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(回答先: 神輿の黙示録(5)(鎌倉源氏の謎:何故新羅の神を祀るのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 1 月 31 日 18:48:44)
日本刀は、「武士の魂」と言われているようです。しかし、「日本刀」は、明治時代に発明された言葉なのです。明治以前までは、直刀は「剣」(つるぎ)で、反りのある片刀は「太刀」(たち)と呼ばれていたようです。
源平時代の実戦主武器は、弓、薙刀、槍です。時代が下がって、戦国時代の実戦主武器は、鉄砲です。歴史上実戦闘では、首切り用以外は、太刀はあまり武器として使用されていなかったようです。それは、すぐ刃こぼれしたり、曲がったり、折れたりしたからのようです。
永禄8年(1565年)、十三代足利義輝が、松永久秀の謀反にあい、刀が折れたり曲がったりするから、名刀を何振りもとりだして応戦したことは有名な話です。いや違う、刀は実戦に使われていた証拠として、剣豪宮本武蔵は、多数の敵に対して、二刀流で応戦したではないか、と言っても、宮本武蔵は、江戸中期に浄瑠璃「花筏巌流島」で、架空の人物佐々木小次郎との対戦相手として登場したキャラクターであったのです。宮本武蔵とは、実在の放浪画家「宮本ニ天」と実在の肥後細川家の剣聖「新免武蔵」との合成人物であったのです。
では、実戦で主武器として使用されない反り刃の太刀が、何故に「武士の魂」なのでしょうか。
奈良時代から平安中期頃までに、刀は直刀から湾刀へ変化したようです。つまり、清目の武士達が登場した時期と同じ頃です。この時代の刀匠として、現在のところ、在銘最古は、伯耆国(島根県)の安綱です。安綱の作品としては、清目の大将渡辺綱が羅生門で鬼の腕を切ったと言われている、「鬼切丸」があります。
刀の学術書によれば、反りの発明は、徒歩戦から、馬上戦へと戦い方が変化したからだと説明されているようです。だとしたら、騎馬民族の蝦夷との戦いで、坂上田村麻呂は、何故に反り刀を使用しなかったのでしょうか。ちなみに、坂上田村麻呂は、自称、漢帝国の末裔と称していました。
どうも、反り刀(日本刀)は、実戦の武器として発明されたものではないようです。では何かと言えば、それは、怨霊との戦い(清目)で、武士の「魂を護る」ための武器であったようです。
平安時代は、源氏物語などによる平安文学の華麗な世界とは異なり、実際は、亡命インド僧達がもたらした魑魅魍魎のバラモン的世界観により、穢れや地獄などのオカルト世界に貴族達は埋没し、藤原氏の陰謀により呪殺されたひとたちの怨霊が渦巻く、おどろおどろしい時代であったようです。平安の都で、穢れや怨霊退散の祈祷が流行るということは、その需要があるということです。そこで登場したのが清目の武士です。武士による清目とは、「武芸」による「祈祷」でもあるわけです。その祈祷のパフォーマンスに使用されたのが、反り刀(日本刀)であったのです。そして、その清目の儀式の衣装として発明されたのが、豪華絢爛な鎧兜であったのです。その根拠として、この時代に、鎧は、錆びやすく重い鉄製(40kg〜70Kg)から、軽い漆塗りの総皮製に変化しているからです。(鉄砲が渡来してから、鎧は再び鉄製に戻った。)
その武芸者の嵯峨源氏が、天暦五年(951年)に源等の死と伴に、政界の表舞台から消えてしまい、それに替わり、武家の清和源氏が登場するのは何故でしょうか。
嵯峨源氏と清和源氏とは、同じ源氏でも、名前が一字と二字の違いからも分るように、身分が異なります。国風化までは、漢風の一字名の方が、二字名よりも挌上だったのです。
清和源氏の政界登場は、安和ニ年(969年)の安和の変からです。
