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(回答先: 神輿の黙示録(9)(大乗仏教とは何か:鎌倉時代の賎民は何を拝んだのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 19:02:32)
秦氏の末裔、穢多頭の「弾家」と明治維新での中核士族の「島津氏」とが同族であるとの根拠のひとつとして、「家紋」があります。両家の家紋は「丸に十字」です。しかし、元の家紋には丸がなくて、唯の「十字」だったのです。
十字と言えば、キリスト教(ヨシュア教)を思い出すひともいるかとおもいますが、キリスト教の十字架は、オリジナルではなく、太陽神ミトラ教の太陽のシンボル、マルタクロス(十字)を導入したものなのです。
そして、マルタクロスのシンボルを用いる景教は、キリスト教から分派したネストリウス派だといわれていますが、それは逆です。
ローマ軍神としてミトラ神(ラテン語ではミトラス神)が信仰されていたのに、392年ユダヤ教の一派である反ローマ帝国のヨシュア教(ギリシャ語でキリスト教)が、突然ローマ帝国の国教となり、そのローマ帝国は、395年東西に分裂するのです。428年東ローマ帝国において、ネストリウス派は、キリスト(ヨシュア)の神聖を認めない「人間キリスト」の宗論を展開するのです。それに対して、東ローマ帝国を影で支配する国際交易商人は、キリストを神格化して、キリスト教布教の名目で異教国への侵入手段として、異教国支配を計画していたのです。431年エフェソスの公開議で、人間キリストを主張するネストリウス派は異端と決め付けられ、435年東ローマ帝国から追放されるのです。その追放されたネストリウス派キリスト教徒達は、東ローマ帝国と対立する隣国ササン朝ペルシャ帝国(293年〜642年)に受け入れられるのです。そして、ネストリウス派キリスト教徒は、ペルシャ交易商人と供に、シルクロードを東進し、北魏(農耕民族の漢民族でなく、騎馬民族の拓跋部が支配。拓跋部は源氏の元。423年〜534年)の都洛陽に渡来するのです。そのころ、北魏では、道教が盛んになり、仏教は弾圧されていたのです。
その東ローマ帝国の教皇に破門されたキリスト教ネストリウス派とは、太陽神(ミトラ神)が先祖がえりしたものです。太陽を崇拝する景教は、元々は太陽神ミトラ教の教義を取り込んだ宗教組織で、中国大陸での布教が成功すると、中国王権から太陽を祀る宗教ということで、景=日(太陽)の京(都)の宗教と言われたわけです。
騎馬民族支配の北魏→隋→唐(日本列島では、騎馬民族支配の飛鳥時代から奈良時代)では、絹織物を求めるペルシャ交易商人が商業の拠点として寺を建立するのですが、それは、ペルシャ寺=ネストリウス派教会=景教寺というわけです。(603年創建と言われる、蜂丘寺「後の広隆寺」は景教寺です。)古代では、異教民との商取引は、神聖な神の下(寺・教会・庭=神が宿る場所)でおこなっていたのです。そして、ミトラ神は軍神だけではなく、オリエントでは異教民との商取引を見守る「契約神」でもあったのです。
では何故、秦氏の末裔、弾家と島津氏の家紋が、景教のマルタクロスなのでしょうか。
日本の家紋は、十六世紀半ば突然に戦国時代の武将率いる軍団の、現代の宣伝旗のように露出度を上げるように、更に遠方から確認できるように、軍団ごとの特徴を簡潔なデザインマークとし、その軍事部族のシンボルマークを施した旗物に現れるのです。
家紋が武士の合戦時に敵味方を確認するマークとして必要なものであるのならば、何故十三世紀の源平合戦で、白旗と赤旗ではなく、家紋が登場しなかったのでしょうか。
鎌倉時代末期、元寇による戦後の論功行賞で、戦費持ち出しの武士団に報いられない百済北条政権は、崩壊寸前だったのです。(元は、百済北条氏が支配する鎌倉の都で禅宗が保護されていることを知っていたので、禅宗僧を元軍の使者として、北条政権に交易を求めてきたのです。それも二度です。しかし、北条政権は、元軍の手先の禅宗僧の密使を二度とも惨殺してしまうのです。それに対して、元軍は、日本列島に1274年と1281年に二度来襲するのですが、元軍船は二度とも暴風雨により壊滅してしまうのです。元軍の来襲は、難破船の荷物の中から種籾や農具多数が発見されたため、日本列島征服を本気で考えていたようです。それは、元軍は、日本列島で金・銀が多く産出されることを知っていたからです。この情報が、マルコポーロにより黄金の国「ジパング」と紹介されることにより、ヨーロッパ諸国の東アジア植民地化政策を助長したのです。)
そこに、後醍醐天皇(1288年〜1339年)が、即位後、院政をやめるのです。そして、第二百済王朝の北条鎌倉政権から都を追われていた藤原氏の暗躍により天皇親政を行い、そして、北条氏により山奥の僻地に追われていた源氏一族の楠正成、足利尊氏、新田義貞などの百済北条政権に不満を持つ地方豪族の武力協力により、1333年北条鎌倉幕府を倒すのです。
では、鎌倉北条政権に反旗を翻した後醍醐天皇とは、どのような出自の天皇なのでしょうか。系図では、後宇多天皇の第二皇子ということですが、「醍醐」の天皇名が気になります。
「醍醐」と言えば、藤原氏全盛時代の平安時代に、反藤原氏の菅原道真を大宰府に左遷し藤原氏全盛の基礎を築いた醍醐天皇(885年〜930年)が在位していました。父は宇多天皇で、母は内大臣藤原高藤の娘、藤原胤子となっていますが、疑問符があります。それは、「醍醐」の文字です。
「醍醐」とは、牛乳製品を発酵する段階で生ずる物質である、乳(にゅう)→酪(らく)→生蘇・酥(しょうそ)→熟蘇・酥(じゅくそ)→醍醐の、五味(ごみ)のことを言うのです。この「醍醐」は、馬が生息していなかった日本列島に馬具が古墳から現れる四世紀以降、オリエントから渡来した騎馬遊牧民族により、日本列島に持ち込まれたものです。つまり、チーズ(醍醐)は、騎馬遊牧民族のご馳走であるわけです。しかし、醍醐(チーズ)は、蘇我王朝、天武王朝が壊滅すると、製品としては存在しなくなり、騎馬遊牧民族の末裔ではない百済王朝・藤原王朝の平安時代では、「醍醐味」として、「最高の美味」の意味の言葉としてのみ存在するのです。
食生活でも、飛鳥・奈良時代の貴族と平安時代の貴族との異民族性が証明できるでしょう。それは、飛鳥・奈良時代では貴族は肉食し騎馬により行動していたのです。それに対して、平安時代の貴族は肉食せず、騎馬をせず、牛車を交通手段としていたのです。
そのチーズ(醍醐)と命名された醍醐天皇の血には、騎馬遊牧民族の血が流れていたのです。醍醐天皇は、父宇多天皇が皇子の時、山里で契った騎馬民族の娘の子であったのです。その「醍醐」の名を引き継ぐ後醍醐天皇により、天皇家は南北に分裂し、南北朝が始まるのです。
1334年の建武の中興での恩賞の不公平による足利尊氏の後醍醐天皇からの離反により、1336年後醍醐天皇は、吉野へ逃れ、ここに北朝(京都朝廷=光明天皇)と南朝(吉野朝廷=後醍醐天皇)に分裂するのです。南朝は、北朝の攻勢により九州(秦氏の末裔島津氏の支配地に藤原氏の本流近衛家は隠棲していた。)に逃れ、一時巻き返すのですが、1339年後醍醐天皇が死去し、南朝を支えていた武将もこの世から次々と去ることにより、1392年足利義満の斡旋により南北朝は合体するのです。しかし、それは表面上です。藤原氏、百済皇族、新羅系源氏武士との三つ巴の戦いは更に続くのです。
九州では、南北朝の戦いが明治維新まで続くのです。そして、江戸末期、藤原氏の流れにある菊池氏の末裔西郷隆盛は、北朝の考明天皇を抹殺して、南朝の皇族大室寅之助(薩長藩により睦仁親王を抹殺し、明治天皇に成代わる。)を、「玉」として明治維新に可担ぎ出すのです。これは正に、645年に蘇我王朝を藤原王朝が簒奪した再現劇です。だから、藤原氏復古の王権簒奪王朝の明治新政府は、史実を隠蔽するため王政復古を唱え、645年大化の改新(虚構の改革)を教科書歴史に取り込み、学校で生徒に刷り込んだのです。
1394年足利義満は、太政大臣となり、ここに室町幕府が確立するのです。
足利氏は源氏一族ですので、鎌倉時代に賎民の穢多に貶められた軍事技術集団の秦氏の末裔は表社会に現れ、それらの技術を庶民生活に反映するのです。室町時代は、職能民・芸能民世界の黎明期です。鎌倉時代、百済王朝や大乗仏教から賎民と貶められた職能民・芸能民達を足利政権は、保護育成するのです。そのひとつが、能楽です。世阿弥は、1402年風姿花伝を著すのです。そして、中国禅宗の文化は、源氏武家社会に取り入れられ書院造が完成し、中国神仙画が日本版山水画として完成するわけです。現在の日本文化の多くの基は、源氏支配の室町時代から興るわけです。
騎馬民族は、商業民族と同じです。それは、騎馬により物流管理を行い、遠方へも広く交易をおこなうからです。騎馬民族末裔の新羅系日本人は、百済鎌倉時代の圧政下で、騎馬により日本全国に独自の商業ネットワークを構築していたのです。
「社会」とは、社(やしろ)で会うことにより、ネットワークを広げることです。鎌倉時代、百済北条政権に賎民に貶められた鎌倉源氏一族の集う社(やしろ)とは、藤原氏により怨霊封じ込めの施設として開発された、「鬼」封じ込めの異界である神社境内であるわけです。
神社とは、鳥居にしめ縄を張った、怨霊封じ込めの「結界」であるわけです。そこには、被征服民族の王が「鬼=敵神」として封じ込められて、祟りをしないように鎮魂させている所なのです。
童謡「とうりゃんせ」の歌詞を思い出してください。「とうりゃんせ、とうりゃんせ、ここはどこの細道じゃ、天神様(菅原道真の怨霊を封じ込めるため、天神として封じ込めた。)の細道じゃ、ちょっととうしてくだしゃんせ、この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります、行きはよいよい、帰りは怖い、怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ」何故、お参りの帰りが怖いのでしょうか。それは、「神社」が被征服民(反権力者=アウトロー)のネットワーク網の拠点であったからです。そこに集う被征服民の動向を、王権側が探索していたからです。
その結界である神社を商業ネットワークとして、賎民達は同業組合である「座」を組織するのです。その組織を仕切る顔役を、「役座・ヤクザ」と言うわけです。それに対して、比叡山の天台宗は、寺の門前市の所場(しょば)での商業を仕切るのです。この役座が仕切る「座」と仏教組織が仕切る「市」の商業既得権を、戦国時代に織田信長は「楽市楽座」の政策で破壊するのです。
室町時代に庶民の商業活動が活発になったのは、源平時代に平清盛が日宋貿易で、宋銭を多量に輸入していたからです。この流れは、鎌倉時代、室町時代と続くわけです。では、宋銭や明銭は何故日本国に多量に流れ込んできたのでしょうか。それは、日本列島から産出される金、銀、水銀、硫黄などが、宋商人、明商人に多量に持ち出され、その対価としての宋銭であり、明銭であったのです。
この日本列島から産出される鉱物資源に目をつけたヨーロッパ人が、「ジパング」の室町時代末期に訪れるのです。その訪れ方は、宗教者(医者)→病院設立→学校設立→商人の渡来→軍事顧問渡来→軍隊渡来→植民地化の異国侵略方程式そのままです。
鎌倉時代初期から百済王朝や鎌倉北条政権に寄生する皇室・公家・延暦寺配下の寺は国衙領や荘園を経営することによりわが世の春を歌っていたものが、室町時代末期になると、経済的基盤のなかった武士階級は、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士達が、地頭請や下地中分として、その国衙領や荘園を侵食し始めるのです。そして、始めは国衙領や荘園の管理者であった武士が、やがてその土地の支配者となり、ついに守護大名と呼ばれるようになるわけです。しかし、仏教組織は、皇室や公家と異なり、武士による荘園侵略を黙ってみてはいませんでした。それは、借上などの高利貸しによる財力にものを言わせ、仏教組織の武装化が更に強化されていくわけです。その武装化仏教の頂点が比叡山の延暦寺です。
この守護大名が、日本列島に多く現れると、必然的に土地争いに発展していくわけです。そして、軍事力のある名も知れぬ小守護大名が、軍事力のない大守護大名の土地を略奪していくわけです。これが、下克上の世であるわけです。
守護大名が自国領の土地を守るには、武力が必要です。そこで、全国の守護大名は、軍事力に力を入れていくわけです。日本全国での土地争いが頻発に起こると、軍人や武器の需要が増していくのです。そこに目をつけた明国の商人が、1542年種子島に「銃」と「傭兵軍」を売り込みに来るわけです。一説では、1543年ポルトガル船が種子島に漂着とあります。
ポルトガルは、1385年アルジュバロダの戦いでカスチラ軍を破り完全独立を果たしたのです。ポルトガル王国は内陸をカスチラ(1479年イスパニア王国となる。)に抑えられているため、経済活動を海外に求めなければならなかったのです。1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開発するも、イスパニア王国では、1492年にはコロンブスによりアメリカ大陸に到達していたのです。そして、その航海術を駆使して西インドに進出し、そこを支配していたのです。そこで、ポルトガル船は、仕方なく黒潮で北上し種子島に漂着したことに、歴史上はなっているようです。
しかし、種子島は、ポルトガル船により偶然歴史上に現れたわけではないのです。この種子島には、出自不明の藤原氏の謎を解くヒントがあるようです。
藤原薬子の乱により蔵人所を置いた前年、809年百済四代目嵯峨天皇が在位した時、種子島に、藤原氏の氏寺である興福寺の末社として、慈遠寺が建立されるのです。それは、藤原氏が、百済桓武天皇の平安京遷都により、奈良の都に封印されてしまってから15年目です。この種子島の慈遠寺建立は、806年空海が唐から帰朝し、真言宗を興したこととの関係を示唆します。それは、宇陀の水銀・銀の交易ルートが、高野山・金剛峰寺→紀州・根来寺→種子島・慈遠寺→中国山東半島と繋がるからです。
何故藤原氏は、孤島の種子島に慈遠寺を建立したかと言えば、「寺」の表の機能が仏像安置場所とすれば、裏の機能は「砦=城=武器庫」だからです。
種子島は、アラビア海→インド洋を抜けてスマトラ海峡を北上すれば、東シナ海の黒潮ベルトコンベアー上に位置するのです。ですから、平安時代末期、ペルシャ平家の平清盛は、南蛮貿易独占のために種子島を占拠し、曾孫の平信基を島主としたのです。
