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神輿の黙示録(8)(芸能民とは何か:平安時代の遊女は、何故読み書きできたのか)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/836.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:57:01: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(7)(貴族仏教の退廃と芸能民の黎明) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:53:57)

イジメを回避する最上の戦略は、イジメられる側から、イジメ側に寝返ることです。
日本国のイジメの陰湿性は、首謀者は表に出ず、イジメを実行する者が、元イジメられ側の者であることです。そのイジメのルーツは、平安時代に流行したゲームに現われています。そのゲームとは、将棋です。
将棋は、紀元前三世紀、古代インドの四人制のチャトランガと言われるサイコロ将棋が基本となっているようです。そのチャトランガが西に向かいチェスとなり、そして、インド→東南アジア→中国へと東進して、奈良時代、遣唐使の吉備真備が日本国に持ち帰ったと言われています。
その将棋が、平安時代に、仏寺での賭博として貴族間に流行ると、他国の将棋ルールと異なってしまうのです。それは、敵側の兵隊は、抹殺することなく、味方の兵として再生して、元味方側を再攻撃する兵となるのです。つまり、この平安時代に発明された新ルールの日本将棋は、藤原氏の異民族征服戦略の「夷を以って、夷を制す。」をゲーム化したもののようです。
そして、この日本版将棋ゲームには、負けた王様を貶める仕掛けもあるのです。それは、敵側に、味方の兵を奪われ、その元味方の兵士が追い立てて、王様を隅に追い詰める戦術を「雪隠攻め」と言うのです。雪隠とは、鎌倉時代に宋国の禅宗が日本国にもたらした「便所」のことです。平安時代までは、家に便所なるものは存在しませんでした。貴族達は桶で用をたしていたのです。ですから、平安時代の家は、臭気がきついのでインドの香木は、貴族社会では生活の必需品であったわけです。庶民は、川に小屋(川屋・かわや→厠)を作り、用をたしていたのです。
大乗仏教の浄不浄思想では、便所は「不浄」であるわけです。ですから、仏教徒は、便所のことを、「ご不浄」というわけです。(浄不浄の思想を持たない日本土着の神は、便所にも鎮座していた。)その不浄場所である「雪隠」で、敵の王様は最後を遂げることになるわけです。つまり、敗れた王様は、不浄の穢れ者に貶められてしまうわけです。そして、最後まで敗れた王様に忠誠を誓った臣民も、穢れ人に貶められてしまうのです。
しかし、そのように最後まで敗れた王様に忠誠を誓う臣民は、希のようです。味方の旗色がわるくなると、寝返るのが日本の武士の平均的生き方のようでした。つまり、「勝ち馬に乗る」ことが、武士の処世術であったようです。
源平合戦でも、古平氏の北条・千葉氏は、平氏のシンボルカラー赤旗ではなく、源氏のシンボルカラー白旗を掲げて、武家平氏に戦いを挑んでいたのです。平家滅亡への、屋島の合戦、そして壇ノ浦の合戦敗北の原因のひとつは、瀬戸内海の海賊達の、平家から源氏への寝返りだったのです。
「神仏の戦い」と言うと、一般的に、六世紀の廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子との戦いを思い浮かべることでしょう。しかし、その戦いは「ウソ」です。何故ならば、その戦いに、敵将巨人ゴリアテを投石で倒す少年ダビデのような、十四歳の「聖徳太子」が登場することで証明できるでしょう。
では、「神仏の戦い」とは何でしょうか。それは、新羅系天武天皇が崇拝した「道教の神」と藤原氏が導入した「大乗仏教の仏」との戦いであるわけです。(日本書紀には道教渡来の記述は皆無です。446年、北魏では、戒律の乱れた大乗仏教は、廃仏令により現世利益の道教に駆逐されたのです。中国大陸では、大乗仏教と道教は敵対関係にあったのです。しかし、中国大陸の民衆は、その宗派の区別がつかなかったようです。)
天皇家の神の祀り所が、神話時代から伊勢神宮と思っているひとは多いようです。しかし、それは違います。それは、天武天皇が、672年壬申の乱で活躍した赤旗を掲げる海洋民族の外物部氏(都を追われた物部氏)の神を祀るために建立したのが、伊勢神宮であるのです。つまり、685年が伊勢神宮式年遷宮の始めとなるのです。それまでは、都を追われた外物部氏の神は、畿内を彷徨っていたのです。
しかし、686年に天武天皇が崩御すると、天武天皇に左遷された藤原不比等が、天武天皇のお妃の、百済系天智天皇の娘の持統天皇(日本初の火葬された天皇。)を懐柔して、藤原氏が支配する中臣氏により、伊勢神宮を乗っ取ってしまうのです。そして、中臣氏は、ユダヤ教の儀式に似た、中臣祓えの中臣神道を発明するわけです。神話時代から神道が存在している、と錯覚しているひとは多くいるようです。日本神道は、仏教・道教思想を取り入れて開発されたようです。それは、「穢れ思想」はヒンズー教化仏教により日本国にもたらされたからです。その穢れ祓え(禊)の儀式をおこなう中臣神道(中臣祓えは、ユダヤ教のヨムキプルに酷似。)は、日本土着の宗教とは異質です。日本古来のあらゆるモノに存在する精霊の「カミ」「モノ」思想には、「穢れ=不浄」など存在しないからです。塩や水による禊は、ユダヤ教の儀式。日本の宗教関係が歴史的に理解できないのは、日本版レビ族の藤原氏の陰謀により、大乗仏教と中臣神道により、日本古来の「カミ・モノ」の精霊、そして、道教、景教を、ミトラ教の儀式を取り込んでキリスト教に摩り替えたように、隠蔽してしまったからです。
もしも、天武天皇崩御後も、伊勢神宮が天皇家の祀り所であるのならば、769年の道鏡事件の時、和気清麻呂は、九州の宇佐八幡宮ではなく、伊勢神宮に託宣に行かなければならなかったでしょう。
更に、百済系桓武天皇から明治天皇になるまでの約千年間、歴代の天皇が伊勢神宮にお参りに行かなかったのは何故でしょう。それは、天武天皇が建立した伊勢神宮は、天皇である北極星の「太一」を祀る道教の「観」であったからです。だから、現在の天皇家は、天武天皇系の天皇を祀ってはいないようです。
女帝称徳天皇まで続いた天武王朝の臣民は、770年、藤原氏による「夷」の百済亡命貴族達により乗っ取られ、平安時代の光仁・桓武王朝となり、貶められていくのです。
日本将棋のルールによれば、敗れた王様は、「雪隠詰」となり、穢れてしまうのです。そして、勝者の王様にまつろわない、敗者の王様の臣民達も穢れてしまうのです。
鎌倉時代に発明された賎民への蔑称「穢多」の頭・弾左衛門は、その賎民達を統率していました。その統率していた賎民達のプロフィールは、治承四年(1180年)源頼朝が秦武虎(弾左衛門)に与えたと言われている「頼朝公の御朱印」に記述されています。それは、六代目弾左衛門により、賎民支配の正当性を訴えるため江戸町奉行に提出されたものです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏

                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

この御朱印書の信憑性は、風呂屋は鎌倉時代にはなく、江戸時代に開発されたものであることから、疑われています。しかし、賎民の史料は、王権から焚書されない公家史料と異なり、多くは存在していないので、御朱印書は鎌倉時代の賎民の職業を推測するには充分な史料と思われます。
それらの職業から推察されるのは、その賎民一団は、「国を護る軍事組織」であったようです。それは、「皮」は中世では重要な軍事物資であったからです。皮は、武器や鎧兜の防具や馬具を作るには必需品であるわけです。鋳物師は、槍や太刀などの戦闘用武器を製造できます。弦差は、武士の重要な武器である弓の弦を作る人です。王権に貶められて犬神人・つるめそとなる。石切(石工・メーソンの技術は古代エジプトに遡る。)や壁塗は城作りに必要です。渡守や山守や関守は、国を護る情報の管理者としては無くてはならない存在です。異部族の臣民を統率するには、「祀り」が必要です。その祀りには、陰陽師(占い、加持祈祷をする者)や舞舞(謳い踊る者)、猿楽(能の祖)、鉢たたき(念仏踊り)、獅子舞、傀儡子(人形回し、今様を唄う女)、傾城(ケイセイ・遊女その元は巫女)などの神様を楽します「芸」が必要です。更に、臣民の日常生活に必要な物を作る、土鍋師、笠縫、土器師、鋳物師、箕作、青屋(藍染め師)などの職業はなくてはならないものでしょう。
そのように、弾左衛門が統率する賎民一団は、社会の落ちこぼれなどではなく、戦いに敗れたが、プライドを捨てて寝返ることなく、更に、王権にもまつろわないで、生きる道を自らの力で開拓する技術を持ったひと達であったのです。
戦いに敗れた者達に待っていることは、その社会からの追放です。「漂泊・放浪」は追放から始まるのです。日本国で始めて追放されたことを記述されたひとは、スサノウです。スサノウの追放状況を日本書紀では、次のように記述しています。

時に霖(ながあめ)ふる。スサノウの尊、青草を結束ひて笠蓑として、宿を衆神に乞ふ。衆神の曰、「汝はこれ躬の行濁悪しくして遂ひ謫めらるる者なり、如何にぞ宿を我に乞ふ」といひて遂に同に距ぐ。是を以て、風雨甚だふきふるといえども、溜り休むことえずして、辛苦(たしな)みつつ降りき。

日本版聖書である日本書紀の神話(ギリシャ神話に酷似)での悪役のスサノウとは、百済国の敵国新羅の皇子なのです。そのスサノウは、神々の国(藤原氏の支配圏)から、豪雨のなかを笠と蓑ひとつで、鬚を切られ爪を剥がされ(武装解除され)追放されるのです。
このスサノウの姿とオーバーラップするのが、昭和の団塊生まれの人なら、TV時代劇渡世人ドラマ「木枯らし紋次郎」(竹細工の技術を持つのは、ササラ部族の末裔か。長楊枝が武器。)の編み笠とカッパをひるがえして、雨の中当て所も無く荒野を目指す後ろ姿でしょう。つまり、スサノウは、渡世人の標準スタイルの編み笠にカッパ姿で追放されたのです。ちなみに、役座が祀る「神農様」も、蓑笠姿です。そして、「蓑と笠」は、百姓などが勝手に作ることができない、弾左衛門の一族しか制作できない、神事に関係する神聖なものなのです。
では、弾左衛門の一族は、どのようにして王権から追放されたのでしょうか。それは、秦氏の氏名の時代ごとの秦氏(飛鳥・奈良時代)→惟宗氏(平安時代)→島津氏・弾家(鎌倉時代)の変換にヒントがあるようです。つまり、追放された者による出自隠しです。
飛鳥時代の秦氏は、蘇我氏の下で、土木・石工技術を駆使して、ペルシャ式庭園や石を敷き詰めた軍事道路や石垣で囲んだ城柵(「城」とは、建物ではなく、土を盛り立てた塀のこと)構築などに従事していたのでしょう。
飛鳥時代の秦河勝などは、山背国に、チュルク系騎馬民族の末裔の蘇我馬子(聖徳太子)に、ローマ軍の軍神ミトラ神(弥勒菩薩)の安置場所を依頼され、景教寺(広隆寺)を建立するほどの権勢を誇っていたのです。しかし、山背国の太秦の「スグリ」であった秦河勝の墓は、その山背国にはなく、大阪の寝屋川にあるのです。これは可笑しい。
その意味は、645年の藤原氏と百済系亡命貴族による叛乱で、飛鳥の蘇我王朝が壊滅したため、蘇我氏の臣下である秦氏一族(エフライム族→イスラエル民族)が、藤原氏(レビ族→ユダヤ民族)により飛鳥の都(エルサレム)から追放されたからです。
秦氏については色々な謎があります。そのひとつとして、五世紀に朝鮮半島から色々な先進技術を持込んだ集団なのに、何故王権の中枢ではなく、下位の位置に居たのか。そして、鎌倉時代に穢多と差別され、江戸時代、国学者から、弾左衛門一族は、異形の異民族と言われたのか。その謎を解くヒントは、秦氏が渡来した時期(五世紀)の新羅にあるようです。
新羅については、ツングース系の高句麗、百済と同じ民族であり、そして、シルクロードから渡来した仏教の国である、と思っているひとが多くいるようです。しかし、それは違います。中国大陸での南北朝時代の南朝の梁(502年〜557年)の国書「梁書」の緒夷傳によれば、新羅は、高句麗と百済とは全く異なる文化であったようです。

服牛乗馬。男女有別。某官名、有子賁旱支、齋旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支。其冠曰遺子禮、襦曰尉解、袴曰柯半、靴曰洗。其拜及行與與高驪相類。無文字、刻木爲信。語言持百濟而後猛焉。

