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最近、色々と考える事と出合った。
2年前にKの友人は過労自殺をしている。
Kの考えでは企業の制度の中で殺されたのだと思っている。
命日に御両親に聞いた話もKの考えと完全に一致している。
いじめ問題で森さんは実名の公開を行った。
http://www.sankei.co.jp/kyouiku/kyouiku/070211/kik070211000.htm
「言葉によるイジメ」で森啓祐君は幼い命を自ら絶つという選択を行う事になった。
お父さんの話は「私に対して『死にたい』と言ってくれれば・・・」と云うものだった。
自宅においては心配をさせないために気丈に振舞っていたと云うことだ。
これは、最後まで「正常で良識ある精神を保っていた」と云う事実を物語る。
Kの自殺した友人も両親に対しては気丈に振る舞い
両親に「たまには遊びに出て来いよ」と送り出した後に自殺を行った。
ハッキリ言ってKの数倍の知識を有し、他人のために労をいとわず、虚飾と不正を嫌う素晴らしい性格であり、切れ者だった。
頭が良いと言うのは「単に知識があり、計算が速い」と云うのとは違うのだろうとKは思う。要は「応用力と創造力があるか?」と云う事であるが、友人は全てを持っていた。
ただ、惜しむらくは「欲がなく、無類のお人好し」であった。
ここは、評価によるのだろうが、能力を活かすという意味においては「惜しまれる」という評価は正当だろうとKは考えている。
様々な分野での総合的な知識の深さにおいてKは6歳年下のその友人に勝ると云う分野が思いつかない。
Kも「それなりに、本の虫であり、研究家気質である」と云う自負を持っている。基本的には浅く広くであり、部分部分のおいては人並み以上に深い知識を有しているつもりだが、それらのほとんどにおいて友人の方が深く広いのである。
唯一Kが勝っていたのはPCの活用術くらいだった。
「正直者がバカを見て、生きられない社会」というのを、日本の政治は作り出してしまった。
ある意味ではその人の「生存した価値と言うのは生涯賃金もしくは後世に残した足跡、そして、死んだ時に惜しんでくれる人の人数」に集約されるのだろう。
正しい、間違っているの意見はあるとして、そのような「価値観」というのは存在するだろう。
結果が残せたのか?それと単純な香典の数・金額ではなく、どれだけの人が悲しんでくれたか?
これ以外には明確な数値として計測できる事柄がないのではないだろうか?
その意味では、個人的な悲しみがどれだけ深くとも、そこは「思い入れ」であり、人数に変換すれば1人は1人である。
ここは、真剣に思い悩んだ末に「必死な想いで投票する一票でも、人に頼まれて何も考えずに投票される一票でも同じ」という部分に重なるが、兎も角、数に変換されると「重い・軽い」は切り捨てられてしまう。
ここは、理数系と文科系の差と云う部分であるが、制度という物に依存するのは「理数的な考え方」であり、人間(特に心理・精神部分)と云うのは「文科系な存在」なのではないだろうか?
