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(回答先: 自分を「悪魔崇拝の片割れ」と呼ぶ理由 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 02 日 19:41:59)
ちょっと、異議があります。
世界の平和を求める為に、みんなの幸せを願う為に
そして、悪魔崇拝的価値観を打破する為に
知性を用いること、勉強をすること、そういう人たちが、
どうして悪魔崇拝の片割れになってしまうのか、
むすびついてしまうのか理解しかねます。
論理の飛躍がありはしませんか。
知性もまた、道具、つまり手段でしかありません。知性を用いることは
、別に良くも悪くもありません。ニュートラルです。
その人の道具の使い方次第で、よくも悪くなるのであり、
良いか悪いかは、その人の内心次第だと思います。
イエスは次のように言っていたそうです。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hinoki/6967/novel/No0006hallelujah.html
>まっとうな宗教と、 そうでないいわゆるカルトとを比較すると、 現実とどう>向き合うかという点で大きく違ってくる。 信仰という名の殻に閉じこもり、 >独自の世界のみで生きようとするのか、 そうではなく、 信仰という武器を手>に雄大かつ勇敢に 現実の様々な課題に挑戦していくのか。
> 聖書そのものを読んでいくと、 確かにイエス様は神の子として、 立派な人>格をお持ちであられたが、 同時に愛と真理を貫くために相当したたかな部分も >持ち合わせておられたように思われる。 鳩のように柔和であれとおっしゃられ>たイエス様はまた、 蛇のように賢くあれともおっしゃられた。
蛇のように賢くあることは、その人の目的次第では
別に悪いことではないと思います。
それと、悪魔崇拝とか、悪魔という言葉を多用する人というのは、
西洋文明の2元論、2項対立の価値観にどっぷり浸かってしまっているような
印象をうけます。
ミイラ取りがミイラになると言う言葉はありますが、
そうならないように我々は、注意したいものです。
我々は神のように全能ではなくて人間ですから、潔癖で、
生きていくことは出来ません。
人を犠牲にすることはありますし、過ちを犯すことはあります。
というより、過ちを犯さない人は誰一人としていません。
また、我々の生存のために動植物が犠牲になっていることも
忘れてはいけないと思います。そう考えると、
生命を犠牲にしていない人間など誰も居ないのであり、
そのことから目をそらすこと、それを当たり前、当然だと思うのではなく、
犠牲になった生命に、哀悼、謝罪、感謝をし、それを忘れずに生きていくことが
必要になってくると思います。
私にとって悪魔崇拝者というのは、他者の犠牲によって、自分の生存
が成り立っていると言うことを認識していない人たちであり、
犠牲となる生命に対し、哀悼、謝罪、感謝の気持ちがない人たちです。
皆さんの投稿を読んでいて、
気軽に、自分自身のことを悪魔崇拝の片割れと読んでいるような感じが
しましたしかし、本当にそうなのかなあと思ったので、投稿しました。