです。この羽柴秀吉の大昇進の謎は、天皇家・藤原氏と織田信長暗殺、明智光秀謀殺とが大いに関係があると言われています。
1587年豊臣秀吉は、九州を平定すると、今まで一緒に戦ってきたキリシタン大名を弾圧し、キリスト教宣教師を追放するのです。この豊臣秀吉のキリシタンから大乗仏教組織への乗り換えは、織田信長暗殺直後からおこなわれていたようです。それは、織田信長が、仏教勢力が支配する「座」を解体し、1577年に安土城下を「楽座」としたのに、織田信長暗殺直後には、大山崎の油座を復興させていたからです。
藤原氏に取り込まれた豊臣秀吉は、1590年最後の抵抗勢力小田原の北条氏を成敗し、全国統一を果たすと、同盟者であった徳川家康を関東に移封するのです。それは、徳川家康を軍事的に支持する秦氏末裔の忍者服部氏や源氏武士末裔の勢力を、藤原氏末裔が恐れたからです。潜在的脅威の徳川家康が移封されたそのころの関東は、荒川・利根川の支流が奔放に流れ葦が茂り、ひとも住ぬ大湿地帯であったのです。
豊臣秀吉は、そのようにイエズス会に軍事援助された織田信長軍を構成していた軍団組織を、謀略で次々と壊滅させ、それに反して、旧勢力である仏教組織復活に対しては多大な援助をするのです。大阪の地にあって織田信長に破壊された、藤原氏の流れにある日野家の親鸞が興した浄土真宗の石山本願寺を、1591年京都六条堀河に移建するのです。そして、織田信長により破壊された比叡山延暦寺再興にも手を貸すのです。
その豊臣秀吉の仏教勢力援助の企みは、織田信長の仏教イジメの怨念を利用して、仏教組織による日本イエズス会キリスト者を壊滅するための手段だったのです。つまり、藤原氏得意の戦術、「夷を以って、夷を制す」です。
1588年豊臣秀吉は、大仏建立の名目で武器の拠出令を発するのです。これが刀狩令と言われているものです。(実際は、金銅製ではなく、木造に漆金箔塗装仏像を制作。狩り集めた刀や武器は、明国侵略のために使用するため。)
そして、1591年豊臣秀吉は、701年藤原不比等による氏族の私有地を没収して中央集権を目指す大宝律令を模倣したような、全国戸口調査をおこなうのです。この流れは、中央集権確立を目指す豊臣政権の抵抗勢力壊滅のための戦術です。そして、反体制武力勢力を排除するために、士農工商の身分法を定めるのです。そして、豊臣秀吉による、怨念募る仏教組織を手先にして、織田信長軍残党、そしてキリシタン武士の残党狩りが行われていくのです。
織田信長がヨーロッパの築城思想を真似て造った天主閣のある安土城の築城から始まる城下町の開発が他国にも普及したことにより、従来の武家屋敷も町民家も無秩序に建てられていた街づくりが変化していくわけです。豊臣政権の街づくりにおいて、反体制武闘勢力壊滅のための戦術として、穢多村を発明するわけです。その市街地から隔離された穢多村に、刀狩で武装解除された反体制派勢力を押し込めて、庶民との分離をおこなうことにより、再び武装蜂起を行えないようにするわけです。
何故、村の鍛冶屋は、村外れに在るのでしょうか。それに、何故に「馬」に関する蔑称もしくは「負のことわざ」が多くあるのでしょうか。それは、戦国時代に反王権で活躍した部族が、産鉄民族末裔と騎馬民族末裔であったからです。その戦闘力に脅威を感じた藤原氏傀儡の豊臣秀吉は、その対策として、平安時代と鎌倉時代の騎馬民族抹殺の戦術を再びおこなうのです。