安和の変とは、藤原師尹(もろただ)による陰謀です。藤原師尹は、村上天皇の次の皇位をめぐって、醍醐天皇の皇子左大臣源高明を貶めるために、源満仲(清和源氏)に「源高明が皇太子守平親王の廃位を図っている。」と密告させるのです。(藤原氏の第三者を使う手立ては道鏡事件とそっくりです。)それにより、藤原氏の有力敵は全て抹殺され、他氏族との権力闘争が終わりを告げ、これより後、摂政・関白を藤原氏が独占するわけです。そして、この手柄により、清和源氏の政界での基礎固めが確立するわけです。
清和源氏は、藤原氏と結び、武士として東国での地位を不動のものにするわけです。しかし、実際には、清和源氏は、清目としてではなく、藤原氏の手先としての軍事部族として利用されていくわけです。
そして、鎌倉源氏(清和源氏)の滅亡から、清目の内容が変化していく訳は何故でしょうか。
鎌倉時代以降、武家の基は清和源氏となっているようです。しかし、清和源氏の出自には謎があるようです。それは、清和源氏の系図に疑問があるからです。
系図とは、系図屋とは「嘘つき」の代名詞でもあるように、信用できるものは、ほとんど存在していないようです。万世一系の天皇家の系図も、四歳年下の第三十八代天智天皇が第四十代天武天皇の兄となっていることからも分るように、不確かなものなのです。
清和源氏の系図は、第五十六代清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼信〜八幡太郎(源義家)・新羅三郎(源義光)、となっていくわけですが、安和の変で活躍した、藤原氏の配下となった源満仲(912年生)は、父親の源経基(917年生)よりも、五歳年上なのです。
更に、源満仲の年下の父源経基は、第五十六代清和天皇→第五十七代陽成天皇→元平親王の系列に属するとの説もあるわけです。つまり、清和源氏は歴史上存在せず、正しくは、「陽成源氏」である、との説です。
では、清和源氏の立役者・源満仲の出自はどうなのかと言えば、それが分らないのです。源満仲が、歴史上に現われるのは、平徳五年(961年)に京都の治安部隊の検非違使に加わるところからです。それも、49歳と決して若くない年代なのです。
その頃、京の都は、平将門の乱(承平5年・935年)と藤原純友の乱(天慶2年・939年)の後遺症により、平将門の手下が京に侵攻してくるとの噂で、大混乱していた時代なのです。
目を外国に転じると、935年平将門の乱が起こった時、935年新羅国は高麗により滅ぼされていたのです。日本国の争乱は、朝鮮半島の争乱と連動していたようです。
そのような都の争乱に、藤原氏の一族は何をしていたのかと言えば、文芸に励んでいたのです。藤原氏の一族は、佐藤(左兵衛府の藤原氏)、首藤(主馬寮の首の藤原氏)、近藤(近江の藤原氏)、尾藤(尾張の藤原氏)などが存在していたのですが、貴種は武人になりえず、の格言どうり、朝廷サロンで美女を相手に歌などを詠んでいたわけです。
優れた軍人になるには、幼年の頃から軍事訓練を行なわなければ、騎馬弓射などの高等軍事技術を習得できないわけです。ですから、京の都では、氏素性など問題にせず、軍事技術のある武士は、就職の口はいくらでもあったわけです。
戦国時代、何故、尾張国の部将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が、数多ある戦国部将の中から頭角を現わしたのでしょうか。知力があったから、或は運が良かったからでしょうか。それは、海外との貿易港として、尾張国には桑名港があったからです。
戦闘は、兵力と武器との差により、勝敗が決まると言っても過言ではありません。つまり、武器弾薬、兵力の補充がより充実している軍団が、戦いの勝利者となるわけです。