平安時代、藤原氏は、京の都と国際港難波を百済桓武王朝に支配されたため、中国大陸との交易ルートを、種子島→紀州に変更したのです。そして、紀州には興福寺の末寺の根来寺を建立するのです。つまり、藤原氏の国際交易ルートは、中国大陸→種子島(慈遠寺)→紀州(根来寺)となるわけです。
しかし、鎌倉時代初期、ペルシャ平家を滅ぼした武家源氏の棟梁源頼朝により、藤原氏の島津荘園は、秦氏の末裔惟宗忠久が荘園当主となり、惟宗忠久改め島津忠久となり、島津氏の祖となるのです。そして、藤原氏は、近衛家と変身するわけです。しかし、藤原氏の末裔近衛家は、藤原氏得意の「藤原の女」を使う戦略で、島津氏と縁戚関係を結ぶのです。そして、ここから明治維新まで、近衛家のコントロールにより、島津氏(薩摩藩)は行動するのです。(これは正に、イスラエルのエフライム族の巣を乗っ取る、カッコウ・ユダヤのレビ族の行動ソックリです。)
鎌倉時代の新興宗教日蓮宗は、鎌倉では百済北条氏による禅宗保護のため布教ができないため、京で布教を始めるのです。日蓮宗は、騎馬民族蔑視の法華経を解いたため賎民には受け入れられなかったが、現世利益を解いたため欲深い京の町民たちにより支持をうけたのです。この現世利益の日蓮宗は、種子島11代当主時氏により受け入れられ、慈遠寺は、二系統のネットワークルートを得るのです。それは、従来の慈遠寺→興福寺と、慈遠寺→本能寺(日蓮宗)です。本能寺は、日蓮宗の寺であったのです。この本能寺は、島津氏(藤原氏)により、中国から種子島において南蛮密貿易で仕入れた「硝石=火薬の原料」の秘密貯蔵庫だったのです。(イエズス会宣教師ルイス・フロイスの日本史によれば、織田信長の本能寺での死は、「だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだか判っていない。我らが知り得た事は、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄した人が、毛髪といわず骨といわず灰燼した事である。」と爆死を暗示しています。)そして、1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、突然鹿児島に現れるのです。
イエズス会が日本列島に現れたのは、丁度戦国時代の真っ只中です。日本列島は、九州の島津貴久、中国の毛利輝元、四国の長宗我部元親、尾張の織田信長、長野の武田晴信、伊豆の北条氏政、信濃の上杉輝虎達の群雄割拠であったわけです。
これらの武将が表の軍団だとすると、裏の軍団が仏教軍団です。仏教教団は、布施などの集金システムで集めた金を、借上の高利貸しで蓄財し、その財力で僧兵軍団を組織していたのです。戦国時代の主な仏教軍団は三つです。それらは、最大組織の百済京都王朝が支配する比叡山の天台宗の延暦寺と、京の町民が支持する本能寺を砦とする日蓮宗(法華宗)と、そして、賎民を引き入れて軍団を組織した浄土真宗です。それらの三つの仏教軍団が京の都の支配権を争っていたのが、戦国時代であったのです。これらの宗教戦争は、藤原氏、百済皇族、新羅武家源氏の鎌倉時代からの火種が基です。
その宗教戦争に巻き込まれてしまったのが、鎌倉北条政権により、穢多に貶められてしまった、鎌倉武家源氏の残党と秦氏の末裔です。室町時代の武家源氏の世になったのもつかの間、藤原氏は、その流れにある日野家の女を使って、源氏足利氏に食い込むのです。三代将軍足利義満の側室日野業子、四代将軍足利義持の側室日野栄子、六代将軍足利義教の側室日野重子、八代将軍足利義政の側室日野富子など、平安時代での百済京都王朝に藤原の女を側室とする戦術そのままを使うことにより、室町時代の源氏足利氏を、貴族化(藤原氏化)とするのです。
その藤原氏の一族日野有範の子息が、1173年(承安3年)に生まれた親鸞です。親鸞は、法華経布教の元祖比叡山の延暦寺で修学に励むのです。しかし、聖徳太子の夢のお告げを聞き、浄土宗の法然の弟子となったと言うことです。しかし、親鸞の言動は、どうも、ユダヤ教のモーセを思わせます。その浄土真宗の教えは、信心に徹底し、信がさだまったときに必ず仏となる者の仲間に入れる。つまり、浄土教を信ずれば、浄土往生以前にこの世で救いが成就する、と説いたのです。そして、絶対他力の教学を説いたのです。
そして、藤原氏の末裔親鸞が百済京都が支配する比叡山により、過酷な攻撃を受けることにより(敵の敵は味方)、反百済の賎民は、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」のキャッチフレーズにより、浄土真宗は賎民の味方だと惑わされてしまうのです。
江戸時代、この親鸞の一神教のような、百済大乗仏教への排他的思想により、穢多は更なる差別を受けることになるのです。親鸞は、百済仏教に攻撃を仕掛ける武力を得るために、肉食を大悪とする教義で大乗仏教にイジメられている、穢多に甘言を述べるのです。
それは、「唯信鈔文意」で述べるには、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば摂取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう
この「敵の敵は味方」戦術を、戦国時代の賎民や源氏落武者の末裔は、「救い」と勘違いしてしまうわけです。この親鸞の穢多に布教する戦略を、江戸時代の与力・坂本鉉之助が「咬菜秘記」で明快に述べています。
この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれど、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。
親鸞が唱えた浄土世界を信じた穢多や源氏落武者の末裔は、心をひとつとなし「一向」として、百済貴族や守護大名の領地を攻撃するのです。穢多の多くは、元々鎌倉源氏時代までは武士集団だったので、実践力のない百済兵士や農民兵士の相手ではなかったのです。そして、一向一揆は賎民の自治権を得るため、戦国大名の領地を奪取する目的で、全国に広がっていくのです。
その一向一揆を煽る浄土真宗本願寺の本陣は、源義経が屋島の合戦の時に出陣した渡辺津近くであるわけです。渡辺津は、百済亡命貴族が憎む(663年新羅花郎軍団により本国百済が滅ぼされた。)武家源氏(新羅花郎軍団の末裔)の居住地であったのです。現在の近畿地方での民族差別の元は、約1500年前の朝鮮半島での百済と新羅との闘争であったのです。
この渡辺津周辺は、戦国時代には日本列島の国際交易の中心地となっていたのです。その津の近くにある上町台地は、大和川と淀川による水運も良く、国際交流の歴史も古いため、戦国時代には、ここを手に入れることは日本列島はもちろん世界への交易権を手に入れることと同じ意味と考えられていたのです。織田信長は、この見晴らしの良い上町台地に着目し「そもそも大阪はおよそ日本一の境地なり。」と唱えたほどです。この小坂(おさか→おおさか・大阪)の台地の占領を企てる集団が、海の向こうから現れるのです。それは、イエズス会と行動を伴にする国際交易商人です。
1549年鹿児島に渡来したイエズス会は、他のキリスト布教教団とは異なっていたのです。それは、右手に「聖書」、左手に「銃」を持つ戦闘的キリスト教団だったのです。更に、国際交易商人も同行していたので、キリスト教布教が目的か、商業支配が目的かはっきりしませんでした。(何故、宇陀の山奥に、高山右近ジュストにキリスト教会を建てさせたのかは、キリスト教布教のためだけではないでしょう。そこに、イエズス会の日本列島渡来の裏の目的が現れています。)
日本列島に渡来するまでのイエズス会は、1509年ディウの海戦でインド洋を制覇し、1510年ゴア・コロンボを占領するのです。そして、1511年インドネシア諸島のマラッカを占拠し、銃の武力を背景にキリスト教を布教していたのです。そして、現地人を取り込むシステムとしての、病院設立→学校設立の異民族征服プロセスを飛ばし、いきなり軍隊侵攻で現地宗教組織を破壊して、現地人による傀儡支配層を構築し、キリスト教教会を設立していたのです。そして、1542年インドにザビエルが現れるのです。
しかし、1548年南方に漂流しイエズス会に入信したヤジロー等からの情報により、日本国はインドやインドネシャ諸島の住民と異なり、文化も軍事力も格段と勝っていることを知り、正規の異教国侵略プロセスを辿ることにより、日本列島キリスト教化を目論むのです。
そのためにイエズス会が最初に訪れたのが鹿児島の島津氏です。島津氏は、元は秦氏の末裔です。秦氏は、太陽神を祀る景教(ミトラ教)を信仰していたのです。キリスト教は、その教義の基本はミトラ教からの借用です。12月25日のクリスマスはミトラ神の再生誕生日です。十字架は太陽のシンボル・マルタクロスで秦氏の家紋です。ぶどう酒とパンの儀式は、ミトラ神の牡牛を屠る儀式からの借用です。
それらのキリスト教と景教との共通点を知ることにより、秦氏の末裔で賎民身分から、下克上により戦国大名に成り上がった武将達は、次々にキリスト教に入信、キリシタン大名となっていくわけです。
イエズス会の目的は、日本列島をキリスト教化することです。しかし、イエズス会を経済的に支援する国際交易商人は、日本最大の交易地の小坂(おさか)を支配することです。その目的を果たすには、どの武将を軍事的に支援するかを考えるわけです。
小坂は、渡辺津からの地続きで、そこは新羅花郎軍団の末裔武家源氏の地です。源氏に対抗する軍事部族は、当然平家です。
平安末期の源平合戦で活躍した、ペルシャ平家の発祥地は、伊勢です。伊勢は、古より水銀を求める国際交易商人達の交易地であったのです。その南蛮との水銀交易で莫大な財産を築いて、後白川法皇に取り入ったのが、ペルシャ平家だったのです。しかし、源平合戦で、ペルシャ平家は、武家源氏に敗れて、日本列島から抹殺されたことに歴史上なっているのです。しかし、ペルシャ平家の平維盛の末裔は、ペルシャ平家発祥の地、伊勢に落ち延び関氏となっていたのです。
そのペルシャ平家末裔の伊勢亀山城主の関一政に、イエズス会宣教師オルガンティーノが聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティスを伴って来るのです。そして、ジョバンニ・ロルティスは、軍事顧問として関一政に仕えるのです。そして、ジョバンニ・ロルティスは、関一政夫人の兄、キリスト教に帰依した蒲生氏郷(1556年〜1595年。洗礼名レオ又はレオン)に、軍事顧問として召抱えられるのです。この蒲生氏郷は、織田信長の娘を妻とする、織田信長の家人だったのです。そして、織田信長に謁見するため、ジョバンニ・ロルティスは、蒲生氏郷により、山科羅久呂左衛門勝成と命名されるのです。ここから、尾張の弱小武将であった織田信長の快進撃が始まるのです。
織田信長は、自称平氏と述べていますが、その織田氏の出自がはっきりしないのです。織田氏は、系図では、初代織田久長→梅定→信定→信秀→信長、となっていますが、梅定以前が不詳です。つまり、三代先が分からないのです。
戦国武将で出自が分からないのは織田信長だけではありません。豊臣秀吉、徳川家康も、その出自が分からないのです。
自称平氏の豊臣秀吉の系図は、木下氏初代弥右衛門の子となっていますが、その弥右衛門も不詳なら、母方はまったくの不詳です。つまり、出生地も誕生日もまったく不詳なのです。だから、織田信長も豊臣秀吉も、源氏ではなく出自不詳のため、侍の最高地位の征夷大将軍にはなれなかったのです。
それに対して、自称源氏の徳川家康の系図は、松平広忠と伝通院夫人の子となっていますが、徳川家康の行動(戦闘時、秦氏の末裔服部忍者のバックアップを受ける。穢多頭弾佐衛門を江戸に招き、籠にて帯刀し登城を許す。豊臣秀吉により、一向一揆において武闘力で活躍したため小坂の領地を没収され賎民穢多村に落とされた渡邊村を役人村に格上げした。朝鮮学者を尊敬し朱子学を学ぶ。豊臣秀吉の朝鮮半島での人間にあるまじき蛮行に対して朝鮮王朝に詫びる。藤原氏傀儡の豊臣秀吉の墓を暴き破壊する。)には賎民擁護の姿勢が強く出ているため、その出自が賎民部落出身で、松平氏ではないと疑われています。(江戸時代、家康存命中までは、賎民達が暮らし易かったが、百済の血が流れている三代将軍家光から第三次百済王朝で、弾佐衛門は再び穢多としてイジメられる。そして、1687年(貞享4年)百済系徳川五代将軍綱吉による、生類憐みの令発布により、日本版カースト制度、「士農工商・穢多・非人」が完成する。)
この戦国武将達の出自も不詳なら、その戦国時代に活躍した武士団にも不思議なことがあるのです。それは、家紋の出現です。
家紋の歴史上の出現は、それほど古くはないようです。天皇家の十六弁八重表菊紋は、1198年後鳥羽上皇が、菊を好み、自らの印として愛用としたのが始まりとされています。公式に菊紋が皇室の紋とされたのは、1869年(明治二年)の太政官布告によるのです。
この家紋の不思議は、その図案の元となる動植物などが、日本列島古来のものではなく、オリエント渡来のものが多いということです。天皇家の菊も、日本列島古来の花ではなく、オリエントから渡来したものなのです。
では、このオリエント渡来の動植物等を元にデザインした家紋を掲げる戦国武士団の出自を、どのようにして説明したらよいのでしょうか。
日本列島における軍人の呼び名は、飛鳥時代の兵(つわもの)、平安時代の武士(もののふ)・侍(さむらい)、鎌倉時代の武士(ぶし)、江戸時代の武士(ぶし)・武芸者(ぶげいしゃ)などと呼ばれているようですが、それらの日本列島での軍人はどのようにして発生したのでしょうか。
飛鳥時代の代表的軍事部族の物部氏は、倭族とツングース族との混成軍事部族です。平安時代の武士は、怨霊封じのキヨメを行う新羅花郎軍団の末裔です。そして、侍は、天皇の警護と秘書業務を兼ねる、百済亡命貴族の末裔です。鎌倉時代の武士は、源氏は新羅花郎軍団の末裔で、ペルシャ平家は伊勢に渡来した南蛮軍事部族の末裔で、平氏は、百済亡命軍団の末裔です。家紋の用途が、戦闘状況下での敵味方の識別マークだとするならば、何故、戦国時代まで家紋が出現しなかったのでしょうか。
そこで考えられるのが、戦国時代までに中国大陸から日本列島への、オリエント由来の軍事部族の渡来です。
