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(回答先: 宮本元議長死去:カリスマ性維持した最後の政治家(毎日新聞) 投稿者 熊野孤道 日時 2007 年 7 月 19 日 18:59:30)
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/seitou/news/20070719k0000m010107000c.html
宮本元議長死去:戦後の共産主義運動発展にリーダーシップ
共産党の宮本顕治元議長は、戦後の共産主義運動を発展させたまれなカリスマ・リーダーだった。日本という先進資本主義国の中で国会での多数派を目指し、政権の座は遠かったものの国会では常に議席を保持してきた。
宮本氏は戦後、徳田球一氏らとの路線闘争を繰り広げた。その後、58年には書記長に就任。さらに70年の党大会で、野坂参三議長を幹部会委員から外し自らは新設した委員長に就いた。また「秘蔵っ子」の不破哲三氏を書記局長に起用した。82年には不破氏を委員長に昇格させ自分は議長となった。
90年、現在委員長の志位和夫氏を35歳で書記局長に抜てきするなど、現在の共産党体制の基礎を築いた。
若手抜てきなど人事面でも見られる宮本氏の指導性は、内部批判もほとんど見られない盤石な体制作りにつながった。それゆえに閉鎖性や官僚臭・エリート臭などを指摘されることにもなった。
ただ晩年は志位委員長の下での柔軟路線が定着し、党運営や路線への直接的な影響力は薄れていた。
対外的には「剛」、国内的には「柔」という側面もあった。
スターリンを厳しく批判。ソ連・東欧の共産主義政権崩壊の際は「ソ連型社会主義の敗北で日本共産党は違う」と強調、党員の動揺を抑えた。
国内的には民主主義に対立する「プロレタリアート独裁」の用語を党綱領から削除、「マルクス・レーニン主義」も「科学的社会主義」に置き換えた。
党勢拡大と議会での議席増を目指す「平和革命路線」をとり、国政選挙では原則として全選挙区に候補者を擁立した。自らも77年に参院選挙に全国区から出馬し初当選を果たしている。党勢は拡大し79年衆院選では41議席を獲得した。
厳しく論理を追求するリーダーだったが、現実政治では柔軟性を発揮する局面もあった。
特に60年代から70年代には社会党との共闘で東京、大阪、京都などで次々に革新自治体を誕生させた。さらに74年には公明党の支持母体である創価学会と敵対関係をとらず友好関係に入ることで合意した「創共協定」を結んだ。
志位氏は記者団に「原則を貫く中で大変、柔軟な人。こちらもいろいろ率直な意見、アイデアをぶつけ、それをうーんと聞きながらまとめ上げていく力はすごいと思った」と宮本氏について語った。
宮本氏の鋭敏な経営感覚を指摘する声もある。同氏は同党の宣伝媒体でもある機関紙「赤旗」の部数拡大路線をとり、同紙は党の大きな収入源となった。政党助成金を受け取らない同党の財政基盤を固めたとも言えよう。
毎日新聞 2007年7月18日 20時53分 (最終更新時間 7月18日 23時52分)
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