織田信長は、イエズス会と組んで、鉄砲や弾薬の調達を行なっていました。更に、軍事顧問として、ジョバンニ・ロルテス(イタリア人。日本名山科羅久左衛門勝成。イエズス会宣教師オルガンティーノと伴に来日。聖ヨハネ騎士団に所属。キリシタン大名蒲生氏郷に砲術師として召抱えられる。蒲生氏郷没後日本国を去る。)を配下に置いていたのです。徳川家康は、ヤン・ヨーステン(1600年渡来。オランダ人。国際航海家。東京駅八重洲の名の基)を顧問として雇っていたのです。日本列島における戦は、飛鳥時代の古より、外国の軍事力の影響下にあったのです。実は、明治維新も水面下では、イギリス東インド会社(薩長官軍)とフランス東インド会社(幕府軍)との戦いだったのです。
そして、その戦国部将の出自は、三人とも不詳です。特に、自称平氏の豊臣秀吉は、いつ何所で生まれたのかも、分りません。自称平氏の織田信長は、先祖が神官だそうですが、四代先が分りません。ですから、武功を立てても、自称源氏の徳川家康(慶長八年・1603年)以外は、征夷大将軍にはなれなかったのです。
では、平安時代の「桑名港」はどこかといえば、それは、摂津国の浪速(難波)です。浪速(難波)は、飛鳥時代、西域から鍛治技術、灌漑技術、都市建設技術、土木技術などをもたらした秦氏により開拓された土地です。浪速は古くから、楼蘭(ロウラン)→楽浪(ロウラン)→筑紫(ジュジ)→浪速(ロウラン)→住吉(ジュジ)の国際交易ルートとして栄えていたのです。その、浪速(難波)の国際港がある摂津国の鍛治・産鉄部族が多く暮す多田荘(多田党はタタール族の末裔か?)から、49歳の源満仲が現われたのです。
平安時代の東アジアは、日本国の戦国時代のように、正に異民族が入り乱れた動乱の真っ只中であったようです。
907年の唐帝国の崩壊→916年の遼(契丹)の建国→960年宋の建国。935年新羅の滅亡→936年高麗の建国。目まぐるしく変わる王権。それに伴う臣民の離散と集合。そのような動乱期に、真っ先に国外逃亡するのが王族、貴族、金持ち、高級軍人など、国を支えていた支配層達です。そして、いつの時代でも、下層階級は、抹殺されるか、奴隷になるかの選択肢しか残されていないようです。
そのような時代に、五代十国の呉越国の天台山(中国本社)に、比叡山延暦寺(日本支社)の僧日延は、呉越国の国際交易商人蒋承勲(しょうしょうくん)の国際貿易船に乗って、呉越国と難波を往き来していたのです。
ちなみに、比叡山延暦寺は、百済系桓武天皇が最澄(日本国天台宗の祖・支社長)のために建立した寺です。
その流れから、比叡山延暦寺僧侶の法薬禅師が現われるのです。法薬禅師は、宋国の国際交易商人から大宰府役人への賄賂の融資を受けて、大山寺を北九州の借上活動(金融営業)の拠点としたのです。そして、宋の国際交易商人は神人(寺の奉仕人。本来は、神社の氏子。神仏混交により寺の使用人となる。)として活躍したのです。
平安時代から鎌倉時代に、比叡山延暦寺が日本国最大の金融業者となったのは、宋国との貿易活動と国際交易港がある北九州での金融業による荒稼ぎによるわけです。
主な輸出品は「真珠、水銀、硫黄、鷲の羽」です。輸入品は唐物の装飾雑貨類や羊やクジャクなどの珍しい動物です。その貿易の決済に使われたのが、陸奥国の金です。そのために、桓武天皇から始まる東北経営とは、蝦夷討伐を名目に、漢帝国の末裔の坂上田村麻呂などの傭兵軍を使役して、陸奥国の金の簒奪のことだったのです。その豊富な財産を保持した百済系延暦寺は、僧兵を組織して、興福寺と春日社を経営する藤原王朝と対峙するわけです。
藤原氏は、武家源氏の軍事武力を背景に、摂政関白システムを駆使して、京の都でやりたい放題を行なっていたのです。それは、藤原道長の、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば」、の歌が示しています。でも、藤原氏の栄華は道長が頂点でした。
それに対して、百済系後三条天皇が、藤原氏の摂政関白システムを排斥する、「院政」で対抗するわけです。その院政のシステムとは、天皇を社長と譬えれば、天皇が引退して、代表権のある名誉会長に就任し、皇太子を代表権のない社長にすることです。これにより、名誉会長は、社長をコントロールする藤原氏の呪縛から解放されるわけです。そして、その後三条天皇の院政システムは、白河天皇により完成するわけです。
