投稿者 SP' 日時 2001 年 4 月 01 日 08:47:38:
回答先: 10,000 Famous Freemasons 投稿者 SP' 日時 2001 年 4 月 01 日 08:45:49:
(註) 本事典は『一万人の著名なメーソン』(アメリカ合衆国、ミズーリ州グランド・ロッジ教育局編集、一九六〇年刊)をもとに作成した。 赤間 剛
アメリカ篇 |
大統領 |
□初代大統領。一七三二〜九九。一七五九年バージニア州支部ロッジで入会。
□アメリカ独立戦争の最高司令官にして「建国の父」。一七五三年マスターメーソンになる。一七八〇年アメリカ中のメーソンの議長に昇進。ワシントンは生涯を通じ多くのメーソン支部を訪れ、数多くのメーソン行事に参加した。ワシントンのメーソンとしての考えは、「主要な目的は人類の幸福を増進すること」。
また一七九一年、支部あてに、
「メーソンの友愛が築かれている主義の採用は、個人的徳を高め社会を繁栄させる」ことに意義があるともいっている。死ぬ前にも同様なメーソンについての賞賛をのべており、“最高のメーソン”たらんとしている。アメリカ中のメーソンから模範とされている。
トーマス・ジェファーソン
□第三代大統領。一七四三〜一八二六。バージニア州ロッジで入会。入会日は不明。
□一七六七年ウィリアム-アンド-メアリ大学を卒業し、法曹界に入る。その後、大陸会議のメンバーになり、独立宣言文の委員長をつとめる。フランス駐在のアメリカ大使となり、一七八九〜九三年国務長官、一七九七〜一八〇一年副大統領をつとめて大統領になる。フリーメーソンとしての活動はあまりないが、彼の名をとったロッジもある。
ジェームズ・マディソン
□第四代大統領。一七五一〜一八三六。バージニア州ロッジで入会。入会日は不明。
□一七七三年プリンストン大学を卒業。大陸会議のメンバーとなり、一七八七年の憲法制定議会のメンバーとなった。一八〇一〜九年国務長官、一八〇九〜一七年大統領。その後、バージニア大学の学長もつとめる。
彼がフリーメーソンであったかどうかは長い間わからなかったが、多くの調査でバージニア州のハイラム支部No.59ロッジに入会したと結論されている。フリーメーソンとしての活動はよくわからない。
ジェームス・モンロー
□第五代大統領。一七五八〜一八三一。一七七六年バージニア州ウィリアムズバーグ支部No.6で入会。
□大学を中退して独立戦争に参加、陸軍中佐に昇進。一七八三〜八六年大陸会議のメンバー。その後、上院議員、州知事をへて国務長官、一八一七〜二五年大統領。有名な“モンロー主義”を外交政策とする。
フリーメーソンに入会したのは大学在学中で、セントジョンズ支部で受階。メーソンとして数々の行事に参加した“良きメーソン”であった。
アンドリュー・ジャクソン
□第七代大統領。一七六七〜一八四五。テネシー州のグリーンビル支部No.3で入会。入会日は不明。
□一七八七年法曹界に入り、のちに上院議員、州最高裁判事、陸軍中将を歴任。インディアンとの戦争に勝利し、国民的英雄になった。一八二八年大統領に就任したが、ペギー・オニールス・スキャンダルによって辞任。
フリーメーソンとしては、一八二二年テネシー州本部の議長をつとめ、ワシントン州の名誉メンバーにもなっている。メーソンの高位階に進み、ロイヤル・アーチ・メーソンにもなった。
ミラード・フィルモア
□第十三代大統領。一八〇〇〜七四。入会日は不明。
□はじめはアンチ・メーソン(反フリーメーソン)で、一八五一年、大統領となってから入会したとみられているが、決定的な証拠はない。彼の叔父ジェシー・ミラードが熱心なメーソンであり、その関係でメーソンだとみられている。
よくフリーメーソンの集会に列席しており、熱心にフリーメーソンの教義をたたえている。
アブラハム・リンカーン
□第十六代大統領。一八〇九〜六五。入会は不明。
□メーソンであるかどうか不明。しかし、リンカーンの言葉にはフリーメーソン的な表現が多い。またフリーメーソンの集会にはよく出席しており、「尊敬を払っている」といっている。リンカーンが死去した際、多くの支部と個人のメーソンがリンカーンをメーソンの一員と考えていた。メリーランド州のフレンドシップ支部No.84はリンカーンのための「悲しみの日」に集会を開いている。
