投稿者 SP' 日時 2000 年 12 月 28 日 17:33:45:
以下『予言書黙示録の大破局』(有賀龍太著、ごま書房)より抜粋。
6 最終戦争の開始──西方に進撃する新蒙古帝国
(中略)
日本人の持つ狂乱のエネルギー
「東の王たち」には日本も含まれるわけだが、中国人ならジンギス汗の例もあるし、パレスチナ進撃を行なうかもしれない。しかし、いくら日中同盟が成立しても、第二次大戦で苦い経験をした日本人が、そういうムチャな戦争に参加するとは思えない、という反論もあるだろう。
だが、それは現在だからこそ言えることである。たしかに、憲法九条が改正され、軍備が飛躍的に増強され、核武装まで行なったとしても、それと狂気の大進撃はただちに結びつかない。だいたい、現在のタカ派や右翼といわれている連中自体はかなり平和ボケしていて、そういう想像力が欠如しているからそのようなことはありそうにもない。まあ、平和でけっこうなことだ。しかしながら、一億総白痴とかテンション民族とかよくいわれる日本人にはどのようなこともありうる。なんといっても私たちは、オペックと石油メジャーのほんのささいなおどしだけでもトイレット・ペーパーの買いしめに走り、関東大震災のときデマで朝鮮人を虐殺し、自殺的特攻隊にすすんで志願し、神風を信じて竹ヤリで米軍戦闘機と闘おうとした民族ではないか。
江戸時代には、「おかげ参り」といって、旗やのぼりを立てて、仮装をしたり、三味線、太鼓などを鳴らし、集団神がかり状態になって、伊勢神宮に参る現象が何度か起こっている。文政一三年(一八三〇)にはなんと五〇〇万人が参加したというが、当時の日本の人口は二五〇〇万人程度であったから、なんと五人に一人の割合で、この狂乱の行進に参加したことになる。参加圏も東北を除いて、ほとんど全国におよんだ。
伊勢へ伊勢へと続くアリのような参拝者たちのために、道中の町や村では、食物、路銀、日用品を施したり、宿を無償で提供せねばならなかった。これは、自分たちも“おかげ”に預りたい、という宗教心からというよりも、乞食同然といわれた参拝者の集団による無差別的略奪を予防するためである。実際、かれらは狂信的情動に捉えられているだけ、そのへんの乞食よりも攻撃的で、いったん騒ぎ出すと手のつけられない状態になったという。
もちろん、合理主義精神の発達した現代において、ただちにこのような現象が起こる、とはいわない。しかし、カゴや船や馬を利用する以外はすべて徒歩という時代に、数百万の老若男女が千里を遠しとせず歩き続けたエネルギーには、想像を絶するものがある。
すでに管理社会の抑圧に耐えかねて、このところ精神病患者が急増している。精神文化、メディテーションなどと称して、健全な批判的精神をシステマチックに破壊するオカルト修行書が急速に売れ始めている。そして、かつてのパニックは情報不足によって起こったが、現代のパニックは情報洪水によって準備される。
今や、わたしたちは、かつてない不安と硝煙の時代に突入しつつある。大破滅への兆候はますます顕在化するだろう。そういったなかで、“おかげ参り”に見られるような日本人のもつ潜在的な狂乱のエネルギーに火がつかないとは誰も断言できない。
日本の世紀末に復活する“オカルト神道”
第五章でオカルティズムの世界的流行について述べ、日本の状況についても簡単に触れておいた。日本のオカルト流行は、最終的にどういったところに行きつくだろうか? わたしの予測では、神道リバイバルにまで行きつくのではないかと思う。
神道というと神社神道を思いうかべる人が多いが、それは神道の表の顔で、実際には裏がある。表はとりすましているが、裏のほうはオカルト的なドロドロした世界である。ふつうの神社の神主でも、裏の教義を奉じている人は意外に多いし、裏の教義は、さまざまな新興宗教の上級教義に部分的にとり入れられている。
かつて、この裏の神道を統合し、“表”化しようとし、一定の成功をおさめた人物がいた。大本教の出口王仁三郎である。
大本教というと、戦前に徹底的な弾圧をうけたことで有名で、そのために宗教学者のなかにも、なにか“進歩的”“反軍国主義的”宗教のように勘ちがいしている人が多い。たしかに戦後は骨抜きになって、新興宗教のなかでは比較的穏健なものになってしまったが、戦前の大本教というのは、鎮魂帰神術、言霊学、神代文字、怪しげな古文献など、表の神道では異端とされている裏の教義をかき集めたオカルト宗教であった。
