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(回答先: 凶行の計画を練る段階では普通人の考え方は適用できないと思います。 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 1 月 11 日 16:27:45)
>ダイナモさん どうもです。
人は、誰もみんな、緻密な完全犯罪を計画する訳ではありません。
探偵小説に出てくるような計画性は、現実の社会では滅多になく、後で考えれば、恐ろしく杜撰な計画としか思われないような犯罪の比率の方が圧倒的に高いでしょう。
>【凶行の計画を練る段階では普通人の考え方は適用できないと思います。】
そんなことはないとKは思いますよ、確かに異常心理状況でしょうが、それは、その人の「常識観の亡失」を意味するわけでもないでしょう。
例えば、計画中には視野狭窄に陥っていたとして、途中で計画の杜撰なことに気が付き、もう少しで「死刑への道を歩むところだった。」と考えて、計画を断念することもあるでしょう。
完全犯罪マニアの「遊び」ではなく、死刑の量刑が予測されるのなら、それなりの凶悪犯罪であることが予想され、失敗して発覚すれば「死刑という量刑が待っている」ことを犯行実行者も分かっているのですよね?
この前提条件が成立するなら、犯人が、「一般的な価値観を有しているなら(=死を特別視しているのなら)」、さらに職業的殺人者でもない限りは、犯行実行までの間には、当然ながら、葛藤があるでしょう。
葛藤の種類は、様々でしょうが、「死刑になるのは嫌だな」という思いは「浮かばない」と主張されるのは、全ての理性がなくなっているか、死というものへの概念が特別な人でなければ考えられません。
現実問題として、その人の常識的思考が全て喪失しているという計画的殺人事件など、ほとんどないでしょうし、死刑の判決の結果に至る段階で「犯行時の判断能力」は重要な判断材料ともされているでしょう。
この「判断能力」を問う時に、あまりに常識外の事を証言したりすれば「精神鑑定の末に無罪」という判決にもなるのです。
>【犯行の計画を練る段階に入って、途中で計画をあきらめる人がいた場合、その理由が死刑になるのが怖くて計画をあきらめた人はまずいないと断言できます。】
上記の場合の思考過程では、死刑が予測される凶悪犯罪を計画しているのですから、当然ながら、犯行者は、失敗した時のリスクを考慮し、そのリスクは「死刑」の可能性もあると認識していると推理されますが、この【断言】ができるとしたら、計画した段階からあきらめる人は絶対なく、全ての犯行は「計画した段階で、実行が決定されている」ということになってしまうのでしょうが、この【断言】は論証責任を果たせるのですか?
無論、大まかには「発覚リスク」という集約されるのでしょうが、その中には予測量刑も含まれ、仮に、この意見が正当だとすれば、万引きには死刑であっても、万引きしようと思った状況からは引き返せず、万引きは実行されるということになり、ダイナモさんの前のレスと矛盾してしまうのではないですか?
要は、犯行実行者が「死刑は嫌だな」と思っているのなら、抑止力はあるのです。
抑止力が効かないのは「犯人が死刑でもいいや」と思っている場合と、死刑という概念を亡失している状況下、さらには、死刑という概念を思い出した時には「手遅れの状況」になっていた時でしょう。
死刑廃止論全体ならともかく、死刑の抑止力だけなら、議論するほどの事ではないと思いますよ。