鉄の加工品を作るには二通りの方法があります。ひとつが鋳型で作る鋳造法で、もうひとつが鉄を叩いて加工する鍛造法です。鉄の鍛造法は、紀元前14世紀ヒッタイト(紀元前1900年〜紀元前1190年)→古代エジプト(紀元前2890年〜紀元前525年)→ギリシャ都市国家(紀元前3000年〜紀元前146年)→騎馬民族国スキタイ(紀元前900年?〜紀元前400年?)→チュルク系騎馬民族国匈奴(紀元前300年?〜紀元100年?)→金冠の女帝王国新羅(紀元356年〜紀元528年までギリシャ・ローマ文化保持国〜紀元935年まで仏教国)→四世紀の日本列島に、騎馬・遊牧民族と伴に渡来した技術です。(現在、東アジアで馬冑が出土しているのは新羅と紀伊の古墳だけ。)この鉄工具により、四世紀に出現した古墳の石棺が、エジプトの石棺と同じ寸法単位のキュビトで、造られたわけです。そして、エジプトの石切技術だけではなく、重い石を運ぶための運河掘削技術、重い石を組み上げる技術などが渡来していたのです。チュルク系騎馬民族末裔蘇我氏が支配する飛鳥時代の不思議な石物遺跡は、それらの技術で制作された装飾品と産業物資(鉄・水銀・朱砂・油)を生産するための石製道具です。
これらのハイテク技術を継承して豊臣政権にまつろわない秦氏末裔は、王権にとっては最大の潜在脅威です。現に、戦国時代の徳川家康を擁護する忍者部族服部氏は、秦氏末裔なのですから。
戦国時代の一揆の広がりは、騎馬民族末裔の「座ネットワーク」と「馬」による情報伝達によることが大きかったのです。ですから、豊臣政権にまつろわない騎馬民族末裔は、王権にとって、秦氏末裔と同じに潜在脅威だったのです。そこで、まつろわない秦氏末裔と騎馬民族末裔を、押し込めるために開発されたのが、水堀で囲んだ地の穢多村だったのです。
穢多とは、百済鎌倉時代に比叡山の大乗仏教により、インドの民族差別思想のカースト制度外の不可触賎民セダラを基に発明され、王権にまつろわない騎馬民族を貶めるために布教された言葉です。(賎民の先祖を持つ織田信長が、焼き討ちにより比叡山の全僧を「欺瞞者ども」と言って斬首したのは、延暦寺僧が穢多思想を発明し、法華経により仏罰者・民族差別思想を布教したからかもしれません。)
この戦国時代に発明された穢多村は、平安時代の京都百済王権に逆らう秦氏末裔や天武王朝末裔の捕虜収容所の、別所、湯浅、垣内などと同じに、血の禁忌の穢れ思想を布教する、京都百済王権を守護する大乗仏教により再び民族差別を受けるのです。
仏教者が、騎馬民族の生業の皮革作りを賎業の「皮剥ぎ」と蔑んでいますが、皮革作りは誰でもできるものではなく、大量の塩・油・水を必要とするハイテク技術を必要とするのです。
大量の塩・油を入手するには、塩を生産する海洋民族や油を生産する山岳農耕民族との交渉や交易が必要なのです。それに、古代・中世・近代まで「皮」は、武具や防具を作る材料として重要な軍需物資でもあったのです。鎌倉時代、山崎の油座組織は、灯油用としてだけではなく、武具生産のため製皮用油の大量需要を満たすため、全国から油を集め、そして製皮業者への油供給源としてでもあったのです。
豊臣政権は、穢多村を貶める演出のために、平安時代と同じように、法華経で宣伝する仏罰者ハンセン氏病者を穢多村に押し込めるのです。その一般の者が近づかない仏罰者のいる穢多村に、豊臣政権の過酷な残党狩りから逃れるキリスト者が助けを求めて多く集まるのです。
1587年の豊臣秀吉によるキリスト教宣教師の追放の知らせをインドで聞いた、ローマ少年使節を随行したアレシャンドロ・ヴァリニャーノは、イエズス会巡察師としては日本国に入国できないので、インド副使の名目で、1590年再度渡来するのです。しかし、アレシャンドロ・ヴァリニャーノが出国した1582年当時の羽柴秀吉は、今では藤原氏に取り込まれ関白豊臣秀吉となって、キリシタンを迫害していたのです。
