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(回答先: Re: 愛はすべて「自己愛」である。 投稿者 NUE 日時 2004 年 4 月 02 日 00:18:43)
NUEさん、初めまして。
「Re: 小欲知足」( http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/810.html )にレスを書かせていただこうと思っていましたが、ぷち熟女さんへのレスで思いが伝わると思って省略させてもらいました。
今回も刺激的で暖かいレスをいただきありがとうございます。
何度か書いたことですが、経済理論や世界情勢分析、そして「愛はすべて「自己愛」である。」なんてことをわざわざ語らなくていい世の中になって欲しいと願い書き込みをしています。阿修羅で書き込みしてきたことすべてがゴミになる世の中を待望しています。
「長壁さんは立派な「左翼反対派」の共産党員/マドオンナさんの“絶対”に認められない誤解を排す」( http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/764.html )で書いた「私は好きな女とうまい食い物があればいい。こんなことにうつつを抜かしているのはバカらしいと思っている」人間です。
ただひたすらいつかゴミになって欲しいと思いながら、飽きもせず書き込みをしています。
このような思いをご理解いただけると思って、グチを書かせてもらいました。
いただいたレスへのレスとしては、下のぷち熟女さんへのレスで半分ほどを代えさせていただきます。
釈迦の説法に対する見方はある部分共有しています。
暇つぶしだとは思っていませんが(笑)、説法を請われて請われて、「自己愛」=喜捨でやむなく踏み切ったのではないかと思っています。
釈迦の世界観から他者の救済(解脱させること)は出てきません。ひとがひとを救済できるという観念は釈迦の世界観から逸脱したものです。解脱は己によってしかできないというのが仏教の基礎です。
釈迦であっても他者にできることといったら、せいぜいが他者が受ける風になることです。
釈迦は、天と地の状況にまかせて、あるときは激しい寒風、ときには涼やかな微風、ときとして凪となる、それらを受け止めたひとがその結果どうなるかはそのひと次第です。
解脱するのか地獄を見るのか、それは釈迦の問題ではなく風を受けたひとの自己責任です。
また、あるひとが解脱しているらしいとは判断できても、解脱しているかどうかを確定することはできないと思っています。
釈迦も自分は解脱していると信じ、周りのものも釈迦は解脱していると信じたということになりますが、解脱していないひとが釈迦が解脱しているとわかるというのはとんでもないパラドックスです。
あるひとが解脱しているとわかるひとは解脱しているひとだけで、解脱をめざすひとにはできないことです。
釈迦はそうではないと思っていますが、解脱していないひとに解脱していると思わせることができる詐術を会得していれば、周りから解脱者として遇されることになります。
解脱は、「自己愛」の観念的極地ですから、「他者への愛」からもっとも遠いところにあるものです。
しかし、他者をも自己とする観念ですから、「他者への愛」とは比較なぞできないほど深い愛だと言えるかもしれません。
解脱なぞクソ食らえと思っていますが...
NUEさん:「じゃ、人を愛する理由は何か?
ってことになるわけですが、それは人が生きていく目的は何か?
という問いとほとんど同義ですね。
答えは「理由なんかない」あるいは「それ自体が目的である」です。
ここで「強度」だの「速度」だの持ち出すとまた別のトラップにはまりますね。
そんなもんは不要でしょう。このさい。」
生きる目的なんかどうでもいい(ない)というのが私の考えです。ただひらすらできるだけ心地よく生きて、風が去るように死んでいけばいいというものです。
このような問題定立こそが悪しき風潮だと思っています(笑)
何か目的をもって生きることが心地いいのであれば、自分で何か目的を設定すればいいだけです。
ちょっとニュアンスは違うと思っていますが、この問題はしばらく阿修羅に顔を出していないアルファンドさんから突きつけられた難問でした。
参考までに...
『Re:「人間」は何のために存在しているんだ? [アルファンドさんへ]』
( http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/266.html )