現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用9 > 140.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
休みを利用して、メルギブソン製作の「パッション」を観てきました。
イエスのゲッセマネの祈りから十字架での死までを一つの映画にまとめたことだけでも特筆に値すると思うし、演出も演技も映像も一級品の仕上りであると思う。しかし、映画にしてしまうと、次のような疑問が湧いて来る。
(1)ナザレのイエスが、ユダヤ教を否定して新たな世界(少なくともキリスト教世界)の幕開けをもたらしたのは事実だが、神というのは、こんな手の込んだこと(救世主の処刑)をしないと、人間/人類/世界を救えないのだろうか? あるいは、人間は自分自身を救えないのだろうか?
(2)使徒が書いたと云われる福音書どおり、生前からナザレのイエスが自分の死と復活について預言していたとすると、ナザレのイエスは自分を犠牲にすることで、人間/人類/世界を救えると思いこんでいたことになるが、神というのは、こんな手の込んだこと(救世主の処刑)をしないと、人間/人類/世界を救えないのだろうか?
あるいは、人間は自分自身を救えないのだろうか?
(3)ナザレのイエスは自分を犠牲にしたことで、自分が自分の教えから何の利益も得なかったこと(詐欺師ではないこと)を証明したと思われる。bakaがイエスの時代に生きて、イエスの生前の言動と奇蹟を眼にしておれば、bakaはイエスの説く愛(というよりイエスの誠実さ等)を信ぜざるを得ないが、現代において福音書の記述も復活の事実も誰が証明できるのであろうか?
(4)ユダヤ教では、未だに、救世主を待ち望んでいるのだろうか? それとも、救世主という思想自体が無いのでしょうか?
(5)イスラム教では、ムハンマドが救世主なのでしょうか? それとも、救世主という思想自体が無いのでしょうか?
この映画では、イエスの死後、悪魔が地の底と思われる場所で、歯軋りの咆哮を天に向ってあげると思しき映像がありますが、妙な既視感がありました。「悪魔崇拝の片割れ」さん他、bakaの疑問にコメントを頂ければ幸いです。