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(回答先: 共産党の前名誉議長・宮本氏死去 自主独立路線を確立(東京新聞) 投稿者 天木ファン 日時 2007 年 7 月 18 日 16:10:50)
1979年の衆院選で議席を大幅に増やし、笑顔で記者会見する宮本顕治委員長(当時・右端)。その左から、野坂参三議長、不破哲三書記局長、松本善明国対委員長=共産党党本部で
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/seitou/news/20070719k0000m010085000c.html
宮本元議長死去:カリスマ性維持した最後の政治家
「ミヤケン」の愛称は、私たちにとって、独特の響きがあった。
反体制の不屈の闘士として、また戦前、戦中、戦後を通して、日本の政治史の中で独自の地位を占めてきた日本共産党のシンボル的存在だった。
そして何よりも、カリスマ性を維持した最後の政治家だった。
一方で、融通の利かない、金太郎アメのような党の独善性や論理性の代表とみなされ、共産党の党勢拡大の障害にもなってきた。
「逆風に耐えよ」「ざんごうにこもれ」がミヤケンの口癖だった。安易な党勢拡大路線や国会対策などでの妥協を許さなかった。
国際共産主義運動の中で、独自路線を貫くことでソ連、中国、北朝鮮と、しばしば決定的な対立に陥ったが、自説を曲げることはなかった。
ソ連が崩壊した瞬間、ミヤケンが「当然だ。間違った社会主義の結末だ。ただ、『共産主義の失敗』と宣伝される。迷惑な話だ」と、アッサリ切って捨てたのには驚かされた。
カリスマ的存在であり続けたのは、そうした組織の論理だけではなかった。
私の知る限り、人情の機微に通じ、人心掌握術も抜群だったように思う。
取材する担当記者の性格や、その社の置かれた立場や特性を、実によく知っていた。
後に破棄されることになった創価学会との「共創協定」がらみで、共産党は「社会主義政党であっても宗教、信教の自由を保障する」といういわゆる「宗教テーゼ」づくりを進めていた。
私はその中身をスクープしたくて、夜討ち朝駆けの取材を続けたがガードは堅かった。
ある日、ミヤケンの京都行きの“隠密行動”の日程をつかんだ。チャンスとばかりに、ミヤケンが乗っているはずの新幹線に飛び乗ったがミヤケンの姿はなかった。
ガッカリしながら京都駅に着くと、何とミヤケンが駅長室で待っていた。翌朝、宿舎のホテルでテーゼの概要を聞くことができた。
私の取材意図や日ごろの行動を十分に承知した上での“演出”だった。
同時に、戦前のスパイ・リンチ事件の疑惑を引きずり、かつての同志以上の仲だった野坂参三・元議長、袴田里見・元副委員長らを「党への裏切り」としてバッサリ切った。
この党につきまとう“暗さ”の体現者ともなっていた。
病床にあっても「しんぶん赤旗」のゲラに目を通している、という情報も遠い日になった。最近は、党関係者の誰からも「没交渉です。影響力は皆無に近いでしょう」と聞かされ、一抹の寂しさを感じていた。
それでも「ミヤケン」は、多くの人の心に独特の位置を占め、戦後日本政治史に不滅の足跡を残したことを否定する人はいないだろう。合掌。【特別編集委員・岸井成格】
毎日新聞 2007年7月18日 20時16分 (最終更新時間 7月19日 2時31分)
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