新羅には、「文字が無い。」と言うことは、何を意味しているのでしょうか。それは、「漢字」の文字が無かったと言うことです。では、新羅では、何語が使用されていたのでしょうか。
朝鮮民族の形成は、日本民族の形成と同じに、謎が多く存在します。その謎を解くヒントは、三世紀から六世紀の渡来民族の移動にあるようです。朝鮮半島の民族は、大きく分けると二つです。それは、北の朝鮮民族と南の韓民族です。
朝鮮民族の始まりは、紀元前五世紀の春秋時代から紀元前三世紀の戦国時代の燕に隣接する箕氏朝鮮が始まりのようです。しかし、箕氏朝鮮は、中国人の国です。その箕氏朝鮮も、紀元前194年衛氏朝鮮に滅ぼされてしまうのです。そして、その衛氏朝鮮も、紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされてしまい、その地は中国人の直轄地としての楽浪郡などの四郡を設置されてしまうのです。つまり、北朝鮮は、長らく「中国人」の国で中国文化が営まれていたのです。その地に、紀元前一世紀の北からツングース族が渡来し、高句麗を興すのです。
では、南朝鮮半島の韓民族はどのようにして渡来したのでしょうか。紀元前473年、華南の海洋民族国家の呉は、海洋民族国家の越に滅ぼされてしまいました。その呉の難民の多くは、大型外洋船で黒潮に乗り、遼東半島、朝鮮半島南、そして北九州に上陸するわけです。それらの渡来民族は、中国権力から、倭族(いぞく)と呼ばれるわけです。
その後、紀元前334年、越も楚に滅ぼされ、その難民の多くは、大型外洋船で黒潮に乗り、呉の難民と同じコースを辿るわけです。しかし、呉の植民地に上陸できない難民達は、更に北を目指し、日本列島に越の国々を興すのです。
中国大陸の遼東半島に居住していた倭族は、内乱を逃れるために、朝鮮半島南端に移住すると、その民族は、韓族と呼ばれるわけです。つまり、倭族と韓族は、呉か越の末裔の同族であるわけです。
そのように、北の中国人とツングース族による朝鮮民族と、南方系海洋民族の末裔の韓民族とは、四世紀半ばまでは、高句麗と韓(馬韓・弁韓・辰韓)の国々とで分かれていたわけです。しかし、346年、モンゴル系(モンゴル語は、古代シリアの国際語であるアラム語の流れにある。オリエントと中央アジアは、国際交易商人達により交流があった。)の夫餘族が、馬韓を乗っ取り、百済を興すわけです。つまり、百済とは、倭族と韓族の先住民を征服した、渡来王朝なのです。
では、356年に建国の新羅は、どのような民族なのでしょうか。
382年、新羅の初代の奈勿王は、前秦(351年〜384年)に遣使を送るのです。その前秦の国書「秦書」に、新羅の使者にたいして、「今の新羅は古とは同じではないのは何故か。」、と前秦王の符堅(=大秦天王・テンノウ。天王とは騎馬民族の王様→騎馬民族が日本に渡来し、大海皇子が七世紀に日本歴史上初の天皇となる。)が問いただしている文書が残されています。それは、前の辰韓の文化と、356年建国の新羅の文化の違いを、符堅は聞いていたのです。
その謎は、「奈勿王」に隠されています。奈勿王は、前秦には、新羅王楼寒(ローカン)としているのです。サンスクリット語(古代ペルシヤ語と文法と発音が酷似。しかし、文字は異なる。紀元一世紀、忽然と現われた法華経の仏陀説話と新約聖書のキリストの説話とが酷似しているのは、古代ペルシャ語とサンスクリット語とが酷似していることと関係がありそうです。)で、「世界」と言う意味です。
しかし、新羅王楼寒は、新羅国内では、奈勿王としているのです。それは、朝鮮語では、ローカンの「L」音は語頭に立たないからです。では、奈勿は、朝鮮語でどのように読むのでしょうか。それは、「nam−oel」です。「nam」とは、異邦人の意味です。新羅の王は、倭族や韓族ではない異民族であったのです。
つまり、四世紀から六世紀までの新羅も、夫餘族の征服王朝の百済と同じに、倭族や韓族の先住民に対する征服王朝だったのです。では、新羅の奈勿王(楼寒)とその渡来一族は、何族で何所から来たのでしょうか。
中国大陸での輸送は、「南船北馬」と言われているように、南中国では「船」が主な輸送手段で、北中国では「馬」が主な輸送手段であるわけです。
では、朝鮮半島での輸送手段は、何だったのでしょうか。南朝の梁の「梁書」によれば、新羅では「服牛乗馬」とあるのです。つまり、牛を使役し、臣民は、馬に乗っていたわけです。これは、高句麗と百済との生活様式が異なっていたので、梁書に記述したのでしょう。
更に、新羅が、朝鮮半島の高句麗と百済との文化が異なるのは、528年まで仏教が公認されていなかったのです。では、356年から528年までの新羅は、どのような文化を保持していたのでしょうか。中国古代史の基礎知識のあるひとには信じられない事ですが、四世紀から六世紀中頃の新羅は、どうもギリシャ・ローマ文化国家であったようです。
このことは、由水常雄氏著書の「ローマ文化国家−新羅」に、慶州古墳発掘物を基に、新羅がギリシャ・ローマ文化を保持していたことが、理論整然と述べられています。
新羅の古墳は、石室を持つ高句麗や百済と異なり、大きな穴を掘り棺の回りに川石を積み上げ、土を被せ小山にするわけです。この古墳は、「積石木槨墳」と呼ばれているものです。この古墳様式は、スキタイの流れをくむ騎馬民族特有のものです。
そして、新羅の埋葬物は、高句麗や百済の古墳埋葬物にはない、多くのギリシャ系王冠、ネックレス、耳飾、ブレスレットなどの金製品やローマン・グラス(紀元前27年ローマ帝国誕生から476年西ローマ帝国滅亡までのガラス器の総称。新羅へのローマン・グラスの渡来ルートは、古代シリアで四〜五世紀生産→クリミア半島ケルソネソス地方→ロシヤ・草原ロード→高句麗→慶州)があることです。
では、高句麗や百済の古墳から出土しない金製品は、どのような民族により新羅慶州に渡来したのでしょうか。
騎馬民族は、ヘロドトスの「ヒストリア」や司馬遷の「史記」に述べられているような、狩猟や略奪を行なうだけの野蛮な民族ではありません。交易や貿易も主な経済活動であるわけです。つまり、国際交易商人の顔も、騎馬民族にはあるのです。
騎馬民族スキタイ(紀元前7世紀〜紀元前3世紀)は、中央アジアの黒海・南ロシアの草原地帯に、部族同盟国家を興すのです。そこで、黒海北部に勢力を張るギリシャ植民都市と交易を始めるわけです。スキタイは、ギリシャから金銀製品・青銅器・オリーブ油などを「金」との交換で交易を行なうわけです。
スキタイの交易品の「金」は、南ロシヤのアルタイ山脈から多く産出していたのです。モンゴル語(シリアの国際語アラム語の流れにある。)で、「金」は「アルタン」と言います。アルタイ山脈とは、「金」が産出するところから名付けられたわけです。
そのスキタイの墳墓から、ギリシャ製の金の装飾品や飲食器の莫大な量が出土されていることは、スキタイとギリシャとの交易が頻繁に行なわれたことを示唆します。その金製品製造所があるギリシャのマケドニアは、紀元前146年にローマ共和国の属州となってしまうのです。
紀元前一世紀、ローマ共和国はアウグスツスによりローマ帝国(大秦)となり、オリエントの二世紀のパルチア王国、四世紀のササン朝ペルシャ王国と対峙するわけです。そのオリエント諸国との戦闘で、オリエントの神々をローマ帝国に勧請するわけです。それは、ローマ軍には取り立てて強力な宗教がなかったからです。
ローマ帝国に取り入れられた宗教は、大地母神イシス(キリスト教で聖母マリアとなる。)、デア・シリア女神、マルス神、アシュート大女神、キュベレ神、グノーシス各派、ユダヤ教、キリスト教、そしてミトラ教(ラテン語でミトラス教)などです。
では、新羅慶州の古墳からの武器出土には、どのようなものがあったのでしょうか。多くの武器の中で特徴的なものは、中国武器には少ない騎馬戦用の鉄製の闘斧です。それに騎馬戦用の短い弓です。そして、中国系高句麗軍や百済軍にはない馬面甲や馬全身を被う馬甲と、異なる甲冑や脛甲などです。それらの新羅の埋葬武器から推測されるのは、ローマ軍や匈奴軍(スキタイより騎馬戦闘を習得。)などの北方騎馬民族の新羅への渡来です。 356年に建国の新羅の文化が、辰韓の文化と異なるのは、ギリシャ・ローマ文化を持った民族の渡来を示唆しています。
では、新羅が528年まで仏教公認していなかった訳は、どのように推測できるのでしょうか。
新羅の青年戦士団は、「花郎」と呼ばれる美少年の下に結束し、戦闘に赴いていました。その「花郎」とは、「ミロクの男」と言う意味です。ミロクとは、漢語訳で「弥勒」で、その元は、「ミトラ」です。ミトラ神は、ローマ帝国軍の軍神です。
国家の宗教が、異なる宗教と取り替えられるということは、支配者の交替を示唆しています。528年に新羅の宗教が「仏教」に替わったということは、支配者が替わったということです。
では、ギリシャ・ローマ文化を保持していた新羅の敗者の民族は、どこへ行ったのでしょうか。
騎馬民族の歴史を知るには困難が予想されます。それは、騎馬民族は基本的には歴史書を持たないからです。それに、短期間に、大勢の一族が点から点へ大移動し、そして、居留地に固定した地上建築物を建設しないからです。更に、自然を大切にするために、墓は地下に建設するため、考古学者の発掘にあう確率が、農耕民族の遺跡に比べて低いからです。
騎馬民族の移動を知るには、歴史書を持たないため、やはり古墳が有力な史料となります。それは、騎馬民族は、馬を大切にするため、墓に埋葬者と伴に馬具を埋葬する習慣があるからです。農耕民族や海洋民族は、墓に馬具を埋葬することはありえません。ですから、埋葬物に馬具がある古墳を、時系列的に調べれば、騎馬民族の渡来ルートが推測できるわけです。
日本列島に古墳が出現するのは、三世紀頃からです。そして、馬具の埋葬物が古墳に現われるのが四世紀頃からです。と言うことは、四世紀より、騎馬民族が、日本列島に渡来していたことが示唆されます。
中国南朝の「梁書」に、扶桑国僧慧深の報告として、「以角載物、至勝二十斛、車有馬車、牛車、鹿車。」と記述してあります。扶桑国とは、四世紀頃、北海道南端から下北半島一帯に存在していた国です。その国では、馬や鹿が使役されていたのです
北海道、東北地方は、地上建築物の歴史的遺物の発掘が認められないため、坂上田村麻呂の侵略まで、文化的歴史がないように思われますが、岩手県久慈は、紀元前の古代より、バルト海沿岸に匹敵する世界的な「琥珀の産地」であったのです。つまり、古代より、バルト海沿岸から岩手県久慈には、「琥珀ロード」があったのです。古代では、琥珀は、呪術の道具として、或は、貨幣の代用物として需要があったのです。そのように、馬を使役する民族や国際交易商人は、古来から日本列島に渡来していたのです。
五世紀から六世紀にかけて造られた、奈良県の新沢千塚から発掘された埋葬物は、新羅からの騎馬民族の渡来を示唆しているようです。馬具のほかに、冠を飾る金具、ガラス椀、ガラス皿、そして耳飾、帯飾りなどの金製品が出土しているからです。
東アジアでは新羅からしか出土していない馬冑が埋葬物にあれば、騎馬民族の新羅から日本列島への渡来が証明されるのですが、新沢千塚からは出土しなかったようです。しかし、日本列島に馬冑が出土していたのです。それは、和歌山県の大谷古墳からです。築造時期は、五世紀から六世紀半ばです。この馬冑は、東アジアでは、新羅と日本でしか、今のところ発掘されていません。これは、騎馬民族の日本列島渡来を有力に示唆しています。
528年、新羅が仏教国に変身した頃、日本列島にはどのような変化があったのでしょうか。
日本書紀に、気になる文があるのです。それは、宣化元年(536年)の条に、「又蘇我稲目宿爾を以って大臣とす」とあるのです。この蘇我稲目は、仏教伝来物語では、重要な人物です。しかし、その出自は不明なのです。歴史書では、その出自を、「竹内宿爾→韓子→高麗→蘇我稲目」、としていますが、竹内宿爾、韓子、高麗などは歴史上証明できない人物なのです。
このように出自の不明な蘇我稲目が、突然536年大臣となり、更に、異教の仏教を、「西方の諸国で信奉しているのに、我が国だけがどうして背けましょうか。」、と従来の神に替えて祀るように天皇(この頃に天皇は存在していない。天皇は七世紀の天武天皇が始め。)に進言したと、教科書歴史は言うのでしょうか。どうも、この仏教伝来物語には、「うそ」があるようです。
では、蘇我稲目の出現は、どのように推測できるのでしょうか。
日本の古代史を、教科書的に学習すると、三世紀から四世紀の畿内に突然箸墓古墳や纏向古墳などの巨大古墳群が出現するわけです。その理由として、教科書歴史では、四世紀に大和朝廷が樹立されていたとしています。そこで、畿内で大和朝廷は、天皇中心の政治をおこなっていたという設定です。特に、593年から628年大和朝廷を統治した推古天皇の時代に、日本国の基礎となるような改革を、聖徳太子とおこなったとの説明です。そして、その黎明期の日本国を乱し、天皇を暗殺した大悪人が蘇我馬子で、聖徳太子の遺児を殺害したのが蘇我蝦夷と蘇我入鹿親子だとの設定です。でも、これらのことは、史実なのでしょうか。
そこで、古代史を調べることになるわけですが、日本書記の呪縛により、史実は闇の中で蠢くわけです。その藤原不比等の呪縛を解くために、「ヨハネの黙示録」で「666の謎」により聖書のモーセの存在を否定したように、日本版パモス島のヨハネである多人長(秦氏の末裔)は、推古天皇ならびに聖徳太子の存在を否定するため、平安時代の弘仁三年(812年)に「古事記」を世にだすわけです。
では何故、古事記は和銅五年(712年)を奥付に記述したのでしょうか。それは、和銅六年(713年)に好字令が発令されていたからです。
686年天武天皇が崩御すると、藤原不比等は持統天皇を懐柔して、蘇我王朝の流れにある天武王朝体制の壊滅を目指すのです。そのひとつが、日本書記の作成(720年完成)です。そして、各地区の歴史を改竄するため、各地の豪族の史料提出の基に風土記(713年に撰上の詔)を作成し、天武王朝の各地区における事績を隠蔽するわけです。
地区名は、その地域を支配した豪族の名となります。ですから、その地の呼び名を知ることにより、誰がその地を支配していたかを知ることができるからです。
好字令とは、今までの中国王権が名付けた一字文字の漢風名を、日本語化の二字にすることです。そのことにより、中国王権の支配からの解放を示したのです。そして、オリエントから国際交易商人、軍人、そして宗教家達により日本列島にもたらされた異国文字(ペルシャ語:大きな鳥の意味の「アスカ」→飛鳥。アラム語:尊称の閣下の意味の「マロ」→麻呂。勇敢な者の意味の「スクネ」→宿爾。アラム文字は、奈良時代にパフラヴィ語的文字利用法をヒントにカタカナ文字に変身した。)と同時に渡来文化(ギリシャ、ローマ、ペルシャ、スキタイ文化)の遺跡も、王権を握った藤原氏は、392年以降キリスト教の教徒がローマ帝国内のミトラ教神殿を破壊し、その跡にキリスト教の教会を建設してミトラ神を隠蔽したように(目に見える物は改竄したり破壊できるが、ひとの記憶までは改竄や破壊ができないため、ミトラ神が復活する冬至の12月25日の誕生日は、ミトラ教を乗っ取ったキリスト教はキリストの誕生日のクリスマスの日に改竄した。)、仏寺と神社により道教の観と景教の寺を隠蔽したのです。
