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(回答先: 改憲反対を主張しながら自民党の改憲案を地で行く主張を展開するK氏。 投稿者 heart 日時 2007 年 1 月 07 日 21:35:43)
>heartさん どうもです。
読めと言うので読めば、結局は「自分の価値観の押し付け」しか書いてありませんね。
Kへの罵倒などはいくら行ってもかまいませんが
「自分の価値観を他人に押し付ける限り」はやっている事が「小泉純一郎氏と同じ」です。
左派は「自由を尊重する?」
中国天安門事件を代表する一連の歴史は「社会・共産圏の人の方が自由がない」と言う事を物語ります。今の所、日本では「思想によって逮捕はされませんが、共産圏では、思想によって逮捕され、場合によっては処刑されてしまいます。」
これは「第三者的な価値観」を持つ事ができない事で起こる排除理論です。
左派・右派に関係なく「社会と言うのは、他人との共同で作り上げていく共有空間」です。
その中には「当然ながら、自分とは違う価値観も存在する」でしょう。
その時に「相手の価値観を否定する事しかできない」から、少数意見は何処まで行っても少数意見で終わってしまうのです。
「少数意見に価値が無い」と決まっているのではありません。
ガリレロの例に見るように「少数の人にしか見えていない、正解が見えている」という少数意見であるならば、少数意見であっても「それは、いずれ多数派になって行く」のでしょう。
「勤務時間中」の自由に一定の制限がされるのは「社会を維持するには仕方がありません」
「勤務時間」と言うのは「対価報酬を得るために、一定の契約に基づいている拘束された時間」です「この部分が無視されたら、契約も何も成り立ちません」
ここを強弁で切り抜ける事しか出来ないから「処分される」のです。
社会と言うものを「否定する」のなら、社会から離れて自由を謳歌して下さい。世捨て人になれば良い。
社会を「自分の価値観を基準に変えようとするなら、これが独裁者の考え方であり、排除論者の考え方」でしょう。特徴としては「自分と違う価値感の人に、不当なレッテルを貼る」とか「自分の考えを絶対に正しいとの強弁を繰り返す。しかし、視点は固定化している。」と言うような症状になります。
「個人の自由」と「社会の中での義務」のバランス感覚はかなり重要です。
「個人の自由」に振りすぎれば「社会は崩壊する」でしょう。
「社会の中での義務」に振りすぎれば「個人の権利は剥奪されてしまいます。」
女性の無制限な権利主張を抑えなかった事が「少子高齢化」「離婚の増加(=家庭崩壊)」に一定の影響を与えている事は確かだろうと思います。
同和問題・在日朝鮮人差別問題は今や「逆の意味での利権問題」となっているとも言われています。(ここは、マスコミ誘導かもしれませんし、あまり研究していませんので断言・断定はできません)
個人の価値感の押し合いでは平行線でしょう。
社会を維持するためには「妥協点を見つける必要があります。」
それなのに「あなたが、この地点に来なさい」と言い続け「その論証義務は果たさず、私は、これが正しいと思う」との強弁のみ
「歌を歌わなければ戦争への道が阻止できる?」
「本当の意味で戦争が必要になったら、歌を歌わないような反日思想は統制を乱すので牢獄に入れられるでしょう。」
まあ、どうでも良い事です。