しかも彼は政治運動にまで進出し、オカルティスト・ヒトラーと同じように、大衆運動をバックとした下からのファシズム革命を構想していたのだ。
昭和九年、出口は超右翼の黒竜会(カール・ハウスホーファーは日本滞在中、この結社に加入したという噂もある)と手をくんで、昭和神聖会という団体を組織し、みずから総統ならざる“統管”に就任、九段の軍人会館で華々しい発会式を催した。この発会式には、現職の大臣、陸海軍の将官はじめ三〇〇〇人の名士が出席している。
王仁三郎はすでに、これに先立って、大本教青年信者に軍服とよく似た制服を着用させ、昭和青年会、昭和坤生会を組織、それらは準民間軍事団体のような様相を呈していたが、これを昭和神聖会に合流させた。
農村では娘の身売りが横行し、中国とのドロ沼戦争はいっこうに好転せず、米英ソとの緊張が高まるなかで「農村の病弊打開」「ロンドン軍縮条約撤廃」「皇道維新断行」などのスローガンを打ち出した神聖会は、大本教青年部隊の活動力を投入することによって、わずか一年足らずの間に、日本におけるもっとも有力な圧力団体となった。講演会三千回、展示会三百回という派手な運動によって、またたくまに、全国に四一四の支部と八〇〇万人の支持者を集めるに到ったのである。
だが、このような政治勢力としての予想を上まわる急成長は内務省や警察当局を刺戟した。軍の過激派青年将校による昭和維新運動との結合を恐れたのである。昭和十一年二月の第二次大本教弾圧の背後には、こういう事情があったのである。
残念ながら王仁三郎には、ヒトラーのような帝王学と政治的手腕、冷徹さが欠けていたため、既成権力上層部との取引きに失敗した。
だが、これから世紀末の大破滅へと向かう混乱期に、王仁三郎以上の政治的手腕と狂信的信念をもったオカルト・ファシストが浮上することはおおいにありうることだ。あまり専門的になるので、ここでは詳しく述べないが、現実に、出口王仁三郎の未完の「世界革命」を成就することを合言葉にしたいくつかの神道グループが、今やひそかな蠢動を開始している。
“再生のキリスト”を名のった出口王仁三郎
ところで、この王仁三郎は大正十年、宗教によって戦乱の蒙古を統一し、自らダライ・ラマと称し大本教王国を樹立するという野望を抱いて満洲に渡り、盧占魁配下の軍とともに内外蒙古独立軍を結成している。
この陰
謀は張作霖の妨害により失敗し、独立軍はパインタラで武装解除されてしまうが、王仁三郎は蒙古に宗教王国を建設したあとは、日、中、蒙の大東亜連盟を打ち立て、西方に進撃し「パレスチナのエルサレムに再生のキリストとして現われ」「バイブルならぬ『霊界物語』を世界的に発表」「ヨーロッパにおしわたり新宗教的王国を建設」することをマジメに考えていた。(出口京太郎『巨人出口王仁三郎』講談社)
これは、たいへん興味深い話だ。この手の人物がクーデターでも起こして権力を掌握すれば、イスラエル保護を名目として、中東に出兵することなど朝飯前だろう。王仁三郎が、エルサレムに進撃し、再生のキリストとなると本気で信じていたのは、たぶん、彼が日本=ユダヤ同祖論、略して日ユ同祖論という裏神道の特殊な教義を信奉していたからである。
日ユ同祖論というのは、日本とユダヤ人の祖先が同じだという、オカルト的な人種論である。
酒井勝軍というファナティカルな神道右翼は、この教説のプロパガンダに大きな役割を果した一人だろう。酒井は昭和十年から十六年まで『神秘の日本』という月刊雑誌を刊行し全国で演説会を行い、レコードまで出している。酒井によれば、ダビデ王の正統な子孫である日本の天皇こそが、来るべき救世主=キリストであり、キリストの千年王国とは、日本の天皇が世界を支配するということにほかならない。しかし、このキリストの地上王国が実現されるためには、聖書によれば、パレスチナの地にユダヤ国家が建設されることが前提となっている。従って、皇軍はパレスチナに進駐し、シオニストの闘争を軍事的に支援する必要がある、と説いた。
また、“きよめ教会”という異端的なキリスト教の一派を主宰していた中田重治も、
「日本民族は大昔にユダヤ人が渡来し、原住民と混血したもので、大日本帝国は神の摂理により、キリスト統治の千年王国のヒナ型として今日まで連綿と続いている。従って日本人には、神の選民であるユダヤ人を援助し、ユダヤ人国家建設の神業を達成すべき民族的使命がある」