では、日本書記の闇のベールを剥がすには、残された敗者の歴史資料も存在していない状態で、どのようにしたらよいのでしょうか。
歴史を勝者の都合の良いようにコントロールするには、歴史書を改竄することです。もしも改竄できない時は、焚書をすればよいのです。遺跡も同様です。しかし、日常生活で使用している「ことば」は、勝者の都合により、敗者の使用している「ことば」を改竄したり、抹殺したりすることはできません。禁止用語を設定したところで、表面上は使用禁止をすることができても、裏の世界での使用禁止の実行はできないでしょう。(本音と建前)それは、「ことば」は、「精神世界のDNA」だからです。つまり、「ことば」は、先祖から連綿と受け継がれてくるわけです。
そこで、敗者の歴史を推測する「ことば」を捜してみると、三つの「ことば」をピックアップできるでしょう。それらは、「ウダウダ言うな!」、「すみません。」そして「葛藤」です。これらの日常語の歴史的背景を探ってみると、勝者と敗者との因果関係を推測できるのです。それらの「ことば」が発明されたのは、およそ近畿地方に巨大古墳が出現した頃です。
では、それらの三つの「ことば」の背景を探ることにより、日本書記の闇のベールを剥がすことにしましょう。
「ウダウダ言うな」の意味は、弱者(敗者)が正当な理由を述べて抗議していることに対して、強者(勝者)が一喝して黙らせる時に使う「ことば」です。その恫喝に対して、弱者は「すみません。」と言うわけです。そして、それらの弱者と強者とのイザコザのことを、「葛藤」と言うのです。
それらの三つの「ことば」の真の意味は、辞書を引いても分らないでしょう。それは、辞書は、勝者の立場で編纂されているからです。
では「建前」ではなく「本音」での、「ウダウダ」のウダとは何でしょうか。それは地名です。奈良県宇陀郡宇陀町の「ウダ」です。そして、「すみません。」とは、「住みません。」が原語です。更に、「葛藤」とは、「葛(くず→国栖→土蜘蛛)」対「藤原氏」との戦いのことです。
奈良の盆地の三輪山付近には、古く縄文時代から「市」がありました。それは、遠い国から日本海を渡り、「赤い土」を求めるひとたちがいたからです。
縄文人は、赤い土を傷を治すために採取していたのです。そして、埋葬の時には、死者を悪霊から護る(防腐剤)ために、死者に赤い土を塗布していたのです。
紀元前七世紀になると、中央アジアの黒海近くの騎馬民族国家スキタイでは、アマルガム法の金メッキの技術で、銅にメッキをして「金銅」を制作していたのです。そのアマルガム法の金メッキには、「水銀」が必要です。自然界で「水銀」を採取するのは困難ですが、「赤い土」は容易です。あるひとが、「赤い土」を焼いて、その煙を蒸留すると「水銀」を得ることができることを発見したのです。そのことにより、赤い土の需要がおこるのです。そこで、騎馬民族スキタイの赤い土探索が始まるのです。
中国大陸では、赤い土は辰砂と呼ばれていました。それは、中国湖南省辰州で産出したからです。日本名は、朱砂。
紀元前に朱砂を求めたのは騎馬民族スキタイだけではありません。バラモン教徒や道教士も、金メッキの素材としてではなく、中枢神経を刺激する長生術や回春術の素材として、朱砂・水銀を求めていたのです。道教士は、その水銀薬を「丹」と呼んでいました。
朱砂・水銀を求めたひとたちは、アリが砂糖に群がるように、遠くオリエントやインドから海を渡り、日本列島を目指したのです。では、日本列島の何所をめざしたのでしょうか。
日本の歴史地図で古墳の分布図を見てください。古墳が群集している所が特定できるでしょう。それらは、常陸から北関東、名古屋、伊勢、大和、和泉、香川、大分、そして熊本です。その古墳群の分布に線を引くと、それは、中央構造線と重なります。つまり、古墳時代のひとたちは、中央構造線に沿って暮らしていたわけです。
中央構造線は、日本列島が形成された時につくられたものです。その両側は、異なる地質であるわけです。日本海側の内帯は領家変成帯と呼ばれ、太平洋側の外帯は三波川変成帯と呼ばれています。それらの異なる地質は、マグマの移動圧力で、段差を形成しているのです。つまり、中央構造線は、段差により地下の鉱物が地表に現われている所なのです。その中央構造線に沿って、縄文人は「赤い土」を採取していたのです。その最もよく「赤い土」が採取できたのが、奈良の大和の地を流れる飛鳥川の源流にある宇陀地方だったのです。
この宇陀地方は、日本書記によれば、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと:762年〜764年、淡海三船により選定され追贈された漢風諡号により「神武天皇」と変身。)により、宇陀の統治頭のエウカシを、オトウカシの裏切りの密告により、滅ぼしたことになっているのです。つまり、日本書紀では神武軍が、「夷を以って、夷を制す」ことにより、宇陀の地を略奪したことになっているのです。
しかし、このことは史実ではないようです。それは、史跡の埋葬物が証明しています。
日本の初代天皇である「神武天皇」の在位は、紀元前660年から紀元前585年となっているようです。しかし、その宇陀地方の埋葬物は、縄文文化が紀元300年まで続いていたのです。つまり、宇陀地方は、縄文人の支配が、弥生前期(紀元前200年〜紀元前100年)・中期(紀元前100年〜紀元100年)を飛ばし、弥生後期(紀元100年〜紀元300年)まで続いていたのです。
日本書紀の記述が史実だとすると、神武天皇は縄文晩期(紀元前1.000年〜紀元前350年)に活躍したひとです。神武天皇は、縄文人ではなく、九州の日向国から進軍した天孫族の渡来人であるのに、何故、宇陀の支配地が、紀元300年まで縄文文化を保持していた理由が説明できません。
宇陀地方の史跡の埋葬物が、紀元300年に、縄文文化からいきなり弥生文化に変化したことは、弥生人による縄文人の支配を示唆しているようです。では、紀元300年に、宇陀地方はどのようにして、弥生人に侵略されたのでしょうか。
宇陀地方は、16世紀にも、渡来人により支配されていました。それは、イエズス会です。イエズス会は、長崎に外科医のアルメイダを派遣し、洋式医療で現地民衆に取り入ると、日本人修道士のロレンソと供に、キリシタン大名である高山右近ジュストが支配する山奥の宇陀地方に教会を建てるのです。その目的は、キリスト教布教のためだけではないようです。
イエズス会の異教国侵略順序は、医師派遣→病院設立→学校設立→国際商人進出→軍事顧問派遣→軍隊進行→植民地化、となるわけです。
イエズス会の日本国軍事侵略では、尾張の反仏教の自称平氏の弱小武将である織田信長に、銃と弾薬と傭兵軍を与えるのです。そして、キリシタン大名の蒲生氏郷の部下である山科羅久呂左衛門(イタリア人:本名ジョバンニ・ロルテス:マルタ騎士団戦士)を軍事顧問として、織田信長軍の軍事指導をするわけです。(織田信長による比叡山の僧侶皆殺しは、正に「キリスト教傀儡軍=織田信長軍」と「大乗仏教軍」との宗教戦争の結果であったのです。)
では、何故、イエズス会は、軍事的には価値のない山奥の宇陀地方に教会を建設したのでしょうか。それは、紀元3世紀の弥生人と同じ目的、「水銀」の採取です。(十六世紀、メキシコ銀山が開発されるまでは、日本列島は錬金術・鉱山師「空海」の銀山開発により世界有数の銀産出国であったのです。空海は「朱砂・水銀・銀」を求めて山野で修行をしていたのです。空海が四国で中央構造線に沿って建立した寺の近くには、「銀山・銅山」が多く存在しています。空海の宗教的拠点の高野山は、正に銀鉱脈がある山なのです。)
では、弥生人はどのようにして、宇陀地方を侵略したのでしょうか。それは、イエズス会と同じ方法です。「医療と宗教儀式」、これが昔も今も、異教国侵略の有効な手段なのです。そして、その侵略装置が、前方後円墳の巨大古墳なのです。
畿内の前方後円墳は、教科書歴史では天皇陵と言うことになっているようです。それは、畿内の前方後円墳が、他の地域の前方後円墳より巨大(最大約500メートル級、他の地域は200〜50メートル級)だからと言うわけです。そのような他の地域(九州・吉備・北関東)より巨大な前方後円墳を造営できたのは、三世紀に大和の地に巨大な権力を保持していた「天孫族」が存在していたからとの説明です。しかし、その説明は可笑しい。
現代でも、巨大な建築物を構築できる地域は、建設敷地として余裕のある地(僻地)が選ばれるわけです。ひとびとが密集して生活している都市部には、巨大建築物を造るには、色々な困難が予想されるからです。
三世紀の大和の地は、九州や吉備に比べて未開発の僻地(縄文人の勢力範囲)であったのです。更に、大和の地は、河川が入り組んでいて、沼や湖がある湿地帯でもあったのです。
畿内の前方後円墳には多くの謎があります。それらは、何故に円墳や方墳のように竪穴式ではなく、高句麗式の横穴式の石室であるのか、そして、円墳や方墳のように「木棺」ではなく「石棺」が多くみられるのか、更に、その石棺の石は、何故遥か遠くの九州の阿蘇溶結疑灰岩が多くみられるのか、と言うことです。
そして、畿内の巨大前方後円墳が大和の地を支配していた偉大な「天皇の墓」だとすると、その埋葬物が、何故規模が数十倍も小さい円墳や方墳に比べて、「貧弱」なのかを説明するには困難が生じます。
そこで考えられるのは、畿内の巨大前方後円墳は、第一の目的が「墓」ではない、ということです。それは、三世紀の大和の地は、エウカシ、ナガスネヒコ、そしてオオクニヌシなどの勇猛な先住民の土蜘蛛達が支配していたので、渡来侵入者の天皇が崩御してから、延べ60万人の労働者で10年〜20年もかけて「墓」を造れるような社会情勢ではなかったからです。
それから二世紀後の仏教隆盛といわれる飛鳥時代でも、桜井の地などの「くんなか」には、渡来新興宗教の仏寺を建立できないほど、大和地方は先住民の力が強かったのです。
では、三世紀に全国規模(北は岩手県、南は九州まで)で造営された世界でも希な巨大前方後円墳(前方後円墳の地上構造物は古代オリエントの日干しレンガ造りの技術を駆使し、石室及び石棺の造営は古代エジプトのピラミッド構築技術を駆使しているようです。特に、飛鳥の古墳の石室は、古代エジプトの高度な石切技術を駆使しているようです。)は、「誰」により「何を目的に」発明されたのでしょうか。
それには、弥生人の解明が必要です。紀元前三世紀頃に渡来した弥生人とは「誰」でしょうか。それを知るために、紀元前三世紀の中国大陸での社会情勢を調べることにしましょう。
古代の国家を調べる時、注意が必要です。それは、古代の国家は、「国民国家」ではないということです。古代の国家と国民国家との大きな違いは、古代の国家には固定した国境がないということです。
国民国家の歴史的誕生は、1776年のアメリカ合衆国が初めです。イギリス王国が支配する北アメリカの私有地を、その被支配者達の武力で奪い取ったのが、国民国家の始まりです。
北アメリカの被支配者達は、各自武装して支配地を確定し固定化し、その地を侵略する者達に対して、軍事力を行使したのです。これが、現在の国境の始まりです。それに対して、古代の国境は、その国の力の及ぶ範囲であったのです。つまり、力の強い王国は常に国境が膨張し、それに対して、軍事力の弱わまった国は消滅してしまうわけです。つまり、1776年以前までは、固定化した国境などはなかったのです。ですから、古代の国家は、常に軍事力が強い傭兵を、地域や部族に関係なく求めていたのです。
そして、古代の国家と国民国家との軍隊構成の違いは、古代の国家は傭兵により軍隊を組織していたのです。古代の国家は、国民国家ではないので、臣民(奴隷)に武器を渡し、軍事訓練などで優秀な軍人に仕立て上げれば、何時反旗を翻すかわからないから、因果関係のない他部族の軍隊を雇い入れていたのです。そのように、古代の国家の軍隊は、その国の臣民で構成されていたわけではないのです。
紀元前221年、紀元前403年から始まる戦国時代を制して、中国大陸を統一した国が誕生しました。その国は、「秦国」です。その秦国が、列強の燕や楚などを武力で圧倒できたのは、秦国の軍隊の戦い方でした。長い槍を持ち、太鼓の合図で攻撃を仕掛ける歩兵軍団や騎馬戦車そして鎧馬に乗る長い槍を持った騎馬戦士は、漢族の農耕軍団や匈奴などの騎馬軍団とは異なり、強力な軍事力を発揮していたのです。
それらの秦国の軍隊は、色々な国からの寄せ集めでした。長い槍を持ち、集団行動の歩兵軍団はローマ軍の特徴です。鎧馬の騎馬戦士はペルシャ軍です。騎馬戦車はスキタイ軍です。
秦国の王、始皇帝は、軍人であろうと民間人であろうと、有能であれば外国人であろうと、どんどん重用したのでした。財務関係などは、その多くが国際商人のペルシャ人(飛鳥時代に、漢語で波斯人:はしじん。大和言葉で間人:はしひと、と呼ばれていた。)でした。
その始皇帝の祖先は、元々中原にいたわけではなく、漂泊する遊牧民族であったわけです。始皇帝の顔立ちは、漢族のようにノッペリしたのではなく、鼻が高く目がくぼんでいたようです。目の色は、「黒」ではないようです。すだれのある冠を被って、目の色を悟られないようにしていたようです。
秦軍の戦は、敵の首を取ることです。それは、敵の首を取った数が、恩賞の対照となるからです。この戦の評価の仕方は、日本の武士の戦の評価と同じです。そして、秦軍は、窮地に立って、進退に窮すると、自害したのです。これも、日本の武士と同じです。秦軍は、誇りの高い軍隊です。日本の武士も、「武士は食わねど高楊枝」と言われるごとく、誇りを大事にします。何故、秦の軍人と日本の武士との特徴が似ているのでしょうか。(秦国の軍団は、異民族の寄せ集め軍団ですから、規律を破る者に対して、見せしめのため刑罰は残酷を極めたのです。その刑罰の、軽罪は刺青から重罪は獄門さらし首まで、江戸時代の刑罰と類似しているのは何故か。そして、その刑罰を実行する者が、自称源氏の徳川家康から警察補助を委託された、秦氏の末裔の弾左衛門の配下であるのは何故か。更に、日本人は農耕民族であると言われているのに、遊牧民族の割礼の風習が、明治の初めまで高知県、兵庫県、山形県等の一部にあったのは何故か。)
紀元前三世紀、その始皇帝は、徐福という方士(長生術をおこなう呪術師)を蓬莱国(日本列島か)に仙薬を採取するために派遣するのです。

