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(回答先: 神輿の黙示録(4)(日本密教の発明:「穢れ」から「ケガレ」へ) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:45:32)
奈良時代から平安時代への流れは、物理的に、単に都が奈良から京都へ移っただけではないようです。それは、内外への政策が前政権(天武王朝)とガラリと激変しているからです。それらは、対外的には、新羅国との鎖国です。そして、国内的には、陸奥国(東北)への軍事侵略です。
新羅国に対しては沿岸警備兵の防人で北九州沿岸へ防衛線を築き、そして、陸奥国へは征夷大将軍(征夷とは、弓矢を使うエビスを征伐するという意味。)により延べ20万の軍勢で侵略をおこなったからです。
天武王朝の時代では、719年新羅国は騾馬を元正天皇に献上するほどでしたが、天武天皇から左遷させられていた藤原不比等が政界中央に復帰後から、次第に新羅国からの使節を粗野に扱うようになるのです。
そして、飛鳥時代、陸奥国の蝦夷達は、ペルシャ式庭園を築いた斉明天皇により飛鳥の都に招かれ饗応されていたのものが、百済系桓武天皇の父親の光仁天皇の時代になると、宝亀5年(775年)大友駿河麻呂を始めとして、二代目征夷大将軍の坂上田村麻呂(初代は大伴弟麻呂)指揮下の外国傭兵軍により、38年もかけて陸奥国への軍事侵略をおこなうわけです。
そこで不思議なことに気付くのです。
それは、陸奥国の騎馬民族の蝦夷軍と戦った、金髪の坂上田村麻呂率いる軍団の、進撃ルートは知られているのに、蝦夷軍との戦いに使用した武器や装備が史料として遺されていないのです。野史によれば、田村麻呂軍は、腰弓や幅広の剣など中国大陸型の武器で武装していたようです。それに対する蝦夷軍は、チュルク(突厥:トルコ系騎馬民族)の戦術(短い弓矢で、敗走しながら後ろ向きで騎射。)で、応戦するわけです。蝦夷軍の剣は、ペルシャの剣に似た蕨刀です。
外国傭兵の京都朝廷軍は、歩兵が主で、陸奥国の国情や地形を知らないため、当然苦戦するわけです。そこで、坂上田村麻呂は、敵将のアテルイを騙して、京の都に連れて行き、そこで、アテルイを惨殺するわけです。大将を失った蝦夷軍は、弘仁2年(811年)2万の文室綿麻呂軍により壊滅されてしまうのです。
坂上田村麻呂は、弘仁2年(811年)54歳で没しました。それから3年後、嵯峨源氏が誕生するのです。桓武平氏は、それから14年後に誕生するわけです。
そこで、また不思議なことに気付くのです。
それは、征夷大将軍の坂上田村麻呂が没して、間もなく、軍事部族としての源氏と平家が誕生するわけですが、その軍備や武器などの前時代からの継続性が、史料などで確認できないのです。源氏も平家も、中国大陸型の武器ではなく、突然、片刃の日本刀(古墳から出土するのは両刃の剣ばかりです。)と豪華絢爛な鎧兜(装飾過剰で実戦には不向きな武具です。)で武装しているのです。これらの武器の、ほんの少し前の征夷軍の武器や装備からの飛躍は、どのように説明することができるのでしょうか。
645年の政変(「大化の改新」はフィクションです。)の時、蘇我王朝の皇紀と国記は、藤原氏により焚書されてしまいました。(教科書歴史では、蘇我蝦夷が焚書したことになっています。)そして、奈良時代の史料は、藤原氏にコントロールされている桓武天皇により焚書されてしまったのです。正倉院(北方スキタイの建築様式。歴史教科書では、湿気を防ぐ南方系建築様式と説明している。)にあった天武系聖武天皇の遺品も、百済系桓武天皇に都合の悪い物品は、桓武天皇により処分されてしまったのです。
ですから、その時代を知るには、焚書されることのない公家(百済系日本人と藤原氏)の日記などに頼ることになるわけです。しかし、その日記には公家に都合の悪いことは記述されていません。ですから、歴史の真実(あるとしての前提ですが。)を知るには、智恵が必要になるのです。それは、公家の日記にさりげなく悪く書かれている事柄に真実の種が隠されていることもあるからです。