一九六五年四月十九日ニューヨークのウォータータランの支部No.49は、「われわれはわれわれの亡くなった兄弟、リンカーン大統領に敬意を表し、葬儀の行進に加わる」ことを決議している。また一八六五年フランスのメーソン雑誌(『モンド・マソニック』)はリンカーンのことを「ニューヨーク本部のメンバー」と書いている。
アンドリュー・ジョンソン
□第十七代大統領。一八〇八〜七五。一八五一年五月五日テネシー州グリーンビル支部No.119で入会。
□下積みから異
例の出世をした人物。南北戦争で北軍に参加し、准将となる。一八六四年三月四日からリンカーンの下で副大統領になり、リンカーンの死で大統領に就任し、一八六九年までつとめた。一八七五年再び上院議員となり、死去するまで数ヵ月つとめた。
フリーメーソンとしては、死去するまで同ロッジ会員だった。のちに求めに応じて、ナイト・テンプラーにも入会し、テネシー州本部の議長代理をつとめた。のちにスコティッシュ・ライトの三十二位階にのぼる。スコティッシュ・ライトを受けた最初のアメリカ大統領である。
ジェームズ・A・ガーフィールド
□第二十代大統領。一八三一〜八一。一八六六年十月十日ガレッツビル支部No.246で入会。
□南北戦争に北軍として入り、一八六三年に将軍となる。一八六三〜八〇年アメリカ議会のメンバー、一八七六年以来、共和党党主だった。一八八〇年大統領となったが、翌八一年に暗殺された。
フリーメーソンとしては、一八六九年五月三日ワシントン州ペンタルファ支部No.23の憲章メンバーとなる。一八八一年オハイオ州ハンセルマン司令部No.16騎士団の名誉会員となり、十四位階に進む。
ホワイトハウスでたびたびフリーメーソンの儀式をする熱心なメーソンだった。暗殺されたとき、メーソンの幹部たちの多くが葬式に列席している。
ウィリアム・マッキンレー
□第二十五代大統領。一八四三〜一九〇一。一八六五年五月三日ウィンチェスターのハイラム支部No.21で入会。
□南北戦争で北軍に参加。一八六七年から法曹界に入った。のちにアメリカ議会のメンバーとなり、「マッキンレー法案」を通す。一八九七年大統領に就任したが、アナキストのレオン・ツォルゴフに暗殺された。
フリーメーソンとしては南部同盟の議長をつとめ、カントンのイーグル支部No.431の憲章メンバーにもなっている。この支部はのちにマッキンレー支部と名称を変えている。また非常に熱心なメーソンで、フリーメーソンの最も高位な三十三位階を受けた最初のアメリカ大統領でもあった。一八八三年にはロイヤル・アーチ・メーソンにもなっている。またワシントン地区の司令部の終身メンバーにも選ばれた。ホワイトハウスでジョージ・ワシントンの没後百年祭をメーソン儀式で行ったりもしている。同時に、彼はイギリスのメーソンにも入っていた。
ウォーレン・ハーディング
□第二十九代大統領。一八六五〜一九二三。一九二〇年八月二十七日オハイオ州マリオン支部No.70で入会。
□一九一五年から二一年までオハイオ選出の上院議員、一九二〇年大統領に選出された。
フリーメーソンとしては、一九二一年五月四日ワシントンのアルバート・パイク支部No.36、翌年にはワシントンのセンテニアル支部No.14の名誉メンバーとなる。そのほか多くの支部の名誉メンバーとなっており、スコティッシュ・ライトの三十二位階を受けている。アラバマ州のフリーメーソン殿堂の定礎式において、彼は次のようにいっている。
「メーソンであることにおいて良き市民であり、メーソンは自由であり、宗教的でなく、アメリカ人が良き市民となるための誇りである」
政界 |
□政治家、科学者、哲学者。一七〇六〜九〇。一七七八年四月七日パリのナイスシスターズ支部で入会。
□一七七五年の第二次世界大陸会議のメンバーとしてアメリカ独立革命に参加、独立宣言の起草時の署名者としてあまりに有名。イギリスとの和平交渉の代表の一人。
一七三四年フリーメーソンの書物として「アンダーソン憲章」を印刷。これはアメリカで印刷された初めてのフリーメーソンの本である。一七五二年フィラデルフィアにフリーメーソン支部を建設するための委員会で重要な働きをした。メーソンとしてパリのナイスシスターズ支部の議長に選出され二年間つとめている。
司法界 |
□司法長官、最高裁判事。一八九二〜一九五四。ニューヨーク州のモリア支部No.145で入会。入会日は不明。
□ドイツでのニュルンベルグ戦争犯罪裁判でアメリカの検事をつとめた。一九四〇〜四一年合衆国司法長官をつとめ、一九四一年から最高裁判事。一九四五年トルーマン大統領の任命で、ヨーロッパ枢軸国戦犯の国際裁判交渉のアメリカ代表としてソ連、イギリス、フランスを歴訪。合衆国法律団長として、ゲーリングなどナチスの大物たちを起訴した。