しかし、白河天皇が、父後三条天皇から冷遇されたことが、後に、清和源氏に不幸を呼ぶのです。
後三条天皇の即位は、冷泉系王族に対して奉仕を忘れなかった武家の清和源氏に、好期をもたらすのです。それは、清和源氏の氏神である岩清水八幡宮の放生会に、後三条天皇が勅使を派遣したことにより、その氏寺が国家的地位を獲得したからです。そのことにより、源頼義、義家(八幡太郎)親子は、王権に奉仕する最大の軍事貴族としての地位を獲得したのです。
前九年の役(1051年)での勝利に対して、源頼義は、後三条天皇から褒賞を賜ったものが、後三年の役(1083年)では反後三条天皇の白河天皇により「私戦」と断定され、何の恩賞も受けることができなかったのです。しかし、その戦いで活躍した源義家の声望は全国に高まって行ったのです。
父後三条天皇に冷遇された白河天皇は、清和源氏に対抗する軍事部族を招聘するのです。それが、伊勢に根拠をもつ平正盛です。
伊勢の地は、古より、壬生水銀の国際交易港として栄えた所です。壬申の乱(672年)では、赤旗を掲げた海洋民族の外物部(高句麗・ツングース族と倭族の末裔)の軍事部族が、天武天皇軍として、百済系近江王朝に向けて出陣した所です。
出自不明の平正盛は、水銀の国際交易で稼いだ私財を武器に、白河天皇の愛娘の菩提を弔う六条院御堂に伊賀国の土地を寄進して、白河天皇に取り入って、平家栄華の道を拓いたのです。
更に、平正盛と忠盛親子は、白河天皇の「不義」の世界を主催する愛妾祇園女御にも取り入り、その院近臣としての地位を確立したのです。そして、平忠盛は、白河天皇の胤を宿した祇園女御を娶り、その妻が平清盛を産むわけです。このことにより、栄華を誇った源義家は、武家の棟梁の座から滑り落ちるわけです。
やがて、天皇家の内紛により、貴族の世界から、武家の世界になっていくわけです。それが保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)です。
保元の乱とは、後白河天皇方が平清盛・源義朝×鳥羽院方が源為義・源為朝・平忠正の戦いで、院方が敗れるわけです。
平治の乱とは、藤原信頼・源義朝×平清盛の戦いで、平清盛が勝利するわけです。これにより、武家平家の天下が約束されたわけです。この戦いにより、源義朝は殺害され、その子息の源頼朝は、伊豆に配流されるわけです。ここから鎌倉源氏が誕生するのです。
武家源氏は、新羅の末裔で構成されていたようです。では、武家平家とは何者なのでしょうか。武家平家の異質性は、宗教に対する態度に表れています。
白河天皇が、どうにもならないものとして、「加茂川の水(洪水)、サイコロ(賭博)、神輿・神木を担いだ僧兵の強訴」を挙げていたのに、1147年(久安3年)祇園会において、祇園社所司と平忠盛との争いに介入した、父平清盛は、所司を傷つけ、氏神様の乗り物である神輿に矢をつきたてたのです。更に、1172年(承安2年)平重盛が、伊賀国住人(平家の土地)と春日社の神人とが争った時、興福寺の僧徒が春日の神木を奉じて、伊賀国の住人の処罰を要求した時、これを武力で阻止したのです。更に、1183年(寿永2年)平重衡が、武家源氏の氏神を祀る八幡神社と関係が深い東大寺に放火して延焼させてしまうのです。
これらの神仏に対する態度から推測すると、武家平家には日本人のこころが宿っていないようです。これらのことが、武家平家は、インド傭兵軍の末裔といわれる所以です。それは、京の都の寺に鎮座している仏像の多くは、インドではバラモンの外道の神々であるからです。だから、それらの仏像や寺を蔑視し、崇拝の対象とはみなしてはいなかったのでしょう。