平安時代から日記を書くひとが多くなるのは、大乗仏教の「地獄思想」布教のおかげです。それは、地獄に落ちないように、死の裁判の時、閻魔様に生前の善行の証拠を示すためが、日記を書くことの主な動機のひとつになったようです。
戦国時代、公家の中院通秀の日記「十輪院内府記」に、「およそ源氏の氏神は、平野社を以って正と為すなり、八幡宮に於いては、清和源氏義家以来の事なり。」とあるのです。源義家とは、後の「八幡」太郎義家のことです。弟には、「新羅」三郎(源義光)がいます。源氏の名字に「八幡」や「新羅」をつける意味は何なのでしょうか。
「平野社を以って正と為す。」とは、源氏の氏神の本社は平野社ということです。それは、平野社は、百済系桓武天皇の祖先神を祀る高貴な所だからです。源氏が百済系桓武天皇の先祖神を祀るのは、何故か。それは、源氏も平氏も、基は百済系貴族だからです。その源氏と平氏の貴族達が、下人(武士)として雇った部族が、源氏が新羅の末裔であり、平氏が出自不明(フェニキア・インド軍事部族の末裔)の海洋民族であるわけです。
嵯峨源氏は貴族出であるのに対して、清和源氏は昇殿できる四位のものはほとんどいない、下級の武家源氏であるわけです。つまり、源氏といっても、平安時代では二種類あるわけです。それは、昇殿できる公家源氏と、昇殿できない武家源氏(鎌倉源氏)です。
その昇殿できない武家源氏の清和源氏の氏神が「八幡宮」である、と言う意味はなんなのでしようか。
戦いで勝ち残るための条件のひとつは、兵力と武器です。武器は、最新のハイテク技術で開発されていくわけです。ですから、戦いは、常にテクノロジーの戦いでもあるわけです。石器武器は、青銅器武器に敗れ、その青銅器武器も鉄器武器に敗れました。槍で武装した軍団は、弓矢で武装した軍団に敗れ、弓矢の武装集団も鉄砲軍団に敗れました。そのように、武器は戦いの勝敗を左右するための重要な要素なのです。ですから、最新式武器は、敵対民族に瞬く間に伝播していくわけです。
武器の伝播は、ひとを介しておこなわれます。ですから、武器の伝播経路を辿れば、軍団の侵攻経路の推測も可能であるわけです。
では、源平の武士集団が発生した時代、世界はどのようなうねりに翻弄されていたのでしょうか。
西暦571年、西アジアでひとりの偉大な男が誕生しました。その名はマホメットです。マホメットは神の啓示を受け、宗教を興すのです。それがイスラム教です。イスラム教は旧約聖書とコーランを信じる宗教です。そのイスラム教は、貴賎に関係なく誰にでも「平等」を説くことにより、戦争による貧困に喘ぐ下層階級の民に瞬く間に広がるわけです。それがサラセン帝国を興すエネルギーとなるわけです。
サラセン帝国は、やがてイスラム帝国となり、ササン朝ペルシャやインドのグプタ朝を飲み込んでしまうわけです。イスラム軍団に敗れたペルシャ軍団やインド軍団は、周辺諸国に敗走するわけです。そして、紀元八世紀には、イスラム帝国は、西は北アフリカから東はインドまでの大帝国に発展するわけです。
紀元八世紀後半、イスラム帝国の膨張に伴い、カスピ海(カザールの海の意味。)周辺で、草原ロード、南海ロードそしてシルクロードにより西(ヨーロッパ)と東(ウィグル・唐・新羅)との国際交易をおこなっていたカザール王国は、東ローマ帝国(キリスト教=旧約聖書+新約聖書)とイスラム帝国(イスラム教=旧約聖書+コーラン)に挟まれてしまうわけです。そこで、カザール王国の民は、生き残るための選択をおこなうわけです。その選択のひとつが、キリスト教でもなくイスラム教でもない、弱小宗教のユダヤ教(旧約聖書+タルムード)に改宗することにより生き残るわけです。しかし、改宗しない者達は、国際交易で得た莫大な財宝と伴に国際交易ロードの彼方に消えてしまうわけです。
