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(回答先: 自分を「悪魔崇拝の片割れ」と呼ぶ理由 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 02 日 19:41:59)
あっしら様、
只今レスに取り掛かっているところですが、今回か次回のレスで取り扱う内容が
あたくし自身の思い込みで空回りするのを前もって防ぐために、もう少し詳説して下さい。
『まず、ぷち熟女さんとのやり取りは、“感覚”をめぐる交換行為で、ある関係性に立ち入る気はまったくありません。』
この一文がどうしても分かりません。
『ある関係性に立ち入る気はまったくありません。』は、文の前半とどう繋がるのですか。
『ある関係性』を別の言葉で言い替えてみていただけませんか。
(引用開始)
『“原理的”には、自分が「自己愛」を全うしているかどうかもわからず、ましてや相手が「自己愛」を全うしているかどうかもわからないものです。
「自己愛」を全うするのは至難です。ひとには苦悩や悲しみがつきまとうものです。その苦悩や悲しみを愛せるようになれば、そ
のひとは“解脱”したと言えるはずです。
そして、逆に、苦悩や悲しみがあるからこそ、「自己愛」への希求が高まり、それを(内なる)他者への働きかけを通じて充足さ
せるのだと思っています。
「相手が「自己愛」を全うしているかどうかのフィードバック」は、相手との関わりのなかで、相手から苦悩や悲しみを感じるの
か、それとも喜びを感じるのかで判断できると思っています。(全うという大げさなものではありませんが..)
自分が相手を通じて喜びを感じるのなら、相手は自分を通じての「自己愛」を充足させていると思い込んでいいと思っています。』
(引用終了)
これらの文に続けてこのように締め括られています:
『このような意味で、「自己愛」が、身勝手やわがままの謂いではないことがご理解いただけるのではと思っています。』
・・・お言葉ですが、上の文では、あたくしには
『「自己愛」が、身勝手やわがままの謂いではない』ことが余すところなくご説明いただけているとは思えません。
むしろ上の表現では、あっしら様のおっしゃる『「自己愛」の全う』のプロセスは
サイクルの閉鎖した自己完結したものであるかのように映ります。
『「自己愛」が、身勝手やわがままの謂いではない』ことがあたくしに納得できるまで
更なる説明を試みて下さい。
そちらへのご回答をいただけてから、必要な時間を掛けてレスを準備したいと思います。
うるさい人ですね。すみません。
ではまた、ごきげんよう。