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(回答先: 神学と神話 投稿者 baka 日時 2004 年 5 月 04 日 10:06:47)
こんばんは、baka さん。
>イエスはそんなものを望んだのでしょうか?
当時のイスラエル人はみな「そんな」ことを信じていましたし、イエスも信じていたはずですよ。
(マルコ10:6〜9)。ダニエル書のメシアに関する預言の中では、「罪が封じられ、不義が償われる」ことが
メシアの到来と結び付けられています。(ダニエル 9:24〜、新共同訳)
ところで、ダニエル書は興味深く、メシアが到来する時期についても記しています。
「七十週があなたの民とあなたの聖なる都市に関して定められている。
エルサレムを修復して建て直せとの命令が出る時から、油注がれた者の時までは、七週、
そして六十二週であろう。
そして六十二週の後に、油注がれた者は絶たれるであろう。
・・・また、やって来る別の君の民がこの都市と聖所とを滅ぼすであろう。
その終わりは洪水と共にやって来て、終りに至るまで戦争があるであろう」
(ダニエル 9:24〜26、詳訳聖書)
「エルサレムを修復して建て直せ」との命令は、ペルシャのアルタクセルクセス王により彼の統治の
第二十年、すなわち西暦前455年に出されました。(ネヘミヤ 2:1〜9)その時から69週年(483年)
後にメシアが現れることになりますが、計算すればその年は西暦29年です。
この時期、福音書の記述者ルカは、「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼が
メシアではないかと、皆心の中で考えていた。」と記しています。(ルカ 3:15、新共同訳)
この期待に関し,ユダヤ人の学者アバ・ヒレル・シルバーもこう述べています。
「しかし、1世紀、ことに[エルサレムの]滅びの前の世代は、メシアに関する感情論の異常な爆発を見た時代
である。これはローマからの迫害が激化したためというより、民間に流布していた,その時代に関する年代学
により、ある信念が浸透していたためである。……メシアは西暦1世紀の第2四半世紀ごろに現われるものと考
えられた」。この『民間に流布していた年代学』は,つまりダニエル書に基づいたものでした。
>ユダヤ教の根本的修正を目指して、それが不可能であることを悟って、十字架に付いたのだと思います。
映画はそんな印象を持たせるものでしたか?
イエスは宗教指導者たちの誤りは非難されましたが、宗教改革を行なおうとしたわけでも、そのつもりも
ありませんでした。三年半の活動の多くは、一般民衆に神の王国を宣べ伝えることに費やされました。
ルカ4:43、新共同訳
しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。
わたしはそのために遣わされたのだ。
マタイ 9:35、新共同訳
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気
や患いをいやされた。
しかし、「救世主の処刑」の意義については、復活したイエス自身が次のように語る場面があります。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアは
こういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者
から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。
(ルカ 24:25〜27、新共同訳)
イエスが説明された聖書の中には、約束の胤が、悪魔の頭(かしら)を砕く前にかかとを砕かれること
(創世記 3:15)、イザヤ書のメシアの受難と死の記述(イザヤ 53:8、12)なども含まれていたこと
でしょう。
>異邦人もユダヤ教を意識し過ぎて、神学にしてしまった。
聖書のギリシャ語部分(マタイ書からヨハネの啓示)を記したのはみなユダヤ人でした。
「既視感」の説明ありがとうございました。>baka さん。横から失礼!さん、ロシアチョコレート さん。
それでは。