と説いた。
出口王仁三郎も、自分の書いた“お筆先”と称するものの中で、由良川に「ヨルダン」とルビを振り、伊勢には「イスラエル」とルビを振っており、明らかにこの奇怪な教説の影響を受けていたのである。
現在でもこの伝統は続いており、出口王仁三郎の未完の“世界革命”を完遂させようと蠢動している者たちの周辺には、日ユ同祖論を奉じている者が多い。また、日ユ同祖論を奉じてはいなくても、日本とユダヤ人の間には、特殊な“霊的関係”が存在することは、かれら裏神道オカルティストの間では“常識”となっている。
日本ユダヤ同祖論にもとづいて出兵が行なわれる
とても常識では考えられないことだが、ある人々の間では、聖徳太子の頃、パレスチナから伝わったとされる“マニ宝珠”というユダヤの神秘的な石の存在が信じられている。イスラエルの“マニ宝珠”と日本の“おのころ島神石”を所有した者は、世界を支配する運命にある、と彼らはまじめに信じているのだ。
またある一派は、宮中の賢所に奉安されている、三種の神器のひとつである「八咫の鏡」の裏には、「我はありてあるものなり」という有名な聖書の言葉が古代ヘブライ文字で刻まれている、と信じており、この件についての真剣な調査を三笠宮に依頼したという。
幸か不幸か、現在のところ、こういう狂信的な偏向論者たちは特異な閉鎖された社会におしこめられている。だが、社会学者クレッチマーの次のような警告に耳を傾けるべきだろう。
「平常時においては、狂人は我々にとって隔離の対象に過ぎない。しかし動乱と社会不安の時代にあると、しばしばかれらがわたしたちを支配するのである」
すでに、こういうキチガイじみた地下運動は、一部の政財界人と奇妙なチャンネルを持つに到っている。また『迷宮』というような、その道の専門誌があって、日ユ同祖論を含む裏神道の奇怪な教説を、ヨーロッパのオカルティズムとともに、非常に巧妙なかたちでインテリやアカデミーのなかに浸透させようとはかっている。
大破局へと向かうドサクサに、出口王仁三郎のようなオカルト・ファシストによって、日ユ同祖論のような特殊な人種論が公然化し、同胞イスラエルの保護という名目で出兵が行なわれたり、あるいは、不安とレミングの行進のような死の本能にかられる民衆を煽動して、伊勢=イスラエルへと導く可能性を、われわれはけっして無視できない。
(後略)
7 終末の地獄──二〇〇一年に出現するこの世の終わり
「キリストの再臨」とは、人類の全滅をさしている
全地上の島々が逃げ去り、山々は見えなくなるという地殻の大変動、そして空からはまっ白な氷塊が雨あられと降るという、想像を絶するような地球全体の大異変。黙示録は、この大異変を「天が開く」と表現している。
またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。……
そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。……
その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。
さあ、神の大宴会に集まってこい。そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ。
そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれる。それ以外の者たちも、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。
わたしは、また、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
天から下ってくる“聖なる都”とは何なのか
もっとも、多くの聖書学者は「人類が完全に滅びる」とは言っていない。事実、黙示録には、獣の刻印を受けなかった人々は生きかえってキリストと共に千年王国をつくる、という記述もある。この部分を指摘して聖書学者は、「獣を信じない真のキリスト教徒だけが生き残る、だから終末の世がくるまでにくいあらためなさい」という。しかしながら、地球的大異変にもかかわらず、キリスト教徒だけが生き残る、というのはどう考えてもムシがよすぎるというものだ。いったい彼らはどこにかくれようというのだろうか。