642年ササン朝ペルシャは、571年生まれのムハンマドによるイスラーム教軍団により、ニハーヴァンドの戦いで破れ、ササン朝ペルシャ帝国は崩壊するのです。ローマン・グラスと絹織物との交易中継国であるササン朝ペルシャ帝国のヤズデギルド三世は、シルクロード交易先の唐国をたより、東方へ敗走するのですが、651年に暗殺され、ここにササン朝ペルシャは滅亡するのです。
しかし、そのササン朝ペルシャ帝国残存の貴族、軍団、商人の多くは、唐国(618年〜907年)に辿り着くのです。それに対して、北からの騎馬民族突厥(チュルク族)の圧倒的軍事力に悩む唐国は、そのササン朝ペルシャ帝国亡命者を庇護するわけです。そして唐国は、その残存ササン朝ペルシャ軍団を唐軍に組み込むことにより、唐軍団は、パミールの西まで勢力を伸ばすことが出来たのです。
唐国は、ササン朝ペルシャ軍団のほかに、もうひとつの宝を手に入れたのです。それは、ペルシャ商人のソグドです。
ソグド人は、オリエントで紀元前一千年ごろから活躍したアラム人を祖先としているようです。そのアラム人は遊牧民出身の国際商業民であったのです。しかし、紀元前八世紀にアッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)に、アラム人の政治組織(イスラエル王国を含む)は滅ぼされましたが、そのアラム語は、オリエントでの通商語となり、更に中東全域の共通語へと発展していくわけです。そのアラム語がソグド語、アラビア語、モンゴル語の基となるわけです。
唐国のイメージとしては、東洋人の漢民族の国のように思われますが、実態は、東洋色よりも、オリエント色が強いのです。このソグド商人は、国際商人に相応しく、多言語を話すことができたので、各国の情報も豊富だったのです。(804年唐に留学した空海が、帰国後アラム語の呪文を唱えたのは、藤原氏の依頼により水銀交易のためソグド商人と接触したからでしょう。)
642年ササン朝ペルシャが倒れソグド商人が、唐国に現れた時期が、丁度日本列島で蘇我王朝(突厥系王朝)が、出自不明の藤原氏により倒された時期(645年)と符合するのです。
亡命ペルシャ軍を引き入れた唐軍は、657年西突厥を制圧し、663年唐・新羅連合軍により百済を滅ぼし、668年唐・新羅連合軍により高句麗ほ滅ぼすのです。新羅は、元々ミトラ軍神を祀るギリシャ・ローマ軍により建国された国です。ですから、新羅花郎軍団とミトラ神を祀るオリエントから渡来の唐ペルシャ軍団との軍事連携は、可能だったのです。そして、674年ササン朝ペルシャ亡命王子ペーローズが唐国に渡来するのです。
そのような唐国も、イスラーム軍団がオリエントを支配したことと、北方からの騎馬軍団の来襲により滅亡し、五代十国の分裂時代を経て、960年宋国建国へとなるわけです。
その宋国(960年〜1126年。南朝・南宋国1127年〜1279年)も、北方から来襲した騎馬民族女真が結集して金帝国(1115年〜1234年。)となり、その軍事的圧迫をうけるのです。
南宋国(南朝)は、金帝国(北朝)と平和条約を結ぶのですが、その見返りが、金帝国への絹織物と銀の貢物です。南宋国が、日本国から、宋銭を見返りに、銀・水銀を簒奪したのはそのためです。この南宋貿易で、平忠盛は伊勢の水銀・銀の密輸で財を築き、1132年鳥羽上皇への賄賂で、内昇殿を許されるのです。
やがて12世紀(一説1162年)に、金帝国の北方、ブルカン山ちかくの、モンゴルという部族集団にテムジンが生まれるのです。テムジンは、モンゴル部のなかの更に小連合のボルジギン氏の家柄だったのです。
テムジン(チンギス汗と称す。1206年〜1227年)は、モンゴル集団のリーダーへと浮上したころ、金帝国のタタル部征討作戦を行って「王」の称号を受けたケレイト部のワン・カンの権力を簒奪し、高原の東部と中部の覇者としてのし上がっていくのです。チンギス汗(テムジン)率いるモンゴルは、牧民集団を連合体として肥大化していくわけです。しかし、1227年チンギス汗は、西夏を滅ぼし、帰還の途の六盤山にて死去するのです。
後任のオゴダイ(太宗1229年〜1241年)の下に肥大化し、軍事力を増したモンゴルは、金帝国に挑むのです。そして、六年間にわたる戦闘により、1234年金帝国を倒したモンゴルは、「大モンゴル国」として世界帝国に向けて国力を広げていくのです。
では、何故弱小国のモンゴルが、モンゴル大帝国になれたのでしょうか。それは、金帝国に敗れた騎馬民族国家キタイ遼帝国(907年〜1125年)の軍事力を吸収したことと、国際商人のウイグル人の情報収集力によるのです。
唐帝国も元帝国も、漢民族が国家の運営をしたのではないのです。唐帝国は、軍事の中心は亡命ササン朝ペルシャ軍団で、情報管理はオリエントのソグド商人です。そして、元帝国は、軍事の中心は亡命キタイ軍団で、情報管理は、国際商人のウイグル人であったのです。つまり、唐・元時代の中国大陸には、オリエントから渡来した軍族や商人達で溢れていたのです。
そのような東アジアでのモンゴルが、勢力を増している頃、1219年源実朝は、百済北条氏の陰謀により、公暁により暗殺され、ここに鎌倉武家源氏三代の時代が終わるのです。しかし、その源実朝は、暗殺される三年前、1216年に南宋国(1279年元に滅ぼされる。)の仏工陳和卿を引見して、渡宋を企て、大船の製作を依頼しているのです。このことは、歴史上どのように解釈したらよいのでしょうか。
更に不思議なことがあるのです。それは、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の元軍の来襲です。この二度の元軍の大軍団は、二度とも「神風」により壊滅したことに、歴史上はなっているようです。その説明として、元軍は、海洋民族ではなく、騎馬民族のため、操船に不慣れなため、一寸した一夜の暴風雨でも全滅した、と言うことです。
しかし、この説明は、説明になっていません。それは、フビライ(世祖1260年〜1294年)が経営するモンゴル帝国(1271年元・蒙古帝国)の実情を知らないための説明です。
モンゴル帝国は、1260年をさかいに、前後ふたつのモンゴルに分けることが出来るのです。前期モンゴルは、陸上における領地拡大の時代だったのです。しかし、後期モンゴル(1271年に元国と命名)は、南宋国(源実朝が亡命を企てた国)を接収して、南宋国の海洋渡航技術により、ユーラシアはもとより、北アフリカまでを交易圏にする大構想を持って、海洋貿易立国を推進していたのです。
そのために、中国全土を経済圏とする目的で、南北を連ねる大運河の建設に着手したのです。そのため、元国の貿易船は、内陸運河網により、首都・大都(北京)→通州→直沽(天津)→(渤海湾を経由)→属国・高麗→日本へと大型海船が航行していたのです。
そうでなくとも、中国大陸と外洋船によるアラブやイランとの国際交易は、八世紀からおこなわれていたのです。それらのアラブ人の船員が、中国東海岸地区での港湾都市での出来事を物語したのが、シンドバッド(インドの風を利用して船を帆走させる海洋商人の総称)の冒険物語であるわけです。
そのように、八世紀以降の航海術は、外洋の荒波を乗り越える技術を持っていたのです。では、元寇の二度の「神風」による日本史が解説する壊滅の実体は、史実だったのでしょうか。(「神風」とは、明治の歴史学者が創作した概念。)
元寇の記述がある主な資料は、二つあります。日本側が「八幡愚童記」で、高麗側が「東国通鑑」です。八幡愚童記では、文永の役は、「朝になったら敵艦も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた。」とあり、弘安の役は、「大風あり、沈潜多く、多数溺死あり」とあるのです。しかし、高麗側の史料では、文永の役は、「夜半に大風雨があった。多くの船が沈んだ。」とあり、弘安の役は、日本側史料と同じ内容です。
文永の役に対する、日本側と高麗側の記述の違いは、どのように解釈したらよいのでしょうか。
更に、不思議なことがあるのです。それは、文永の役の翌年1275年、元国は、交易を求めて杜世忠を正使として送り込んでくるのです。それに対して。鎌倉幕府は、元使杜世忠を大宰府から鎌倉の刑場瀧ノ口へ連行して処刑してしまうのです。更に、1279年元使周福が、交易を求めて博多を訪れるのですが、周福は博多で処刑されてしまうのです。(戦争状態の時期に、無防備の使節を二度も送ってくることがあるのでしょうか。それも二度の使節は、無抵抗で斬首されているのです。更に、杜世忠は晒し首です。)
この不思議な元国と鎌倉幕府との交易外交交渉の謎解きは、両国の情報を操作する「禅僧」にあるよるようです。鎌倉幕府は、元国の情報を「禅僧」から得ていたのです。それは、禅は、元々中国大陸で発明された宗教組織だったからです。
そして、この鎌倉時代に日本列島に土着した禅宗は、日本と中国との国際交易に深く携わっていたのです。鎌倉幕府は、南宋国との交易を行うために、鎌倉に国際湊を築いていたのです。そして、鎌倉禅宗組織は、元国と鎌倉幕府との直接交易を望んではいなかったのです。
そこで、ひとつの推論が成立つのです。それは、文永の役では、「神風」は吹かなかったと言うことです。では、三万人を乗せた九百隻の元軍の船は、どうしたのでしょうか。そもそも、その九百隻は、本当に正規の元軍だったのでしょうか。
1274年、元帝国となったフビライ政府は、南宋国境線の諸方から全面進軍するのです。呂文煥軍が、長江中流の要地を戦わずに開城させ、南宋国の北の守り、長江の天険が元軍に突破されると、南宋国の諸都市は次々と投降したのです。
このことは、紀元前334年の、楚による越の攻撃の記憶をよみがえらせます。敗れた越の王族残党は、大型外洋船で東シナ海に脱出して、黒潮ベルトコンベーアにて北九州・日本列島の東北に渡来するわけです。
1274年の文永の役の元海軍といわれているものが、南宋国の王族亡命旅団だとすると、北九州に上陸することを拒まれた翌日、突然九州沿岸から一夜にして「見えなくなった」理由が理解できます。南宋国王族亡命旅団が上陸交渉で多少のイザコザがあったかもしれませんが、それは侵略戦闘などではなかったでしょう。(両軍の死者の信頼できる史料が両国に存在しない。)
では、歴史教科書の1281年の弘安の役の東路軍4万と江南軍10万の元寇は、どのように推測できるのでしょうか。
1276年杭州の南宋政府は、元帝国軍のバヤン軍に全面降伏するのです。しかし、杭州開城に反対した南宋軍の王族残党が、幼帝の兄弟をかついで、東南沿海岸を大型外洋船で流亡するのです。しかし、広州湾頭の克Rで、1279年滅亡するのです。
では、それらのことにより、1281年の弘安の役はどのように推測できるのでしょうか。東路軍の4万の元海軍は、紀元前三世紀の徐福の蓬莱国への渡航を思わせます。元寇の東路軍の大半は、元国の属国となってしまった誇り高い高麗軍だったのです。
徐福は、秦始皇帝に不老不死の仙薬を取りにいくと、童男女三千名と技術者と軍隊と種籾と農機具を積んだ船百隻で、日本列島に向かったのです。これが秦氏渡来の先遣隊だったのです。
では、東路軍渡来より遅れて来た江南軍はどのように推測できるのでしょうか。それは、旧南宋軍により構成されているといわれていますが、その多くは南宋国王族の亡命旅団だったのでしょう。
そもそも、元寇に対しての史料が乏しすぎます。文献にしても、八幡愚童記にしても、日蓮宗の資料にしても、仏教・禅宗関係の資料が多いのはどうしてでしょうか。教科書でおなじみの「竹崎季長絵詞」(たけざきすえながえことば)にしても、元渡航全軍が布陣した敵陣に突入した、と言うよりも、南宋国や高麗の亡命者上陸の交渉中に、状況判断を間違えた武将が一騎で無謀にも突入したことを、後で空想上で創作した絵であるかもしれないのです。元軍の弓は、ボーガンのように百発百中です。本当に、元軍であったなら、一騎で突入した日本の武将は絶命していたことでしょう。しかし、竹崎季長武将は、論功行賞の交渉のためにわざわざ鎌倉まで出向いているのです。
そこで、国際交易の旨味を知る宗教組織による「元寇フィクション説」が理解できるのです。
禅宗組織が流すガセ情報を基に、1263年(弘長3年)日蓮が著し、北条鎌倉幕府に提出した「立正安国論」の理論展開の結果である「蒙古来襲の予言」も、「虚構の元寇」を史実とする重要史料のひとつとなっているのです。
フビライの元帝国は、1260年から海洋貿易立国を標榜し、アラビア、インド、そして日本国と国際交易をするために使者を派遣していたのです。しかし、元帝国と北条鎌倉政権と直接国際交易が行われることは、南宋国と密貿易をしていた鎌倉禅宗組織には脅威だったのです。そして、世界情勢を何も知らない18歳の北条時宗は、禅僧蘭渓道隆の言われるままに、北九州に流れ着いた南宋国・高麗亡命軍団を、元帝国海軍と信じてしまったのです。
1281年に北九州に現れた、南宋国亡命軍旅団は、暴風雨に襲われいずこともなく去っていくわけです。しかし、不幸にも遭難してしまった船もあったのでしょう。その難破船の残存物が、元寇の正体を証明します。元寇と言われている元軍の難破船の残留物の多くが、武器ではなく、甕に詰められた「種籾」と「農機具」であったのです。
朝鮮半島最南端に近い新安郡の沖合いの海底から引き上げられた沈船は、1323年と確定されました。それは、二度目の元寇来襲といわれてから、わずか四十年ほどです。その船には、二万点に及ぶ陶磁器や金属器、そして、約三十トン近くの銅銭がつみこまれていたのです。この交易船は、朝鮮半島からどこに向かって行ったのでしょうか。
では、元寇といわれた南宋国・高麗の亡命軍団船は、対馬海流に乗ってどこに消えたのでしょうか。
武器は、その部族の歴史を語ります。日本列島における武器の流れとして、縄文・弥生時代のサヌカイトの石刀、石棒、弓矢などがあります。奈良時代後期になると、騎馬民族の騎士に対する歩兵の武器として、刀を長棒にくくりつけた薙刀が発明されます。これは、藤原氏の興福寺、百済京都の延暦寺の僧兵の武器となります。では、戦国武将が使用した槍は、どの時代に日本列島に現れたのでしょうか。それは、丁度元寇の後、朝鮮半島沖で元帝国と日本列島との国際交易船が沈没した頃、後醍醐天皇が在位した南北朝の頃です。そして、歴史上実践で槍が使用されたのは、南北朝以降のようです。
では、何故突然日本列島に槍が出現したのでしょうか。そして、戦国時代になると、なんと十メートルもの槍も出現するのです。