「後漢書」倭伝
秦始皇、法士徐福を遣わし、童男女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏れて敢えて還らず。遂にこの洲に止まる。

徐福は、斉の沿岸で盛んになった神仙術士のなかでも、医・薬・化学に長けた方士であったのです。仙薬の主成分は、朱砂(辰砂)です。その朱砂(辰砂)は、中国湖南省と日本列島が産地であったのです。
始皇帝は、大変に神仙術に興味を持っていたので、徐福に仙薬を求めさせるために、技術者、軍隊(ローマ軍・スキタイ軍・ペルシャ軍の末裔)と少年少女三千名を、神仙の聖地である山東半島の煙台より百艘の船に乗せて、蓬莱国へ派遣したのです。
徐福が率いる百艘の船は、中国の山東半島から蓬莱国を目指したのですが、ある集団は九州(博多←伯太←はた←秦←徐福の姓)、更に黒潮を北上して朝鮮半島(辰韓=秦韓。四世紀にギリシャ・ローマ文化を保持した新羅となる。)に、またある集団は和歌山県熊野に辿り着いたようです。(後に、秦氏による中国山東省・朝鮮半島新羅・日本国熊野の国際交易トライアングルを形成。)
その徐福一行が、日本列島に辿り着いた頃が、縄文時代から弥生時代の移行期であったのです。では、弥生時代の黎明期には、徐福一行だけの渡来だったのでしょうか。
縄文人・弥生人などの名称があると、そのような人種が歴史上存在していたように錯覚してしまいますが、そのような人種は存在しません。弥生時代に埋葬された人骨の分析によりますと、縄文人とは異り長身で、面長でノッペリした特徴がある弥生人にも、大男から小男まで色々な民族出身者がいたようです。その中でも華南人の特徴に類似した弥生人の骨が、弥生時代の墓から多く出土するようです。
華南人といえば、紀元前14世紀の地中海で活躍した海洋民族フェニキア(フェニキア語はアルファベットの素。アラム語・ヘブライ語もここから派生した。)の末裔、海洋民族呉・越が思い浮かびます。呉は紀元前473年に滅び、越も紀元前334年に滅び、その多くの亡命者達は、大型外洋船で、黒潮に乗り、朝鮮半島や日本列島各地にたどり着き、時の中国王権により倭(「い」と読む。藤原不比等は、日本書紀で、倭を「わ」と読ませ、「倭→和」に変換し、大の字を加え「大和」を「ヤマト」に変身させ、自らの渡来歴史の抹殺を企画した。ちなみに、倭とは「小さくて醜い」の意味。)と呼ばれる渡来民族(後に、その倭の軍事部族が、北方のツングース族の渡来により合体して物部氏となる。)となるわけです。その倭が、縄文晩期の日本列島に、稲作と戦争と人工神をもたらすのです。
農業は、一般的に「自然」の技のように思われていますが、それは違います。農業は、不自然で、人工的な作業なのです。つまり、自然の摂理に逆らう技術なのです。
人力により、自然の山を切り開き、川の流れを変え、自然に自生している草木(農業者は雑木・雑草と言う。)を切り倒し、農地とし、植物の自然の摂理に逆らい一定の地に同じ植生の植物を多量に植え、ひとの手により管理育成するからです。
人工(農業)は「自然」には勝てません。そこで知恵者(司祭者)が、自然をコントロールできるとする「人工神」を発明するわけです。つまり、人工神は、自然を克服できるとする農業技術の発達の過程で、発明されたものなのです。
しかし、ひとが考え出した物や思考は、時が来れば必ず「ほころび」がくるわけです。ですから、人工神は自然に絶対に勝てませんから、賞味期限が過ぎた神に替わり、その時々に都合のよい神々が発明されるわけです。(農耕民族の無数に存在する神々は、自然に従い畏怖する海洋民族や遊牧民族とは異なり、「自然をコントロールできる」とするところが特徴。)
農業をおこなうには農地が必要です。そこで、自然の地(農業者は荒地と言う。)を開拓(自然を破壊)するわけです。これらの作業をおこなう者は、自然の下に暮らす鹿や猪にとっては、生活圏を破壊する侵略者です。そして、それらの鹿や猪の肉を生活の糧にする狩猟採取の縄文人にとっても、生活圏を破壊する侵略者なのです。そのように、自然に対する考え方が、まったく異なる縄文人と弥生人とが、平和に共存できるはずはありません。つまり、弥生時代とは、平和でのどかな時代ではなく、戦争が日常茶飯事の時代だったのです。
縄文前期と晩期とでは、縄文人の集落形態が大きく異なっていきます。縄文晩期では、集落の周りに深い溝を何重にも掘り、弥生人の外敵に対しての防衛体制(環濠集落)をひくわけです。そして、その集落は平地から山中(さんちゅう)へ移動するわけです。奈良の宇陀の地が、弥生人の侵略に対して弥生晩期まで持ちこたえたのは、活断層があり険しい山奥であったので防衛しやすかったからでしょう。
弥生人が、農業技術と供に戦闘技術を日本列島にもたらした証拠として、縄文時代の墓には見当たらない、首のない人骨や戦闘武器の破片が残る人骨が多く出土することがあげられます。(敵の首を取るのは、秦軍の特徴。漢民族は首狩を行わない。)
農業技術を持った弥生人は、日本列島に上陸した海岸地点付近に集落を造り、しばらくすると、武力を背景に農地確保のために内陸に向け進行していくわけです。
農耕民族にとって農地は、生命維持の源です。ですから、その地を広げ、そして死守するために、軍事武力を行使するわけです。これは、18世紀に誕生した「国民国家」の考え方と同じです。違うのは、弥生時代の国々は、「国民皆兵」ではなく、戦闘専門の傭兵軍により、軍事行動を行っていたことです。
攻める弥生人も必死なら、守る縄文人も必死です。弥生時代の紀元前350年から紀元300年までの650年間は、その侵略速度が遅かったのが、紀元300年から始まる古墳時代になると、その速度が増すのは何故でしょうか。
その前方後円墳の日本列島出現は、何を意味するのでしょうか。短期間に日本列島に普及した、約500メートル級から50メートル級までの大小様々の相似形の古墳は、最新のテクノロジーを集成したもののようです。そのような相似形巨大古墳を、短期間に日本列島各地の活断層近くに造るには、幾何学の知識が絶対に必要です。更に、石室や石棺を造るには、石を削る鋼鉄工具を造る技術が絶対に必要です。そして、巨大な建造物を、10年から20年もかけて建設するには、人事管理と物流管理の技術が必要なのです。しかし、それらの最新技術はその当時の日本列島にはありません。では、これらの最新技術は、何処から誰によりもたらされたのでしょうか。
古墳については謎が多く存在しますが、その中でも不思議なのは、日本国の成り立ちから日本国最初に火葬された女帝持統天皇まで記述してある日本書紀を調べてみても、前方後円墳築造についての記述がみあたらないのです。
日本書紀では、仏教の渡来については詳しく述べているのに、仏教伝来以前に渡来していた道教・景教については何も述べていないように、世界に誇れる前方後円墳の日本列島出現には、藤原氏ならびに天孫族には不都合な何かがあったからなのでしょうか。
古墳が出現するのが紀元3世紀、そして巨大古墳が消滅するのが、騎馬民族末裔の蘇我王朝滅亡時期と同じ紀元7世紀後半です。(飛鳥・奈良時代まで貴族の乗り物として利用された「馬」が、百済亡命貴族統治の平安時代になると「馬」から「牛」になるのは何故か。)それと同時に、大乗仏教寺院が、藤原氏が君臨する奈良の都に乱立するのです。(そのほとんどは九州からの移築ですが。)
それでは、日本国の基礎がどのような複合民族により成り立ち、そして、どのようにして成立していくのかを古墳時代に戻り、日本書紀の闇のベールを剥がしてみることにより解明してみましょう。
死者の埋葬方法は「宗教的」です。部族が存続する限り埋葬方法が替わることはありえません。しかし、葬儀方法は「政治的」です。時代の流れにより葬儀内容は変化します。例えば、仏式の戒名は、キリスト教のホーリーネームからの借用ですが、その戒名制度はトラブルなしに非仏教徒にも受け入れられますが、埋葬方法の土葬から火葬はそうではありません。つまり、埋葬方法は、その渡来部族の宗教歴史を現しているからです。
死者の埋葬方法は、その部族の宗教観念を表したものです。死者がその後、何処へ行くのかは、その部族の「宗教的観念」によるのです。鳥が神の使いと信ずる部族では、死者の肉を鳥についばんでもらい、神の居る地へ死者の霊を運んでもらう「鳥葬」をおこなうわけです。それに対して、ひとは土から生まれたと信ずる部族は、再生のため死者を、深い穴を掘り直接死者を葬り、土に帰すわけです。
そこで疑問が起こるのです。死者を収める石棺は、どのような宗教観念を持った部族により発明されたのか、ということです。この埋葬方法は、死者を土に帰し再生を願う部族とは異なる宗教観念を持った部族のものだからです。と言うことは、巨大古墳を築造した部族は、先住民である縄文人のアミニズム宗教とは全く異なる宗教観を持った部族の渡来を示唆します。
石棺に死者を収める民族を歴史上に求めると、それはエジプトに行き着きます。古代エジプトでは、死者とは魂が抜けている状態であるので、魂が戻るまでその肉体は生前の状態を保たなければならなかったのです。その肉体保存技術が、「ミイラ」です。石棺に死者を収める部族は、その部族が消滅するまで、そのような埋葬方法をおこなうわけです。
その石棺を収める巨大前方後円墳の出現は、教科書歴史では、弥生人のもたらした農業で富を蓄えた地方豪族の墓であると説明しています。(畿内にある巨大古墳は天皇陵であるとの説明です。)では、その地方豪族とは誰なのでしょうか。倭人は、甕棺に死者を埋葬する習慣ですので、石棺の死者は倭人の豪族ではないでしょう。縄文人は土葬であるので、論外です。
日本列島に分かっているだけでも約5200基あるといわれている古墳を発掘調査をすれば、どのような渡来部族・民族が巨大古墳を築造したか簡単に答えが出せるのに、当局のお達しでそれも叶いません。ですから、乏しい資料を駆使して、推測していくことしかできません。
そこで、巨大前方後円墳築造の第一の目的は「墓ではない」との発想の転換を図ることで、何ゆえに日本列島各地に短期間に巨大古墳が出現したかを考えてみることにしましょう。
戦国時代も終わる天正18年(1590年)、織田信長の跡目を藤原氏の謀略により略奪した自称平氏の豊臣秀吉(豊臣氏とは何か。秀吉は日本一の武将を目指し、日本古来のリーダー氏の「源平藤橘」を越える氏を発明した。それが豊臣氏です。その意味は、豊国の臣という意味で、豊国とは北九州の秦王国のことです。ヤマトの地は、元々北九州から侵攻した秦王国だったのです。その秦王国を乗っ取ったのが、日本国の「源平藤橘」だったのです。)は、比叡山や一向宗の仏教軍団壊滅のために散々利用したキリシタン大名達を権力中枢から追い落とし没落させ、高山右近ジュストなどは海の果てのマニラへ追放すると、最大のライバル自称源氏の徳川家康も、辺境の地「穢土=えど=江戸」へ追放するのです。
その当時の江戸の地は、室町時代に活躍した太田道灌が、平氏の末裔千葉氏との戦いの砦としていた、ひとが住めぬ湿地帯であったのです。今では想像ができませんが、江戸の地は、多摩川、荒川、利根川の支流が流れ込み、葦が生い茂る不毛の地であったのです。
しかし、徳川家康は、この豊臣秀吉の家康壊滅の陰謀を素直に受け入れたのです。それは、徳川家康には、秦氏の末裔弾左衛門とのコネクションがあったからです。秦氏は、遠い昔に鍛冶・土木技術を日本列島に持ち込んだ民族だったからです。
徳川家康は、江戸城を造るのに、江戸湾にそそぐ神田堀の大運河を造るために掘り出した厖大な土を盛り上げ、人工山を築いたのです。ですから、太田道灌の砦は、皇居の下10メートルにあるのです。勿論、靖国神社の地も人工山です。更に、徳川家康は、多摩川、荒川、利根川の流れを変え、関東平野を広大な農地にしたのです。その土木事業を支えたのが、弾左衛門一族だったのです。
ですから、関八州の地に、弾左衛門は、灯心草の栽培権を家康から認められていたのです。徳川家康に庇護されていた弾左衛門は、二刀差しの羽織袴で籠により江戸城に登城していたのが、徳川三代目の百済系の血をひく家光(1623年〜1651年)の代になると、新羅系の血をひく弾左衛門一族は、再び賎民へ落とされてしまうのです。更に、徳川五代目綱吉(1680年〜1709年)による「生類憐みの令」発布により、鎌倉時代に発明された「穢多」の汚名を再びきせられてしまうのです。
徳川家康は、江戸城の築城過程において、ひとも住めぬ湿地帯に、大運河を堀りその残土で巨大な人工山を造ることにより、そして、川の流れをかえることにより、ひとも住めぬ湿地帯を広大な農地に変えてしまったのです。更に、それらの工事に従事するひとびとを多く集めたため、江戸の地には、それらの作業人相手の商人達も多数流入してきたのです。
この物語を、前方後円墳築造に当てはめてみると、その出現の謎解明のヒントがあるようです。つまり、「前方後円墳」とは、古墳時代の二重堀の中の巨大人工山にある「江戸城」なのです。
三輪山麓の市(バザール)での交易品である「朱砂」を、喉から手が出るほど求める国際交易商人達は、その朱砂の産地である宇陀の攻略方法を考えるのです。
朱砂は、秦の始皇帝が、徐福に技術者、軍隊、そして童男女三千名を組織させて、見知らぬ蓬莱国に百隻もの船で派遣し求めたように、紀元前三世紀においても大変高価な交易品であったのです。それから六百年後の奈良盆地には、朱砂を求める国際交易商人達で溢れていたことでしょう。
一度目の渡航で徐福一行がたどり着いた紀元前三世紀の畿内は、徳川家康が江戸の地を初めて見たように、淀川や大和川に挟まれた地は、湖あり沼ありの大湿地帯であったのでしょう。湿地帯は自然の城です。(城とは建物の意味ではなく、土を盛り上げた壁の意味。室町時代に平地に建てた砦を城というようになってから「城」は建物のことになった。)
そして、河内地方などは、陸地ではなく、湾であったのです。湿地帯は、攻め難いが、守り易い戦略的な地帯です。徐福が、一度目の航海(紀元前219年)に失敗したのは、稚拙な弓矢と石棒で武装した先住民を見下し攻略を試みたが、湿地帯による防御に手こずったからかもしれません。鯨により渡海が失敗したと始皇帝に言い訳をし、技術者、軍人、そして童男女三千名を組織した二度目の航海(紀元前210年)は、浪速を避けて和歌山県熊野を選んだのは、何かの計画があったからでしょうか。
異教国への侵略への手順にはパターンがあるようです。医者(呪術者・宗教家)→病院設立→学校設立→交易商人→軍事顧問→軍隊進行→植民地、この流れは古今を問わないようです。
徐福は、方士(長生術の呪術者)の中でも、元々医学・薬学・化学についての知識が豊富であったのです。第二回目の渡海において、中国の神仙の聖地である山東半島で、童男女三千名を集めて、渡海訓練をしたとの記述があるのは、医学・薬学・化学の情報習得をさせていたのかもしれません。
日本列島における、徐福渡来伝説の地を探すのは、それほど困難ではありません。それ程、徐福一行の行動範囲は広かったのでしょう。そのように行動範囲を広げられたのは、徐福一行が、先住民から侵略者としてではなく、医療従事者として認めてもらえていたのかもしれません。
そのようにして、日本列島各地で朱砂の産地を探索し特定すると、そこに秘密の印をつけるのです。その印とは、水銀薬を表す「丹」です。「丹」を木枝で作れば、それは、鳥居の原型となります。やがて、朱砂の埋蔵地の印である「丹」は、その意味が時代と供に失われ、新しい権力者(藤原氏)により、前権力者(蘇我氏)を貶めて封じ込める、あの世とこの世との、「結界の印」の「鳥居」へと変化していくわけです。
日本列島の朱砂や水銀鉱脈の近くに、丹生神社があるのは、このためです。しかし、今日に繋がる神社は、前権力者(敗者)の怨霊の祟りを封じ込める施設で、大乗仏教が伝来した後に発明されたことは以前に述べたとおりです。では、徐福の末裔達は、どのような社(やしろ)で、どのような神を祀ったのでしょうか。
三世紀から蘇我稲目が現れるまでの歴史、つまり、古墳が日本列島に現れ全国に普及する歴史を知ることは、645年の藤原氏の陰謀により、蘇我王朝を倒し、その館の蔵書すべてを焚書してしまったためにできません。ましてや、藤原不比等のプロディュースによる日本書紀では全く無理です。それは、そこで書かれた推古天皇までの歴史の多くは、オリエントや朝鮮半島での出来事を素材に創作された物語で、日本列島で起こった事柄ではないからです。
蘇我氏の蔵書が一冊でも存在すれば、日本の古代史も今とは全く異なっていたことでしょう。一体、古墳時代の国際都市の飛鳥では、何語が話されていたのでしょうか。
今の時点では、すべては、外国の史料か日本書紀を裏読みするか、或いは微かに残る史料の断片により類推するしか方法はないようです。
608年、遣隋使小野妹子の倭国についての情報を確かめるために来朝した隋使裴世清の皇帝への報告書によると、北九州には中国本土と同じ暮らしをしている秦王国があり、そこでは多くの文字があったということです。(裴世清は、倭国で男王に謁見しているのですが、日本書紀によりますと、その時の天皇は女帝推古天皇となっているのです。日本書紀よりも後に書かれた古事記が、何故に推古天皇の代で終わっているかの謎はそこにあります。つまり、「同じ記号は消去せよ。」のサイファー式暗号解読法により、古事記の推古天皇までの記述で、日本書紀の推古天皇以前の記述の全てを「否定」しているのです。)
806年、ある事情で奈良の都を放棄したため、古墳時代に秦氏が築いた、中国・朝鮮半島・熊野の国際交易トライアングルの再構築を図るために渡唐し、唐から帰朝した空海は、中国山東半島の寺院で習得した真言密教の呪文、「阿梨・那梨・莵那梨・阿那盧・那覆・拘那覆」を唱えるのです。
この呪文は、イエス・キリストがアラム語で語ったと言われている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」を漢訳したものです。その意味は、「神よ、どうしてわたくしを見捨てるのですか。」です。中国山東半島にアラム語の呪文が存在するのならば、その交易先の日本の熊野にもアラム語の呪文が伝わっていたはずと思われます。
文化や技術は、ひとを介さないと伝播はしません。その伝達手段は、言葉と動作と文字によります。ですから、その時代に使われていた言葉や文字を知れば、古墳時代最後に活躍した蘇我王朝を構成していた渡来民族を確定でき、前方後円墳築造の謎が解明できるのに、蘇我王朝の蔵書のすべては、藤原氏により焚書されてしまったのです。そうしておいて、藤原不比等は日本書紀を創作したのです。古事記は、何度でも言うように、712年ではなく、平安時代の812年に、日本書紀の記述を否定するために創作された、「黙示録」なのです。そのように古事記が読まれては困るひとたちは、史料は真実が書かれていると信じている歴史ファン達に、古事記は国内向け歴史書で、日本書紀は国外向けに書かれた歴史書である、と説明しているようです。
では、飛鳥時代の文字に代わるものはないかと探すと、その民族の精神的シンボルをデザインした「文・もん」にたどりつくのです。そのひとつが、「唐草文」です。
唐草文とは何かと説明するには、団塊世代のひとには、漫才師の東京ポンタが背負っていた風呂敷の模様と言えば理解できるかもしれません。あるいは、時代劇のドロボウが盗品を包む風呂敷の模様と言えば理解できるかもしれません。そのように見下されてしまった唐草文は、飛鳥時代では、高貴な人が使用するデザインであったのです。
唐草文は、英語でパルメットと言い、椰子のパームを語源としているのです。発祥は古代エジプトで、国際交易商人により、ギリシャ・インドへ伝播する過程で、椰子だけではなく、蓮の花もパルメットの仲間入りをするのです。古代エジブトでは、蓮の花は「太陽神」の化身と信じられていたのです。この思想がインドへ伝播すると、蓮の花は、お釈迦様の台座に借用されるのです。漢の時代にインドからパルメットが伝播すると、中国では龍や雲気文がそのパルメットに混じりこむわけです。そして、飛鳥時代、中国からパルメットが伝播すると、すいかずら(忍冬)の模様が取り入れられて、「忍冬唐草模様」が完成するわけです。そのように、飛鳥の都は、古代エジプト文化と繋がっていたのです。そして、それらのオリエントの国々の文化を伝播する国際交易商人が使用する言葉は、主にアラム語だったのです。