おそらく、この部分は、ローマの権力者が黙示録を意図的に改ざんしたときに、わざわざつけ加えられたものとも考えられる。公認の聖書に「キリストが全人類を抹殺する」などと書かれていたら、誰がキリスト教徒になるだろうか。それでは民衆を支配できなくなってしまい、支配を維持できなくなってしまうのである。
ところで、黙示録は全人類が滅びたところでは終わっていない。まだそのあとがあるのだ。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着かざった花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下ってくるのを見た。
謎の秘密結社フリー・メーソン
さて、それでは「終わりのとき」が、はたしていつごろくるのか。わたしがここまで人類の終末の時期を明らかにしなかったのは、なにももったいぶってそうしたのではない。
じつは、黙示録には終末の時期は記載されていない。それではサギではないか、といわれるかもしれない。が、黙示録は、そこいらへんの単なる予言書とは質がちがうものなのである。
今まで、黙示録をありきたりの予言書と勘ちがいした多くの研究家たちは、この黙示録の文章中に終末の時期が隠されているとして、じつにさまざまな年代決定法を考案しては、じつにさまざまな年を終末の年と勝手に決めつけてきた。お望みなら、一九八五年でも一九九九年でもやってみようというものだ。
それでは、だれが、どのようにして、終末の年を設定するのだろうか。もちろん、黙示録研究家や聖書学者ではない。彼らは単に黙示録の内容を明らかにすることができるだけだ。
黙示録の終末の時を決定するのは、黙示録にもとづいて行動する「神のエージェント」だけである。もちろん、これはシークレット・エージェントだ。彼らは「神」を「世界の帝王」あるいは「王の王」と呼ぶ。それが黙示録十九章に出てきた、白い麻布をまとった聖徒たちの着物にしるされていた名と同じものであることは非常に興味深い。
この不気味な秘密結社は、全世界を支配する能力を持ち、また、世界を破滅させる能力をもあわせ持つ。彼らの持っている秘密の暦には、われわれの暦には終わりがないのとちがって、ある時期以後の日付がない。ある時期で暦の日付がストップするのである。そしてその日、彼らは世界を終わらせる。
この秘密結社は、フリー・メーソンと呼ばれている。
フリー・メーソンの起源は闇につつまれている。メーソンとは石工という意味で、バベルの塔の建築に従事した石工組合に端を発するという説もあるが、もっとも興味深いのは、ソロモン王によるエルサレム神殿の造営に起源を求める説だ。
伝説によれば、メーソンの始祖メートル・ヒラムは、エルサレムの神殿を造営した石工の棟梁であったが、その地位と技能をシットした三人の親方に殺され、神殿内の青銅の墓に埋められたのち、再生したといわれている。そしてフリー・メーソンの新加入者は、必ず、このヒラムの死と再生を象徴して儀式を受けさせられることになっている。
“本物”のフリー・メーソンが背後にいる
フリー・メーソンの最終目的は、エルサレムの殿堂を全人類のための大殿堂として再建することにある。人間は「宇宙の大建築家」の指図のもとに、その偉大なる計画のためにはたらかなければならない。そして、その建築のための材料となるのは個々の人間であるという。
ばく然とした表現だが、これは建築というものが、本来、支配のための技術であったことを意味する。事実、古代では建築は「王の技術」といわれた。
それゆえ、フリー・メーソンは、謀略によって世界を背後から支配する政治的陰謀結社であると、少なからぬ研究家にはみられている。フランス革命、アメリカ独立、ロシア革命、イスラエル独立等々の多くの歴史的大事件は、フリー・メーソンのメンバーによってしくまれたというのだ。特に戦前では日本でもフリー・メーソンの世界大謀略説が流行した。
そして実際に多くのフリー・メーソンの団員が、それらの事件で活躍しているのは歴史家の証明するところであり、それについては、つい先日、NHK教育テレビでも放映された。
とはいえ、それらのフリー・メーソンは、にせ者である、と神秘学者ルネ・ゲノンはいう。彼は、本物のフリー・メーソンに加入し、のちにそれを捨ててエジプトにひきこもって一九五九年にその地で世を去った人物といわれている。ゲノンによると、世間でよく知られているいわゆるフリー・メーソンは、ただ本物のマネごとをしているだけなのだという。あるいはそれでなければ、最下位のメーソン組織なのでしかないという。