「文科系」の人と云うのは道徳とか倫理と云う事を重んずる。このあたりには「言語変換が難しい部分も多い」のだが、愛情とか優しさとか好き嫌いとか想いと云う部分は極度に数値化は困難で「合理主義では割り切れない部分」である。
しかし、政治に頼り制度に依存するのなら「理数的に割り切るしか方法論は成立しない」のだろう。
これは「水と油をかき回している」という行為に置き換えられるのかもしれない。
前に人間には「他人に依存したい人」と「他人を支配したい人」に大別される的な事を書いた事があるが、その際にソースの提示を求まられたと記憶しているが、これは「銀河英雄伝説」からのKが感じた解釈である。
http://forestz.net/archives/200611242230.php
によると「何度も腐敗した政治家による民主主義」と「民のために行動する独裁者」と云う対比で扱われているが、Kは「自分に自信がないので誰かに導いてもらいたい」という依存性と「自分に自信があるので他人を信頼できない」という懐疑心を併せ持っているのだろうと思う。
これは実話だが、ある人から奥さんが入院する時に「俺は、料理も掃除も選択も買い物もした事がないので途方に暮れている。スーパーの買い物ってどうやるんだ?」と相談された事がある。どれだけ奥さんに依存していたのだろう?と思いながら「買うものを籠に入れて財布と共にレジまで持っていくだけです。」と教えてあげたが、何でもその後に「水を入れていないヤカンを火に掛けていた」という噂を聞いた。
ここまでの人は多くはないのだろうと思うが、他人依存と自立心は相反する問題だろう。
少なくとも「政治に依存するだけでは、縛られて自由が拘束されていく」のだろう。
多分であるが「人はもっと自立心を持たなければならない」のだと思う。
その上で「個人」「家庭」「企業」「グループ」「地方自治体」が全てにおいて「もっと自立心を持たなければいけない」のだろう。
しかし、「そのためには社会のシステムが整備されていない」のだろう。
「自己責任」を追及するのではなく、まずは「公平な土壌を確立する」という事が必要なのだろう。
正規社員と非正規社員の差、働く業種や企業の規模によって「賃金に格差」がある。
行き過ぎた「人件費のコストダウン」が長時間過密労働を作り出し「過労死・過労自殺」が生み出されている。
これは「企業」対「個人」が対等であるというシステムの構築が必要なのだろうと思う。
「企業に不当解雇をされるのも困るが、企業に不当に拘束されるのも困る」のだろう。
【ゆうメイト60人一斉退職】
http://densobin.ubin-net.jp/dsbnow07/07now_02.htm#0131nksgy
と云う記事がある。
これは、企業が企業論理によって「ゆうメイトに理不尽な労働を課した結果」として結果的に「業務がストップした」のだろう。
行過ぎた「企業論理の押し付け」を行えば「労働者が怒る」のは当然である。
ここでは「退職という方法論が行えた」だけ、まだ良かったのだろう。
場合によっては「責任感の強いものなら自殺と云う方法論に走る」という事も十分にあり得るのだろう。
当初Kが阿修羅において「郵政公社」の職員は「公務員と云うイメージで感じられるような楽な職場ではない」と主張した時、「楽な職場だよ」という意見があった。
そのイメージが「郵政民営化法案」に大きな影響を生んで、法案は可決された。
その結果として、地方ではサービスの低下に不安が高まっている。
しかし、郵便局では「サービスを維持するだけの余力はない。」徹底的に人員が不足しているのだから不可能なのである。
理系的思考に陥ると「制度」を制定すると云う事になる。
しかし、制度を行うのは「理屈では割り切れない文科系の存在(=人間)」なのである。
その狭間に「真面目な責任感のある正直者」が生きられない社会が作られている。
政治には頼らなくても「我々は巧くやっていけるよ」と示す事が必要であるが、そのためには「集団権力と個人の権利は対等」というシステムの構築と「個人の意識の改革」が必要不可欠である。
これは「他人の応援・支援がなくても対等に戦える」という部分も重要だろう。
逆に言えば「他人の主張を抹殺しようと言うような手法・考え方」は「どのような場合であっても批判する必要がある」
ここで重要なのは「他人の意見に対する批判」が悪いと云う事ではなく「他人の意見を論理性もなく抹殺しようとする行為」が悪いと云うことである。
人間には色々な考え方があり、視点・立場・考え方によって「賛成・反対の意見の差は当然にして生まれる」この段階で「反論」はあって良いのである。
その上で「反論するなら、自分の意見だけで、いかに論理性を維持できるか?」を考える必要がある。
ここが「自立」であろう。グループの中で「応援してくれる人」などは「期待してはいけない」のだろうし「応援してくれた人の意見であっても、論理性を有していない時は批判する」という公平性も保つべきだろう。
ここが、無視された時点で「イジメ構造への加担者」と化し、排除論に行けば「排除論者」に成り果てる。
基本的に論と言うのは「主張者を見る」のではなく「論を読む」べきであり
「論のソース」よりは「論自体」の方が重要であろう。
データの捏造が行われていたのでなければ「ソースを示さなかった事」だけでは罪が問えるのか?
「意見が間違っている」のと「意見には同意できない」では全く別の事である。
この辺も「自立しようとしない甘え構造の中の揺り篭」として、ある種のグループの中では許されるのだとしたら、そのような考え方が蔓延し、社会全体が「そのような構造社会になっていく」のだろう。その中で「正直者は生きられない」のだろう。