文化だけではなく、技術も遠い国から伝播しているようです。鉄製品を作る方法は、二つあります。ひとつは、鉄の塊を熱してたたいて作る鍛鉄法と、もうひとつは、鋳型を作りその型に1525度の高温で熱した鉄を流し込み作る鋳鉄法です。
日本刀の製作は、たたいて鍛える鍛鉄法です。全ての技術が中国からの渡来であるというのならば、日本刀は鋳鉄法で製作されたはずです。中国では金属製品は、その鋳鉄法で生産されていたからです。では、日本の鍛冶屋(江戸時代、何故、鍛冶屋は村はずれに住居したのでしょうか。)が鉄製品を製作する鍛鉄法は何処からもたらされたのでしょうか。そもそも、鍛鉄法の発祥地は何処なのでしょうか。それは、紀元前二千年に、オリエントに興ったヒッタイト帝国です。何故、ヒッタイト帝国で発明された鍛鉄法が、中国の鋳鉄法を乗り越えて、古代の日本列島に伝播したのでしょうか。
巨大前方後円墳を築造する技術のひとつである、鉄器工具製作の技術がヒッタイト(何故かヒッタイト語の文法は、日本語の文法SVOと同じである。)、そして、死者を収める石棺(藤ノ木古墳石棺の各寸法は、古代エジプトの寸法単位の神聖キュビト46cmで割り切れる数値となっている。ちなみに、キュビトとは、ラテン語訳で腕の長さの意味。)への埋葬思想は古代エジプトです。何故、近隣の中国ではなく、それらの技術・思想は遥か遠くのオリエントなのでしょうか。
技術や文化は、言葉や文字により伝播していきます。そこで、日本国の古(いにしえ)を知ろうと日本語の原語探しが江戸時代から始まるのです。その研究に最も影響を与えた学者のひとりとして、仏教嫌いの国学者本居宣長がいます。しかし、本居宣長は、藤原不比等の日本書紀の飛鳥以前の歴史改竄のトリックを見抜けなかったために、後世のひとたちに、日本列島の古代史を理解不能にしてしまったのです。(このことが、藤原不比等の企画したことです。)
本居宣長は、実際は812年に完成した古事記を、日本書紀(720年)よりも八年も早く完成していたので、日本古来のことを「やまとことば」で記述していると錯覚してしまったのです。古事記は奈良時代ではなく平安時代に、秦氏の末裔で万葉語学者・日本書紀解説者である多人長が記述した、藤原不比等の日本書紀のトリックを見抜くための解説書の「黙示録」であるのに、中国文化・仏教憎しの本居宣長は、「やまとことば」で記述している古事記(古事記も漢語で記述。)こそ日本の「まこと」が記述されたものであり、漢語で記述された中国文化・日本書紀を否定するものだ、と確信してしまったのです。
古事記が、日本書紀の記述を否定する事例のひとつとして、日本列島国に最初に出現する「尊・神」があります。日本書紀では、国常立尊(くにとこたちのみこと)で、古事記では、天之御中主神(あめのみなかぬし)です。国常立尊とは、「この国を建てたのは常(トコ→トーコ→東湖→ツングース族の一派)の王である。」、と言う意味です。それを否定する多人長は古事記で、天之御中主神が日本列島国の最初の神である、と主張するのです。つまり、天之御中主神とは、天の真ん中に座す北極星(天皇)で、それは、今の平安の都に君臨する百済系天皇ではなく、騎馬民族・新羅系蘇我氏の流れにある天武天皇である、と主張するのです。
本居宣長は、漢語で記述してある三巻の古事記を「やまとことば」で再録して、四十四巻の「古事記伝」として寛政10年(1798年)に完成させるのです。この古事記伝の神話を素に、後日、日本国の神々のイメージが構築されてしまうのです。そして、天武天皇が建立した、倭とツングース族の末裔外物部氏の神を祀る「道教の観」である伊勢神宮は、藤原氏によりユダヤ教に類似した中臣神道に乗っ取られてしまっているのに、日本古来の皇祖神の社であると本居宣長は勘違いしてしまうのです。このことにより、実際は、仏寺の後に開発された神社は、仏寺より古くから存在していたと、後世の人は信じ込んでしまうのです。(この本居宣長の日本国の皇祖神を祀る伊勢神宮との誤った思想は、秦氏の末裔十字家紋の島津氏が支配する薩摩国に隠棲する藤原氏の本流近衛家により、明治維新の道具として、再び利用されてしまうのです。)
日本語の原語は、今現在も分かっていません。ある言語学者は、その基は、ウラル・アルタイ語であると言い、またある学者はトラヴィダ語(タミル語)と言い、またある学者は、万葉集は古代朝鮮語で解読できると言います。しかし、どれもこれも核心を突いていないようです。
工藤進氏著書の「日本語はどこから生まれたか」−「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説−によりますと、「日本列島の縄文時代前期の言語と、中央アジアまで来ていた印欧祖語(ギリシャ・ラテン語、インド・イラン語、バルト・スラブ語、ケルト・ゲルマン語の原語)とは通底していた。」と、氏は確信しているようです。(縄文時代、バルト海沿岸と岩手県久慈は琥珀ロードで繋がっていた。)
そのようなグローバルな視点で「やまとことば」の語源を調べることにより、古代「ヤマト」の地にどのような部族・民族が生活していたかを知る手掛かりが得られそうです。
蝶は、「やまとことば」では、「てふてふ」と言うそうです。では、その「てふてふ」とは、どのような語源からきているのかの納得できる説明を探すのは困難なようです。しかし、語源を朝鮮・中国語の視点から印欧祖語まで広げると、その解説が納得できそうです。「てふてふ」の「てふ」とは、古代エジプト語では、ひも結びのことです。つまり、蝶結びのことを「てふ」と言うのです。(日本語の漢字読みには、音読みと訓読みとがあります。音読みは中国語読みで、訓読みは日本語に置き換えた読み方と言われています。しかし、意味が分からない時、音読みをアラム語「爾宿=すくね=勇者、間人=はしひと=ペルシャ人」、訓読みを古代エジプト語で読むと、その言葉の本来の意味が分かるかもしれません。)
そのように、「やまとことば」の語源を古代エジプトに求めると、色々な「やまとことば」の意味が解明できるようです。例えば、「やまとことば」の「水」に関する言葉は、N音、M音、W音に収束できるようです。一例として、「ワダツミ」とは、ワタ(波)タツ(起こる)ミ(神)=「海神」、と言うことです。
W音は、水に関する「ことば」を意味します。「ワタ」とは、「波」のことです。これが、朝鮮に伝播すると「パタ・海」となるわけです。ですから、渡辺氏の「わたなべ」とは、「波の訪れる所=湊・津」の意味です。浪速(ローラン:紀元二世紀に高句麗の楽浪/ローランから渡来した部族の湊・後の難波。)近くにできた飛鳥・奈良時代の「湊=津」が、「渡辺津」(ギリシャ・ローマ文化保持国新羅から渡来した部族の湊。吉野・熊野への交易ルート基地。その交易道は後に、熊野詣の参道となる。源平合戦では、源義経が屋島への出陣地となる。ローマ軍の末裔の新羅花郎軍団が源氏軍の基。)と呼ばれるのは、正に「波の訪れる所」であるわけです。
異民族が、交易等で最初に使う言葉は、数に関する言葉です。では、ヤマトでは、どのような数に関する言葉が使われていたのでしょうか。日本語では、数に関する言葉は、大きく分けると二系統です。ひとつは、「ひぃ、ふ、み、よ、いつ、む、」で、もうひとつは「いち、にぃ、さん、しぃ、ごぅ、ろく」です。何故、数をかぞえるのに二系統の言葉が存在するのでしょうか。それは、その言葉を使う民族が異なっていたからです。
「ひぃ、ふ、み、よ」は、今でも商人が商品をかぞえる時に使う言葉です。これは元々砂漠国楼蘭/ローランからの渡来の国際交易商人部族が古代で使っていた言葉だからです。それに対して、「いち、にぃ、さん、しぃ」は、数をかぞえるよりは、多人数の力をあわせて行動を調整する時に使う軍事部族の言葉です。今でも、軍事歩行の掛け声は、「いち、にぃ、さん、しぃ」です。
その「いち、にぃ、さん、しぃ」の言葉は、どこから日本列島に来たのでしょうか。中国には、秦始皇帝の末裔と信じる「客家・はっか」という民族がいます。客家は、円楼と呼ばれる城郭に集団で生活しています。かれらの生活信条は、「克苦耐労」、「剛健弘毅」、「創業勤勉」、「団結奮闘」です。そして、客家は、軍人か警官になることを好むようです。その客家が使う数字読みが、「いっ、にー、さーむ、しー」です。
秦始皇帝の末裔とは、紀元前三世紀の徐福一族も名乗っていました。そして、徐福の姓のひとつは、「秦氏」です。客家が秦始皇帝の末裔であるならば、徐福の末裔秦氏も日本列島で、「いっ、にー、さーむ、しー」と言いながら朱砂を集団で力をあわせ採取していたことでしょう。
弥生時代には、人口増加があまり認められないのに、三世紀の古墳時代にはいると人口は全国的に急激に増加するのです。これは、弥生人のもたらした農業技術の発展による自然増などではなく、中国国内の漢民族と騎馬遊牧民族との覇権争いを逃れるための軍事部族と、日本列島の天然資源開発を目論む国際交易商人達による、開発技術者達の集団渡来によるのです。
その日本列島侵略渡来民族を阻止する武装縄文人を懐柔して、異民族の集団渡来を可能にしたひとつが、前方後円墳築造です。前方後円墳築造は、異民族国に侵入するための有効な手段となります。それは、学校設立と同じ目的を達成できるからです。
侵入者は、侵略の前に、異民族の中から同調者を育成する必要があります。それは、その同調者から侵略する国の軍事情報を得るためです。いつの時代でも、宗教組織の学校経営として、仏寺や教会で、原住民の師弟を教育する目的のひとつは、侵略国(布教国)同調者育成なのです。
湿地帯の葦の生い茂るヤマトの盆地では、弥生後期でも、山中に隠れ稚拙な武器で攻撃をしているエウカシのような勇敢な縄文人が活躍していたのです。湿地帯は、頑強な防御施設となります。特に、騎馬民族の軍事行動阻止には有効です。ですから、侵略軍は軍馬を有効に使うには、湿地帯を平地にする必要があるのです。
いつの時代でも、何処においても、異文化に強く興味を持つのは、壮年ではなく、若者です。その異民族の若者達に、前方後円墳築造のために、運河を掘らせたり、山を切り崩させたりの仕事をわずかな報酬で依頼し、「いっ、にー、さーむ、しー」の掛け声にあわせて集団行動の訓練をし、その前方後円墳築造過程で徐々に異文化の「思想」や「ことば」を刷り込み、そして、同調者へ変身した若者達に、土木道具の鍬や鋤の代わりに、槍や弓などの武器を渡せば、それにより現地軍の組織が完成するわけです。
宇陀の山中の強固な砦に陣取るエウカシは、侵略軍により組織された現地軍のオトウトカシに破れたのは、「夷を以って、夷を制す。」戦略に敗れたのです。
前方後円墳が完成した地域は、湿地帯から平地となり、堀は湊に続く運河となります。ヤマトの地にある運河や道幅12mもある軍事道路は、大阪湾にある浪速や渡辺津に続くわけです。その先は、中国山東半島、高句麗、百済、そして新羅に繋がり、その先は、南海ロード、シルクロード、そして草原ロードによりエジプト、オリエント、ローマへと繋がるわけです。前方後円墳築造により、湿地帯から平地になったヤマトの地には、朱砂、水銀、銀などを求めるアラム語やエジプト語などを話す各国の国際交易商人達で賑やかだったことでしょう。そのように異民族が集まれば、当然利権争いが起こります。そこで、軍事部族の登場となるわけです。
古墳時代に日本列島に渡来した軍事部族を知るには困難が生じます。それは、古墳時代最後の蘇我王朝が645年その歴史と供に抹殺され、713年には、風土記作成と好字令の発令により、日本列島各地にあったグローバルな歴史は箱庭物語のように矮小化され、そして、土地名や豪族名は日本名の二字として改竄されてしまったからです。更に、風土記(713年撰上の詔)、日本書紀(720年完成)、そして万葉集(759年完成)などの創作物語や「やまとことば」による歌で、過去のグローバルな歴史が隠蔽されてしまえば、古代日本国建国の真実は闇の中です。
日本列島の古墳時代(三世紀〜七世紀)は、朝鮮半島の三国軍事紛争時代と重なります。漢族とツングース族との紀元前一世紀建国の高句麗。倭族、韓族と扶余族との346年建国の百済。倭族、韓族とギリシャ・ローマ文化を保持する民族との356年建国の新羅。その高句麗、百済、そして新羅の三国が、朝鮮半島で資源獲得のために覇権をとなえるのと同じように、紀元四世紀に資源奪取のため未開拓の日本列島に侵攻し、三国の軍事部族が経済支配を目指し争いをおこなうわけです。
高句麗は373年、百済は385年に中国王権の圧力により、シャーマン宗教国から仏教国になるのです。それは、大乗仏教は、困窮する民を救うためではなく、殺生禁止のお題目により、異民族、特に勇猛な騎馬遊牧民族を統治するには有効だからです。(大乗仏教の基であるバラモン教は、その「殺生禁止」の教義により遊牧民族の生活基盤を破壊し、遊牧民族トラヴィダ部族を賎民としてしまった。)
しかし、ギリシャ・ローマ文化国新羅が仏教国になるのは528年です。この宗教の違いが、ヤマトの地での支配地を分けたようです。
国際バザールが開催される三輪山麓の海石榴市(つばきち)は、先住民の力が依然強いため、前方後円墳築造がかないません。せいぜい国中(くんなか)の桜井の地の南までが、侵略軍の支配地です。ですから、三輪山を挟んで、新羅支配地(後の磯城)と高句麗・百済支配地(後の葛城)とに分かれるのです。
その新羅と高句麗・百済の進駐軍事部族がにらみ合うヤマトの地に、536年(宣化元年)突如、馬冑・鎧馬に乗る鎧武者が現れるのです。それが、蘇我稲目です。
五世紀末頃、何処からともなく橿原市曽我町あたりに、蘇我氏の先祖が現れるのです。六世紀初期には、蘇我氏の先祖は、曽我川に沿って南に勢力を広げ、畝傍山の南をまわり桧隈・身狭そして飛鳥へ侵攻するのです。それらの地は、後の巨勢氏、紀氏、平群氏、葛城氏に変身する渡来人の居住地であるわけです。
そして、飛鳥の地に侵攻した蘇我稲目は、飛鳥川に沿う湿地帯にある丘の上に頑強な砦を築くのです。それは、その地が、朱砂の埋蔵地の宇陀から三輪山麓で開催されるバザールへの交易道の主要地であったのと、三輪山の地の背後地で、先住民を征服した倭族とツングース族の混成軍事部族の物部氏や大伴氏の襲撃から守りやすかったからです。
蘇我氏が元々ヤマトの住人(強いて言えば、ヤマトの先住人は縄文人。歴史上日本人が生まれるのは七世紀。)ではなく、遥か海の彼方からの渡来人である証拠に、この飛鳥の地には、不思議な石造物やオリエント系噴水のある庭園やガラス器製造工場遺跡等が多く発掘されるのです。
蘇我氏も、秦氏と同じに、多くの謎があるようです。蘇我氏は、「上宮聖徳法王帝説」には「巷奇・こうき」とあり、「元興寺縁起」には「巷宜・こうぎ」とあります。それらの意味は、「甲賀」(甲賀忍者の対抗忍者服部氏は秦氏の末裔。)の語源の「コーカサス」と言うことです。
蘇我稲目の息子蘇我馬子の娘は、「刀自子の郎女・いらつめ」と言われています。刀自子とは、トルコ(turk/チュルク・突厥は、チュルクの音写による漢語。遊牧民族の突厥は、漢族式鋳鉄ではなく、ヒッタイト系鍛鉄技術で鉄製武器を造っていた。)の漢語訳「土耳古」の「とじこ」です。つまり、蘇我馬子の娘は、「トルコの娘」と言われていたわけです。(昭和の終わり頃まで、藤原氏の末裔は、蘇我氏の末裔を貶める目的で、特殊浴場を「トルコ風呂」と言っていた。)
トルコ民族の先祖は遊牧民族のため、ユーラシア大陸で広範囲な移動をしていました。そのトルコ民族がオリエント諸国と遭遇するのは、紀元前のペルシャ帝国からです。
紀元前722年、イスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされ、そのアッシリア帝国も紀元前612年メディア王国に滅ぼされ、そのメディア王国も紀元前550年にペルシャ帝国に滅ぼされるのです。
ペルシャ帝国は交易立国であったので、国際交易商人の顔を持ち、ユーラシア大陸の隅々まで騎馬で移動する遊牧民族のトルコ(突厥)とは友好関係を構築できたのです。しかし、そのペルシャ帝国も紀元前四世紀には、ギリシャ系のアレクサンダー大王に支配されてしまうのです。
イスラエル王国を滅ぼし、イスラエル十部族(エジプトの神官が勝手に神々を発明し王族を支配している状況を打破するため、紀元前十四世紀に、アメンホテプ四世・イクナトンは、オリエントの太陽神ミトラを基に唯一神アトンを発明し、新都アケトアテン建設を実行するのです。そこへ、鉄器を発明したヒッタイト帝国からエジプトへ移住した鍛冶集団がいるのです。それがヨセフ族です。ヨセフ族は、エジプトの地で石切、運河の掘削、都市建設、人事・物流管理の技術を習得するのです。やがてヨセフ族は、太陽神アトンを信仰し、その化身の牡牛を祀るのです。紀元前1358年イクナトンが崩御すると、多神教の神を祀る神官達の巻き返しが興り、ヨセフ族の末裔はエジプトを去るのです。それがイスラエル民族の始まりです。太陽神を祀るイスラエル民族は、イスラエルを乗っ取るため、ヤコブ物語を捏造し、ヤコブをヨセフの父とした、唯一神ヤーヴェを祀る漂泊民族のレビ族の末裔のユダヤ民族が、紀元前六世紀のバビロン捕囚時に創作した、モーセ物語を知らない。太陽神アトンとその化身の牡牛を祀るイスラエル民族と、偶像崇拝を否定し唯一神ヤーヴェを祀るユダヤ民族とは同じ民族ではない。)を飲み込んだアッシリア帝国も、交易立国です。広く外国と交易をおこなっていたのです。そして、それらの商人達が使う言葉は、海洋民族フェニキア人が国際交易の場で使用していた「アラム語」だったのです。そのアッシリア帝国を滅ぼしたペルシャ帝国もアラム語で交易をしていたのです。
ペルシャ帝国の版図を飲み込んだアレクサンドル王領は、マウリャ朝インド文化と接触すると、そのことによりギリシャ文化とインド文化が融合するヘレニズム文化が興るのです。つまり、西洋文化と東洋文化との融合です。この文化の融合が、紀元前二世紀から、大月氏国(バクトリアの後継国)により、西洋と東洋との交易の架け橋の基となるわけです。そして、このヘレニズム文化が花咲くアラム語が話される大月氏国の地(後のガンダーラ)で、キリスト教(ギリシャ語聖書が書かれたのは大月氏国か。)と大乗仏教(ギリシャ系仏像の制作地は大月氏国か。)の「奇跡物語の基」が、国際交易商人により創作されるのです。(日本仏教に多大の影響を与えた日本密教を発明した錬金術師空海が、アラム語の呪文を唱えた原因のひとつと言われるのが、キリスト教大乗仏教一卵性双生児説です。)
国際交易国家大月氏国(月で表現される国は、トルコ系国。月・星はトルコの神聖なシンボル。)は、太陽神ミトラから発生した拝火のゾロアスター教(紀元前六世紀成立)の伝道国でもあったのです。何故か、そのゾロアスター教が、遥か極東の蘇我氏が支配する飛鳥の地にも渡来していたのです。
西域文化溢れる飛鳥時代には、どのような歴史があったのでしょうか。その歴史を知る糸口のひとつは、随書倭国伝にある、608年に渡来した隋使裴世清の報告でしょう。難波から上陸した裴世清は、桜井の地近くの「イワレ」で「男王」に謁見し、中国人と同じハイレベルな文化を持った人々を確認していたのです。では、隋使裴世清が遭遇した中国人と同じハイレベルな人々とは誰なのでしょうか。
しかし、その時期は、日本書紀によれば、日本人の先祖であるヤマト人が崇める女帝推古天皇の時代なのです。そして、聖徳太子が活躍し、更に、聖徳太子の行動をバックアップする秦河勝も活躍していたのです。藤原不比等は、日本書紀で飛鳥時代の何を隠そうとしたのでしょうか。
謎の時代・飛鳥の時代前後に起こった内外の出来事を列記してみましょう。そのことにより、日本書紀が何を隠そうとしたかを知ることができるかもしれません。