フリーメーソンとして一九三〇年一月一日三十二位階を受ける。そしてニューヨーク州のシュライン・テンプルの会員となる(シュラインはフリーメーソンの慈善団体)。
財界 |
□自動車製造業者(フォード)、慈善家。一八六三〜一九四七。一八九四年十一月二十八日ミシガン州デトロイトのパレスタイン支部No.357で入会。
□彼の発明の才能が世界の交通体系を変えた。一九〇三年にフォード自動車会社を設立し世界最大の自動車会社にまでした。
一九三五年三月七日パレスタイン支部の終身会員。一九二八年十一月二十一日シオンNo.1支部の名誉会員。同支部はミシガン州の一番古いロッジで有名。一九四四年九月、三十三位階を受けている。ヘンリーの一人息子はメーソンではなかったが二人の孫はメーソンになっている。
ウォルター・W・ヘッド
□アメリカン・ライフ保険会社創立者、会長。一八七七〜一九五四。ネブラスカ州オマハのセントジョーンズNo.25支部の会員。入会日は不明。
若いころコロラド州の公立学校で教師をしていたが、のちに銀行に勤め出世する。一九三一〜三三年モリス・プラン・コープ・オブ・アメリカ社長、一九二六〜四六年ナショナル・カウンシル、全米ボーイ・スカウト会長をつとめ、のち終身名誉副会長になった。
フリーメーソン歴は三十二位階にまで進んだ。
ウィリアム・S・ニュードスン
□ゼネラル・モーターズ会長。一八七九〜一九四八。デトロイトのパレスタイン支部No.357の会員。入会日は不明。
□デンマーク生まれ。二十歳のとき合衆国へ移民、労働者となる。一九二一年マシューズ&アイルランド社の総支配人、のちシボレー自動車会社社長。一九三三年ゼネラルモーターズにスカウトされ社長、一九三七〜四八年会長となる。
フリーメーソンとしては、一九一四年九月二十八日マスターメーソン(三位階)となり、その後、進級をつづけ、一九四三年九月九日に三十三位階を受ける。
S・クラーク・ベイズ
□世界最大の銀行バンク・オブ・アメリカの会長。一八九八〜?。ミネソタ州ウィンダムのプルーデンス支部No.97の会員。入会日は不明。
□一九二二年ミネソタ大学を卒業、ミネアポリス信託銀行に入社。一九二四年全国銀行調査官。一九三六年バンク・オブ・アメリカに入り、副社長。のちに社長から会長になる。
フリーメーソンとしては、ノースダコタ州ファルゴ、イノックロッジ・オブ・パーフェクションで十四位階を受ける。
軍人 |
□元帥。一八八〇〜一九六四。入会日は不明。
□陸軍中将アーサー・マッカーサー・ジュニアの息子。一九〇三年アメリカ士官学校を卒業し、多くの大学から名誉学位を受けている。一九二〇年陸軍准将。一九三〇年大将。一九四四年陸軍元帥に昇進。
第一次世界大戦前、彼はフィリピン、日本において大統領の側近武官となっている。第一次世界大戦中、第42師団の参謀。一九三〇〜三五年フィリピン政府の軍事顧問となり、フィリピン陸軍の元帥となる。一九四一〜五一年アメリカ陸軍元帥。一九四五年日本降伏とともに連合国最高司令官となり、占領軍を指揮。のちトルーマン大統領に解任された。
フリーメーソンとして名高く、日本にフリーメーソンを持ち込み、日本グランド・ロッジを作る際、陰の働きをした。マニラの支部No.1でマスターとなり、マニラ支部No.1の会員になる。一九四七年東京で三十三位階を受ける。またワシントン州シアトルのニール・シュライン・テンプルの終身会員。
マッカーサーは何度もフリーメーソンを賛美している。その一つ。
「フリーメーソンは至高の道徳法を備え、人類向上のためにかつて作り上げられた倫理または哲学のあらゆる方法の試練を有している……」
宗教界 |
□新教監督派監督。一八六八〜一九四四。一九〇二年二月二十日ニューヨーク州オッツエニンゴ支部No.435で入会。
□コロンビア大学卒業後、牧師補となり、一八九五年新教監督派の牧師、一九一二年監督に選出される。
フリーメーソンとしては一九〇七年にマスターとなり、その後、一九二三年九月十八日に三十三位階を受ける。一九〇七〜〇九年、ニューヨーク本部の大聖職者となった。
サミュエル・シーバリー
□新教監督派監督。一七二九〜九六。入会日は不明。
□イェール大学卒業後、神学校、医学校に進み、一七五三年牧師。一七八四年アメリカで監督になる。メーソンとしては三十一位階まで進んだ。
