投稿者 SP' 日時 2001 年 5 月 01 日 17:24:54:
回答先: フリーメーソンの日本侵略計画(『WL』第22号) 投稿者 SP' 日時 2001 年 2 月 28 日 09:36:05:
メーソンの日本上陸に関する諸説
アメリカ独立、フランス革命の大きな原動力となったフリーメーソンは、日本の近代史=明治維新にも大きな影響を与えた。しかしフリーメーソンの日本への上陸時期については、いくつかの説がある。
▼一八五九年説──上海を経て長崎に来日したイギリス人貿易商トーマス・ブレイク・グラヴァーが、スコッチ・メーソンの代表であった、とする説。
▼一八六四年説A──香港から横浜に派遣された英陸軍第二〇連隊のなかにいたフリーメーソン員が発起人となってロッジを開設した、とする説。
▼一八六四年説B──フランスの全権公使として江戸に赴任したレオン・ロッシュがグラントリアンの代表であった、とする説。
以上が、日本へのフリーメーソン上陸の起源をめぐる有力な三説である。いずれにせよフリーメーソンが、明治維新という大変革に大きく関与していた点は間違いなさそうである。
トーマス・ブレイク・グラヴァーは、一八三八年にスコットランドに生まれた。彼が貿易商としての成功を胸に想い描き、東の果て──黄金の国ジパングに辿り着いたとき、まだ二十一歳の若さだった。
グラヴァーが設立したグラヴァー商会は、かの有名なジャーディン・マセソン会社の代理店も兼ねていた。このジャーディン・マセソン会社が、東アジアにおけるフリーメーソンの前線基地である、との噂は根強い。
スコッチ・メーソンの会員であったグラヴァーは、アメリカやフランスと同様に日本にも革命勢力──倒幕派が台頭しつつあるのを知ると、倒幕派諸藩へ大量の武器・火薬類を調達し発展した。いつの時代でも、革命・戦争は“商売”になるのである。
また彼は革命勢力の統一を図って、薩英同盟・薩長同盟の成立に重要な役割を演じた。のちに、大浦海岸の軽便鉄道、長崎小菅ドック建設、高島炭鉱開発、大阪の新政府造幣局の造幣機械輸入斡旋などに尽力した。
長崎山手のグラヴァー邸は、倒幕派が集いアメリカ、フランスに続く革命のプランを練るロッジだった。
イギリス系メーソンとフランス系メーソンは、どこまでいっても対立する運命にあるのだろう。グラヴァーの動きの対極に、レオン・ロッシュを位置づけることができる。
駐日フランス全権公使レオン・ロッシュは、一八〇九年にグルノーブルに生まれた。ロッシュは不思議なコスモポリタン(国際人)だった。グルノーブル大学を六ヵ月で退学後、彼はアルジェリアに渡ってアラビア語を学びイスラム教徒にまでなった。
ロッシュは江戸に赴任すると、長州藩に対して強行論を唱えるイギリス公使オールコックと対立、幕府に接近した。彼は幕府を援助して、横須賀製鉄所や横浜フランス語学校を開かせたりしている。
日本各地にロッジを開設
グラヴァーやロッシュがフリーメーソンの会員で、日本にその思想や教義を持ち込んだのは間違いないが、その前段階として一八四二年のアヘン戦争を考えないわけにはいかない。この戦争後、英領となった香港にメーソンの極東ロッジが創設され、それがメーソンのアジア拡大の基地となったのである。
イギリス陸軍第二〇連隊も、横浜の居留地警備の目的で香港から派遣されてきた。同連隊内にはアイルランド系移動軍人結社〈スフィンクス結社〉があり、その集会が横浜において開催されている。
〈スフィンクス結社〉のメーソン会員たちは移動式ではなく恒久的ロッジ設立に向けて動いたようだ。そして横浜に、本格的なメーソン・ロッジが開設されることとなった。
彼らは横浜在住の英外交官や貿易商らと結び、一八六五年にイギリスのグランド・ロッジに新ロッジ設立を申請、一八六六年に認可されている。〈ヨコハマ・ロッジ〉第一回集会は、スコットランド系西インド地区前副棟梁カートライトの出席も得て催された。
ちなみに初代ロッジ長はウィリアム・モータ、二代目ロッジ長はイギリス近衛連隊将校のG・M・スマイスであった。
横浜にロッジが開かれてからというもの、イギリス系フリーメーソンは日本各地に次々とロッジを開設している。
@アイルランド・グランド・ロッジ系
▼一八六九年(明治二年)──オテントウサマ・ロッジ〔本部登録番号/一二六三、所在地/横浜〕
▼一八七二年(明治五年)──ライジング・サン・ロッジ〔一四〇一、神戸〕
Aスコットランド・グランド・ロッジ系