西洋の歴史上での槍の出現は、ローマ時代のようです。有名なロンギヌスの槍は、十字架のヨシュア(キリスト)を刺したものです。ロンギヌスとは、ラテン語でローマ男性の呼称です。ローマ帝国軍の主な武器は、十メートルの長槍だったのです。その十メートルの長槍と似たものが、織田信長の傭兵軍で使われていたのです。
その織田信長軍の長槍は、斉藤道三が考案したものと言われています。斉藤道三は、多くの戦国武将と同じに出自不詳です。その名の道三とは別称で、本名は利政です。それは、油商人→僧侶→武士への職業遍歴により、斉藤道三と呼ばれていたわけです。
油商人とは、神社ネットワークにより同業者組合の油座を構築する、全国的反体制の商業集団の一員なのです。そして、その油座は、645年まで秦氏が支配していた山城国(山背国)の山崎が本拠だったのです。
奈良時代、藤原氏により、秦氏の神(八幡・やはた)は、神社に封じ込められ「八幡・はちまん」とされ、その氏子は賎民に貶められてしまうわけですが、秦氏は元々オリエントから渡来の技術者集団だったので、その技術を駆使することにより色々な商業製品を生産し、異界である神社をネットワークとして、同業者集団組織の「座」を構成することにより、全国に商業製品の販売網を構築していたのです。
1017年、平安時代のわが世の春を謳歌する藤原氏一族は、その神社ネットワークの商業網を支配するために、本地垂迹説(仏が本家で、神は分家)を発明し、神社を仏寺の支配下に置くわけです。
油商人の商品原料のゴマには二種類あります。それは、荏胡麻(えごま)と胡麻です。荏胡麻は、シソ科で、原産地は中国南部です。日本列島への渡来は、縄文時代です。それに対して、胡麻はゴマ科で、原産地は、アフリカです。
胡麻が歴史上に現れるのは、紀元前1377年、イスラエル民族のエフライム族の祖先ヨセフ族が活躍した、エジプトのイクナトンの時代のようです。胡麻の用途としては、ミイラの保存剤、灯明の油、そして医薬品です。イクナトンは、胡麻とオリーブを支配地で栽培させることにより、経済基盤を築いていたのです。しかし、オリーブはエジプトの気候に合わず、ギリシャやオリエントで盛んに栽培され、今日に至るのです。古代エジプトでは、胡麻油やオリーブ油は、聖なる油(アラブの物語での呪文「オープン・ザセサミ/開けゴマ」に使われるほど、胡麻は魔力を持つ食べ物として用いられた。)として貴重品であったのです。ユダヤ教では、オリーブ油を頭に注がれたものは王になれた程です。
そして、胡麻は、紀元前六世紀頃、エジプトからインドへ渡来して、アュルベーダ医学では、温めた胡麻油を頭部に垂れ流す治療術が開発されるのです。その胡麻は、オリエントの国際商人と供に中国に渡来し、朝鮮半島を経由して、日本列島には200年頃渡来したようです。645年の藤原氏による蘇我王朝史料の焚書により、飛鳥時代の胡麻の歴史は闇の中ですが、日本歴史上に現れるのは、騎馬民族王朝の天武天皇(672年〜686年)により、胡麻が栽培され、食用油として使用されたようです。
平安初期に、鉱物汚染の奈良から荏胡麻搾り技術者が、山城国(山背国)の長岡遷都に伴い移住し(元々山背国は、645年までは秦氏の支配地であった。)、そして、宇佐八幡を長岡に遷座した頃、大山崎宮の灯明用に荏胡麻油を奉献したようです。その八幡(やはた)とは、秦氏の神様です。その神社の神人(神社の奴隷)らが、山崎油座を組織し、平安時代末期から室町時代まで、油販売の独占をしていたのです。
と言うことは、油売りの斉藤道三は、反体制側のひとでもあるわけです。その長槍を考案した斉藤道三は、娘の濃姫を織田信長に嫁がせるのです。では、賎民の娘を娶る織田信長とは、その出自は、何者なのでしょうか。
織田信長から三代先、つまり祖父織田信定は、弾正忠信定と呼称されていたのです。弾正忠信定は、南朝の残党・新田四家と津島七党が支配する尾張国随一の港町の津島の勝幡を略奪し、そこを拠点として南蛮と水銀の密貿易を行うのです。そして、1543年(天文12年)弾正忠は、密貿易で稼いだ永楽銭四千貫を内裏の修理費として朝廷に献上するのです。これは正に、1132年(長承1年)ペルシャ平家の平忠盛が、南蛮密貿易で稼いだ金を、鳥羽法皇に献上して、内昇殿を許されたことと同じ行動です。
では、織田信長の祖父は、ペルシャ平家の末裔かというと、その出自はまったくわからないのです。ただ、分かっていることは、弾正忠信定の墓は、処刑場近くの勝幡の御所垣内(ごしょかいと)にあるのです。
垣内(かいと)とは、奈良時代末期、百済王朝に敗れ、百済王朝にまつろわぬ秦氏や新羅系日本人が押し込められた、捕虜収容所です。後に、差別部落となるわけです。その部落に、平安時代に聖徳太子を発明した比叡山の延暦寺が、法華経で宣伝する、仏罰者と決めつけるハンセン氏病者を押し込めることにより、その部落を穢れ部落としたのです。織田信長による、比叡山延暦寺の仏僧を、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と、全員打ち首とした原因のひとつは、ここ(前王朝である蘇我・天武天皇の肉食する騎馬民族末裔を、菜食の仏教教義の名の下に穢多に貶めたこと)にあるのかもしれません。
イエズス会は、キリスト教を日本国の中心である京の都で布教するために、その許可を比叡山延暦寺に願い出るのです。しかし、京の商業利権を持つ延暦寺は、なかなか許可しません。それは、日明貿易において、延暦寺側は、イエズス会のインド・東南アジアにおける情報を知っていたからです。医師・宣教師渡来→貧民救済→病院設立→多数の宣教師渡来→学校設立→国際交易商人渡来→軍事顧問渡来→軍隊侵攻→植民地化の流れは、イエズス会の布教歴史そのものです。
イエズス会は、国際交易港となった渡邊津は、本願寺率いる一向宗である浄土真宗門徒の軍団により、要塞化された仏寺で軍事的に支配されているので、イエズス会が率いる渡来軍団では壊滅できないことを知っていたから、最初の異教軍団の壊滅目標として比叡山延暦寺を選ぶのです。
そのためには、イエズス会の傀儡軍を日本全国に組織する必要があるわけです。そこで目を付けたのが、仏教教団にイジメられている賎民出身の仏教嫌いの織田信長です。織田信長の仏教嫌いは、実父の仏葬儀で、祭壇の位牌に線香灰を投げつけ、葬儀にも参加しないほどです。僧侶に悪態をつくのは日常茶飯事ですから、仏教界の敵であるイエズス会には、親近感を持つのは当然でしょう。つまり、敵の敵は味方と言うことです。
それに、仏教と武士とは相容れない存在なのです。それは、殺生禁止で「血」を禁忌とする仏教教義は、敵の首を取ることが手柄となる武士の思想とは相容れないからです。つまり、仏教を信仰する武士は、自己矛盾の存在であるわけです。ですから、武士が支配した鎌倉時代に、肉食する騎馬民族を蔑視する法華経を布教しない「禅宗」が中国から導入され、瞬く間に禅が武家社会に普及するわけです。
しかし、武士と言っても、鎌倉武士と戦国武士とは同じ出自ではありません。鎌倉源氏三代滅亡後は、鎌倉武士は百済亡命軍の末裔で、百済北条政権の陰謀により、新羅系武士の源氏は都から追放され落ち武者として生き延びるわけです。それが、南北朝→室町時代の応仁の乱を経て、戦国時代の下克上の世になると、山奥で生息していた源氏落ち武者の末裔は、その軍事力により戦国大名となるわけです。
その戦国大名に対して、イエズス会の宣教師は、キリスト教を布教するのです。その布教を手助けしたのが、元琵琶法師であったロレンソ了斎です。身体不自由の琵琶法師の了斎は、イエズス会の手厚い医療行為を受けるうち、仏教僧からキリスト者へ宗旨替えしたのです。元琵琶法師をイエズス会に入信させたことにより、イエズス会の傀儡軍団が急速に組織されていくわけです。それは、琵琶法師は同業組合である「座」のネットワークにより全国を行脚することにより、戦国大名の出自や動向を良く知っていたからです。
戦国大名からキリシタン大名になった者の中には、イエズス会が支給する「銃」と「火薬」を入手することを目的とした者が少なからずいたかもしれませんが、イエズス会が説く、「人民平等思想」に共鳴した者も少なくありません。それは、平安時代の空海が中国唐からもたらした「肉食賎民カースト思想」、鎌倉時代からバラモン教の差別思想を取り込んだ仏教組織により発明された、一方的に肉食者は悪である「穢多」と蔑称された者でしか理解できないでものです。そして、キリスト者が、騎馬遊牧民族と同じに肉食することも、肉食する賎民から成り上がった戦国大名には共感できたのです。
キリシタンに入信した大名や武将は、打倒仏教軍団(イエズス会は、男色する仏僧が住む比叡山延暦寺を悪魔の館とし、それを破壊することが正義としていた。延暦寺焼き討ちで、多数の若い女性と童子が斬首されています。女人禁制の仏の聖地に何故多数の女性がいたのでしょうか。)で結束していくのです。その主な武将は、
明石全登(ジュスト・宇喜田家臣)、有馬義直(アンドレ・肥前島原領主)、有馬晴信(プロタジオ・有馬義直の子)、有馬直純(サンセズ・有馬晴信の子)、一条兼定(ドン・パウロ・土佐中村一条家当主)、伊藤義兼(バルトロメオ)、宇久純尭(ドンルイス・五島島主)、木村純忠(バルトロメオ・日本初のキリシタン大名)、木村喜前(フランシスコ・豊後領主)、織田有楽斎(ジョアン・織田信長の弟)、織田秀信(織田信長の孫)、織田秀則(パウロ・織田信長の孫)、加賀山興良(ディエゴ・細川家の家人)、蒲生氏郷(レオ又はレオン・織田信長の家臣。ローマ十字軍の聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティス=山科羅久呂左衛門勝成を軍事顧問として召抱える)、木下勝俊(ペテロ・若狭小浜城主)、京極高知(豊臣秀吉、徳川家康に仕える)、熊谷元直(メルキオール・安芸異熊谷氏)、黒田長政(ダミアン)、黒田孝高(シメオン)、小早川秀包(シマオ・筑後国久留米城主)、小西行長(アウグスティノ)、小西隆佐(ジョウチン・小西行長の父)、志賀親次(ドンパウロ・大友義統家臣)、高山友照(ダリオ・飛騨守で右近の父)、高山右近(ジュスト・キリシタン大名でマニラにて死す)、内藤如安(ジョアン・マニラで死す)、蜂須賀家政、畠山高政、松浦隆信(源氏松浦28代当主)、毛利高政(豊後佐伯領主)、毛利秀包(筑後久留米城主)、結城忠正(アンリケ)などです。
戦国時代での多くの戦いは、天下統一が目的ではなく、自国の領土保全が主目的だったのです。キリシタン傭兵軍団で組織した織田信長の軍団が現れるまでは、戦国大名の軍事行動は、敵の領土侵略に対しての防御が主目的だったのです。それは、戦国大名が治める多くの国は、所得を数十倍にもすることが可能な商業経済ではなく、天候に左右され所得倍増が難しい農業主体経済で、日本全国を統一できる戦闘専門軍隊を抱えることができるほど国が豊かではなかったからです。
ですから、多くの国では、少数の専門軍団と大多数の農業兼務の武士団により構成されていたのが戦国時代の軍隊組織だったのです。ですから、出陣の多くは、攻めるも守るも農閑期におこなわれていたわけです。春から秋までの農繁期には、大きな戦いがなかったのはそのためです。
しかし、織田信長は、他の戦国大名とは異なる軍隊を組織していたのです。それが傭兵による軍事組織です。この軍事組織は誰のアイディアなのでしょうか。そして、この戦国時代での傭兵軍の出現と同時に、武家家紋が出現したのです。
傭兵軍の始めはローマ軍と言われています。金持ちは軍隊に入るのを拒み、金の力により「雇い兵」を雇うのです。すると生活手段としての農地を持たない部族が、軍事技術を売り物にするわけです。それが傭兵軍団の始まりです。傭兵軍団は、戦場(仕事場)で働きを潜在顧客にアピールするために、軍事部族のシンボルマークを発明して、旗や盾につけるのです。つまり、軍団紋は軍事部族を潜在顧客に宣伝するためのマークだったのです。
その軍団紋を戦士の標識として採用したのが、1095年に組織された十字紋を戦旗に掲げる「十字軍」です。十字軍は、キリスト教(ヨシュア教)の聖地パレスチナ回復のためにトルコ遠征を目指すのです。
四世紀のパレスチナのエルサレムは、ローマ帝国によりキリスト教の聖地とされるのですが、七世紀にイスラーム軍団によりエルサレムはイスラーム教の聖地(668年岩窟寺院建設)とされるのです。しかし、異教に寛容なイスラーム教は、キリスト教を排除せず、エルサレムはキリスト教とイスラーム教が並存する聖地となっていたのです。
しかし、そのパレスチナは、セルジュク・トルコ(1037年〜1157年)に占領されてしまうわけです。それに対して、1095年教皇ウルバヌス二世がクレルモン公会議でトルコ支配のエルサレム遠征を宣言するのです。1099年十字軍はエルサレムを占領し、エルサレム王国(1099年〜1187年)を建設し、イタリアの商人がエルサレム巡礼者を相手にする宿泊所兼療養所を兼ねる修道院組織を「聖ヨハネ騎士団」として、法王パスクワーレ二世により正式に認められるのです。
そして、修道院組織である聖ヨハネ騎士団は、その度重なるトルコとの戦争で、大軍団の攻撃に対する防御技術(城の建設技術)を確立していくのです。そして、その聖ヨハネ騎士団の末裔が、戦国時代の日本国に現れるのです。
織田信長が支配する尾張の伊勢亀山の関一政に、京都でキリスト教を布教していたイエズス会のグッキ・ソリディ・オルガンティーノが聖ヨハネ騎士団ジョバンニ・ロルティスを伴ってくるのです。
聖ヨハネ騎士団は、一時エルサレムで活躍していたが、1291年のアッコン陥落によりエルサレム王国が滅亡し、キプロス島に逃れ、体制を立て直して1308年ロードス島を征服し、そこを基地としてオスマン・トルコ(1299年建国、1405年トルコ帝国再興)と対峙するのです。
しかし、1522年トルコ帝国軍は、二十万の大軍をロードス島に差し向けるのです。それに対する聖ヨハネ騎士団は六千。五ヵ月に及ぶ戦いで、聖ヨハネ騎士団は、敗退し、ロードス島を撤退するのです。戦国時代の日本国に渡来したジョバンニ・ロルティスは、この戦いでの残党と推測されます。そこで、聖ヨハネ騎士団残党は、イエズス会と出会い合流し、日本国への渡来となるわけです。(イエズス会の書簡史料によれば、対オスマン・トルコ軍との再戦のために、日本国に傭兵軍を求めて渡来したのが、聖ヨハネ騎士団の主目的だったようです。)
