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(回答先: 【産経抄】(07/19 05:14)(産経新聞) 投稿者 熊野孤道 日時 2007 年 7 月 19 日 19:44:06)
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2007071902033688.html
【社説】
宮本氏死去 激動の党史を生きた
2007年7月19日
戦前・戦後の共産党を育て、率いてきた宮本顕治氏が亡くなった。東西冷戦の終結などのあおりを受けて、党勢は長い間の低迷を続ける中、激動の時代だった昭和史の生き証人がまた一人消えた。
共産党の一番いい時代をつくった指導者といっていいだろう。
宮本氏が政治の表舞台から姿を消して久しい。不破哲三元議長から志位和夫委員長へと指導体制は世代交代している。
党規約から「前衛党」「社会主義革命」の文字を消し、綱領も改定し「資本主義の枠内での民主的改革」を目指す柔軟路線に変えた。
宮本氏の死去が現路線に影響を与えることはないが、長い間の共産党の顔だったのは間違いない。
「戦前・戦後の三分の二世紀にわたる長い期間、党指導の先頭に立っての活動であり、党とその事業への貢献は大変大きなものがある」
一九九七年九月の党大会で宮本氏が名誉議長に就任、事実上引退した時、党は最大限の賛辞を贈った。
五八年に書記長になって以来、委員長、議長を歴任し、四十年近く最高指導者であり続けた。
この間、旧ソ連、中国の両共産党からの「自主独立路線」を確立する。さらには、「プロレタリア独裁」から「科学的社会主義」へ、極左主義から議会重視の平和革命路線への切り替えを図り、自らも七七年から十二年間、参議院議員を務めた。
これに伴い、「すべての民主党派、無党派も団結を」と呼び掛け、五八年当時三万人だった党員は四十万人近くに増えた。振り返れば、このころが党の最盛期だった。
こうした現実・柔軟路線への大転換を可能にしたのは、宮本氏のカリスマ性だ。三一年に東京大学を卒業した直後、共産党に入党、三三年に「スパイ査問事件」で特高警察に逮捕されたが、終戦までの十二年間転向を拒否した。「不屈の闘士」という経歴が、戦後の党内の激しい主導権争いを勝ち抜く原動力になった。
いま、共産党にかつての勢いはない。一時は衆院で三十議席を超えたが、現有議席は九にとどまっている。冷戦終結、小政党に不利な小選挙区制の導入が大きく響いているのだろう。
それに「真の革新」「唯一の革新」を掲げながらも、自民党政権に対する国民の不信の受け皿になっていない。イデオロギー偏重、組織の閉鎖性、党は過ちを犯さないという無謬(むびゅう)性、いまだに残る党の体質への国民の厳しい目も原因だろう。
時代を見据えて広範な国民の要請に応える転換を図れるか。宮本氏の死はあらためて問うている。
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