ティタス・ロウ
□メソジスト派監督。一八七七〜一九五九。入会日は不明。
□イングランドからアメリカへ移住後の一九〇〇年オハイオ州ウエズレーヤン大学を卒業。一九〇〇年メソジストの牧師に任命される。一九二四年監督に選出され、一九二八年までシンガポールに赴任。一九四六年最高メソジスト儀式の監督会議の総裁になった。フリーメーソンとしては、アイオワ州セダーファール支部No.65の会員。オレゴン州ポートランド支部で最高位の三十三位階を受けた。
ポール・マーチン
□メソジスト派監督。一八九七〜?。入会日は不明。
□サザンメソジスト大学およびサウスウエスター大学(テキサス)を卒業。一九一九〜二二年高校校長をつとめ、一九二四年牧師補、その後は牧師として各地教会を転々とした。一九四四年監督。第一次世界大戦に歩兵中尉として参加。
除隊後は世界メソジスト会議のアメリカ支部の議長。フリーメーソンとしては、テキサス州プロッサム支部の会員。No.303支部で進級し、アーカンソー州リトルロックにおいて最高位の三十三位階を受けた。
エノック・M・マービン
□メソジスト派監督。一八二三〜七七。入会日は不明。
□一八四一年メソジスト教会の巡回牧師となり、セントルイス会議およびミズーリ会議でいくつかの重要な任務を果たした。一八六六年南部メソジスト監督派で監督。一八七六年監督団体により選ばれ、日本、中国で布教活動し、現地人による叙階をなした。一八四九年と一八五一年からマービンはミズーリ州の本部で大主催者だった。一八七五年彼はミズーリ州ジェファーソン市の第一メソジスト教会の中での本部柱石会議に出席。その間フリーメーソンの活動をしている。
G・ブロンレイ・オクスナン
□メソジスト派監督、元世界諸教会会議会長。一八九一〜?。一九二九年十一月二十二日インディアナ州テンプル支部No.47で入会。
□一九一三年南カリフォルニア大学卒業。一九一六年メソジスト教会の牧師に任命され、カリフォルニアの教会に勤務した。また一九二八年まで南カリフォルニア大学およびボストン大学神学部の教授、同年インディアナ州のグリーンキャッスルのデポール大学の総長になった。一九三六年監督、各地の教会で活躍。一九四四〜四六年アメリカ連邦諸教会会議の総裁、一九五〇年に開かれたアメリカのキリスト教会全国会議では主催委員の一人だった、一九四八年世界諸教会会議(WCC)の初代アメリカ総裁となり、一九五四年までその職にあった。
一九四五年カンタベリーの幹部監督の推戴式におけるアメリカ教会代表となった。十六冊の著書があり、最近作(一九五四年)は『私は抵抗する』。
フリーメーソンとしても活躍、一九四九年九月二十八日名誉三十三位階を受けた。
ジョージ・W・トルウェイ
□洗礼派世界同盟総裁。一八六七〜一九四四。一九一八年ダラス支部No.760で入会。
□一八九七年バイロール大学を卒業後、テキサス州ダラスで牧師生活を送る。一九二八年まで南部洗礼派会議の議長、のち洗礼派世界同盟総裁。
フリーメーソンとしては、一九二一年四月二十九日ダラスで三十二位階を受けた。一九四〇年テキサスの本部で次のような発言をしている。
「私はごく小さいころメーソンであった父とその仲間の語らいを聞いていた。メーソンの友愛は人間の組織化を維持する最も役に立つ手段であるとの印象を受けたが、その感は入会後もけっして揺らぐことはなかった」
ジョセフ・スミス
□モルモン教の創始者。一八〇五〜四四。入会日は不明。
□天使モロニーが黄金の板に書かれたモルモン教の聖書により宗派を興す。彼を批判する者は、モルモンの聖書のことを、長老派牧師サミュエル・スポールディングによって聖書的な体裁をとって書かれたものという。スミスは後に自宅でモルモン教を創始し、やがて教会は大きくなり、ミズーリ州に移った。しかし、モルモン教が問題を起こしてスミスは逮捕された。やがて許され、イリノイ州コマースに逃げて信徒と合流した。一八四三年スミスが一夫多妻を要求したさい、教会は分裂し、スミスは一八四四年暗殺された。モルモン教はとかく問題視され、スミスの一生はたいへんだった。
スミスはモルモン教にフリーメーソンのシンボルおよび儀式を多くとり入れている。
チャールズ・C・セレクマン
□メソジスト派監督。一八七四〜一九五八。一九二一年二月八日カリフォルニア州のライルシャー支部No.445で入会。
□ミズーリ州の田