イエズス会の衰退は、母国ポルトガルとイスパニアが、新興海賊国家イングランド王国に海上制圧権を握られてしまったからです。1588年にはイスパニア無敵艦隊が、イングランド艦隊に負滅されてしまったのです。その原因は、航海術と砲術の差です。
戦国時代の石山合戦の雑賀海賊と毛利海軍連合軍とが、織田信長海軍に大敗をしたのも、1576年織田信長海軍が、ポルトガルから援助された大砲を船に装備したからです。雑賀・毛利の手投げ式火炎弾と艦船大砲とでは、海戦にもなりません。(歴史小説では、織田信長が鉄鋼船を建造したことになっているようですが、その史料がありません。史実は、戦艦砲を装備した軍艦でしょう。)
豊臣秀吉のキリシタン追放に武力で逆らうにも、イエズス会が今までのように軍事援助をできないため、武器弾薬が枯渇したキリシタン大名以下は、改宗するか逃亡するかの二者択一だったのです。
1582年山崎合戦で、羽柴秀吉の賊軍を援助したキリシタン大名高山右近ジュストも、関白豊臣秀吉に、改宗を迫られていたのです。しかし、高山右近ジュストは、大名の地位を捨て、キリスト者として生きていくのです。他のキリスト者が過酷な責めにより命を落としていくのに、高山右近ジュストは、山の民を相手に布教活動を続けるのです。
山の民の多くは、古に異教の王権により都から追放された、太陽・月・星を祀る秦氏や源氏か蘇我・天武王朝の元王族・貴族の末裔なのです。反王権の山の民に護られた高山右近ジュストには、関白豊臣秀吉でも手が出せなかったのです。(比叡山延暦寺を保護する百済系桓武天皇は、星祭を禁止するのです。新羅系天武天皇は北極星(太一)を祀っていた。それは、星を祀るのは、仏教徒ではないからです。現在でも警察隠語で「星」は犯人の意味です。)
豊臣秀吉が、1598年死去し、1600年徳川家康が天下を執っても、高山右近ジュストの山の民への布教活動は続くのです。
しかし、徳川家康が、実権を二代徳川秀忠に譲り、明智光秀配下の娘春日局(百済の血が流れる三代徳川家光の乳母。一説には徳川家光は、二代徳川秀忠の子ではなく、徳川家康が側室に生ませた子と言われている。)が、老齢の徳川家康に近づくと、1614年高山右近ジュストは、マニラに追放されてしまうのです。これは、山崎合戦で、高山右近ジュストがアレシャンドロ・ヴァリニャーノの密命で、明智光秀を裏切って、羽柴秀吉を援助した因果であったようです。
1582年京の都で織田信長による軍事パレードで歓迎されたイエズス会日本巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、デウスの神を敬わない織田信長を暗殺させ、そのイエズス会日本国軍大将に、明智光秀ではなく、羽柴秀吉を抜擢して、日本国征服完了報告をローマ教皇に報告して、イエズス会日本国軍を組織して明国征服を企てていたのが、羽柴秀吉の藤原氏への寝返りのため、失意のどん底状態で1590年にインド副使として再渡来し、関白豊臣秀吉に謁見したのです。
もはや、イングランド海軍に破れたイスパニアに軍事援助されていたイエズス会には、東洋世界支配の計画を遂行する軍事力も経済力もなかったのです。しかし、関白豊臣秀吉は、イエズス会の最終征服国の明国を侵略する東洋世界征服計画を続行するのです。
1589年豊臣秀吉は、明国征服のため、日本軍が朝鮮半島を通過するための布石として、朝鮮国(1392年〜1910年)に朝貢を促すのです。そして、1591年に豊臣秀吉は、フィリッピンに原田孫七郎を派遣して入貢を促すのです。
太閤検地、刀狩、士農工商の身分制度などにより、反体制派武装勢力を壊滅し、1590年最大のライバル徳川家康を関東の僻地へ移封し、中央政権を確立した豊臣秀吉は、1592年(文禄の役〜1596年)朝鮮半島に侵攻するのです。それは、明国征服のためです。