紀元十世紀の東アジアに転じると、907年に唐が滅び、そして935年に新羅国が滅んでしまうのです。国が滅ぶ原因は、二つあります。それは、外国からの攻撃と、内側からの崩壊です。その二つの原因の根本は、経済です。国の経済がしっかりしていれば、国内統制も充分におこなうことができるし、武器や軍隊を調える事により外敵を防ぐことも出来ます。
西と東の交易をおこなっていたカザール王国の崩壊は、周辺諸国だけではなく、遠く極東の国々にも大きな影響を与えていたのです。
そのような激動する国際情勢の中に、百済系平安王朝は誕生したのです。
国が崩壊する少し前に、最初に脱出するのは、昔も今も同じです。それらは、権力者、高級軍人、祭祀者、金持ち、そして権力と何らかの関係があるひとたち等です。
奈良時代後半から平安時代初期にかけて、唐からインド高級僧侶達が多数渡来したのは、西アジアの国際情勢を、国際交易商人や諸外国を遊行する僧侶達からの情報で知って、イスラム教軍団がインド侵攻前に、唐に亡命していたからです。(イスラム教がインドで布教開始すると、やがて仏教は消滅し、「ブッダ」はヒンズー教の「ビシュヌ神の化身」になった。インド亡命僧が、日本国にカースト思想を持ち込んだ。インドの神々は七福神に変身して渡来した。)
そして、平安時代になると、新羅国も盛んに使節を送ってきたのは、実際は、朝貢ではなく、新羅国中枢の亡命打診であったのかもしれません。
では、平安貴族の「嵯峨源氏」に雇われた武士達は、何所から来たのでしょうか。
映画の「ラストサムライ」ではありませんが、日本国最後の武士として敗れたのは、明治10年(1877年)の旧薩摩藩でした。薩摩藩は、武士育成のための教育手段として、名門の美少年を「稚児様」として奉り、青少年に武士道の教育や戦の訓練をおこなっていました。
この「稚児様」を中心にした青少年への武士育成のための教育方法は、何所から導入されたのかと言えば、それは新羅です。五世紀の新羅では、「花郎」(ファンラン=弥勒の男=ミトラ神=戦の神)と呼ばれる貴族の美少年を奉じて、騎士道精神を教育し、青年武士団を形成していたのです。
薩摩藩の島津氏(鎌倉時代に改名)は、平安時代では惟宗氏を名乗り、五世紀に、新羅から渡来した秦氏を先祖としていたのです。ですから、新羅の文化は、秦氏をとおして、日本列島(「日本国」の表号は、七世紀から始まる。それ以前は、魏国から倭国と言われていた。)にもたらされていたのです。
日本国の中枢は、平安時代に、藤原氏の陰謀により、百済の亡命政権に乗っ取られてしまったため、敵国新羅の末裔による日本国における事績(新羅・秦氏の末裔の居住地名をニッポン語化してしまった。例えば、「トルファン」は諏訪。「ムクラ」は武蔵。「ジュジ」は住吉など。それらの旧地名は、騎馬民族の故郷の北東ユーラシアでの地名です。)を抹殺してしまったため、日本の武士道のルーツも全く分らなくなっていたのです。
百済(ペクチェ)は、西暦346年、北方ツングースから渡来した夫余や高句麗の末裔と、南海ルートからの渡来民族により建国されたようです。
それに対して、新羅(シルラ・シンラ)は、西暦356年、二つの異民族により建国されたようです。それは、天孫(征服族)三姓の朴(パク)、昔(ソク)、金(キム)と、六土姓(先住民)の李(イー)、崔(チュー)、孫(ソン)、鄭(チョン)、裴(ぺ)、薛(ソル)です。つまり、新羅は、日本国と同じに、天孫族による、先住民に対する征服王朝だったのです。
では、新羅国の、日本の武士道のルーツとなった騎士道精神は、どこからもたらされたのでしょうか。
新羅の王都慶州(キョンジュ)の155号古墳から、天馬の絵が発見されました。その天馬は、騎馬民族スキタイでは、ペガサスと呼ばれ、騎馬民族の族長クラスの馬につけられた名称です。つまり、新羅国の天孫族は、高句麗や夫余のツングース(東胡=トコ=常=常陸=ツングース族の渡来地。)とは異なり、スキタイ・シベリア系の騎馬民族であったのです。