▼一八七〇年(明治三年)──ロッジ・兵庫エンド大阪〔四九八、兵庫・大阪〕
▼一八七九年(明治一二年)──スター・イン・ジ・イースト・ロッジ〔六四〇、横浜〕
こうした各地のロッジを統括するために、一八七三年には日本地区グランド・ロッジが設立され、その初代グランド・マスターにはチャールス・ヘンリー・ダラスが就任している。
高橋是清の援助依頼に応える
幕末から明治維新にかけてはイギリスやフランスばかりでなく、他の国のメーソンもずいぶんと流入した。たとえば薩摩藩の五代友厚と親交を結んだシャルル・ド・モンブランはベルギーのメーソン員だったし、長岡藩の河井継之助と親交を結んだエドワルド・スネルはプロシャのメーソン員だった。
そしてさらに多くのユダヤ人たちが明治建設を促進させた。以下にそうしたユダヤ人と、彼らの果たした役割を列挙してみる。
▼ボアソナード──民法、刑法の基礎
▼ロエスレル──憲法の制定
▼フルベッキ──徴兵制、学制の制定
▼ジュ・ブスケ──近代陸軍の基礎
▼ドゥグラス──近代海軍の基礎
▼キンドル──貨幣制度
▼シャンド──金融・銀行制度
とりわけA・A・シャンドの果たした役割は大きい。彼は日銀創設に尽力したばかりか、アメリカのクーン・ローブ商会に働きかけて日露戦争の戦債募集に応じさせた。これはシャンドが滞日中の友人であった高橋是清の依頼に応えたものだ。
昭和一六年に四王天延孝が『猶太思想及運動』(内外書房)という本を書いていて、そのなかで日露戦争債とクーン・ローブ商会について触れている。
「(ユダヤ人の活躍で)最も目立ったのは日露戦争間におけるユダヤの日本に対する財政的援助とロシアに対する革命運動である。かのニューヨークの金融財閥クーン・ローブの巨頭ヤコブ・シワ(ソロモン・ローブの女婿)が、わが財務官高橋是清氏に対し二億五千万
の戦債募集に応じた……。(その背景に)……ロシアを打ち負かし、革命を起さして六百万人のユダヤ同胞の解放をやりたいという、前世紀末以来の燃ゆるようなユダヤ解放第一論者の考えが動いたことは当然である。(さらにクーン・ローブ財閥は)……世界大戦間に再びロシア革命の準備に奔走し千二百万ドルの金を出した……」
つまりフリーメーソンの重鎮であるクーン・ローブ財閥は、ユダヤ人による世界征服陰謀のために日露戦争を利用した、というのである。しかし、少し考えてみるとこの論には無理があることがわかる。当時パリに本拠を置いていた、やはりフリーメーソン重鎮のロスチャイルド財閥は帝政ロシアへ援助を送っているのだ。
これではメーソン同士が戦争をしていることになるのだが、陰謀史家の眼から見れば、その矛盾もあっさり解決してしまうものらしい。すなわち「フリーメーソンは得意の両立戦術を地で行ったのだ」と。
メーソン=ユダヤ陰謀結社?
明治以来、日本を近代国家とすべく尽力してきた来日ユダヤ人、そしてフリーメーソン員に対する見方が第一次大戦を境に大きく変化する。先に引用した四王天論文のように、フリーメーソン=ユダヤ人の陰謀結社とする見方が固まってゆくのである。
「有史以来、世界に起った一切の戦争や革命運動や宮廷の攪乱ないし道徳的頽廃は、すべてユダヤ人の陰謀にその端を発しており、実に彼等こそは世界破壊を計画している奇怪きわまる民族である」
こうしたフリーメーソン=ユダヤ陰謀結社説が醸成されてゆく一方で、日本人の先祖・記源をユダヤに求めようとする動きが生まれた。木村鷹太郎、小谷部全一郎、竹内巨麿、酒井勝軍、中田重治らの研究・活動が日猶同祖論の席捲に拍車をかけた。
フリーメーソン=ユダヤ陰謀結社説に対し、真正面から批判する書物も出版されている。大沢鷺山の『日本に現存するフリーメーソンリー』がそれである。この書は面白いことに、前述の『猶太思想及運動』とまったく同じく昭和一六年に内外書房から出版されている。
大沢は『日本に現存するフリーメーソンリー』のなかで、日本における陰謀喧伝がどのように形成されたかを実証し、批判している。さらに自序に面白いエピソードが紹介されている。昭和八年二月、貴族院における質疑で、内田康哉外相に対して某議員が次のような質問を発したのだ。
「このたび国際連盟が日本や満州の渇望を無残にも蹂躙したばかりでなく、ついに世界的孤立に陥らすに至った裏面には、フリーメースンリー、いわゆるマッソン団を中心とするユダヤ人の奇怪なる陰謀があると言われているが、事実はいかがであるか?」
内田外相はこう答弁している。
「遺憾ながら、マッソン団の陰謀を阻止することができなかった──」