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(回答先: Re: 「深い「自己愛」がなければ他者を深く愛することはできない。なぜなら、他者は自己なのだから」 投稿者 NUE 日時 2004 年 4 月 06 日 02:47:38)
NUEさんの深い独り言を聞いて勝手に独り言のレスを...
NUEさん:「 ▼解脱しなければ愛せない……えっ?
どうやら「見返りを期待せずに愛せ」と言われても「僕にはできませーん」になりそうです。だって僕、解脱してないもん(笑)。だから、できるのは「見返りを期待しないようにする」ことだけだし、言えるのは「愛してる」ではなく「愛(そうと)してる」ですね。状態ではなく志向というか。「ある」ことはできないから「する」しかない、と。
が、宙に浮いているから(答えがなかったから)だ。と言っても「答えないのはケシカラン」と言ってるわけではない。答えがないのはそれなりの事情があるからだろうし、答えが欲しいわけでもない(だから独り言なの)。」
一応、「「愛してる」ではなく「愛(そうと)してる」」というNUEさんの重要な視点を受け止めてレスを書いたつもりでしたが、ほとんどそれに応えたものにはなっていなかったと思っています。
「自己愛」には、自分を愛している、外の何かを愛しているという“状態”も含まれていますが、自分や誰(何)かを愛しているから“働き掛け”、働き掛けたことで相手(対象)から受ける“感応”も含まれています。
このように段階的識別ができるわけではありませんが、「自己愛」は、“状態”→“働き掛け”→“感応”→“状態”→・・・の関係的動的循環によって充足されるものだと思っています。
NUEさん:「 (あっしら曰く)「深い「自己愛」がなければ他者を深く愛することはできない。なぜなら、他者は自己なのだから」ってのは、つまり「ある境地に達しないとダメ」って言われてるような気がする。その手前こそが問題なんじゃないかなぁと思うんだけどなぁ。
「ある境地に達したい」「深い自己愛を持つ」ってのはそれこそ「大悟」ではないのかなぁ? ある種のイデオロギーになっちまわないか? あと、日本共産党の「民主集中制=党中央は誤謬を犯さない」ってのも、「組織としてある境地に達した」と解釈できなくもないし。
そうじゃないだろー。全ての人間が法力を持てる修行をするわけにもいかないし、全ての人間が深い自己愛を獲得できるわけでもないし、全ての人間が正しいとしたことだって間違うことはあるわけだし。もし、そんなことが可能なら、すでに出来てるはずでしょ? いままで数千年出来なかったことがこれから出来るようになるの? なんで? 星の巡り合わせ? うーん、それじゃ他力本願じゃん。」
「自己愛」が深いことを望むかどうかも、それを「自己愛」が欲するかどうかにかかっていることです。
「深い「自己愛」がなければ他者を深く愛することはできない。なぜなら、他者は自己なのだから」で言いたかったことは、「他者を深く愛することができるひとは自己を深く愛している」ということであり、「「自己愛」に徹すると、他者との“縁”によって他者への働き掛けを通じて得られる「自己愛」がさらに深まり、「自己愛」=「他者への愛」に自然に到達する」ということであり、「他者=自己と実感できることで、“状態”→“働き掛け”→“感応”→“状態”→・・・がもたらす「自己愛」の充足をより高める」ということです。
その時々の「自己愛」に拠ってしか生きていけないのですから、別に深く愛せなくてもよいのです。
「自己愛」なぞ意識しなくても、ひとは「自己愛」に拠って生きているのですし、自分と他との関わりのなかで続ける“状態”→“働き掛け”→“感応”→“状態”→・・・の関係的活動を通じて自然と「自己愛」の在り様は代わっていくものです。