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いでは、駿府の今川義元軍三万に対して、清洲城に立てこもる織田信長軍は三千です。戦国時代の国が軍隊を維持できる数は、その国の農地面積に比例します。ですから、農地面積が狭い織田信長軍の兵は、当然今川軍よりも少ないわけです。ですから、軍人の少ない弱小織田信長軍の戦法は、白兵戦ではなく、ゲリラ戦・奇襲戦に限られるわけです。
それが、1575年(天正3年)の長篠の戦では、武田勝頼軍一万に対して、織田信長・徳川家康連合軍は二万です。更に、織田信長軍には、一千とも三千とも言われる鉄砲隊も加わるのです。そして、この長篠の戦での設楽ヶ原の攻防戦では、日本国の戦闘では珍しい馬防柵を構築しているのです。(1568年織田信長が入京。本能寺近くに南蛮寺建立。1569年織田信長が、イエズス会宣教師ルイス・フロイスに謁見した後、信長軍の軍団規模、軍備、戦術が激変しているようです。)
鉄砲を模倣するのは簡単です。しかし、その銃で玉を発射させるための「火薬」はどのようにして調達したのでしょうか。火薬の原料のひとつである「硝石」は、日本国では殆んど産出されていないのです。戦国時代の硝石は、スペインが侵略した南米のチリが、主な産出国であったのです。(戦国時代の硝石供給ルートは二つ。ひとつは、マカオ→伊勢→京都・南蛮寺のイエズス会ルート。ふたつめは、上海→種子島→紀州(雑賀鉄砲衆の拠点)→京都・本能寺の島津氏・藤原氏ルート。本能寺は「寺」と言うよりも、堀を廻らせた「出城」。織田信長は、本能寺を占拠し、そこを京での宿泊所とした。本能寺の変は、興るべくして起こった。織田信長は、火薬庫の上で宿泊していたのだから。)
火薬を調製し、鉛球と火薬を装填し、そして火縄に火をつけ、弾丸を的にめがけて発射する技術習得は、長期間の軍事訓練が必要です。織田信長軍は、周辺の国々に対して休みなく攻撃をしていたのです。では、織田信長軍の三千とも言われる鉄砲隊の射撃訓練は、何処で誰が指揮したのでしょうか。その記録がないのは、射撃技術を持った傭兵軍団の渡来が考えられます。
桶狭間の戦いから、この十五年間における織田信長軍団の激増と西洋軍式戦術の変貌振りは、どのように説明できるのでしょうか。
この1560年から1575年の15年間には、戦国大名との戦闘の他に、宗教軍団との戦いがあったのです。
戦国大名との戦いは、桶狭間の戦いの決着は、奇襲攻撃が功を奏して、短時間で着き、そして、長篠の戦の天王山、設楽ヶ原の戦いは四時間ほどで決着がついたのです。それに比べて、三河・長島一向一揆、石山合戦といわれる宗教軍団との戦争は数年から十年もかかっているのです。これは歴史上どのように説明できるのでしょうか。
歴史教科書の説明には宗教組織と織田信長軍との戦争は、ムシロ旗を掲げ鍬や竹やりを武器とする農民軍団とのイザコザ程度のような記述ですが、織田信長軍は設楽ヶ原の戦いでは、武田勝頼軍一万を四時間ほどで壊滅させるほどの破壊力を持っていたのです。更に、飛び道具の「鉄砲隊」もあったのです。そのような強力軍団との長期戦争は、唯の農民軍団では無理でしょう。では、一揆軍は、どのような組織により構成されていたのでしょうか。
1570年(元亀元年)大阪からの立ち退きと矢銭を要求されていた本願寺との石山十年戦争の緒戦・三好三人衆との戦い。1571年(元亀1年)京都の「座・市」経済を支配する比叡山焼き討ちと僧侶皆殺し。1573年(天正2年)「座」のネットワークを支配する賎民による伊勢長島一向一揆鎮圧などの戦争があるのです。(これらの宗教戦争は、その底辺には、借上の高利貸しをおこない、「座」と「市」を経済支配し、関所を設けて通行税を徴収する比叡山延暦寺を頂点とする仏教組織を壊滅し、織田信長が日本の経済を支配することが目的であったのです。それは、イエズス会の国際交易商人と同じです。日本一の商業都市・大阪の奪取は、織田信長とイエズス会の国際交易商人の悲願だったのです。)
そして、1570年に始まる、毛利氏の物資援助や雑賀衆鉄砲隊が援軍する石山本願寺との戦闘が、1580年(天正8年)まで続くのです。このキリスト傀儡軍と仏教軍団との十年宗教戦争は、戦闘だけでは決着できずに、織田信長が朝廷に講和の斡旋を願い出て、本願寺に物資援助をしている毛利輝元と和議の交渉を段取りする段階で、織田信長の突然の和議斡旋の辞退により、本願寺側は武器や食料の援助が毛利氏より得られないため、戦況は織田信長軍に有利にすすめられ、1579年12月(天正7年)本願寺と織田信長は講和を成立させるのです。
そして、織田信長により大阪の本願寺は焼き払われ、大阪はまさに織田信長の支配一歩手前となるのです。そして、織田信長が、最後の仕上げである雑賀衆残党が支援する本願寺顕如の長男教如を壊滅するために、「本能寺」で逗留している時、1582年本能寺が織田信長と伴に爆発するのです。そして、本能寺近くの南蛮寺にて、それを見聞していたのが、イエズス会の国際交易商人フロイスです。
では、織田信長は、誰により爆殺されたのでしょうか。
歴史教科書によれば、1582年本能寺の変は、明智光秀の謀反ということになっているようです。しかし、一寸調べれば、明智光秀よりも疑わしい者がいるようです。そのヒントは、「敵は本能寺」です。
1582年(天正十年)織田信長が、本能寺で明智光秀の一万三千の軍団に取り囲まれ、寝込みを襲われ闘い敗れるのを察知して、自ら火を放ち自害した物語の基は、側近の太田牛一の「信長公記」による刷り込みが原因です。しかし、この「信長公記」は、本当に史実を語っているのでしょうか。
「信長公記」は、織田信長の側近太田牛一(おおたぎゅういち)が日々したためた日記を基に、豊臣秀吉の校閲のもとに現れた書物のようです。ですから、古来よりその記述内容に対して疑問を投げかける人も少なくありません。しかし、本能寺の変後の豊臣秀吉による緘口令や焚書などにより、「本能寺の暗殺」を知るための信頼される史料は、「信長公記」以外には存在していないのが現状のようです。
歴史を物語る場合、その史料となるものが、遺跡や古文書です。遺跡や遺品には言葉がありません。しかし、古文書はそれ自身が物語りであるのです。それらの古文書の多くのものは、社寺に保存され、そして、公家にも日記として保存されているのです。その理由として、社寺は、借上などの高利貸しの記録から借用書類の史料を保存するわけです。
では、何故、多くの公家は日記を付けたのでしょうか。それは、平安時代の比叡山延暦寺が、寺内で行う双六などの賭博により借上の借金を公家に踏み倒されないように、「往生要集」などで地獄思想を布教し、借金を返さない者やウソをつく者を脅すために発明した、ウソつきの舌を抜く「閻魔様」によるのです。その思想によると、キリスト教を真似た「閻魔様による最後の審判」の時、そのひとの生前の行いにより、地獄か極楽かに振り分けられるのです。
ですから、地獄思想を仏僧により刷り込まれた公家達は死後、地獄ではなく、極楽行きを望むため、日々の「良い行いだけ」を記録し、最後の審判の日に備えるわけです。それが、平安時代からの公家日記の始まりです。ですから、日記にある事柄が全て真実とは限りません。それは、ひとは「ウソ」がつける動物だからです。
本能寺の変が、歴史教科書の記述のようではないと疑われる主な原因としては、三つあります。
一つ目は、討ち入りの主目的は敵将の首を取ることです。焼死遺骨でも首は首です。しかし、信長の焼死体が存在しないのです。(通常火災により骨が全て灰になることは疑問。骨が一瞬にして消滅するのは、何らかの化学的燃焼が示唆されます。)
二つ目は、何故明智光秀は、一万三千の軍団を、分散して妙覚寺には向けずに、それほど大きな建物ではない本能寺だけに集結させたのか。(もし天下を本気で取るのであれば、織田信長の息子のいる妙覚寺も同時に襲うことは常識。妙覚寺の約二時間後の襲撃は何故か。)
三つ目は、何故豊臣秀吉軍は、毛利軍と一日で休戦交渉を成立させ、摂津に四日後に戻れたのか。(戦闘状態の毛利軍と一日での休戦は不可能。何故摂津帰還時で、二万の大軍団の食料調達が事前に行われていたのか。)
「本能寺の変」に関しての状況証拠に疑問がある上に、更に織田信長軍の最高武将達にも疑問があるのです。その最高武将達とは、柴田勝家、滝沢一益、明智光秀、羽柴秀吉です。これらの武将に共通することは、多くの戦国大名と同じに、全員出自不詳であるのです。(豊臣秀吉を除いて、他は中年期に歴史上に出現。)
戦国時代とはいえ、織田信長軍団の最高責任者四人とも子飼いの武将ではなく、中途採用でしかも出自不詳であるのです。「誰」が、出自不明の人物を軍人として織田信長に斡旋したのでしょうか。
斡旋者として考えられるのは、イエズス会の京都担当巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノです。(イエズス会宣教師オルガンティーノが、伊勢亀山城主関一政に十字軍の末裔聖ヨハネ騎士団のジョバンニ・ロルティス「日本名:山科勝成」を軍事顧問として斡旋した先例がある。)つまり、織田信長の最高武将の四人は、明国からイエズス会の傭兵としての渡来も考えられます。それは、本能寺の変の一年前、1581年(天正9年)織田信長は、天下統一を誇示するために、京の都で、日本国始めての軍事パレード(五百頭の馬揃え)を、織田信長軍の影のスポンサーであるイエズス会のヴァリニャーノを主賓として行っていたからです。
明智光秀は、十三代室町将軍足利義輝の次弟覚慶(義昭)が三好三人衆により京都から追放され元足利家臣を頼り、各地を流浪している時、覚慶(後の足利義昭)の臣下となったのです。それ以前の経歴は不詳です。そして、明智光秀が、足利義昭を上洛させるため、織田信長に後見人の依頼を願い出た時、織田信長軍にも採用されたのです。つまり、明智光秀は、二人の主に仕えていたのです。
明智光秀の本当の主は、織田信長ではなく、足利義昭(1568年〜1573年室町幕府滅び、京から追放される。毛利氏をバックに上洛を謀る。)だったのです。織田信長に仕えたのは、足利義昭を織田信長の軍事力を利用して上洛させるためだったのです。このことにより、明智光秀が「天下人」を望んでいた、とする根拠は薄れます。それでは、誰が織田信長暗殺の真犯人なのでしょうか。
真実を知る者が、後世の人に知らせる手段として、公の書物の中に暗号として残すことが、古来から行われています。例えば、新約聖書にあるパモス島のヨハネによる、レビ族の聖書改竄を知らせる「ヨハネの黙示録」の「666の謎」、そして、平安時代の多人長による、藤原氏が旧約聖書を基に創作した「日本書紀」(720年)を、平安時代に更に桓武天皇により、蘇我・新羅系王朝を抹殺し、百済王朝有利に日本書紀が改竄されたことを知らせるための「古事記」(812年)などです。
では、豊臣秀吉による「本能寺の変」の史実隠蔽の時期に、誰が、その首謀者をどのようにして後世の人に知らせようとしたのでしょうか。
豊臣秀吉は、太田牛一に命じて「信長公記」を創作させる他に、「本能寺の変」の四ヵ月後に、五山系の儒僧大村由己(おおむらゆうこ)に、「惟任退治記」(これとうたいじき)の記録書を書かせているのです。惟任とは、織田信長が与えた名で、明智光秀は、惟任日向守とも言われていたのです。
豊臣秀吉が、「明智退治記」とせずに、「惟任退治記」とした意味は、明智光秀が織田信長の忠臣であったことを「強調」する意図がミエミエです。つまり、忠臣を装う極悪人「明智光秀」のイメージ創りです。そして、明智光秀の天下取りの意志がある根拠として、本能寺の変の前日に行われたと言われている連歌の会での明智光秀の歌、「時は今天が知る五月かな」を、その証拠としているのです。時(とき)は、明智氏の本姓土岐(とき)氏に「かけた」ものと言われています。
その「信長公記」と「惟任退治記」とにより、後世の人の歴史的常識として「織田信長殺しは、明智光秀」である、と信じられているのです。しかし、織田信長の家臣太田牛一の「信長公記」の一節、明智光秀軍一万三千が老ノ坂から沓掛に差しかかった時、明智光秀が発した「我が敵は本能寺にあり」、が意味をもってくるのです。従来の解釈では、明智光秀軍の敵は、「本能寺に逗留している織田信長」である、と言うことです。
しかし、「敵は本能寺」を「織田信長の逗留している本能寺」とするのではなく、「本能寺」を所有していた者が本当の「敵」であるとすると、従来の意味とはまったく違ってくるのです。
日蓮宗により建立された砦である本能寺は、1536年「天文法華の乱」の京都仏教戦争により比叡山延暦寺の僧兵により破壊され、その後、藤原氏の興福寺系の種子島の慈遠寺とネットワークを結ぶのです。種子島からの硝石は、紀州根来寺を経由して、京都本能寺へ運ばれて、戦国大名に売りさばかれていたのです。つまり、本能寺は、島津氏(藤原氏)の系列寺であったわけです。その本能寺を、1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて入京した織田信長が摂取したのです。そして、イエズス会に京での布教を許し、その近くに三階建ての南蛮寺の建立を許すのです。そして、織田信長は、1570年近江姉川の戦いで浅井長政に勝利するのです。
その後、織田信長軍の軍拡が進み、西洋式戦術の快進撃により、近畿周辺国は織田信長の軍門に下ったのです。天下を狙える武将で残るは、織田信長と離反した足利義昭をいただく毛利氏だけです。
その毛利攻めを羽柴秀吉に行わせ、正に天下統一前の時、「本能寺の変」の前日、四十人あまりの公家達を集めて大茶会を、織田信長は本能寺で行ったのです。それらの公家は、近衛公、九条公、一条公、二条公、聖護院の宮、鷹司公、摂家、清華家、などなどです。
近衛公とは、藤原氏の末裔です。鎌倉時代、百済北条政権により、都から追い落とされた藤原氏は、近衛家、日野家、菊池家などに変身していたのです。
この近衛家は、本能寺の変で、不思議な行動を起こしていたのです。「本能寺の変」といわれる「暗殺」が行われてしまった後に、本能寺に集結した明智光秀軍一万三千人は、後続が集結するまで、本能寺から程近くの所で待機していたのです。一万三千人の後続が目的地に到着するには、少なくとも二時間以上は必要だからです。
それは、明智光秀は、織田信長により、征夷大将軍の位を婉曲に拒否する朝廷を脅すため、未明に本能寺に軍団が集結するように密命されていたのです。しかし、本能寺での異変(建物は一瞬の猛烈火のために原型を留めず。)に気づいた明智光秀軍は、父織田信長と確執がある息子信忠が逗留する妙覚寺に向かうのです。
