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(回答先: 超無責任男からの感想 投稿者 HAARP 日時 2004 年 4 月 02 日 12:27:31)
HAARPさん、どうもです。
HAARPは今回のようなケースに頭を突っ込まないひとなんだろうなと思っていましたので、こうしてレスをいただくきっかけになった「自己愛」を書いて良かったと思っています。
(Sさんへ、このようなかたちで恐縮ですが、丁寧な経緯の分析ありがとうございます。レスはことさら必要ないと思っていますので省略で失礼させていただきます)
自分を「悪魔崇拝の片割れ」と呼ぶ理由を説明する前に刺激を受けた部分にレスさせていただきます。
HAARPさん:「「自己愛」の解説は理解できますが、例えば、それをパートナーと共有できているのかとお聞きするのは立ち入り過ぎかと思うので置いておいて、私の場合はなにか「寂しい」感じを受けますねえ。相手が「自己愛」を全うしているかどうかのフィードバックはどうすりゃ受けられるんだろうかと思いました。」
まず、ぷち熟女さんとのやり取りは、“感覚”をめぐる交換行為で、ある関係性に立ち入る気はまったくありません。
「相手が「自己愛」を全うしているかどうかのフィードバック」の確認問題はおもしろい自問自答だと思います。
“原理的”には、自分が「自己愛」を全うしているかどうかもわからず、ましてや相手が「自己愛」を全うしているかどうかもわからないものです。
「自己愛」を全うするのは至難です。ひとには苦悩や悲しみがつきまとうものです。その苦悩や悲しみを愛せるようになれば、そのひとは“解脱”したと言えるはずです。
そして、逆に、苦悩や悲しみがあるからこそ、「自己愛」への希求が高まり、それを(内なる)他者への働きかけを通じて充足させるのだと思っています。
「相手が「自己愛」を全うしているかどうかのフィードバック」は、相手との関わりのなかで、相手から苦悩や悲しみを感じるのか、それとも喜びを感じるのかで判断できると思っています。(全うという大げさなものではありませんが..)
自分が相手を通じて喜びを感じるのなら、相手は自分を通じての「自己愛」を充足させていると思い込んでいいと思っています。
このような意味で、「自己愛」が、身勝手やわがままの謂いではないことがご理解いただけるのではと思っています。
HAARPさん:「解脱という言葉も”善意”と同じ様な側面が大きいですから私も使いたくない言葉ですが、『他者をも自己とする観念ですから』というのは、ほんとに「観念」なんですかね。
私はこれは多分「現実」だと思っているんです。ただ、それを「体感」する機会が少ないだけだろうと思います。」
観念という用語はまずかったかもしれません。思念的な釈迦風解脱のイメージがあったからそのように表現しました。
観念しなければそう思わないというのなら、「主−客」対立構造の思念的乗り越えレベルになってしまいます。
『他者をも自己とする』ではなく『他者をも自己と感じる』、「直覚」・「現実感覚」・「体感」でなければぎくしゃくしたものになってしまうはずです。
「現実」は自己=他者であるのに、観念で自己 Vs. 他者となっていると思っています。
HAARPさん:「私がすみちゃんと空耳ででっちあげた「秘境スレ」によれば、自己というのは「錯覚」(私の一方的意見)で、なんらかの参照波動が織りなすホログラムの「皺」だろうということになっています(笑)。こうなると、自己と他者を切り離して考えるのは「不可能」ということになってしまう。
あっしらさんが「自己愛」に没頭すればするほど、「他者への愛」が「放射」されてしまい、それは例えば「阿修羅内」に限定しても、少なからぬ影響を「与えてしまう。」
このような、ちょっとした矛盾をあっしらさんの「体系」に感じてしまいました。
このような私は、『覚醒した後の身の処し方として、「世界の舞台で演じられる頭にくるお芝居を笑って見てれば」と助言しています(笑)』ということすら、全く必要ないと思い、
『「だから、どうすんの」に納得できるものを提示しない限り何も始まらないと思っています。』、これは主に政治に関する意見と思いますが、「覚醒した後」という意味では「だから、どうすんの」の提示も能動的にする必要すらないと思っています。」
ご指摘の矛盾は、自分を「悪魔崇拝の片割れ」と呼ぶ理由につながるものです。
「自己愛」云々をことさら語る必要を感じない、現実を望んでいるという前回の書き込みでご理解ください。
「自己愛」や自己=他者が観念ではなく空気と同じようになるためには、残念ながら、同時代の人たちは、まずそう観念(「覚醒」)することが必要で、「だから、どうすんの」の課題を背負うことになると思っています。
それが現実化されれば、そのプロセスは不要になるはずです。(いつのことやら(笑))
HAARPさん:「しかし、あっしらさんが時折書いて今回もすみちゃんへのレスにもある、ご自分が「悪魔崇拝の片割れ」というのはどういう根拠なんでしょうか。わかりやすい投稿でもありましたら教えてください。私はいまのところシャレなのかと思っています(笑)。
そして上の投稿のなかにも、
『だからこそ、ある理念を信じるだけで議論という思考の場を放棄し、心情のままに人々を駆り立てるような言動をする人を「悪魔崇拝の片割れ」と呼ぶのである。』と、ありますが、
この所謂「理念主義」への批判と、ご自分が「悪魔崇拝の片割れ」というのはどういう整合性があるのかなと思ったわけです。」
私がいう悪魔崇拝は、知性主義・理念主義・人間主義(ヒューマニズム)・他者支配志向の融合をイメージしたものです。(このあたりは、下記の参照書き込みをお読みいただきたいと思っています)
自分を「悪魔崇拝の片割れ」と呼ぶ理由は、悪魔崇拝的価値観をぶち壊すために、知性や理念を使っている(使わざるをえないと思っている)ことにあります。
知性主義や理念主義に対抗するためには、知性や理念をフル動員するしかないと思っています。
もう一つは、それを最大限避ける努力をすべきだと思っていますが、悪魔崇拝的現実をぶち壊すために他者を犠牲にすることを厭わないと考えていることです。
(自分が生き残らなければならないと自分が判断したときには、自分は突っ込まずに他者に突っ込ませることを選択する悪魔崇拝者です)
★ 参照書き込み
『Re:こう妄想しています』
http://www.asyura.com/sora/dispute1/msg/118.html
『“悪魔崇拝”とは「自己の知性を過信すること」だと思う』
http://www.asyura.com/sora/bd16/msg/334.html
『「近代経済システム」や「近代価値観」が悪魔崇拝者(知的強欲追求者)のものであることが浮かび上がる』
http://www.asyura.com/2003/war24/msg/1034.html