武家平家の国際性は、1173年の摂津兵庫島の築湾に現われています。平清盛は、平安時代の鎖国政策を無視して、宋国と貿易を行い、財貨を溜め込んでいたのです。その福原の港には、定期的に宋国の貿易船が入港していたのです。宋船が福原に入港の時、平清盛は後白河天皇を福原山荘に招いて、宋国の貿易商人を引き合わせていました。この掟破りは「天魔の所行」と言われていました。
平安京の神仏を崇拝しない平清盛も、瀬戸内海海賊が崇拝する海の神を祀る祠を大改造して、1168年安芸厳島神社を造営しています。それは、朱色のベンガラ染め(インドのベンガル地方から産出される赤色の染料。)にされた厳島神社は、従来の神社のコンセプトから全く外れた発想の建築物のようです。
やがて、1180年(治承4年)源頼朝が挙兵し、それが源平合戦の始まりと言われているのですが、腑に落ちないことがあります。それは、源氏軍に多くの平氏が参加しているからです。
そして、1192年源頼朝が鎌倉に幕府を開くのですが、1219年には源実朝が公曉に暗殺され、三代で鎌倉源氏は、身内の平氏の北条氏により滅ぼされてしまうのです。
更に腑に落ちない事は、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、秦氏の末裔、惟宗氏を藤原氏が経営していた薩摩国島津荘の地頭職安堵とし、「島津氏」を名乗らせ、そして穢多頭の弾左衛門頼兼には、石橋山の合戦で破れた源頼朝を救ったお礼として、「長吏」としての御墨付きを与えたことになっているのです。惟宗氏も弾左衛門頼兼も、摂津国出身です。そして、清和源氏の祖の源満仲も摂津国の出身です。
この鎌倉初期(鎌倉源氏滅亡後)が、日本国における民族的差別の発生の原点のようです。つまり、百済系日本人と新羅系日本人とのいがみ合いの発生です。その発生地は近畿の摂津国です。
663年に百済国が滅ぶと、亡命貴族が多数日本列島に渡来したのと同じように、935年新羅国が滅ぶと、多数の亡命貴族が同族である秦氏の末裔が暮している摂津国に渡来するわけです。
藤原氏は、源頼朝に平泉藤原氏を滅ぼされ、九州の藤原氏が経営する荘園を惟宗氏に与えたことにより、没落の一途に陥るわけです。しかし、本家の藤原氏は、島津氏と藤原氏得意の「乗っ取り戦術」である婚姻関係を作ることにより、百済系天皇を裏でコントロールしていたのと同じに、島津氏を裏でコントロールして生き残るわけです。それは、やがて明治維新へと繋がっていくわけです。
藤原氏は、新羅系天武天皇から、先祖藤原不比等が左遷させられた恨みから、新羅系日本人に対して良い感情を持っていなかったのでしょう。
藤原氏は、新羅系最後の第四十八代女帝称徳天皇が崩御すると、亡命百済貴族の光仁天皇を謀略で擁立したのです。そして、天皇家をコントロールするシステムとして、藤原氏と亡命百済貴族とで「公家組織」をつくるわけです。
更に、奈良の興福寺と春日社を経営することにより、宗教界も謀略の手先としてコントロールするわけです。
鎌倉時代初期、そのような謀略家の藤原氏により、百済系天皇を手先として、バラモン教思想の「穢れ」思想を武器として、新羅系日本人は賎民に落されていくわけです。
時代を少し遡って、摂津国の亡命新羅人を武家源氏として藤原氏が雇ったのは、百済系天皇が独自の武装集団を組織したからでしょう。そのひとつが、出自不明の平正盛の海洋軍事組織であるわけです。
嵯峨源氏と桓武平氏は、れっきとした天皇家の臣籍です。しかし、武家源氏と武家平氏は、唯の軍事傭兵団にすぎないわけです。つまり、天皇家の臣籍ではありません。
その天皇も凌ぐ軍事勢力となった武家平家を滅ぼす手段として、新羅亡命貴族による武家源氏であったのでしょう。つまり、藤原氏の基本戦略、「夷を以って、夷を制す。」です。ですから、1185年に壇ノ浦で平氏が滅ぶと、藤原氏にとって、鎌倉源氏は最早用はない存在であったのです。
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