舎でメソジスト牧師となり、後年セントルイスに移り教会活動をする。第一次世界大戦中はアメリカ、イギリス、フランスのYMCAで働いた。一九二七年および三七年の信義と秩序に関する世界会議のアメリカ代表、一九四〇年からはメソジスト派の福音伝道委員会の代表だった。
フリーメーソン活動は多彩で、一九五二年テキサスの本部から五十年間の奉仕の賞を受け、同時に最高位階の三十三位階も受けている。
ヒュー・I・エバンス
□アメリカ合衆国長老派教会の議長。一八八七〜一九五八。一九二八年九月十九日ディトンのアーヴィン支部No.647で入会。
□オハイオ州のウースター・アカデミーおよびプリンストン神学校を卒業、オハイオ州のガリポリス、メアリスビルなどで牧師をつとめ、一九五五年布教活動を引退し、ニューヨークの長老派教会本部の管理者となる。一九五〇〜五一年アメリカ長老派教会の一般連絡会の議長となる。
一九四八年オランダにおける諸宗派会議のアメリカ代表となる。
フリーメーソンとしては最高位の三十三位階までのぼりつめる。
ブリガム・ヤング
□モルモン教のリーダー。一八〇一〜七七。入会日は不明。
□モルモン教の創始者ジョセフ・スミスの後継者で首長。一八三一年モルモン教会に入ってから頭角を現わし、ユタ州の初代統治者となる。
モルモン教会幹部の多くの者はメーソンで、その数は五十名にもおよぶ。
学界 |
球界 |
外交官 |
その他 |
□アメリカ労働総同盟初代会長。一八五〇〜一九二四。一九〇四年ワシントンDCのNo.16に入会。
□葉巻タバコの工員だったが、十四歳の時から労働者の権利派だった。後にシガーメーカー国際組合組織結成に力を貸し、一八八一年労働総同盟の創立者の一人となった。おそらく他の誰よりもアメリカ労働界のためにつくし、社会主義、革命的行動とたえまなく戦ったことで有名。
自伝の中で、フリーメーソンだったことでしばしば助けられたとのべている。一九〇六年ワシントンDCと本部で三十二位階を受けた。彼の死後、ワシントンDC支部は彼の名をつけサミュエル・ゴンパーズ支部となった。
カメハメハ四世
□ハワイ国王。一八三四〜六三。一八五七年一月十四日カリフォルニア州のNo.371支部に入会。
□二十歳のとき位をつぎ、フリーメーソンになると、これに熱中し有名なメーソンとして活動した。
ヨーロッパ篇 |
イギリス |
□イングランド王。一八九四〜一九七二。一九三六年一月二十日〜十二月十一日在位。一九一九年五月二十日近衛旅団支部No.1614に入会。
□ジョージ五世とクィーン・メアリーの長男。王位につくまえはプリンス・オブ・ウエールズ、退位後はウィンザー公。エドワード八世は一七六年ぶりの独身王で、非常な人気者だったが、アメリカ人ウォリス・シンプソン夫人と結婚して彼女をクィーンにしたいと申し出るとごうごうたる非難が集中して、彼は退位を余儀なくされた。王位を捨て彼女を選んだのである。
フリーメーソンに入会するや、一九二〇年近衛旅団支部幹部、翌年副支部長となった。一九二二年十月二十五日英国大本部大幹部。一九三六年には英国大本部会長になり、サリイ地区ロイヤル・アーチ・メーソンの大監督(グランド・マスター)もつとめた。スコットランド式大典礼最高会議で名誉三十三位階を受けている。
エドワード・ジェンナー
□種痘の発見者。一七四九〜一八二三。入会日は不明。
□医師で有名な種痘の発見者。外科医として出発、有名な外科医ジョン・ハンターの生徒だった。一七七三年バークレーで開業、そこで乳しぼりの娘が牛痘にかかると天然痘にかからないことを確かめ、種痘を発見する。
フリーメーソンとしては、バークレーのロイヤル・フコイス・アンド・フレンドシップ支部No.270の会長であった。
ポール・スタンフォード・第三代男爵
□陸軍元帥。一八四五〜一九三二。入会日は不明。
□一九〇七〜〇九年の南アフリカ戦争で総司令官をつとめた。一八七四年のアシャンテイ戦争、一八八二年のエジプト戦争、一八九九〜一九〇二年のボーア戦争に従軍し、数々の戦功をあげた。
フリーメーソンとしても熱心だったといわれる。
フローレンス・ナイチンゲール
□有名な従軍看護婦。一八二〇〜一九一〇。入会日は不明。
□イギリスの看護婦、病院改革者、慈善家で「光明をもったレディ」と呼ばれる。一九〇七年女性としてはじめて英国メリット勲章を受けた。
彼女が存命中にメーソンのあるグループが彼女の名を冠し、フロレンス・ナイチンゲール支部No.706をロンドンに結成した。