おそらくゲノンは、暗にフリー・メーソンの陰謀はもっと巧妙だといいたいのだろう。われわれは、このゲノンのいうフリー・メーソンによく似た団体を知っている。それは、ヨーロッパを背後であやつる国際ユダヤと、アメリカを背後であやつる東部エスタブリッシュメントである。
それでは、この二つの超巨大国際金融資本が本物のフリー・メーソンなのだろうか。事実、彼らのメンバーでメーソンに加入している者は多い。だが、それは、いわゆるフリー・メーソン(たとえば日本でも、東京の港区芝に堂々と看板を掲げている)でしかない。
わたしは、この二大国際金融資本のそのまた背後に、それらをあやつるものがあると考える。そして、それこそ、本物のフリー・メーソンなのだ。
ルネ・ゲノンの『神智学──擬似宗教の歴史』(一九二一)には、無気味なことが書かれている。それによると、オカルティス
トを気取る人物はすべて偽メシアであり、彼らはじつは何者かに煽動されているにすぎない。すべては単なる試み的な実験にすぎず、本番は今後に残されているのかもしれない。これらの背後には、もっと違った意味で恐ろしいものが潜んでいるのではないか、という。
彼はまた、将来に人類が破局的消滅をむかえるだろう、ともいう。メーソンの脱落者という立場上、彼は「背後の何者か」については正体を明らかにしていないが、それがフリー・メーソンであることはまずまちがいがない。一部の研究家は、この真のメーソンを「イリュミノイド」と呼んでいる。これは一七七六年、バヴァリアのアダム・ヴァイスハウプトによって結成されたイリュミネ結社にちなんだものだ。イリュミネ結社は、フリーメーソン内部に結成された「秘密結社の中の秘密結社」で、フランス革命を背後から操作したといわれる。
イリュミネとは「光」を意味する。奇妙なことにキリスト教の悪魔ルシフェルは、ラテン語で「光を放つ者」という意味だし、旧約創世紀によれば神は最初に「光あれ」と言ったという。イリュミネという言葉は、暗に神も悪魔もいっしょだということを示している。“獣”も“神”も、結局は同じものなのだ。
メーソン暦の六〇〇〇年、それはいつか
だが、大破局が起これば、メーソンもまた死んでしまうのではないかという疑問をたいていの人は持つはずだろう。どうなのだろうか。しかしながら、ヒラムの儀式をおえたメーソンは、死を恐れることがないという。彼らはリ・インカネーション(再生)を強く信じているからだ。
終末のとき、彼らだけは一度死んでも生まれかわって、千年王国をつくる。そして人類の大殿堂を建てる。それはエルサレムの殿堂の再建、全人類のための大殿堂の建設であるという。ここで急に想い起こされるのは、黙示録の示す人類の歴史の最後の部分だ。
エルサレムの輝く聖都の光景! フリー・メーソンの目的と黙示録の示す人類の最後の最後。それがまったく同じものであるとは、なんと不気味な一致だろうか。
ところで、異端的あるいは秘教的立場にたつ聖書学者の多くは、人類の歴史は六〇〇〇年と象徴的に考えている。天地創造から終末まで六〇〇〇年だというわけだ。その根拠のひとつにバルナバ文献というものがある。
誰でも知っているように、創世紀では神が六日間で世界をつくり、七日目に休息にはいる。この六日間というのが六〇〇〇年間を意味するという。そして、神の子が現われ、不信心者を裁き、日と月と星とを変えて不法者の時代を滅ぼし、七日間の千年王国にて十分な休息をとるという。
また異端派ユダヤ教のサマリア派でも、メシアが天地創造から六〇〇〇年目に出現して、その時に世界は滅んでしまうといわれている。もちろん天地創造とは、暦のはじまりの日付を示していることはいうまでもない。
フリー・メーソンの使用するメーソン暦は、私たちが使う暦に四〇〇〇年を加えたものといわれている。これは多くのメーソン関係文献の指摘するところである。
それではメーソン紀元六〇〇〇年が終わるとなにが起こるか。おそらく彼らは、黙示録のプログラムにそって「六千年記念事業」を実行するはずである。それは西暦になおすと、ちょうど二〇〇一年にあたるのである。
西暦二〇〇一年、人類は滅びる。
世界が破滅するのと、このぼくが茶が飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ。