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(回答先: 人は人を殺すことを忌避するようにできているのです。 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 1 月 12 日 00:40:28)
>ダイナモさん どうもです。
元来、人間性善説の立場であるKですから、あまりのことは書きたくないのですが、ダイナモさんが強弁モードに踏み込みつつあるという気がしますので、書いておきますが、人間はたやすく人を殺せる生物です。
無論、意味もなく殺すと言うことではありませんが、それは、殺すには、それに伴うリスクも発生することを知っているからでもあります。
最近は、家族の殺し合いのようなニュースも増えていますが、以前から、「遊ぶ金ほしさのための殺人」などは度々報道されていました。
人間には「欲望」があり、それを満たすためなら、たやすく殺人をも行うのは、歴史が物語っています。
普段、それが行われないのは、「発生リスクとの兼ね合い」と「理性」であり、理性というのは、多分に教育によってすり込まれた「価値観」です。
ベンガルでは「背中に目を付ける」ことで、虎に襲われるのを防ぐ手段があるそうです。
殺そうと思っても、逆に逆襲をされて負ける可能性もあることが、リスクです。
負けないまでも、怪我をすれば、後の行動の支障になる。
背中に目を付けることで、虎に、不意打ちではないよと思わせることで、リスクを感じさせるという手段です。
人間界では、殺人行為は「誰でもリスクを知っている」から、滅多には殺人は発生しませんが、それは、主たる要因が忌避ではありません。
もちろん、忌避という意味合いもゼロとは言いません。
しかし、忌避という意味合いは「神からの罰」というリスクの発生も考えての忌避でしょう。
前レスで、Kが正義感と表現したのは、必ずしも妥当とは言えませんが、人間には倫理観というのは存在します。
まあ、簡単に言えば、良い人は死後「天国に行ける」、悪い人は「地獄に堕ちる」というのが、正義感とか倫理観の根源にはあります。
極端に言えば、賞罰の刷り込み知識が、人間の行動の根幹部にあると言うことです。
ですから、少し、倫理観の欠如している人に、一人1万円の報奨金を出し、罰は一切与えないと政府が公認したうえで人口削減実行者を慕集でもすれば、結構乗ってくる人はいるかもしれません。
多くの人が、許されるなら、人殺しという経験をしてみたいと考えているかもしれません。
恨みとか、そういう意味のある行動としてではなく、経験としての「体験」として。
少なくとも、リスクの発生のない「ゲームの世界」では、残酷性を発露させるような体験ゲームはそれなりに人気がある。
K自身はスプラッターは悪寒を覚えるが、スプラッタームービーも人気があるようだ。
自分自身だけの体験や価値観だけで、世の中を分かったような気になるのは間違いの元であるが、普段、殺人が行われないのは「忌避」よりも「リスク回避」の方がより妥当な表現でしょう。意識しての行動か?無意識下の行動かは別にしてですが
人間、理性が吹き飛べば、勝てない相手に殴りかかることもある。
これは、発作的な凶悪犯罪の死刑囚の行動と同一性のある行動でしょう。
しかし、普段は、勝てない相手に殴りかかったりはしない。
殴りかかりたいとの原因となる不利益があっても、勝てないことをしているから、負けるリスクは回避する。
これは、暴力がいけないという「倫理観とか正義感」ということが主たる要因ではなく、大きなウェイトとして、闘っても勝てる見込みがないというリスクの発生予測という要因が占めると推理されます。
つまり、誰でも、損得勘定は行うのであり、その損が「自分の生命(=死刑)」ということなら、大きな抑止力となるのが当然だと思いますよ。