セシル・J・ローズ
□行政官、財務官、慈善実業家。一八五三〜一九〇二。一八七七年四月十七日アポロ大学支部No.35に入会。
□南アフリカのキンバリーでダイヤモンド鉱山で財をなした。イギリスとオランダの間に固いきずなを作ろうとし、一八八四年ベチュアナランド(ボツワナ)の併合を行った。一八九〇〜九六年にかけてケープ植民地首相、南アフリカ連邦を英国の旗の下におくことをめざした。
フリーメーソンの熱心な信者であり、南アフリカでも支部を拡大した。
フランス |
□第六代大統領。一八四一〜九九。入会日は不明。
□一八八〇年代に商務省と植民地省の閣僚をつとめ、のちにカシミール・ペリエ大統領の下で海軍大臣、ついで一八九五年大統領となり、在職中に死去。一九一七年の国際メーソン会議公報(一九一七)では彼がメーソンだったと記してある。
ジュール・F・C・フェリイ
□首相。一八三二〜九三。入会日は不明。
□フランスの弁護士、政治家で一八八〇〜八一年、一八八三〜八五年の二度、フランス首相をつとめる。首相の地位にある間、アフリカやアジアに植民地獲得を指示。普仏戦争(一八七〇〜七一)中にパリが包囲されると、包囲地区の知事になり、気球で郵便を送り出すという新しいアイデアを考え出して世界初の「航空便」を始めた。
フリーメーソンとしてはアルザス・ロレーヌ支部の会員だった。同支部は一八七二年九月にパリで結成され、フランス大東社の管轄下にあった。
ジョセフ・イグナス・ギロチン
□フランス議会の副議長、ギロチン(処刑台)の発明者。一七三八〜一八一四。入会日は不明。
□フランスの医者で、政治家。処刑に使われるギロチンが彼の発明とされるが、それは死の苦痛を引きのばさないための“人道的”な作品だった。議会副議長として、第三身分(ブルジョアジー)の代表者数を倍増するよう要求した最初の人物である。
フリーメーソンとしては、フランス大東社の創設者の一人で、後に大会長となった。
ラ・ファイエット侯爵
□政治家、軍人。パリ国民軍司令官。一七五七〜一八三四。入会日は不明。
□フルネームはマリ・ジョセフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・ド・モティエ。名家の生まれで、父のあとをつぎ軍人となる。一七七六年に軍務をしりぞき、自身の船でアメリカに渡り、独立戦争で戦った。ワシントンの側近になり、フランスからの財政援助を手伝った。これはラ・ファイエットがフランスのメーソンと策謀したものといわれた。
ナポレオン・ルシアン・シャルル・ミュラー
□皇太子。一八〇三〜七八。入会日は不明。
□フランスの皇太子で、ジョアキム・ミュラー(メーソン)の息子。ナポレオン・ボナパルト(メーソン)は彼の母の兄にあたる。一八二五年アメリカに渡り、父の王位ナポリ王の地位を回復しようと努力した。一八四八年ごろフランスに定住、一八五一年のクーデターののち上院議員となり、皇帝一家の皇太子と正式に認められた。フランス大東社本部の大幹部に任命され、長くメーソンだった。
ドイツ |
ダスタフ・シュトレーゼマン
□政治家。一八七八〜一九二九。一九二三年にフリードリヒ・デリ・グロス支部に入会。
□第一次世界大戦中の一九二三年〜二九年に外務大臣。戦後ドイツの宥和政策を推進し、フランスとロカルノ相互条約を交渉し、ドイツが他の大国と同等の地位で国際連盟に加入できるよう尽力した。一九二九年ドーズ案(第一次大戦後のドイツ賠償案)の受け入れを提唱し、一九二九年ヤング案(ドーズ案の改定案)を受け入れるよう提案した。一九二六年ノーベル平和賞を受けた。
フリーメーソンになる二十年前に「メーソンのやり方と人間性の確立」と題した文を書いている。入会後はズーデン・ヴェルトクルゲン支部の名誉会員だった。ドイツのフリーメーソンを統合しようとしたが、逆に九つの支部に分割された。現在、ドイツのフリーメーソンはドイツ統一大本部に統合されている。彼の夢が実ったのである。
フリードリヒ二世
□プロイセン王。一七一二〜八六。一七三八年八月十五日ブルンスウィックの特別支部で入会。