やっと本能寺での異変を知った織田信忠は、妙覚寺より堅牢な建物である隣の二条御所に避難するのです。二条御所に立て篭もれば、援軍が駆けつけるまで持ちこたえることが可能だからです。しかし、二条御所は呆気なく明智光秀軍により陥落してしまうのです。それは、二条御所に隣接する近衛前久邸の屋根から、明智光秀軍の鉄砲隊が一斉射撃をおこなったからです。
何故、近衛前久は、逆賊の明智光秀軍を阻止しなかったのでしょうか。そして、近衛前久は、その後、京から逃亡し、三河の徳川家康に保護を求めていたのです。
その近衛前久の不可思議な行動に勝る不思議が、羽柴秀吉の不思議な昇進です。
毛利軍との戦いを急遽休止して駆けつけたばかりの軍団による、1582年山崎の合戦で、明智光秀軍を壊滅した羽柴秀吉は、1584年最大のライバル徳川家康と小牧・長久手の戦いで敗れますが、1584年(天正12年)従五位に叙爵、その月の内に従四位下参議の口宣案をとりそろえ、翌年の1585年3月正二位内大臣となり、そして、元関白の「近衛前久」の猶子(名義上の子。何故、名義上といえども、出自不詳・賎民の羽柴秀吉が日本古来の貴種である藤原氏の一員となれたのでしょうか。ここに戦国時代の大きな謎が隠れています。)となり、7月には正一位に昇叙し、ここに出自不明・賎民出身初の関白となるのです。
しかし、自称平氏では、源氏武士の最高位の征夷大将軍とはなれないため、更に出自不明では藤原氏を名乗ることができないため、1586年(天正14年)に太政大臣となり、大和王朝の前身王朝「秦王国」の別名「豊国」から、「豊臣」の氏名を発明するわけです。豊国は、藤原王朝より格上であるから、豊国の臣である「豊臣」は、藤原氏より格上であるとの理屈です。
豊臣秀吉(自称平氏)が天下を取ると、反豊臣の武将の末裔(源氏系武士)や改宗しないキリシタン大名(秦氏系武士)は賎民と蔑まれ、穢多部落に押し込められるのです。これは、正に、武家源氏の末裔を穢多として社会的に抹殺した北条鎌倉政権の再現です。そして、1590年、豊臣秀吉の最大のライバル、部落出身の徳川家康(自称源氏)は、関東のひとも住めぬ河口、葦の生える湿地帯「穢土」(えど→江戸)に移封されるのです。そして、そこに現れるのが穢多頭の弾左衛門の一族です。
では、この藤原氏の末裔の近衛前久と豊臣秀吉の不思議な行動と昇進は、誰により、何故おこなわれたのでしょうか。この二人を「駒」として、「本能寺の変」はどのように計画され、そして実行されたのかを推理してみましょう。ヒントは、織田信長軍と行動を伴にしたキリシタン大名は、織田信長暗殺後も引き続き豊臣秀吉と軍事行動を伴に行ったのは何故か、と言うことです。
日本列島の古代が、オリエント諸国での動乱・紛争の結果である、騎馬民族や遊牧部族の東進の影響を大いに受けたように(紀元前三世紀秦氏の先祖徐福の渡来、「ヤマト」のチュルク族渡来の蘇我王朝、そして、645年その王朝を乗っ取ったユダヤ色が漂う藤原氏の渡来などなど。)、中世・戦国時代の日本列島は、ヨーロッパ諸国(ポルトガル・イスパニア)の影響(戦国時代に家紋・エジプト発祥の楕円の印章が出現した。)を大いに受けていたのです。
1347年から1351年間の全ヨーロッパでは、黒死病(ペスト)の大流行により、人口が大幅に減少し、なかには全滅する都市もあったほどです。更に、1353年には、東からトルコ軍のヨーロッパ侵攻も始まるのです。
四世紀ローマ帝国の国教として布教されたヨシュア教(キリスト教)も、中世ヨーロッパでは、国際交易商人が国際交易により富を増大するのに合わせるように、その宗教的権力を増大していくのです。
そのヨーロッパの富の基は、ペスト病を防止すると信じられた「香辛料」です。肉食のヨーロッパでは、肉の腐敗を防止する「香辛料」は、「金」と同等の価値があったのです。しかし、その香辛料の原産地のインド・東アジアは、イスラームの商人達により支配されていたのです。
中世において、キリスト教の布教力を利用して交易地を海外に広げていく国際交易商人は、その香辛料を直接入手(略奪)するために、ユーラシア大陸はトルコとイスラーム勢力に経済的に支配されているため、大西洋の彼方にある未開拓地を目指すのです。その結果が、1492年コロンブス(イスパニア王国)のアメリカ大陸への到達と、1498年ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)のインド航路の発見です。この二人の冒険家(?)により、「香辛料」の原産地のインド・東アジアは、植民地への時代に突入していくわけです。それに手を貸すのが、カソリックの教会組織です。
国際交易商人と結託するカソリック教会組織は、その権力を利用して、1500年キリスト(ヨシュア)降誕祭を利用して、教皇庁は「免罪符」を発売したのです。その「免罪符」を購入すれば、誰でも全ての罪から開放されるというのです。それに対して、1518年マルチン・ルターは95ヶ条の質問を教皇庁に突きつけるのです。これが火種となって、宗教改革に発展していくわけです。この流れから、カソリック教会を脱退して「プロテスタント」組織が生まれるわけです。(広告用語の「プロパガンダ」は、ここから発生した。つまり、カソリック教会側が、プロテスタント布教活動を揶揄して、「ウソッパチの布教・宣伝」として発明された言葉が「プロパガンダ」なのです。)
このプロテスタントの勢力増大に脅威を感じたローマ・カソリック教会は、その巻き返しと、新たな布教地を求める活動を模索するのです。そのようなカソリック教会自身の改革と刷新が推し進められている時、1534年イグナティス・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブル、ティエゴ・ライネス、アロンソ・サルメロン、シモン・ロドリゲス、ニコラス・ボバディーリャの七名が、「イエズス会」を誕生させるのです。
この「イエズス会」とは、「イエスの同士」の意味の他に、「イエスの軍団」、「イエスの戦闘部隊」という意味も内包していたのです。この「イエズス会」のキリスト布教教団の特異性は、そのバックに、ローマ教皇とポルトガル国王の庇護と経済的援助、更に国際交易商人組織も支援していたのです。
「イエズス会」の目指すところは、「すべてはより大いなる神の栄光のために」を標榜し、「すべての布教手段は神の基に許され」、「地上の王」カソリックの神の教えを異教徒に広めることです。しかし、ポルトガル国王と国際交易商人の考えている事とは、少しズレがあったようです。
他のヨーロッパ諸国より先に、羅針盤による外洋航海術と造船技術と地理学を習得したポルトガルとスペインとは、それぞれの征服先が、東回りのポルトガルと西回りのスペインとに異なっていたのが、地球が丸いため最終的に一点に集約するため、征服地の帰属問題が生じたのです。その解決のために、ローマ教皇の下、ポルトガルとスペインとが異教世界を二分割に征服する事業「デマルカシオン」を発明するわけです。
ローマ教皇はポルドガルに、ポルトガルの海外侵略と抱き合わせに、キリスト教布教を目論んで、新発見地での原住民を奴隷化する権利と貿易の独占権を与えるわけです。スペインは、それに対して異議を申し立て、1494年トルデシーリャス条約を結び、ベルデ岬諸島の370レグアを通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、そして、西側全域をスペイン領とするのです。
つまり、十五世紀半ばの非キリスト教世界は、ローマ教皇の許可の下に、ポルトガルとスペインの「征服予定地」となってしまったのです。勿論、戦国時代に突入する下克上の群雄割拠の日本国も、ポルトガルの侵略支配地として、ローマ教皇により認められていたのです。
イエスの神の守護の下、イエズス会(ポルトガル)は、1530年ポンペイ占拠、1536年インドのディウを占拠をし、そこをイエズス会の拠点とし、1542年ザビエルがインドに現れるのです。その年1542年ポルトガル人(イエズス会宣教師)を乗せた明国マカオ船が、日本国種子島に来航するのです。その孤島の種子島は、鹿児島の島津氏(島津氏は藤原氏の末裔近衛家と親戚関係)の南蛮密貿易地であったのです。(歴史教科書ではポルトガル船種子島に漂着1543年としている。)これは、1549年ザビエルの鹿児島来航への下調べであったのです。
そして、インドを占拠したイエズス会は、1557年中国・明を支配する拠点としてを占拠するのです。しかし、大国の明国はイエズス会渡来軍団だけでは太刀打ちできません。そこで、このマカオを拠点として、東アジア世界征服戦略を練るのです。そのために、まず手始めとして日本国をキリスト教化にして、その後、日本キリスト教軍団を組織して明国を征服する、と言う計画であったのです。
では、そのような視点により、イエズス会は、どのようなプロセスにより日本国をキリスト教化していったのかを考察してみることにしましょう。そして、そこに織田信長の暗殺者が浮かび上がってくることでしょう。
布教とは、幻想(ウソ)をセールスすることです。ひとは、自我という意識を獲得した時点から、不安と恐怖の感情を保持してしまったのです。その不安と恐怖の感情を、自我の意識でコントロールできれば問題はありません。しかし、未だ意識により、不安と恐怖は克服されてはいません。その穴を埋める技術のひとつが、「宗教」という幻想(ウソ)です。つまり、ひとは幻想(ウソ)無しには生きられない動物なのです。
布教がセールスと同じであることは、現代の広告理論は全て宗教の布教手法を真似ていることからも理解できるでしょう。広告・宣伝を揶揄して、「プロパガンダ」と言っていることからも納得できるでしょう。
物やサービスを売ることの手始めとして、マーケティングをおこないます。マーケティングとは、物やサービスを売るための「仕掛創り」のことです。その仕掛創りを行うための材料集めが、市場調査ということです。
イエズス会の宣教師が、1542年明国船で種子島に渡来したのは、日本国の市場調査のためだったのです。その情報を基に、1549年マカオからザビエルが鹿児島に渡来するわけです。
マーケティング理論が良くても、提供する物やサービスが、潜在顧客が望まないものは売ることはできません。
鹿児島を影で支配する藤原氏(鎌倉時代、藤原氏改め近衛家)は、奈良時代から戦国時代の今まで密貿易をおこなっていたため、イエズス会のザビエルが提供するインドや明国の物(銃と硝石)やサービス(キリスト教)に触手を伸ばさなかったのです。元々藤原氏は、蘇我王朝を倒した645年から「イエズス会のような組織」でしたので、イエズス会の布教戦略には乗らなかったのです。その証拠に、イエズス会傀儡軍である豊臣秀吉軍が、1587年(天正15年)九州で最後に闘ったのが島津軍だったのです。
物や宗教サービスを求めるひとは、貧乏人か病弱者のようです。
イエズス会は、占領地を統治する手法として、医師を派遣し、弱者救済を行い、シンパを育て、そして病院を設立し、そこを布教拠点として、国際商人を招きいれ、学校を設立して現地裕福者の子弟を洗脳し、その中から優秀な者を選び出し、布教の後継者として育成していくわけです。
イエズス会がインドでの布教が短期間でおこなわれた原因のひとつは、インドのカースト制度のおかげです。カーストの最上級階層を取り込んでしまえば、その下のカーストは、上カーストに無抵抗になびくからです。
イエズス会は、インド侵略のために、カースト思想を調べつくしていたのです。そのカースト思想が、日本国にも存在しているのを市場調査で知るのです。そして、そのカースト思想が大乗仏教に取り込まれていることも知るのです。
イエズス会宣教師(商人)のフロイスは、パライヤ(タミル語でカースト思想の不可触賎民のこと)を日本国では「エタ」と認識し、「エタ」は「河原者」とも呼ばれ、猿楽、舞々、ささら(竹細工職人、千利休の茶道と関連)、鉢叩、琵琶法師(フロイスの助手ロレンソ了斎の前職業)などの職業に従事して、体制から差別をうけていることを知るのです。そして、その体制から差別を受けている者を探し出すのです。それが、九州長崎の大村純忠(バルトロメオ)と九州大分の大友宗麟(フランシスコ)です。この両名も、数代先の出自が不明なのです。(豊後には1541年ポルトガル船来航)
イエズス会は、その両国(長崎・豊後)が経済的に疲弊していることを調べ上げ、マカオから持ち込んだ品々を気前良く振舞うのです。それは、日本国の市場調査により、日本人は物品を贈られて始めて行動を起こす、ということを知ったからです。つまり、日本国では、何がしかの物品を与えないと、何事もなしえない、ということです。
イエズス会の贈り物に対して、両国はポルトガル船の湊を構築するわけです。このことにより、ポルトガル船の交易ルートが、ポルトガル→インド・ゴア→中国・マカオ→日本国・長崎・豊後と繋がるわけです。しかし、そこから先の日本国の経済中心地の大阪は浄土真宗軍により支配され、そして、政治の中心地の京都は比叡山延暦寺軍により支配されているわけです。
仏教軍団が支配する都へ侵攻するために、次なる基地を求めることになるのです。その候補が、堺と伊勢です。
インドに拠点を確保したイエズス会は、インド管区長であったヴァリアーノが、巡察師となって日本国を統括するに当たって、市場調査を基に布教戦略(ポルトガル王国にとっては植民地化戦略)を練るのです。日本侵略のマーケティングとして、日本国の重要拠点を三地区とするのです。
第一地区の下地区の長崎を、マカオ貿易の補給基地とイエズス会修道士の日本語養成基地とするために、敵対宗教組織の仏教軍団から防衛するために軍事要塞化とする。
第二地区の豊後地区は、イエズス会修道士のための教育地区として、コレジオ(予備教育機関のセミナリオで修学後、高等教育を受けるための施設)と修練院(修道士としての適正を見極める施設)を建設し、マカオから都への中継基地とする。
第三の都地区は、日本国を精神的に統治している天皇と軍事的に統治している将軍をキリスト教に改宗するために、華麗なる教会を都に建設し、キリスト教の華麗なる教典儀式を都で披露する。それにより、天皇と将軍がキリスト者となれば、日本国はキリスト教王国となる。
そのような綿密な布教戦略に基づいてイエズス会は、日本国にキリスト教を布教(侵略)するために訪れていたのです。しかし、歴史教科書では、ポルトガル船の「漂着」とか、イエズス会が「ふらり」と日本列島に現れたと記述しているのは何故でしょうか。
第一地区、第二地区の基地を確保したイエズス会は、第三地区の「都」に侵攻するために、その上陸地候補の「堺」を市場調査するわけです。