朝鮮国は、日本国と同じに、征服民族と被征服民族との二重国家です。豊臣秀吉軍の進撃を朝鮮被征服民族は、解放軍として向かい入れたため、初戦は破竹の勢いで朝鮮半島奥深くまで攻め込むのです。しかし、朝鮮海軍の奮闘により日本国からの補給路を断たれて、1596年和平を結び、豊臣秀吉軍は朝鮮半島を撤退するのです。この和平は実はウソで、明援軍の将校と豊臣秀吉軍の将校とが、互いに勝利したと国に報告したことにより締結されたのです。
このことは、豊臣秀吉に明国正使が謁見した時に発覚してしまったのです。それは、朝貢に来たのかと思った明国の正使が、実は明国への朝貢を促しに来たからです。このことに激怒した豊臣秀吉は、1597年(慶長の役〜1598年)再び朝鮮半島に侵攻するのです。この侵略戦争は、翌年1598年豊臣秀吉の死去で終わるのです。
豊臣秀吉が死去すると、磐石と思われた豊臣政権も揺らいでくるのです。それは、文禄の役と慶長の役により軍事力と経済力とが削がれてしまったからです。そこで、反体制勢力が再び台頭してくるのです。その頭が、関東の徳川家康です。
徳川家康は、歴史教科書で述べているような人物ではないようです。徳川家康には、戦国武将とは異なる逸話が多くあります。それらは、薬草・薬学・医療に詳しい。(薬草は神濃様の管理下にあるといわれ、その神濃様は反体制の役座の神様です。チュルク系騎馬民族蘇我氏は、六世紀の「ヤマト」で薬草を採取していた。遊牧民は、家畜の出産やケガの治療のため外科手術ができた。ヒンズー教化仏教の血の穢れ思想が支配する中世から近世までは、正当医療は加持祈祷です。外科医の仕事は賎業だった。)弓馬ができる。(農耕民族は、乗馬が苦手。ましてや、弓馬は子供の頃から訓練しないと出来ません。)鉄砲術が優れている。(戦国時代の武士階級は、砲術を軽蔑していた。)賎民と言われる忍者と直接話しをする。一向一揆に参加した武将を何の咎めもなしに再雇用している。戦国武将は、それらのことはしません。何故、徳川家康がそれらの逸話を持っているのかは、それは徳川家康が賎民出身であれば納得できます。
徳川家康が、賎民に対して寛大であるのは、都落ちして関東に入る時、穢多頭の弾佐衛門が鳥越まで出迎えにきていたのです。そして、徳川家康が天下を取ると、源氏発祥の地・大阪の地を追われ、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により穢多村に貶められた渡辺村を、役人村に引き上げているのです。(藤原氏は、古来より武闘派源氏系と謀略派百済系「日本書紀を新羅系を不利に、そして百済系有利に改竄。ヒンズー教化仏教・天台宗で血の禁忌・地獄思想を布教。法華経布教のため、仏教キャラクター聖徳太子を発明。中国土着神山王を日枝・日吉神に変身させる。」を交互に利用して、権力維持をしてきたのです。)
関東の僻地は、秦氏末裔の運河掘削技術、そして土木技術により、利根川・荒川の流れを変えることにより、関東平野は広大な農地として生まれ変わったのです。そして、江戸城は、神田堀の残土により十メートルの人工山の上に建造され、その堀の下には抜け道まで造られていたのです。(東京八重洲口のヤエスの語源の徳川家康の顧問ヤン・ヨーステンは、屋敷から地下道を通って江戸城に登城していたのです。)
そのように、賎民といわれる秦氏末裔や源氏末裔の援助の下に、徳川家康は、豊臣秀吉により関東に移封されてから十年間で軍事力を蓄えていくのです。そして、1600年自称平氏を名乗る豊臣軍団と自称源氏を名乗る徳川家康軍団とが、関が原で合戦を行うのです。
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