紀元前六世紀、スキタイ(騎馬部族連合国)はペルシャ(騎馬部族複合国)と何度も戦をおこなっていたので、ペルシャの騎士道精神が、スキタイに受け継がれていたのでしょう。
日本の武士による、戦いにおける「名乗り」と「一騎打ち」は、ペルシャ騎士道の真似です。ペルシャの軍隊は、傭兵で構成されていたので、戦いに敗れると、国王は莫大な借金を背負い込むことになるのです。そこで考え出されたのが、全軍激突ではなく、一騎同士による戦いです。これならば、万が一敗れたとしても、負債は最小限にとどまります。
日本の武士道の発生ルート(ペルシャ→スキタイ→突厥→新羅)は分りましたが、では、嵯峨源氏の武士達はどのようにして渡来したのでしょうか。
子沢山の嵯峨天皇は、源氏姓の基です。つまり、嵯峨源氏が、全ての源氏姓の基締めであるわけです。天長八年(831年)、嵯峨源氏が初めて公卿になっても、天暦五年(951年)源等の死により、嵯峨源氏は政界の表舞台から姿が消えてしまうのです。
藤原氏の傀儡政権の百済系光仁天皇、桓武天皇、平城天皇までは、藤原氏のコントロールもよく効いていたようです。しかし、四代目の嵯峨天皇になると、人情も三代過ぎれば何とやら、の譬えのように、反体制側の秦氏の末裔の「空海」を都に呼び親しく交わるなど、桓武天皇時代ではありえないこともおこなわれたのです。ちなみに、桓武天皇は、百済の末裔の「最澄」(架空人物・「聖徳太子」の宣伝隊長。)を寵愛し、比叡山延暦寺を建立するわけです。
嵯峨天皇の、藤原氏を無視する行動に対して、藤原氏は、奈良の興福寺(710年藤原不比等が名付け親。)を拠点として、反撃に転じるわけです。それに対して、百済系比叡山延暦寺も対峙するわけです。
都では、延暦寺の僧兵と、興福寺の僧兵との諍いもよくあったようです。更に、延暦寺側(清水坂)と興福寺側(奈良坂)との、清目(穢れである怨霊を清める重役。しかし、鎌倉時代になると現物の汚れ物の清掃業務となる。古来、「モノ」とは、祟りと守護を兼ね備えた精霊であった。その思想も、仏教伝来により消滅。)のナワバリを廻っての争いも、頻繁にあったようです。
藤原氏の反撃は巧妙です。それは、藤原氏は、陰に隠れ決して攻撃の前面には出てこないからです。(イジメの原点)しかし、藤原氏の異民族支配のための基本戦略を知ってしまえば、その行動を予測する事が可能です。その基本戦略は三つです。それらは、「夷を以って、夷を制す。」「分断して、統治せよ。」「敵の敵は、味方。」です。
藤原氏は、天皇の反乱には、藤原の女を使い、摂政関白のシステムでコントロールすることができても、竹取物語(藤原不比等をコケにした物語)のセリフではありませんが、きたなき都の京で起こる多くの不吉な事件は別です。平安時代では、怨霊の祟りは、清目の武芸者により護ることしかできなかったのです。
そこで、朝廷や貴族達は、近辺護衛のため「清目の武芸者」を募るのです。それが、桓武平氏のライバル、嵯峨源氏の末裔の源綱です。(夷を以って、夷を制す。)源綱は、やがて渡邊綱と名乗り、清目として渡邊党を興すのです。渡辺綱は、清目の大将らしく、怨霊が具現した羅生門の「鬼」退治の伝説に登場するのです。でも、その鬼は、首を斬られるのではなく、腕を斬られ、後ほど、鬼が取り返すストーリーは、同族(清目)が同族(鬼)を退治するからでしょう。本当に、鬼を抹殺したいのならば、腕ではなく、首を落していたでしょう。(ペルシャの腰刀や日本刀の小刀は、敵の首を落すための武器です。ペルシャの騎士も日本の武士も首切りの伝統があったのです。21世紀のイラクでは、現在でもおこなわれているようです。)
名前は、「氏=血族」→「姓=階級」→「字名=地名」→「名字=個人名」と、時代と伴に変化したようです。
そこで、源綱が渡辺綱になったということは、「綱」が「渡辺」という地域に居住したということになるわけです。では、その渡辺の意味は何なのでしょうか。そのヒントは、渡辺党の組織は、松浦党の組織により構成されていたということです。
