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「ひのきみ運動」というのがある。
多分、本来は「反日の君」なのではないかと思うが、簡単に言えば「君が代・日の丸反対運動」と言うことである。
http://vpress.la.coocan.jp/kimi.html
を見ると「君が代不起立」という映画も作られ上映会も行われている。
DVD・ビデオも6000円(上映権付きは30000円)で販売しているようなので興味ある方はご覧になると良いだろうと思う。
あまり報道されていない気がするが
今年は「史上最多の171名が結集して「君が代訴訟原告団」を結成して、2月9日に訴訟を起こすようである。
http://www.labornetjp.org/news/2006/1167011710503staff01/
が、その原告団声明である。
これを読むと先の「9月21日の東京地裁判決(通称、9.21難波判決)は完全に無視状態」のようである。
良い悪いは別にして、これが「現実」なのだろうと思う。
オルタナティブ@政治経済の【【強制】日の丸・君が代【反対】その2】
http://yy31.kakiko.com/test/read.cgi/x51pace/1167462861/
を読むと、色々と考えさせられる意見が書いてある。
Kは最近の日本は住み難くなっていると思う。
これは「人権保護」と「個人の自由」が無制限に尊重されてしまったからだろうと思う。
社会と言う集団の中で暮らすならば「一定の社会貢献の義務がある」と言う部分が、「自由」という意見に押し込まれてしまっているのだろうと思う。
Kは「確かに自由はあるだろうが、そこまでの自由を求めるなら、その社会集団から出るしかない」と思う。
「集団にいる利便性といったプラスの部分は甘受しながら、自分は集団のやり方には従わない」というのは「自由の主張」ではなく「単なるワガママ」なのかもしれない。
「ワガママ」ではなく、集団が誤まった道に進まぬように「精一杯の主張をしているのだ」と言う意見はあるだろうと思う。
しかし、イデオロギーとか個人の思想・主義などによる「意見」は、基本的には「その人の個人の価値観」だろうと思う。
なぜ、「基本的には」と付けるのか?と言えば「行動と予測される結果」の間の因果関係が多くの人の理解される説得力を持つレベルで「論証される」ならば、「それは、個人の思い込みではなく、集団に対する建設的な提言」である可能性もあるからである。
仮に、最初は「その行動を評価しない人」が多数であっても、キチンとした「論証ができれば、その意見は受け入れられていく」はずであり、その意見は「個人の価値観を押し付けるワガママではなく、立派な提言である」と言う事になる。
逆に言えば「時間の経過があっても、一定の価値観(イデオロギー)を有する人の間にしか広がれない」のならば「その主張は、多数の人が納得できる説得力のない意見だ」と言う事である。
ひのきみ運動は「反戦のための運動」だそうである。
多分であるが「君が代斉唱拒否」が「日本の戦争への道を塞ぐ」というのは、一般の人は納得しないだろうと思う。飛躍しすぎた三段論法である。
「小さな一歩が、大きなウネリとなり、戦争への道を開く」と言う意見もあるだろうが、その抵抗そのものが「効果があるのか?」すらも論証の妥当性に掛かっているのである。
運動の理論によると、左派2割、中間派6割、右派2割と言われている。運動と言うのは基本的には「中間派の6割を引き込むための綱引き」という考え方である。
ひのきみ運動は「左派の団結を確認する運動だろうとKは思う。」
団結力を確認できる運動だけならば意味もあるだろう。しかし、同時に右派を刺激する運動でもあるのである。
その中で「今現在の右派が有利の社会においては、弾圧・処分を生み(被害者が出る)上に法規制を作られる」という不利益をもたらしている。
一般市民の協力者の増加よりも多い比率で「ワガママな運動(=勤務時間内の自由権の行使)」という反発的な意識も生み出していくような気がする。
「天皇制度」という部分は「非常に微妙な部分であり、今、廃止を唱えても、多数派形成は出来ないだろうと思う」
「国家としての日本国を嫌おう!」と主張しても、日本の中で反日的な主張をしても孤立化するだけだろう。
「愛国心」は強制されるべきものではないだろうが、日本人なら多くの人が「それなりの愛国心」を持っているのだろうから、この部分で闘争しても負けは見えている。
三国志の時代の蜀の最後の名将、姜維は「剣門関」を守っていたが、魏軍は「剣門関」を迂回して「成都を落としてしまった。」
http://www.arachina.com/attrations/sanguo/yizhi/jmg.htm
効果が疑問視されるような地点で、意味があるかも分からないような「闘争」を続けている間に「本丸(=憲法改正)」でも落とされてしまったら、何のための「闘争」なのかも分からなくなるだろう。
非常勤雇用の掛け持ちでやっと生活しているワーキングプアと呼ばれる人や、長時間過密労働のサービス残業を強いられて「メンタルを病んでいる人」や「過労死・過労自殺」をした人に比べて、「就職時に当然予想される、卒業式の歌を歌わない自由権の訴え」が、いかなる気持ちを生み出すのか?
そのような事も考慮する必要があるのだろうと思う。
多くの人は「随分良い身分の人が、自分勝手な自由を求めていて、平和、この上ない事だ」という感覚を持つだろう。
「2ちゃんねる」の意見は無責任な「感情表現が多い」、しかし、それだけに本音の部分も多いのである。そのような事も考えて判断材料に組み入れるべきだろう。
基本的には「イデオロギー」に根ざした運動は「イデオロギーの外から見れば、単なるワガママ・自分勝手」と思われるだろう。
そのような運動を繰り返すなら「自分の価値観を押し付ける行為」との嫌悪感を抱かせてしまい、結果的には「庶民から見捨てられる」のだろうと思う。
「内心の自由は憲法で保障されている」としても「その行動を見て、個人の抱く感情だって自由」なのである。
社会の中で暮らすのならば「社会が見る目」と言う部分を無視して「自分の自由だけを主張する」のは「ワガママ」という部分もあるのだろうと思う。