446年、鮮卑一派の拓跋部支配の北魏、仏教弾圧。道教の隆盛。200万の仏教僧侶国外脱出。
504年、梁、仏教を国教とする。
523年〜28年、北魏、人民の反乱。
527年、筑紫国造磐井の反乱。
528年、ギリシャ・ローマ文化保持国新羅が仏教国となる。
536年、蘇我稲目、飛鳥に現る。
538年、百済より仏教伝来。(?)
544年、肅愼人(みしはせ)、佐渡に漂着。
552年、突厥帝国成立。
568年、東ローマ帝国の返使ゼマルクス突厥庭に入る。(庭とは神の宿る場所。神聖な朝廷のこと。)
581年、隋成立。
582年、突厥、隋に侵攻。
583年、突厥、東西に分裂。
584年、隋、突厥に侵攻して勝つ。
585年、物部守屋等仏寺・仏像を焼き棄つ。
587年、蘇我氏、物部氏を滅ぼす。
589年、隋、中国統一。
600年、大和朝廷(実は秦王国)隋に遣使。
602年、百済、新羅を侵して敗れる。
607年、蘇我氏、ヤマト防衛のため国ごとに屯倉を置く。
608年、隋使、小野妹子を伴い来朝。小野妹子再び入隋。
609年、小野妹子帰朝。
618年、隋滅び、唐興る。
627年、百済、新羅を攻める。新羅、唐に救いを求める。
630年、唐の攻撃により、東突厥散ず。
645年、蘇我王朝滅亡。