「堺」の名の由来は、摂津国と和泉国との境界にあるところからです。奈良時代から、宇陀の水銀交易(イエズス会に同行する国際交易商人も宇陀の水銀・銀の奪取が目的)のため、摂津の難波と紀州の国際交易港があったために日の目をみなかった「堺」にも、室町時代末期の「応仁の乱」と、京での一向宗軍と法華宗軍との戦闘、そして、法華宗と比叡山との宗論抗争の果ての「宗教戦争」に嫌気を刺した都の知識人や豪商などが、ぞくぞく集まってきたのです。それは、「堺」は、外敵を防ぐ堀を廻らせた要塞都市であったからです。そして、それらの都の乱により、難波や紀州の湊を避け、明国船が「堺」を交易港としたからです。更に、三好三人衆による軍事的保護も、自由都市「堺」を、経済の避難所としていたのです。
戦国時代に、そのような社会情勢により、「堺」は一躍国際交易都市となったのです。経済的に余裕がある処には文化の華が咲きます。賭博の一種であった「茶のみ・闘茶」も、ここ堺で、千利休により「茶道」になったのは、明国からもたらされた豪華な茶器や装飾品によるのです。この「茶器」が、織田信長の命を落とす「道具」であったことは、1582年まで待たなければなりません。(戦国時代の茶器は、鎌倉時代、御恩と奉公のために与える土地が鎌倉末期の幕府にはなくなったため、智慧者が「茶器」は、土地よりも高価なものであると刷り込んだことにより、土地よりも価値あるものとなっていた。)
千利休が開発した「茶道」は、キリスト教の赤ブドウ酒の聖杯を回飲みする儀式を真似たものと言われています。茶に添えるお菓子がパンの役割です。しかし、そのキリスト教の聖杯儀式も、ミトラ教の太陽のシンボル牡牛を、太陽の再生を願って屠った時の血(赤ぶどう酒)と肉(パン)を摂ることにより、自身の再生も願う儀式を真似たものなのです。
千利休が、キリスト教の儀式を真似たのか、ミトラ教の儀式を真似たのかは分かりませんが、千利休の周辺には、太陽神ミトラ教が中国大陸で変身した、「景教」を信じる秦氏末裔の賎民技術集団「穢多」の存在が示唆されます。その一例として、千利休が開発したと言われる、外穂の先端を内に曲げる形状の「茶筅」があります。茶筅は、誰でも作れるものではなく、穢多頭の弾左衛門が支配する「ささら」の限定職人でなければ、同業組合を仕切る「役座」にお仕置きをされてしまいます。
更に、「堺」では、仏教にイジメられていた景教を信じた秦氏末裔の多くが、キリシタンに改宗しているのです。飛騨の山奥に暮す金箔貼り技術者の高山右近もキリシタンとなり、その高山右近ジュストは、千利休の「茶道の弟子」となっているのです。室町幕府十三代将軍足利義輝を、三好三人衆と伴に襲った松永久秀も、千利休の茶同朋衆であったのです。「わび・さび」とは異なり、「きな臭い」本名田中、通称与四郎の千利休とは、「せん」(賎民=秦氏末裔)の利休と言うことなのです。
千利休が賎民と深く関係している根拠として、千利休の開発した茶道に強い影響を与えた茶の師匠である「武野紹鴎・たけのじょうおう」は、「堺」の街で商いをする「皮革商」の子息なのです。閑雅な草庵の茶室、侘びの茶道具を創案し、それを千利休に伝えたのは、限定職の皮製品を扱う賎民の子息武野紹鴎だったのです。鎌倉時代、百済北条鎌倉政権に、「かわた」とイジメられた騎馬民族末裔の秦氏・新羅系源氏武士末裔も、戦国時代になると、軍事物資である「皮革」は、戦国武将の需要に生産が追いつかないほどであったので、その財力は並みの戦国大名以上であったのです。その軍事物資である「皮革」が、新興都市「堺」で扱われていたことは、そこ「堺」には、賎民といわれる技術者集団が多く暮らしていたことを示唆します。「堺」が自由都市と言われるのは、「座・市」を支配する仏教組織から自由であるということです。
因みに、戦国時代に現れた科・化学技術を駆使する忍者集団は、秦氏末裔の軍事集団です。部落出身の徳川家康を護る忍者部族の服部氏は、秦氏の末裔だったのです。
戦国時代の「堺」の町は、豪商と知識人と文化人で溢れていたのです。そのような経済的に余裕のある人には、宗教は必需品ではありません。せいぜい教養のひとつです。しかし、イエズス会は、「堺」で茶同朋衆(反仏教者)とコンタクトを取れたことにより、後の仏教軍団壊滅と「本能寺の暗殺」に結びついていくわけです。
イエズス会の都支配の目的(布教)と、ポルトガル王国と国際交易商人の都支配の目的(黄金の国ジパングで金・銀の奪取が目的)は同じではありません。後者の目的は、日本国の地理的支配と経済的支配です。そのためには、六十余国に分かれている日本国を一つにまとめる必要があるのです。その政治的中心は京都です。そして、経済的中心は大阪です。この二つを支配することで、日本国を完全に支配できるのです。そのためには、各国を支配する戦国大名達を滅ぼして、統一国を造ることと、そして、「座・市」、「借上の高利貸し」、「関所の通行税」などで経済支配をしている仏教組織を壊滅することです。
そこで、イエズス会は、戦国時代の日本国を軍事統一し、そして、仏教軍団を壊滅できる武将を探すのです。
戦国時代の武将の人物像は、江戸時代まで生き残った戦国武将の末裔が、先祖の権威を付けるため系図屋に創作させたり、講釈師により創作されたものが大部分なのです。なかには、客観的史料を装い寺社史料や公家日記などを引用して創作したものもあるかもしれませんが、不都合な書類は焚書・改竄されるのが史料の運命ですから、戦国武将の複数の史料を比較検討すると、史実のわけが分からなくなるのが実状です。つまり、戦国武将の出自を証明する「源平藤橘」に行き着く系図は、江戸時代に注文者の都合にあわせ創作されたものだからです。系図を創る「系図屋」とは、隠語で「いかさま師」の意味なのです。(恐らく、応仁の乱から出現した武将の多くは、鎌倉時代、元寇といわれた南宋国か高麗の亡命武士団の末裔でしょう。)
織田信長の人物像もそのひとつです。織田信長についての史料は、それほど多くはないようです。それは、意図的に誰かにより焚書されているようです。特に、イエズス会との関係資料は、フロイスの日本史がなければ、「日本生まれの革命家」のイメージが思い浮かびます。(第一百済王朝・平安時代。第二百済王朝・北条鎌倉時代。第三百済王朝の徳川家光以来の江戸では、百済の守護寺の比叡山延暦寺を壊滅した織田信長の評判は、最悪だったようです。織田信長が、歴史上脚光を浴びたのは、太平洋戦争敗戦後の昭和三十年頃のようです。旧秩序を破壊した織田信長の業績が、時の政府により「革命家織田信長」として利用されたのです。)
しかし、織田信長の行動は、日本人の基準を遥かに超えています。それらは、ヨーロッパ式軍事行動はもとより、従来の武将とは異なり比叡山全僧打首と仏教信者部落老若男女乳幼児まで殲滅、中世ヨーロッパのキリスト教が魔女を火あぶりしたように正親町天皇から国師号を贈られた快川和尚の高僧を焼き殺したこと、キリストの十字架磔を真似ねてロンギヌスの槍を真似た長竹槍での刑罰、楽市楽座の自由経済思想などがありますが、建築技術、特に築城については、ヨーロッパの築城思想が強く出ているのです。それらの、従来の武将と異なる日本的ではない思想行動・技術知識は、誰により織田信長にもたらされたものなのでしょうか。
日本国が中世から近代に変革したのは、1568年織田信長が足利義昭を奉じて京都に入った時(翌年イエズス会宣教師フロイスと謁見)からと言われています。それは、城を中心とした城下町のはしりとしての安土城の築城があるからです。
現在知られている天守閣のある「城」の築城は、それほど古くはありません。元々「城」とは、「土」を固めて「成」った、土塀で囲った陣地であったわけです。
四世紀朝鮮半島から渡来した軍団が、戦闘時の避難場所として山頂を土や石を積んで囲んだ陣地を「朝鮮式山城」というわけです。奈良時代になると、海外交易で財を成した藤原氏は興福寺の「寺」を軍事砦とするわけです。鎌倉時代になると、堅牢で耐火瓦の寺建物は、空堀を廻らし土や石の壁で囲まれた山の山頂に立てられるわけです。これが、山城です。やがて室町時代になると、平地にも堀に囲まれた土や石の塀で囲まれた寺を真似た堅牢な建物が現れるのです。これが平城です。戦国時代になると、城郭は、再び山頂や山麓に建設され、独立した曲輪(くるわ)を要所要所に配置するのです。
そして、戦国末期に織田信長は、石垣の上に「天主閣=織田信長の住居。仏像安置の建物を真似た建物」(この頃、織田信長は、自らをイエズス会の神を超えた存在と信じ、織田信長を「神」として拝ませた。だから、織田信長の安土城は「天守閣」ではなく、「天主閣」なのです。この結果、イエズス会の史料では、「デウスが織田信長の歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった」と記述するのです。そして、日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノは、本能寺での織田信長の死に遭遇するのです。)を頂く安土城を建設するのです。これが今に見る「城」の概念です。この堀を廻らし、強固な土壁の塀に囲まれた石垣の上に建設された「安土城」は、インド管区長・日本国巡察師アレシャンドロ・ヴァリニャーノが、ヨーロッパのどの城にも及びも着かない立派な城と賞賛したほどです。
では、ヨーロッパ式城を築城し、ヨーロッパ式軍隊組織を持つ織田信長は、どのようにしてイエズス会と接触したのかを考えて見ましょう。
イエズス会は、ポルトガル→インド→マカオ→長崎→豊後と侵攻し、更に「堺」にも拠点を設けたわけです。その手法は、貿易という甘い蜜です。この貿易は、相手側に多大な利益が得られるため、危険を冒してまでその組織の一員になるとこを望むひとが多くいるわけです。しかし、イエズス会と接触を求めるひとは、交易利益のためだけではないひともいたのです。それは、体制にイジメられている賎民です。つまり、足利義輝体制転覆を画策する、三好氏と内通する堺の茶同朋衆などの賎民組織が、堺のイエズス会結社に集まってくるのです。
日本国の海外との正式交易ルートは古から、中国大陸(楼蘭・ローラン)→朝鮮半島(楽浪・ローラン)→博多(伯太・はた・秦)→難波(浪速・ローラン)→奈良・京都と決まっていました。しかし、イエズス会は、この正式ルートを外れて、マカオ→長崎→豊後→堺としたのです。それは、そのルートに、都を追われた反体制の末裔がいるからです。
新興国際都市堺の交易先は、豊後です。そこは、大友宗麟が支配する国であるのです。豊後にはポルトガル船が、種子島にポルトガル船が来航するより二年も先、1541年には来航していたのです。それは、豊後が、古来から、堺と密貿易をしていたからです。
明国と正式交易をしていない「倭寇」は、その本隊の実態は明国の住民が主で、その本拠地が五島列島であるわけです。つまり、倭寇の交易ルートは、明国→五島列島→豊後→堺となるわけです。その先は、日本の経済の中心地難波港から大阪の地は、浄土真宗軍に支配されているので、堺→雑賀→那智→伊勢となるわけです。このルートが、倭寇と言われる「海賊」の交易ルートだったのです。この海賊ルートを、イエズス会が、日本国侵略に利用するわけです。イエズス会の次の拠点造りは、伊勢です。
伊勢は、縄文時代から海外からの交易人が渡来していたのです。それは、伊勢には、宇陀と同じに「朱砂」が産出していたからです。それは当然で、宇陀と伊勢は、中央構造線上に位置しているからです。更に、伊勢湾には、今でも伊良子岬に椰子の実が流れ着くように、南方から黒潮が流れ着くところなのです。ですから、伊勢には、古来からアラブ、インドの南方から渡来する部族が多くいたのです。
七世紀の壬申の乱での、新羅系天武天皇軍の出発点は、伊勢だったのです。伊勢には、朱砂を求める中国大陸からの国際交易人や南方の海人族が多く住んでいたのです。その海人族のシンボルの赤旗を立てて、百済亡命貴族が支配する近江を、天武天皇軍が攻めるわけです。そして、その戦いの勝利を感謝して海人族の神を祀ったのが「伊勢神宮」です。伊勢神宮は、新羅系天武天皇により建立されたものなのです。しかし、平安時代になると、新羅の敵国百済亡命貴族の末裔桓武天皇が政権を支配すると、比叡山延暦寺が布教する騎馬民族を蔑視する(殺生禁止・血の禁忌)、仏教キャラクターの聖徳太子を創作しての「法華経」布教により、肉食・魚食の仏罰者の住む伊勢は「穢れた地」に貶められてしまうわけです。ですから、百済系天皇は代々、伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮を祀るわけです。百済系天皇で、伊勢神宮を祀ったのは、約千年後の明治天皇が始めです。
十二世紀に平安朝廷を支配したペルシャ平家も、その伊勢からの出現です。
この伊勢に渡来した部族には、反体制的心情があるようです。南方から渡来したベンガラ染め(ベンガラ染めとは、インドのベンガル地方から産出する鉄錆の赤染め)のペルシャ平家の平清盛・重衡親子にも、織田信長と同じに、日本の神社仏閣には敵愾心を持っていたようです。怨霊神を封じる神輿に矢を射掛けたり、1180年には平重衡は奈良東大寺の大仏に火を放ち延焼させているのです。
何故、ペルシャ平家は、そのように日本の神仏を嫌ったのでしょうか。それは、ペルシャ平家の京での拠点、祇園にヒントがあるようです。祇園怨霊会が行われると、京の公家達は、穢れ神が来ると、都から避難したのです。つまり、ペルシャ平家の土地神は、平安京の公家達には、穢れ神であったのです。それは、祇園の神は、インドの底カーストの土着神であったからです。
平安時代に、藤原氏の計らいで渡唐の空海により、唐に渡来のインド僧の教えにより、民族差別のカースト思想が、日本国に持ち込まれていたのです。その祇園祭の牛頭天皇とは、インドでの穢れ神であったのです。
しかし、ペルシャ平家も、仏教を笠に着る百済皇室・百済公家には負けてはいません。空海により発明された「日本密教」の神々の全ては、インドのバラモン教・ヒンズー教の神々であることを、ペルシャ平家が知っていたからです。更に、大乗仏教の儀式である、加持祈祷、護符、お守り、呪文などは、空海により密教儀式として発明されたわけですが、それらの儀式は、元々バラモン教・ヒンズー教からの借り物であることも、ペルシャ平家は知っていたのです。
「奈良の大仏」は、空海により「大日如来」に変身したわけですが、その元の名は「遍照鬼」で、インドではバラモン教の系列外の神であったのです。ですから、ペルシャ平家の平重衡は、百済平安政権を守護するその大日如来の遍照鬼(奈良の大仏)に火をつけて燃やしてしまったわけです。