では、その松浦党とは、何なのでしょうか。その源は、北九州です。魏志倭人伝に出てくる末慮国が、松浦の元です。
松浦党は、海洋軍事部族(河川での船の運航には馬を使役。騎馬部族も構成員として存在。)です。松浦党の基本的考えは、「はじめてのものは後来者をこばまず、後来者は先住者をおしのけず。」との、渡来異部族との共存共栄関係樹立です。その考えにより、連判状の記銘順序も、部族の優劣に関係なく、くじ引きで決めるほどです。
松浦源氏においては、ギリシャ民主制のように、権力者(棟梁)への忠誠規定のない合議制の掟が支配していたようです。これは、藤原氏の支配体制とは全く異なる政治形態です。明治初期まで十三代続く、秦氏末裔の穢多頭の弾左衛門家も、世襲ではなく、頭は、各国組織の推挙による合議制で決められていたのです。
でも、松浦党は色々な渡来部族の連合体であるため、党内の争いを避けるため、「松浦党掟」を定めていました。それが、やがて武士道の心得の基に成っていったようです。
漢字は、それ自体イメージを内蔵しているため、その扱いにより、色々なトリックを考え出せるのです。ですから、王権側が、或は、自らが出自を隠すため、出身地名をある意味を持った「字」に置き換える場合もあるわけです。例えば、鮮卑(魏)=筑紫(ジュジ)=住吉(ジュジ)。匈奴=胸(ムネ)=宗像など。名前では、新羅国の貴族が日本国に渡来すると、朴=パク=ハク=シロ(日本名:白○、志○)、昔=ソク=セキ(日本名:関○)、金=キム=カネ(日本名:金○)に変身するわけです。
松浦は、「マズラ」、或はマがメに変化して、「メズラ」とも読めるわけです。そのメズラ地域を拠点に、日本地図をズームアウトすると、朝鮮南端の島、珍島が視野に入るでしょう。珍島は、チントウではなく、「メズラ」島であるわけです。玄海灘の対馬を挟んで、「メズラ」が対峙しているのです。何故でしょうか。
紀元32年、高句麗(コクリョ)が漢に入貢し、王と称し、そして、紀元ニ世紀に、朝鮮半島を南下するまでは、朝鮮半島南端と北九州とは、同じ文化圏であったのです。
それは、紀元前四世紀、海洋民族「越」に敗れた海洋民族「呉」の末裔が、黒潮に乗り北上し、対馬で西と東に分かれて上陸した所が、朝鮮半島南端と北九州であったからです。呉の末裔はそれぞれの地域に土着し、漢民族により、倭族(イゾク)と呼ばれていたのです。潮目が読める海洋民族には、玄界灘は庭先のようなものです。朝鮮半島南端と北九州では、倭族が頻繁に行き来していたことでしょう。
やがて、紀元四世紀、高句麗、百済、新羅の三国により、朝鮮半島での三つ巴の戦いにより、朝鮮半島南端の倭族は、同朋のいる北九州に押し出されてしまうわけです。追い出された倭族は、航海技術を利用して、半島と交易を始めるわけです。
北九州は、中国大陸から見れば、日本列島の玄関です。つまり、中国大陸の色々な民族、文化が訪れる最初の地であるわけです。と言うことは、京都より、北九州の方が、文化がより進んでいることになるわけです。
その北九州の地に、紀元五世紀、秦一族が新羅国より渡来するわけです。そこで興したのが「秦王国」です。
秦一族の渡来は、446年の北魏の廃仏令(主な原因は、戒律の乱れと現世利益の道教の隆盛。)による、200万人とも言われる仏教僧の追放が原因のひとつかもしれません。
秦氏の神は、仏ではありません。しかし、秦王国には、寺がびっしりと建立していたのです。それは、秦氏は、北魏で、鍛冶技術を駆使して、仏像の制作販売をしていたのかもしれません。秦氏は、仏像販売のための新市場開拓のために、仏教僧と伴に渡来したのかもしれません。
仏寺建造物は、クギを極力使用しない、組み立て式が多いようです。それは、移動に都合がいいからです。北魏で解体された仏寺や仏像は、倭族の船で玄海灘を渡り、秦王国に移築・移動されたことでしょう。