□「大王」として知られる。一七四〇〜八六年の間プロイセン王。フリードリヒ・ウィルヘルム一世の息子。一七三二年から文芸および社会研究にいそしみ、一七四〇年王位についた。その直後にシレジアをめぐってマリア・テレサと戦争を始めている。一七六五年英国と同盟するや七年戦争が始まり、この戦争で、彼は恐しい敵をものともせぬ軍事の才能を大いに発揮。この戦争後、プロイセンは強国として大躍進した。一七七二年の第一次ポーランド分割にはロシアに加担した。文学のパトロンとしてヴォルテールを愛し、自分の宮廷に住まわせた。国家経済のすぐれた管理者で、農業や工業の改善を促進し、さまざまな社会改革を行った。プロイセン陸軍の改良にも特別の関心を示した。またアメリカ革命に関心をもち、ワシントンの崇拝者だった。著作は多く、全集は三十巻を数える。
彼の近親者の多くはフリーメーソンだった。ドイツ全国大本部を庇護し、同本部と英国大本部との条約を公式に承認した。彼の息子三世もまたメーソンである。
ヴィルヘルム一世
□ドイ
ツ帝国初代皇帝。一七九七〜一八八八。一八四〇年五月二十二日ベルリンのグロッセ・ランデスログの特別支部で入会。
□一八七一年一月十八日ヴェルサイユでドイツ皇帝を宣言。ビスマルクに助けられ、ドイツにおけるプロイセンの強化につとめた。
フリーメーソンとしては、スコットランド大支部の名誉会員だったが、残りの八支部の保護にもつとめた。
その他 |
□神聖ローマ帝国皇帝。一七〇八〜六五。一七三一年ハーグの特別支部で入会。
□フランスのナンシー生まれ。ロレーヌ公ことレオポルト・ジョセフ・シャルルの次男。父からロレーヌ公爵領をひきつぎ、一七三七年それをポーランド王のレブジンスキーに譲る。一七三六年オーストリアのマリア・テレザと結婚し、オーストリアの摂政をつとめた。一時妻のマリア・テレサはフリーメーソン禁止令を出している。一七四五年皇帝に選ばれた。二人の間の娘が悲運のマリー・アントワネットである。
フリーメーソンとしては、一七三一年ハーグの特別支部で最初の二階級を受け、同年英国ノーフォークのホートン・ホールで行われた臨時支部会で、大会長ローヴェル卿により、昇進した。フリーメーソンとして、オーストリアにおけるフリーメーソン禁止の教皇クレメント大勅書の公布を拒否。皇帝在位中はできるかぎりフリーメーソンを保護し、亡くなった時はフリーメーソンの大会長だった。
ジョナス・フーラ
□スイス連邦初代大統領。一八〇五〜六一。入会日は不明。
□スイスの法律家、政治家。一八三四〜四六年大評議会の議員をつとめ、やがてスイスの大統領となる。スイスのフリーメーソンのアルピーナ大本部の創設者。
グスタフ三世
□スウェーデン王。一七四六〜九二。一七八〇年に入会。
□父アドルファス・フリードリヒ(メーソン)の後をつぎ、一七七一年王位についたが、当時は王権が弱く、派閥争いがはげしかった。一七七二年に議会の一団を逮捕して権力を回復、一七八八年にはロシアに対し戦争をしかけた。一七八九年より権力を拡大しようとしたが、貴族たちの陰謀で暗殺される。
フリーメーソンに関心をもっていたため、ライト・オブ・ストリクト・オブザーバンスの第九支部がスウェーデンに設立され、入会した。弟のスデルマニア公爵を一七八〇年に大幹部に指名。彼の暗殺後もスウェーデンではフリーメーソンは王族により保護されている。ダスタフ四世、シャルル十三世もフリーメーソン員である。
ホーコン七世
□ノルウェー国王。一八七二〜一九五七。入会日は不明。
□デンマーク王のフレデリック八世(メーソン)の次男。一八九六年イギリスのエドワード七世の娘モードと結婚。一九〇五年ノルウェーがスウェーデンから分離したとき国王に選ばれた。一九四〇年ナチスがノルウェーに進攻したときイギリスに逃れ、一九四五年帰国。
父の手でフリーメーソンに入会。兄弟二人のデンマークのクリスチャン十世国王、デンマークのハラルド皇太子も同じようにメーソンだった。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
□オーストリアの作曲家。一七三二〜一八〇九。一七八四年に入会。
□古典派音楽の確立者で、交響曲と四重奏曲の最初の大家として有名。幼少より、その美声を認められ、一七四〇〜四九年ウィーンのシュテファン教会の少年聖歌隊で歌う。一七六〇〜九〇年にかけて、ハンガリーのエステルハージ侯の楽長として管弦楽団を指揮し、オペラ、ミサ曲、ピアノソナタ、交響曲などを作曲した。彼はモーツァルト(有名なメーソン)と一七八一年以来長年親交を保った。モーツァルトの影響を強く受けた。
フリーメーソンに入ったが、これもメーソン員のモーツァルトのすすめだったという。ウィーンの支部にモーツァルトと一緒に出席している。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