飛鳥時代の東アジアでは、鮮卑系の騎馬民族が支配する北魏→隋→唐と、チュルク系騎馬民族が支配する突厥とが、中国大陸の南と北の領地をめぐり闘争を繰り広げていた時代であったのです。
地政学的には、北魏・隋・唐は、朝鮮半島を突厥側に支配されてしまえば、遼東・山東の側面を海側から攻撃されてしまうわけです。
しかし、朝鮮半島は、仏教国の高句麗・百済と、ギリシャ・ローマ文化国の新羅とで覇権を競っていたのです。では、突厥が、その朝鮮半島を支配するにはどのようにしたらよいのでしょうか。
東アジアの地図を百八十度回転させ、南側を上にすれば、日本海は内海となり、日本列島はシベリアの地から朝鮮半島に続く地となるわけです。つまり、日本列島の中心地ヤマトを押さえれば、日本列島全土を、朝鮮半島を攻撃する基地にすることが可能となるわけです。
しかし、紀元五世紀における突厥の本隊は中央ユーラシアでの小国として、近隣諸国と対峙していたわけです。その時期の日本列島のヤマトでは既に、エジプトで開発され高句麗経由の横穴式石室を持つ巨大前方後円墳の築造により、先住民のオオクニヌシやナガスネヒコ等は、高句麗・百済の進駐軍事部族(後の物部氏・大伴氏)により畿内の山奥か、畿外の地に追い払われていたわけです。
五世紀の三輪山麓のヤマトは、高句麗・百済支配地と新羅支配地を交易地として、国際交易商人が宇陀地方から産出される朱砂を奪取していたのです。その地を武力で制圧していたのが、高句麗・百済をバックとした倭族とツングース族の混合軍事部族の物部氏であるわけです。と言うことは、物部氏を倒せば、ヤマトを武力で支配できるわけです。と同時に、高句麗・百済勢力もヤマトの地から駆逐できるわけです。
国際交易港の大阪湾の浪速(後の難波)は、「ローラン」と言われるように、高句麗の楽浪(ローラン)と海路で繋がっているわけです。そこで、蘇我氏の先祖は、高句麗支配の浪速を避け、和歌山県に流れる紀ノ川河口に勢力を張る軍事部族(後の紀氏)に接近するわけです。この紀ノ川支流は、ギリシャ・ローマ系の金装飾品やガラス器の埋蔵物が多く発掘される古墳群があるように、非仏教国新羅からの渡来部族の基地だったのです。
六世紀、突厥は突如中央ユーラシアから西東に膨張し、西はササン朝ペルシャ、東は北魏と対峙する大帝国に発展するわけです。そして、552年突厥帝国が興るわけです。その流れで、突厥帝国に駆逐された他民族は周辺国へ逃避するわけです。
朝鮮半島も、突厥に侵攻された柔然(蠕蠕・ぜぜ/日本列島に渡来し近江の「膳所」となる。)が東進することにより、高句麗が南下し、百済や新羅を圧迫するわけです。
高句麗は、372年前秦の圧力により仏教国となり、百済は、384年東晉の圧力により仏教国となっていたのです。しかし、新羅は528年までは、仏教国ではなかったのです。高句麗と百済は、仏教により繋がりがあったのですが、新羅とは思想上繋がりは527年までありません。528年仏教国となった新羅から駆逐された非仏教部族は、何処へ逃避したのでしょうか。
朝鮮半島最南端は、百済にも新羅にも属さない倭族が支配する無法地帯です。半島倭族は北九州の倭族と海路を利用して、朝鮮半島と日本列島との海上交易経営をしていたのです。半島倭族と北九州倭族は、元々海洋民族「呉・越」の末裔の同族ですので、玄界灘は庭先のようなものです。その半島倭族と新羅から駆逐された非仏教部族とが、高句麗軍により半島から駆逐され、北九州に渡来すると、北九州先住民族との戦争が起こるわけです。それが527年の「筑紫国造磐井の反乱」の実態でしょう。その後に、隋使裴世清が目撃した、中国人そっくりの高度文化を保持した「秦王国」が興るわけです。
徐福の末裔の秦氏は、紀伊半島熊野、新羅、中国山東半島とのトライアングルにより、朱砂の交易を弥生時代からおこなっていたのです。その新羅と中国山東半島との交易港は、北九州博多(はかた・伯太・はた・秦)であるわけです。秦氏は、石切、運河掘削、都市建設、鍛造製鉄器具製作、人事・物流管理の技術集団であるわけです。秦氏の技術は、前方後円墳築造に貢献したことでしょう。と言うことは、当然ヤマトの地にも拠点があったわけです。
蘇我稲目が、騎馬による圧倒的軍事力でヤマトを制圧すると、飛鳥の地に、水銀製造工場、金属工場、ガラス工場施設が建設されるのです。この工場施設建設にも秦氏の技術が利用されるわけです。
騎馬民族は、スキタイ帝国の金メッキ技術開発の例にもあるように、研究・開発型交易民族でもあるわけです。そして、馬による物流だけではなく、工業製品や装飾製品を開発・製造するノウハウを駆使して、広範囲に交易地を広げる民族でもあるわけです。スキタイ、突厥、モンゴル帝国も、その版図が世界的スケールで広がるのは、騎馬民族には国際交易商人の思想が元々あったからです。
608年、隋使裴世清が突如来朝したのは、蘇我王朝のテングリ(天子)・蘇我馬子が、隋のテングリ(天子)・陽帝に交易依願に対しての、交易品製造工場視察であったのでしょう。小野妹子が持ち込んだギリシャ・ローマ製品に劣らぬ交易品サンプル「貴金属製品・ガラス器」の精巧さは、陽帝を驚かせたことでしょう。それでも、隋の陽帝は、東海の小島国で「テングリ」を名乗る蘇我王国を信用できず、工場視察を裴世清に命じたのでしょう。その視察でヤマトで見たものは、中国と同じ高度文化を誇る飛鳥工場施設群であったのでしょう。この交易交渉が即決となったのは、すぐさま小野妹子は隋に旅立ったことからでも推察できます。それにしても、一年のうちに隋とヤマトを往復できるほど、飛鳥時代の航海術は優れていたのです。しかし、平安時代になると遣唐使船の遭難は日常茶飯事でした。これは何を意味しているのでしょうか。
そこで疑問が起こるのです。そのようなチュルク系騎馬民族の蘇我氏により輸出製品製作工場を建設し、広く海外と国際交易が行われた飛鳥時代に、日本書紀は、何故「女帝推古天皇」(当時天皇は存在していなかった。天皇の初めは、天武天皇。天皇の表号は、騎馬民族の「テングリ」が基。)や「聖徳太子」を登場させたのでしょうか。
その時代に「女帝」など存在しなかったことは、隋使裴世清が「男王」に謁見したことで証明できるでしょう。更に、その時代に摂政聖徳太子(厩戸皇子・キリスト?)が存在していなかったことは、「摂政」とは、858年に藤原良房が始めの「官職」であったことで証明できるでしょう。
そのように日本書紀が架空の人物を創造する根拠は、蘇我氏と秦氏の「実体」を隠す必要があったからでしょう。だとすると、秦河勝が広隆寺を建造し、大乗仏教を蘇我馬子と聖徳太子が広めたという「物語」は、何を意味しているのでしょうか。
大乗仏教には多くの謎があるようです。その渡来の謎もさることながら、仏教隆盛の地である奈良にある南都六宗の東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の末寺が、平安京にはひとつもないのです。宗教活動の基本は布教です。京の都に奈良の末寺がないのは、何を意味しているのでしょうか。そして、平安京遷都初期には仏寺がなかったのです。今現在の京都の仏寺の多くは、鎌倉時代以降の創建なのです。
平安時代、都の仏教は、唐留学一年の最澄の天台宗と二年の空海(空海は、渡唐一年前に仏籍に入る。)の真言宗の「新興仏教」が取り仕切るのです。この仏教の奈良と京の関係の謎を解くヒントは、飛鳥時代にあるようです。
仏教の教祖は、「ほとけ」と言われています。しかし、日本列島における隠語では、「ほとけ」は「死人」を意味しているのです。この落差は、何を意味しているのでしょうか。
「ほとけ」とは、朝鮮語で「ブッダ」のことです。ブッダのサンスクリット語を漢訳すると、「浮屠」(ふと)となります。この「ふと」に朝鮮語での尊敬語尾の「け」を加えて、「ふとけ」が、日本列島に渡来すると「ほとけ」に変化するわけです。
大乗仏教は、本当に538年に、蘇我稲目によりアスカの都に受け入れられたのでしょうか。どうも大乗仏教は、「日本書紀」が記述しているように、飛鳥時代には受け入れられていなかったようです。
大乗仏教の渡来時期は、「日本書紀」によれば欽明天皇十三年(552年)、「元興寺縁起」、「上宮聖徳法王帝説」では欽明天皇七年(538年)となっているようです。しかし、この渡来時期には多いなる疑問が生じます。それは、703年に漢訳された「最勝王経」の如来寿量品の文章ソックリが、538年(552年?)に百済王聖明が伝えたという表文に用いられているからです。
703年に漢訳された文章では、