では、秦氏は、どのような神を祀っていたのでしょうか。それは、八幡の神です。では、その八幡神はどのような性格の神かと言えば、それは、鍛冶神です。
秦氏の神山は、香春岳です。その香春岳には、古い採銅所があります。香春とは、カル、つまり銅のことです。機織りで知られる秦氏には、鍛冶技術もあったのです。渡来する前は、加羅で鉱山の開発をおこなっていたのです。
鍛冶には、燃料としての大量の樹木が必要です。ですから、鍛治民族は、燃料を求めて常に大移動する運命にあるわけです。鍛治民族ヒッタイトの滅亡の原因のひとつは、燃料の多量消費のため、緑の山が禿山になって、鍛治に必要な薪が枯渇したからだと言われています。日本では鍛冶は、別名「タタラ」とも言われ、それは、中央アジアの「タタール」が語源とも言われています。
鍛冶は、火と風と水と金属をコントロールする秘術であり、神のチカラを必要とするため、神と交流するシャーマンの業でもあるわけです。そして、火をコントロールするのは鳥(火の鳥)であると考えられていたので、秦氏は、その鳥のシンボルを「鷹」としたのです。「鷹」は、「高」の字に置き換えられ、鉱脈が探索できるように「高」のつく山に、秦氏の神を祀ったわけです。例えば、高尾山、高巣山、高取山などです。
秦氏の神は、魔多羅神と言われています。新羅の花郎は、弥勒の男と言われています。弥勒の神は、山中の洞窟に潜んでいると信じられていました。そこで、弥勒の神に出会うため、花郎は、山岳修行するわけです。修行のため、山に篭るとは、弥勒の神との出会いを求めることです。
魔多羅神は、鍛治神でもあるわけですから、鉱脈探しのために、山の穴に祀られることもあるわけです。やがて、鉱脈探索の穴は、弥勒の神の住む穴にもなるわけです。ここに、魔多羅神と弥勒の神が出会うわけです。でも、その二神は、元々は同じ神であったのです。それは、ミトラ神です。
ミトラ神は、東の山から再生すると信じられていたのです。そのミトラ神とは、太陽神だったからです。西の山に死んだ(沈んだ)太陽は、次の日、再び東の山から再生するわけです。死と再生を繰り返す、太陽神(ミトラ神)は、死を賭して戦う、武士には、心の支えとしてなくてはならない神であったのです。その神を祀るのが、新羅から渡来した八幡の社であるわけです。
源義家が八幡太郎義家、そして、源義光が新羅三郎と自ら名乗るのは、八幡の神は新羅から渡来し、そして、源氏の武芸者も新羅から渡来したからです。
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- 神輿の黙示録(11)(日本国統一と新賎民の発生:デウスとブッダは一卵性双生児か) 五月晴郎 2015/1/31 19:14:08
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- 神輿の黙示録(10)(戦国時代は第二次源平合戦か:家紋はどこから来たのか) 五月晴郎 2015/1/31 19:07:38
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- 神輿の黙示録(9)(大乗仏教とは何か:鎌倉時代の賎民は何を拝んだのか) 五月晴郎 2015/1/31 19:02:32
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- 神輿の黙示録(8)(芸能民とは何か:平安時代の遊女は、何故読み書きできたのか) 五月晴郎 2015/1/31 18:57:01
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- 神輿の黙示録(7)(貴族仏教の退廃と芸能民の黎明) 五月晴郎 2015/1/31 18:53:57
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