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(回答先: 愛は「自己愛」であるなんてことを言わなくて済むようになりたいので「愛はすべて「自己愛」である。」を書きました。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 02 日 04:01:45)
あっしらさん、長壁さんの話から随分膨らんだスレッドざっと読ませてもらいました。
「自己愛」の解説は理解できますが、例えば、それをパートナーと共有できているのかとお聞きするのは立ち入り過ぎかと思うので置いておいて、私の場合はなにか「寂しい」感じを受けますねえ。相手が「自己愛」を全うしているかどうかのフィードバックはどうすりゃ受けられるんだろうかと思いました。
ともあれ、長壁さんの反応は別にして、
長壁問題:そういう善意の“叫び”に従ってあまたの人が非業の死を遂げた。
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/730.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 3 月 29 日 06:09:49
この投稿は私は共感しました。”善意”に関してはこれだけで既に言い切っていると言えるでしょう。たしかに「地獄への道には善意が敷き詰められている」、これは、殆どあっしらさんの魂の叫びであろうと思いました。理に傾いているという意見もあるようですが、私はもとはやむなき感情の発露だろうと取らせていただきました。
これで会話にならなかったのだから私だったら「自己愛」の傷は深いということになったと思います。
しかし、あっしらさんが時折書いて今回もすみちゃんへのレスにもある、ご自分が「悪魔崇拝の片割れ」というのはどういう根拠なんでしょうか。わかりやすい投稿でもありましたら教えてください。私はいまのところシャレなのかと思っています(笑)。
そして上の投稿のなかにも、
『だからこそ、ある理念を信じるだけで議論という思考の場を放棄し、心情のままに人々を駆り立てるような言動をする人を「悪魔崇拝の片割れ」と呼ぶのである。』と、ありますが、
この所謂「理念主義」への批判と、ご自分が「悪魔崇拝の片割れ」というのはどういう整合性があるのかなと思ったわけです。
かろうじて、関係あるのかなと思ったのは、
愛は「自己愛」であるなんてことを言わなくて済むようになりたいので「愛はすべて「自己愛」である。」を書きました。
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/834.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 02 日 04:01:45
『生きる目的なんかどうでもいい(ない)というのが私の考えです。ただひらすらできるだけ心地よく生きて、風が去るように死んでいけばいいというものです。
このような問題定立こそが悪しき風潮だと思っています(笑)
何か目的をもって生きることが心地いいのであれば、自分で何か目的を設定すればいいだけです。』
というあたりなんでしょうか。それから、「解脱」という言葉に関するところで、
『解脱は、「自己愛」の観念的極地ですから、「他者への愛」からもっとも遠いところにあるものです。
しかし、他者をも自己とする観念ですから、「他者への愛」とは比較なぞできないほど深い愛だと言えるかもしれません。
解脱なぞクソ食らえと思っていますが...』
というのがありますが、まあ、解脱という言葉も”善意”と同じ様な側面が大きいですから私も使いたくない言葉ですが、『他者をも自己とする観念ですから』というのは、ほんとに「観念」なんですかね。
私はこれは多分「現実」だと思っているんです。ただ、それを「体感」する機会が少ないだけだろうと思います。
私がすみちゃんと空耳ででっちあげた「秘境スレ」によれば、自己というのは「錯覚」(私の一方的意見)で、なんらかの参照波動が織りなすホログラムの「皺」だろうということになっています(笑)。こうなると、自己と他者を切り離して考えるのは「不可能」ということになってしまう。
あっしらさんが「自己愛」に没頭すればするほど、「他者への愛」が「放射」されてしまい、それは例えば「阿修羅内」に限定しても、少なからぬ影響を「与えてしまう。」
このような、ちょっとした矛盾をあっしらさんの「体系」に感じてしまいました。
このような私は、『覚醒した後の身の処し方として、「世界の舞台で演じられる頭にくるお芝居を笑って見てれば」と助言しています(笑)』ということすら、全く必要ないと思い、
『「だから、どうすんの」に納得できるものを提示しない限り何も始まらないと思っています。』、これは主に政治に関する意見と思いますが、「覚醒した後」という意味では「だから、どうすんの」の提示も能動的にする必要すらないと思っています。
あっしらさんが「悪魔崇拝の片割れ」なら私も「超無責任男」ですが、私は「ホログラム」が見たいという興味本位が「生きる目的」なのかもしれません。