□オーストリアの作曲家。一七五六〜九一。一七八四年十二月十四日ウィーンの小さな支部「恩恵」で入会。
□幼時より天才少年としてオーストリア・フランス・イギリスの宮廷で演奏。一七六九年ザルツブルクの大司教宮廷楽団員となり、のちに宮廷音楽家になる。一七八一年からウィーンに定住、演奏家・作曲家として多忙な活動を続けたが、一方では貧困に悩まされていた。
音楽学者のアルフレッド・アインシュタインによれば、フリーメーソンの儀式の秘儀を明らかにしたとされるオペラ『魔笛』だけではなく、モーツァルトの作品すべてがメーソン的特徴をもっているという。『魔笛』が原因で毒殺されたとの説があるが、定かではない。
パーヴェル一世
□ロシア皇帝。一七五四〜一八〇一。入会日は不明。
□皇帝ピョートル三世とエカテリーナ妃(のち大帝)の息子として生まれた。エカテリーナ大帝の後をつぎ、独裁的支配を行い、農奴制の改革にも着手した。彼の息子アレクサンドル一世(メーソン)が王位をついだのちの一八〇一年三月十二日暗殺された。
フリーメーソンといわれ、はじめフリーメーソンを保護した。しかし、後期になると、イエズス会の影響でマルタ騎士団の方を保護するようになった。その結果、ロシアのフリーメーソンは衰退した。
その他の諸国篇 |
中南米 |
□メキシコ大統領。一七九〇〜一八五四。
□一八一〇年の第一革命に参加。皇帝イトゥルビデの熱心な支持者で、一八二二年には摂政となる。のちクーデターをくわだて、一八四二〜四三年および四六年大統領になった。彼はメキシコのスコティッシュ・ライトのグランド・マスターであった。
ホセ・グレオリオ・モナガス
□ヴェネズエラ大統領。一七九五〜一八五八。入会日は不明。
□兄のホセ・タデオ・モナガス(メーソン)のあとをつぎ一八五一年大統領に就任。一八五四年に奴隷制を廃止する。モナガス家はヴェネズエラの事実上の独裁者だった。
フリーメーソンについては、ホセ・グレオリオは三十三位階のメーソンで、ヴェネズエラ最高評議会のグランド・コマンダノ(大司令者)であった。兄のタデオの息子のホセ・ルペルト・モナガス(メーソン)も大統領になった。
トーマス・エストラダ・パルマ
□キューバの初代大統領。一八三五〜一九〇八。一八六八年キューバのバヤモ支部に入会。
□キューバの愛国者で有名。一八六八年十月十日の独立宣言後の戦争に参加。自らの主義を示すため、自分の奴隷を解放した。一九〇二年に蜂起が起こるや帰国し、戦いに勝利し、初代大統領になったが、事実上アメリカの“植民地”であった。
フリーメーソンとしては、一八六八年キューバのメーソンになった。
ジェラルド・マチャド・イ・モラレス
□キューバの第五代大統領。一八七一〜一九三九。入会日は不明。
□一八九五〜九八年、スペインに対する革命に参加、大統領になるが、一九三三年に人民蜂起のため追放され、アメリカに逃れた。
フリーメーソンとしては、アメリカのフロリダ州マイアミのマヒ・シュライン・テンプルのメンバーで、最高位の三十三位階である。
日本 |
□首相。一八八三〜一九五九。一九五五年日本ロッジで入会。
□東京帝国大学を卒業後、弁護士活動。一九一五年以降、衆議院議員を長年つとめ、一九三二〜三四年文部大臣。敗戦後、自由民主党初代総裁となり、一九五四年総理大臣。
首相在任中にマスターメーソンになる。このことは広く日本の新聞に載っている。フリーメーソンは戦前まで日本人の参加を禁止していたので百八十度の転換だった。入会式はフィリピンと日本グランド・ロッジとの合同で行われた。祝福のメッセージはトルーマン大統領、マッカーサー元帥からのものもあった。
林董伯爵
□外交官、政治家。一八五〇〜一九一三。入会日は不明だがロンドンの帝国No.2108支部でフリーメーソンとなる。
□一八六六年イギリスに留学、一八九九〜一九〇六年駐英公使となる。
フリーメーソンを知るために伊藤博文に命じられて入会、内情をさぐる。その結果、フリーメーソンは危険な団体とされた。日英同盟の立役者でもある。
その他 |
□カナダの首相。一八九五年〜? 入会日は不明。
□法曹界から一九二五年以後政治に乗り出し、一九四五〜五七年下院議員となる。一九四五年サンフランシスコでの国連結成に参加。一九五七年より首相。メーソンでシュライナー、一九五八年九月十日オンタリオ州ウィンザーで三十三位階を授けられた。