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(回答先: Re: 解脱しなければ愛せない……えっ? 投稿者 NUE 日時 2004 年 4 月 03 日 08:44:24)
NUEさん、どうもです。
説法じみた書き込みが続いていると思っていますが、その意を汲んでご容赦いただきたいと思っています(笑)
「対機説法」というより「対機思考」(別の視点や考え方に触発されて自分の理解を深める)をする人間なので、NUEさんはじめいろいろなひとからのレスが何よりの糧です。
思考活動の交換は直接の対話がもっとも効率的で濃密なかたちだと思っているので、掲示板を通じての交換にはもどかしさもあります。
直接の対話だったら、理解の相互確認として、都度都度の問い掛けと補足説明ができます。
投稿ボタンを押した直後に「あの部分はもっと詳細に説明したほうがよかった」とか「あれを書くのを忘れていた」というのがしょっちゅうあります。
また、当然?ひとりの人間なので、いろいろな書き込みは自分の頭のなかではつながったものとしてありますが、読まれる方は当然その断片である個々の書き込みの範囲で理解されるわけですから、説明が下手という問題を超えて「何を言いたいのかわからん」ということもあるのではと恐縮しています。
「自己愛」や「「小欲知足」異論反論」を書いた背後には、知性主義的風潮のバカバカしさを晒すという目的もありました。
「あっしらは理が勝ってる」とか「あっしらは“頭”だ」とかマドオンナさん的あっしら評の類を読むと、ひょっとしてですが、その人たちは「知性主義の罠」にはまっているのではないかと思ってしまいます。
思考力や知識は、自分がもっと心地よくなるための手段でしかありません。
思考力や知識が優れていたり豊かだからというだけで、心地よくなるわけではありません。逆に、それらに高い意味(価値)を見い出す人は、自分の思考力や知識と他者のそれらを比較して“苦悩”することになります。
(「近代」はとりわけそうですが、思考力の成果が売り物になることが「知性主義」の現実的支えだと思っています)
どんな人が語ったり書いたりしたことでも、自分が納得できるのかどうかであり、自分にとって意味(役に立つ)があるかどうかで利用したり切り捨てればいいだけのことです。
ひと(他者)に頭がいいと言われて悦に入るひとより、カラオケボックスでヤンキーなねぇーちゃんといちゃついて気持ちいい時間を過ごしているひとのほうが私には好ましい「自己愛」に思えます。
手段である思考力を目的化(価値化)することは悪魔崇拝の一様態であり倒錯です。
NUEさん:「あっしらさんの真意は、よーするに「愛した相手からの見返りを期待すんな」であって、そこを強調するために、方便として「自己」を「愛」の前にくっつけて見せた(だけ)ですね。「誰もが見返りを期待しなくなれば、そんな方便も使わずに済むようになるのに(グチ)」……まったく「御意」であります。」
「見返りを期待すんな」というのはわずかな要素で、「良かれと思ってしたことがいい結果につながるわけではない」という理解や「深い「自己愛」がなければ他者を深く愛することはできない。なぜなら、他者は自己なのだから」という実感が重要だと思っています。
「自己愛」は、「自分の間尺でしか判断できない」という表現に置き換えることができます。愛しているひとに喜んで欲しいと思ってすることも、自分の間尺で推断したものでしかありません。自分が何に心地よさを感じるかもかっちりとは把握できないのですから、まして人様のことは...ということになります。
ひと(他者)との関係性で得る「自己愛」は、自己完結ではないのですから、相手をどれだけ内に引き入れるかで充足度が異なると思っています。
(愛すると、顔がとかオッパイがとか足がとかではなく、何とは語り得ない“もの”を愛していることに気づくはずです。その何かをリアリティとして支えているのが他者の確かな実存性です。外なるものであった他者が内なるものを体現する存在に感じるようになったとき愛していると言えると思ってます)
イデオロギー(べき論=理念主義)は、そのようなごく当たり前の原理を、こう生きることが正しいとか他者にこうするのがまっとうな人間だとかいう理屈(説明的価値観)で乗り越えさせることで、ひょっとしたら自分はとんでもない愚行をしているのではないかという躊躇心さえふっ飛ばしてしまいます。
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>■個人的展開
このような展開は大好きです(笑)
>▼「見返りを期待しない愛」とは「無償の愛」か?
「無償の愛」というのは、「自己愛」説から言っても胡散臭いものです(笑)
無償なんだからやってることにケチをつけるなとか、それも“有償”なのにほめられて当然だという意識につながりかねません。
「マザーテレサにとっての愛は「無償の愛」ではない。彼女は神から愛されることを望んでいる。子供たちに奉仕することで神から愛されることを期待している。だから、彼女の視線は下方(子供たち)ではなく、ひたすら上方(神)に向かっている。」は、マザーテレサ的価値観のひとの真意だろうと思います。
>▼あらまほしき「マザーテレサ」
「マザーテレサは「神様のことなんか知ったこっちゃない」と言う。「最後の審判の時にどうなるかなんてわかるわけないんだもん」とも言う。「だって、人間が考える善が神様の考える善と合致する保証なんかないんだから」とも言う」は、ユダヤ−キリスト教−イスラムといった全知全能の超越神を信仰するひとの正しい判断だと思います。
神はこう思っているとか神はそれを望んでいるとかを、預言者以外が語れば、それは神を地上に引き摺り下ろす冒涜行為です。(預言者は神から直接委託されたのですから問題ありません(笑))
「そこで彼女は「いいもん。私はこどもたちの面倒を見て、それで彼らが嬉しそうな顔をしてくれるなら、それで十分だわ。あの顔見るだけで天国に行くより幸せな気分になれるし。子供たちに同じように私を愛しなさいなんて言うわけないじゃん」と見切りを付けて、礼拝なんかほったらかしに……」も、なかなかよろしいかと思います。
マザーテレサは、そのような徹底した「自己愛」(わがまま)のひとなんだということを押し隠し、聖人であるかのように喧伝する周り(教皇庁も含む)が悪いということになります。