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(回答先: まやかしとしての宗教 投稿者 baka 日時 2004 年 5 月 05 日 18:10:50)
bakaさんこんにちは。
創世記などの聖書やヘブライ語の古代文書は、それ自体の語句の意味を調べなければ真の理解はできないと思います。
ただ、ここで大切なことはbakaさんの言われるようにより良きカーネル(原点・最初の考え)を誤用して、一部の利己的な利益追求に利用するために戦争・侵略・支配の材料(神の許可)として用いられることがあるということです。
我々が使用する言葉は時代とともに変化していきます。
「このレストランには子供連れのお方はお断りします」と書いても、1000年後に読むと「子供は悪であり子供を生んでしまった方はお断り(罪)です」と解釈されるかもしれません。
ですから我々は、より現代の言葉で書かれた書物(相手を拘束する意図のない)を見る方が、真理を探るという意味においては有益かもしれません。
また、より真実に近い(多くのものにとって有益の)真理を発言したものや書物等は、必ず非難・罵倒されているというのも事実です。
それは、協調的×利己的、自由×拘束、霊的×物質、永遠×期限 の構図であり
多くのカーネルは前者の立場を取っており、それが後者(一部の利己的なものに操作された大多数の意見)の立場に合わない為誤用したり変更したり削除されたり非難されたりしたのだと思います。
キリストでさえもその時代のものに処刑されました。
そして多くのものは、文明が進化しているからそれが正解である(真理である)と言うでしょう。
しかしそれは本当に「多くのもの」にとって進化(幸福に向かうという意味においての)しているのでしょうか?
自分達で自分達のクビを締めているのが、今の進化というものではないのではないでしょうか?
・・・と、反論を呼び込みそう(板違い)なので、この辺りで。
bakaさん、今後とも宜しくお願いします。