是の金光明最勝王経は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。声聞・縁覚も、尚し知りたまふこと能はず此の法は能く量も無く辺も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩薩を成弁す

552年百済王聖明の「日本書紀」の文章では、

是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず此の法は能く量も無く辺も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩薩を成弁す

更に、仏教伝来に関する謎は、蘇我稲目と物部尾興との、「蕃神・仏」を祀るかどうかの崇仏・廃仏論争です。これも、ソックリ物語が、「高僧伝」巻九の仏図澄伝にあるのです。その物語の舞台は中国です。後趙王の石虎が仏教導入の是非について諮問したところ、中書の王度が「蕃神・仏」を祀ることを反対するのです。しかし、石虎はそれに対して「仏」(戎神・異民族の神)を祀るのです。
そのように仏教伝来物語には多くの謎があるのですが、更に、日本書記には多くのトリックが隠されているようです。それは、「神」と「神社」についてです。
女帝推古天皇が支配する飛鳥時代に、在来の「神」と戦い、勝利したのが「仏」であった、と言うのが「日本書紀」における、仏教伝来物語です。では、在来の「神」とは何でしょうか。
一般的常識では、「神社」とは神代の昔から存在した日本国最古の建物である、ということです。しかし、神社とは、仏教渡来以降の寺院の影響下で開発された「祟り封じ」の建築物であるわけです。
日本列島の在来の神(かむい・カムイと言えば、団塊世代のひとは白土三平氏劇画「カムイ伝」を思い浮かべることでしょう。それは、江戸時代前期、反体制の非人部落の日常を描いた物語です。しかし、そこに描かれている物語は、実際は「穢多部落」です。穢多は、鎌倉時代に、藤原氏、百済系日本人、海洋民族末裔物部氏の流れにある北条氏により、インドからもたらされた「セダラ」民族差別思想を基に、騎馬民族末裔蘇我氏・秦氏・新羅系日本人を貶めるために発明された「蔑称」です。鎌倉時代、騎馬民族新羅の末裔源頼朝一族を抹殺した、海洋民族の末裔北条氏による騎馬民族「源氏」壊滅戦略により、その思想を庶民に布教したのが、平安時代に空海・最澄が発明したヒンズー教化仏教に染まった鎌倉仏教僧侶達です。飛鳥時代は、自然神を祀る騎馬民族が統治した時代で、農業神の人工神の仏教の時代などではなかったのです。)は、仏教神の人工神とは異なり、自然神であるので姿形がありません。姿形がないので、「かむい」を祀る建物(神社)など日本列島にはどこにも存在していなかったのです。ですから、オオクニヌシ・ナガスネヒコが外敵から死守したヤマトの三輪山には「神社」など存在しないわけです。(「出雲風土記」のトリックは、オオクニヌシを、畿内ではなく、島根県出雲の住人としていることです。オオクニヌシは、弥生時代に畿内三輪山を統治していた先住民の部族長だったのです。)
そこで疑問が起こるのです。それは、仏教と戦ったのは「何神」かということです。神道でないことは確かです。神道は、天武天皇崩御後、藤原氏が支配する中臣氏により発明されたものだからです。
蘇我稲目が崇仏で、物部尾興が廃仏であると、「日本書紀」は記述していますが、では物部氏はどのような「神」を祀っていたのでしょうか。
物部氏は、倭族とツングース族との混合軍事部族の末裔です。そして、日本列島には、高句麗の軍事部族として渡来したわけです。高句麗は、372年に仏教国となっています。と言うことは、物部氏は仏教の影響を受けていたことでしょう。
蘇我氏は、騎馬民族チュルク系の末裔です。チュルク族は、自然神の月・星を祀る民族です。自然神を祀る民族が、蕃神の人工神の仏を外国から導入する根拠が希薄です。
しかし、日本書紀では、蘇我氏が崇仏で、物部氏が廃仏となっています。これはどういうことなのでしょうか。
日本書紀に、蘇我氏と物部氏の宗教戦争が二度も記述してあるのは何故でしょう。そして、二度目の戦争で、崇仏派の蘇我馬子により廃仏派の物部氏は壊滅され、仏教が世に広まったと記述しているのです。
では、仏教と戦った「神」とは、どのような神が考えられるのでしょうか。それは、「道教」と「景教」(太陽神ミトラを祀る教え。一般的に、景教をネストリウス系キリスト教であると認識されているようですが、キリスト教は、ミトラ教の教義・儀式・誕生日等多く取り込んでいる。)です。
飛鳥時代に活躍した部族として、軍事部族の蘇我氏と技術部族の秦氏があげられます。蘇我氏はチュルクの末裔なので、月・星を祀っていました。では、秦氏は何を祀っていたかといえば、太陽神とその化身の牡牛です。
しかし、歴史上、藤原不比等の日本書紀によれば、大乗仏教と中臣神道は存在するが、日本列島には、蘇我氏と秦氏の神は存在していなかったことになっているのです。これは、392年ローマ帝国の国教にキリスト教がなった時、それ以前まで存在していた「ミトラ教」の存在を歴史的抹殺により、消してしまったことと共通しているようです。
道教と景教との共通点は、天にあるものを祀っていることです。道教は北極星(太一)を祀り、景教は太陽(ミトラ)を祀っていたのです。
645年蘇我王朝の崩壊と供に、蘇我氏と秦氏の神々は、王権の支配地から追放され、抹殺されていくわけです。飛鳥の地では、蘇我氏の神を祀る「パオ」に似せた八角形の社は、破壊されその上に飛鳥寺が新築されるわけです。山背の地では、秦氏の神を祀る景教寺は破壊され、その上に広隆寺が新築されるわけです。このことは、四世紀のローマ帝国でおこなわれた、ミトラ神殿を破壊して、その上にキリスト教教会を新築して、ミトラ教を歴史上から抹殺した戦術と同じです。やがて時代と供に、戦いに敗れた神々はひとびとから忘れられ、悪神・穢れ神として王権から貶められていくわけです。
藤原氏と百済系亡命貴族により、奈良の都から平安京に都が移され、新しい宗教が最澄と空海により発明されるわけです。しかし、その都に不思議な神様が賎民達により祀られていたのです。それらは、穢れ神「牛頭天皇」と「魔多羅神」です。
魔多羅神は、秦氏の元支配地の比叡山の神様でした。平安時代、百済系桓武天皇により、秦氏が比叡山から追放されると、最澄が天台宗を興し、比叡山に延暦寺を建立し、中国山東半島と交易をするわけです。
比叡山には、もうひとりの神様がいました。王権に反抗しない蕃神は幸福です。その神は、中国天台山の土俗信仰神「山王・シャンワン」です。この中国の山王神は、日本の神として変身するわけです。山王は、スサノウの孫の「大山咋の神」となり、日枝(イルギ→日吉・ひよし。出自不詳の自称平氏の豊臣秀吉が幼少のころ「日吉丸」と言われていたのは、その出生地が中国だったからか?)の神様へ変身するわけです。
農業神の神は、農産物の豊作を約束します。では、騎馬民族の神は、何を約束するのでしょうか。それは、部族の安全の他に、他民族との交易の安全を約束するわけです。
オリエントで発掘された紀元前十四世紀の交易文章によれば、オリエントの商人達はミトラ神の下に契約を交わしていたようです。他民族との交易は、等価交換ではなく、不等価交換が前提です。特に、自然物と人工物(装飾品、ガラス器)との交換は、注意が必要です。ひとが作る物は必ず「ほころび」が生じます。ですから、交易後、その「ほころび」を発見し、交易の無効を訴えることが多く発生したことでしょう。そのように、後からクレームをつけられては商売になりません。ですから商人は、異民族との交易において絶対服従の「神」が必要だったのです。交易の場を「神聖地」とし、そこで「神」に誓って交易書にサインしたら、後のクレームは受け付けないということです。
古墳時代、ヤマトの国際バザールが開かれた三輪山麓の海石榴市(つばきち)は、まさにそのような「聖地」であったのでしょう。飛鳥時代では、「屯倉」が、軍事施設と供に、そのような交易の聖地の役目も果たしていたのでしょう。やがて、交易地は先祖を祀る場所(古墳・塚)が利用されるようになり、定期的にひとが集まることにより、「まつり・バザール」が形成されていくわけです。やがて鎌倉時代を経て室町時代になると、仏教教団が支配する商業地の「市」に対して、王権から賎民として落とされたひとたちにより、蕃神を祀る化界の地である神社境内で商いをする同類者が集まり「座」が形成され、その世話をするひとが選ばれるわけです。その座を世話する顔役は、後に「役座・ヤクザ」と言われるわけです。
異民族が混在する都市で、交易を安全におこなうには、異民族も認める契約の神の神格化が必要です。そのためには、神を神格化させる装置としての儀式の開発が必要です。カリスマとは、私的な権威をある種の儀式により公的な権威に摩り替えることに成功したひとのことです。
騎馬民族に共通する神を祀る儀式としては、「犠牲」があります。羊・牛などが「犠牲」となり神に捧げられるわけです。
しかし、この犠牲の儀式は、騎馬民族や遊牧民族には有効でも、農耕民族には強烈すぎます。そこで、犠牲に代わる儀式が開発されるのです。それが、歌と踊りです。そこで、宗教儀式専門の部族が発生するわけです。
645年以前のヤマトでは、古墳や塚の周りで定期的におこなわれる市・バザールでは、バザールを仕切るひと達等により「神を祀る」歌や踊りが披露されていたことでしょう。しかし、645年以降は、蘇我王朝を倒した勢力により、古墳や塚の地には仏寺が建てられていくのです。土壁の頑強な塀に囲まれた耐火用瓦の家屋、そして警報装置の鐘を装備した仏寺は、仏像を祀る施設と同時に、当時は先住民に対する軍事施設の「砦」でもあったのです。(戦国時代でも、織田信長が宿営地に「本能寺」を選んだのは、仏寺に「砦」の機能が存続していたからです。)
飛鳥時代のヤマトは国際交易都市なので、渡来異国民がそれぞれの言葉を使用していたのです。南方系ポリネシヤ語、トラヴィダ語、タミル語。大陸系ウラル・アルタイ語、突厥語、朝鮮語。西域系アラム語、ペルシャ語、エジプト語、ギリシャ語。飛鳥時代のヤマトの地での国際交易を通じて、それらのグローバルな各国言語が融合して、やがて「やまとことば」を形成していったのです。
明治時代初期、明治新政府を発足させるため、薩摩藩を中心に各藩の有力者が江戸に集り会議をしました。しかし、その当時、日本語が発明されていなかったので、その会議では「各藩のことば」によりコミニュケーションをとれなくて、「筆談」でことを済ませたようです。
江戸時代までは、各藩の「ことば」は、その臣民の先祖の渡来先により異なっていたからです。遥か南海国と交易をしていた尾張の国などでは、「あいうえお」の五母音ではなく、「八母音」の言葉を使用していたのです。(現在も使用している。)そこで明治新政府は、日本国統一言語を、「廓言葉・くるわことば」を基にして発明したわけです。それが今の「東京弁」の標準語というわけです。
日本語の原語が特定できないのは、飛鳥時代のヤマトが国際都市であったと認識していないからです。国際都市であれば当然、各国の言葉が使用され、それらはやがて融合して「やまとことば」となるわけです。
その「やまとことば」を使用して「神」を祀っていたひと達は、645年には蘇我王朝と伴に、ヤマトの地から追放されるわけです。そして、都が奈良へ遷都される奈良時代に、徐々に賎民へ落とされていくわけです。奈良時代が、太陽と月と星を祀る民族と、新興仏教の仏を祀る民族との闘争の時代だったのです。
しかし、平安時代から、日本列島文化の価値観が百八十度変換してしまったのです。
初めて「鬼」が現われるのがこの時代からです。そして、飛鳥時代は、蘇我王朝と天武王朝と友好関係にあった「蝦夷」が、蛮族に貶められてしまうのです。そして、桓武天皇より、奈良仏教は「穢れ仏」を祀る穢れ宗教と貶められて、奈良仏教僧が平安京へ入ることを厳しく禁止されてしまうのです。更に、天武天皇系貴族の伊勢神宮の神に奉仕していた斎王としての「郎女・いらつめ」が「遊女」と貶められ、伊勢神宮の神を祀っていた歌や踊りは、平安貴族への余興へと変化してしまうのです。そして、「星祭」を禁止された太陽・月・星を祀る祭祀集団は、都から河原へ追放されてしまうわけです。
平安時代、百済系桓武天皇により貶められた、騎馬民族の末裔である遊女や河原者は、やがて有力な指導者に統率され、闇の世界の支配者となっていくわけです。その闇の世界のひと達が開発・発展させた技術・芸能なくしては、今日の日本文化は語れないのです。

頼朝公の御朱印
長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋
右之外の者数多これ有之是皆長吏は其上たるべし盗賊之輩は長吏をして可行之湯屋風呂屋傾城屋の下たるべし人形舞は廿八番下たるべし
治承四年庚子年九月日         鎌倉長吏


                  弾左衛門頼兼へ
頼朝御判

 

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