ペルシャ平家は、仏像や仏閣を燃やしてしまいましたが、織田信長は、百済系正親町天皇の高僧を生身のまま燃やしてしまったのです。その異常な仏教嫌悪は、どのようにして生まれたのでしょうか。それは、織田信長の祖父の墓が、刑場近くの垣内(かいと)にあったことが原因のひとつのようです。祖父の実生活は、孫が実際に観察できます。恐らく、織田信長は幼少の頃、伊勢の穢れ地に住む祖父が、仏教者にイジメられていたのを経験していたのかもしれません。「三つ子の魂百までも」、です。
織田信長は、反抗する仏教僧や信者には情容赦をすることはないのに、貧民の身障者には慈悲の心があったようです。それは、織田信長の逸話として、戦のたびに見かける山奥の部落近くにいる皮膚病を患っている身障者を哀れに思い、お忍びでその部落に行き、その部落民を集め、その身障者を生涯面倒を見るように部落民達に強く言い渡し、高価な反物を多く与えた、というものがあるからです。
皮膚病者は、奈良時代では藤原氏が支配する中臣神道により、中臣祓の「国つ罪」の穢れ者とされ、奈良坂の部落に押し込められ、そして、平安時代では、百済系桓武天皇が支配する比叡山延暦寺による法華経により、「仏罰者」として、清水坂の部落に押し込められていたのです。
古代では、病気とは目に見えるもので、その代表が、皮膚病であったわけです。その他の病気は、怨霊により引き起こされていると信じられていたのです。ですから、古代では、御祓いや祈祷は、医療行為だったのです。(現在でも、怨霊退治をビジネスにしているひともいます。)
戦国時代も、法華経により仏罰者と宣伝された皮膚病者は家族から追放され、社会からも追放されていたのです。その皮膚病者を、王権に反抗した秦氏や新羅系源氏武士の末裔の部落に押し込めることにより、穢れ部落を創り出していたのが、藤原・百済王朝だったのです。その社会から追放された皮膚病者を救う組織が、戦国時代の日本国に現れたのです。それが、イエズス会です。
イエズス会の布教基本戦略は、病弱者・貧者を救う活動から始まるのです。1557年九州の大分(大村宗麟・フランシスコの支配地)には、宣教師アルメイダが内科・外科病院を設立して、その一角に、仏罰者と言われる皮膚病者の収容施設を建設しています。1583年には長崎(大村純忠・バルトロメオの支配地)にハンセン氏病者のための病院が設立されていたのです。
そのように、中臣神道や大乗仏教にイジメられていた皮膚病者は、イエズス会の神(デウス)を拝むのは当然でしょう。更に、藤原・百済王権にまつろわなかったために、中臣神道や大乗仏教により、「穢多」として社会的に追放されていた、元貴族や元武士階級やそれに順ずる者も、イエズス会の布教活動に共感を示していくわけです。それらのイエズス会共鳴者達は、神社ネットワークの「座」を拠点に、「役座」の仕切りにより、流浪する遊芸者や各種職人として、鎌倉時代から戦国時代までを、仏教の思想迫害を受けながら生き延びていたのです。
全国を、本地垂迹説により仏教組織が仏寺・神社を支配していた「座・市」を拠点として、流浪する遊芸者や各種職人は、戦国の国々の情報を収集することも、仕事の一部だったのです。そこで、イエズス会も、戦国の国々の情報を得るために、流浪遊芸者と接触するわけです。それが、身障者の流浪琵琶法師である了斎です。了斎は、キリシタンに共鳴してロレンソ了斎となり、イエズス会のための、反政権結社との情報連絡係りとなるわけです。しかし、イエズス会と接触したのは、賎民といわれる流浪遊芸者だけではありません。現政権に不満を持つ公家達もいたのです。
イエズス会は、世界布教(征服)を遂行するために、中国大陸の明国布教(征服)の前哨戦として、明国征服のためのイエズス会日本軍を組織するため、戦国時代の日本国を統一できる人物を物色するわけです。そのための情報協力者としては、公家不満分子、海賊、山賊、流浪遊芸者、密貿易者などの反体制分子です。そして、密貿易地の中継地豊後の大友宗麟からイエズス会に、尾張の国に織田信長という反仏教武将がいることが知らされるのです。
イエズス会は、弱小国ながら少数の軍力で隣国の大軍団とゲリラ戦を行っている織田信長の力量を見極めると、イエズス会日本軍の大将候補として、キリシタンへの取り込みにかかるのです。その戦術が、天皇を頂点として武力で日本統一をスローガンとする「天下布武」の織田信長への刷り込みと、隠れキリシタン公家と藤原氏末裔の陰謀による正親町天皇からの、朝敵征伐の「決勝綸旨」の書状です。
戦国武将達には、全国統一などの概念は、殆んどなかったのです。国の民を養う田畑を他国からの侵略の護りと、他国との境界線の拡張が、戦国武将の戦いの主な目的だったのです。個人経営である荘園経営による農業主体の経済では、日本統一するための兵力は養えなかったのです。つまり、戦国時代の戦いは、農繁期ではなく、刈り入れの終わった農閑期に主におこなわれていたのです。
ただ、農業主体ではなく、伊勢での南蛮密貿易で稼ぐ、尾張の織田信長軍は例外でした。織田信長は、「銭」で、軍人を集めていたのです。「銭」で軍人を集めるための宣伝として、「織田軍には銭があるぞ!」を図案化して、明銭を旗印にしたのが、織田信長軍の銭の旗印だったのです。ですから、織田信長軍は、他の戦国武将と異なり、一年を通して闘うことができたのです。
日本国は、元々各種民族が長い年月を経てオリエント・中国大陸などから渡来し、それぞれの部族国を日本列島内に建設していたのです。それぞれの渡来部族は、それぞれの言語でそれぞれの文化を享受していたのです。その根拠として、戦国時代から約三百年後の明治維新の最初の会議では、各藩出身者の話す言葉がお互いに聞き取れず、理解できないため、筆談で会議をしたほどなのです。(現在でも、地方を旅して、現地のお年寄り同士の会話を聞き取れないことは、誰しも一度は経験しているでしょう。)
国家の統一は、言語の統一から始まるのです。ですから、明治新政府は、日本国統一のため、廓言葉を基本として「標準語」を発明するわけです。
戦国時代に全国統一するためには、コミニュケーションを互いに摂るために、言語の統一が必要だったのです。しかし、日本国では、明治になるまで、各藩はそれぞれの方言で生活していたのです。
織田信長が、もし全国統一を本当に計画していたならば、秦の始皇帝のように、言葉や生活単位の全国統一計画を実行していたはずです。(日本国統一のための行動は、織田信長暗殺後、1582年からの田畑の検地方法や計量基準「6尺3寸・191cmを一間、一間四方を1歩、三十歩を一畝、十畝を一反、十反を一町/米の量りは、京枡に統一した。」を全国一定にした太閤検地からです。この検地により、鎌倉時代からの荘園制度が崩壊して、イエズス会の望む近代日本国中央政権が確立したのです。)
でも、織田信長が、行おうとしていたのは、統一言語の開発や日本全国の検地ではなく、暦の変更で、それも太陰太陽暦を、なんとヨーロッパのグレゴリオ暦(ヨーロッパで紀元前46年から使用されていたユリウス暦からグレゴリオ暦への変更発令は、1582年2月24日だったのです。と言うことは、四ヶ月ほどで、ヨーロッパの最新情報は、イエズス会の情報ルートで日本国に届いていたのです。因みに、日本国では、1873年(明治6年)に、太陰暦から太陽暦「グレゴリオ暦」に改められた。)に換えようと、正親町天皇に強訴していたのです。織田信長は、イエズス会の日本人エージェントから、日本統一思想だけではなく、ヨーロッパの色々な最新知識も刷り込まれていたようです。
イエズス会は、ローマ教皇、ポルトガル王国、そして国際交易商人達の経済援助の下に、日本国統一を目指すために、尾張の弱小武将の織田信長に、ヨーロッパ式軍事戦略、軍資金、武器(ロンギヌスの槍)、銃、火薬、そして秦氏・源氏末裔のキリシタン大名や銃の使用に慣れた傭兵軍団(一時的に、紀州雑賀鉄砲衆傭兵軍も参加していた。後の浄土真宗本願寺派との十年も続く石山合戦では、雑賀鉄砲衆は反織田信長軍の敵対者として活躍した。)を提供してきたのです。それは、日本を統一し、そしてイエズス会日本国軍団を組織して、その武力により、ローマ教皇・ポルトガル王国の最終布教国の中国大陸の明国を、占領するためだったのです。
1580年日本イエズス会は、ポルトガル王エンリケの死を知るのです。イエズス会は、異教国侵略のために、その組織運営資金の多くを、ポルトガル王国から援助されていたのです。
更に、ポルトガル王エンリケの死は、イエズス会に激震をもたらしたのです。それは、イスパニアのフェリペ2世が、ポルトガル王位を兼任し、イスパニア・ポルトガル同君国(1580年〜1640年)としたからです。
イスパニアは世界征服の手先として、ポルトガルのイエズス会に対抗して、托鉢修道会を組織していたのです。そのイスパニアは、1565年フィリッピンを征服し、1571年にはマニラにイスパニアの東洋貿易基地を構築していたのです。十六世紀のマカオのイエズス会(ポルトガル)とマニラの托鉢修道会(イスパニア)は、共に中国大陸への布教を目指して闘っていたのです。
イエズス会にはもう時間がありません。イエズス会が織田信長に軍事援助を始めた桶狭間の戦い(1560年)から本能寺の変(1582年)までの二十二年間に、畿内を中心に、戦国武将軍団、比叡山延暦寺軍、そして浄土真宗軍を壊滅し、政治の中心京都・商業の中心大阪の地を、イエズス会傀儡軍の織田信長が占領したのですが、まだ全国の三分の一を支配したにずきながったのです。
しかし、天下統一直前の織田信長は、残る戦国大名の壊滅に専念するのではなく、天皇をコントロールできる関白の地位を要求して、京での軍事パレードを行ったり、暦の変更を求めたりして、天皇家や公家達と心理戦をおこなっていたのです。それらの織田信長の行動は、早急に、明国侵略手段としての、天皇を傀儡としてイエズス会日本国軍の組織編成を企む、イエズス会の戦略から大きく外れていくのです。そこで、イエズス会は織田信長に見切りを付けて、織田信長に代わるイエズス会日本軍大将候補を選ぶわけです。それらが、源氏末裔の明智光秀と自称平氏の羽柴秀吉です。
そして、正親町天皇と誠仁親王も、無理難題を要求する織田信長を疎ましく思っていたのです。それは、関白の地位を要求され、更に、天皇の祭祀権の根本とも言える古来からの暦を、ヨーロッパで発令されたばかりのグレゴリオ暦への改変を強訴されていたからです。
ここに、イエズス会側と天皇側との暗黙の計画が実行されるのです。それが、1582年6月2日の本能寺の変です。その仕掛けは、本能寺での前日の茶会です。
1587年豊臣秀吉は、薩摩の島津氏を屈服させると、今まで豊臣軍をバックアップしていたキリシタン大名を冷遇し、改宗を迫り、キリスト教の禁止令を発令するのです。それは、イエズス会を経済的に援助していたイスパニアが、イングランドの海外進出のため、海外交易権を奪われ、1588年にはイスパニア無敵艦隊は、イングランド海軍に壊滅されてしまうのです。イエズス会の軍事力は徐々に、イングランドに侵食されていくわけです。
本能寺の変後、明智光秀から直々に援助の要請を受けたが、その申し出を即座に断った高山右近ジュストも、キリシタン迫害の対象者だったのです。その高山右近ジュストの茶道の師匠が、千利休だったのです。
このキリシタン弾圧の豊臣秀吉の変心は、どうして起こったのでしょうか。その原因のひとつとして、1585年に羽柴秀吉が、元関白の「近衛前久の楢子」となったことが考えられます。つまり、羽柴秀吉は、無用者織田信長を謀略により無残に葬る(爆殺)イエズス会の本心を知り、古から天皇を裏でコントロールしている藤原氏側に寝返っていたのです。
何故、出自不明の羽柴秀吉が、名門中の名門藤原氏の流れに入れたのかは、イエズス会と近衛前久や天皇家が関与した織田信長暗殺の弱みを握っていたからでしょう。織田信長に仕えた千利休は、豊臣秀吉にも、茶頭(情報参謀)として仕えていたのです。
1591年2月28日、茶道を開発したと言われる茶人が、豊臣秀吉直々に切腹を命じらるのです。その茶人とは、堺の千利休です。巷では、大徳寺山門の楼上に自身の木造を置いたとか、茶器の売買で暴利を貪ったとか言われていますが、果たして、その史実はどうだったのでしょうか。
1568年上洛した織田信長が、密貿易都市堺に矢銭(軍資金)を課すと、堺の街は二つに分かれるのです。ひとつが抗戦派で、もうひとつが和平派です。その時暗躍したのが、和平派の堺の武器商人の津田宗及と今井宗久です。しかし、その二人は、キリシタンとも内通していたのです。そして、その二人は、茶同朋衆でもあったわけです。その伝で、茶道界を仕切る千利休は、織田信長と知り合うのです。その頃の織田信長は、名器収集に没頭していたのです。そこで、堺の茶道の指導者千利休は、織田信長の茶頭として仕えることになるのです。
織田信長は、三十八の名物茶器を収集していたが、絶品中の絶品と言われる「楢柴」だけが入手していなかったのです。その名器は、博多の武器商人鳥居宗室が所有していたのです。
ここに織田信長暗殺のための仕掛けが完成するのです。茶器は、両手に納まるほどの大きさですが、一国よりも高価であると信じられていた名器は、輸送のため厳重に梱包されたため、大人ひとりが入れる程の梱包物となってしまうのです。
1582年6月に京都に来ていた鳥居宗室は、6月2日には京都を発つ予定だったのです。このことを、千利休は織田信長に伝えたのです。
そこで、織田信長は、6月1日に本能寺で、鳥居宗室に名器「楢柴」の譲渡を要求するため、公家も交えて堺の武器商人達(火薬の原料硝石は、イエズス会との密貿易では最大の交易品)との四十人ほどの茶会開催を企画するわけです。その茶会の前日には、多くの茶道具荷物が本能寺に搬入されていたわけです。
織田信長が、どのような死を迎えたかは知る術はありません。それは、豊臣秀吉の史料焚書と厳しい緘口令、そして公家の日記改竄により、史実が隠されてしまったからです。
分かっていることは、1582年6月2日未明、本能寺は一瞬にして大きな炎に包まれ、、一瞬のうちに全焼してしまったのです。そして、その焼け跡には、織田信長の遺骨の欠片も見つからなかったのです。
逆賊軍と宣伝される、一万三千の明智光秀軍が、本能寺に到着した夜明け前頃には、既に本能寺は焼け落ちていたのです。
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