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(回答先: 宮本元議長死去:戦後の共産主義運動発展にリーダーシップ(毎日新聞) 投稿者 熊野孤道 日時 2007 年 7 月 19 日 19:03:30)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070718ig91.htm
宮本元議長 共産党を支えたカリスマの死(7月19日付・読売社説)
共産党の宮本顕治・元中央委議長が死去した。98歳。1997年に議長を辞任するまで、40年近くにわたり、党の最高指導者として君臨していた。
宮本氏は、東京大学在学中の29年、雑誌「改造」の懸賞論文で第1席を獲得、さっそうと文壇に登場した。第2席が、後に日本を代表する評論家となった小林秀雄だった。
31年入党、33年には中央委員として最高指導部入りした。しかし、同年末には逮捕され、いわゆるスパイ査問死事件などで、無期懲役の判決を受けた。
戦後、釈放されて、党中枢での活動を再開、58年に書記長となり、以来、民主集中制というマルクス・レーニン主義政党特有の鉄の規律の下に、最高指導者の地位を維持した。
「宮本共産党」には、この間、60年代末から70年代初めにかけて、大きな路線転換があった。
68年には、まだ、「プロレタリアート独裁」の堅持を強調、言論・出版・集会・結社の自由などを「ブルジョア民主主義」と攻撃していた。複数政党制を容認する、と言い始めたのは、69年ごろからである。やがて、プロレタリアート独裁の用語も廃止した。
しかし、党勢は一進一退のまま、90年代初めには、東欧・ソ連社会主義体制の崩壊に伴い、「科学的社会主義」なるものの“威信”が世界規模で失われる苦境に陥った。
ソ連共産党の解体に際し、「もろ手を挙げて歓迎」と言って見せた宮本氏も、実は、社会主義ソ連の末路を目撃したくはなかったのではないだろうか。
宮本氏が党綱領の基本を策定した当時、「ソ連を先頭とする社会主義陣営」は、「レーニンの精神を創造的に適用したものとして、大きな普遍的意義を持っている」はずだったのだから。
60年代からソ連との関係がギクシャクし始めたとはいえ、80年代半ばまではソ連の指導者を「同志」と呼んだり、「レーニンに次ぐ平和の戦士」とたたえたりしていた。
そのソ連を、宮本氏が「歴史的巨悪」と位置づけることになったのは、歴史の皮肉と言うほかない。
ただ、こうした世界史的な激変にもかかわらず、日本の共産党が統一を維持できたのは、宮本氏のカリスマ性があってこそ、との見方も少なくない。
共産党はその後、党規約から「前衛」という言葉を削除するなど、さらなる転換を図り、綱領も改定した。
しかし、党勢は、低迷から脱しきれず、後継指導部の苦闘が続いている。
(2007年7月19日1時37分 読売新聞)
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