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シリーズ・現代の優生思想との対決(15)怒ること
http://www.asyura2.com/0406/health9/msg/440.html
投稿者 手ポリオ 日時 2004 年 12 月 10 日 23:13:37:HcDLIonJaW4jM
 

急遽、予定変更。「怒ること」。
事態はきわめて流動的であり、人間社会は優生思想の方向のためにあるのではない!

私は、怒りを否定することに対して怒っているのだ。
共産主義は、「憎悪」をあおる思想だとか言われて、縮こまっていてはいけない。
共産主義を全面肯定するわけでもない。社会的弱者の歴史的社会的政治的背景を考えるようにしたいだけなのだ。
それを今、新自由主義・弱肉強食の社会ダーウィニズムのニヒリズム、内なるレッセフェール優生思想に裏打ちされた「世間の空気」が無意識的に、つぶそうとしている、そのことに苛(いら)立ち、怒っているのだ。恐ろしい。本当に心底、恐ろしい。

「怒ること」

数々の抑圧・差別・屈従・抹殺・虐殺の現場の当事者になってみろ。
怒るのは当たり前。憎悪する気持ちが湧き出てくるのが当然。
それを押さえ付け、何事もなかったか、あるいは、ごく軽いことかのように、
ゆっくり話し合えば解決を見出せるようなことに見せかけられて、
根本(こんぽん)の矛盾を作っている土俵を変えずに、うわべの目先の解決をしても、
抑圧・差別・屈従・抹殺・虐殺は直らない。
むしろ、小手先を直しただけによって、隠蔽されたり、そのあとの現状を正当化されたり、美化されたりもしてしまう。
怒りを持ち続けなければ、抑圧・差別の実情の気持ちを伝えることはできない。
何をやるにしても、おとなしくおだやかに粛々と、シニシズム、ニヒリズム、ええかっこしいで、やっていては、
そもそも、抑圧や差別などが存在しているのかという実態が見えないし、その心情が伝わらないし、
現実の緊迫感・屈辱感・危機感も何もかもが、フヌケに見えさせられるだけの状態に置かれるのだ。

■怒りとは、「社会的抗議と自意識上の相克」なのだ。
http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_3/shizennshugi.html
それは、政治意識の目覚めなのだ。現に存在している政治的なる物、政治的対立点を浮かび上がらせ、現状維持ではなく、政府を変えさせていこうとする実際の運動への端緒となり、かつ、エネルギー源となるものだ。怒りを否定してはならない。怒れ!狂うほどに怒りまくれ!チッキショーーーメッ。コノヤローーーメ。クソッタレーーーッ。と権力に、強い側に、目上の者に向かって直接言うことだ!きたないことばであるほど、いいのだ。乱れて荒らぶれるほど、良いのだ!怒れ!心が焼き尽くされるほどに、怒りまくるのだああ!今すぐ!いつでも、どこでも、だれにでも。
心の叫び、怒り・つらさ・暗さ・きつさ・うらみ・つらみ・怨念・ねたみ・そねみ・苦しさ・・・・を出させなくする世の中。そんな世の中は、まっぴらごめん!どんどん、大いに怒り、うらみ、にくみ、暗くなり、しつこく、ネチッコク、陰険に、ダサク、カッコワルク、ミットモナク、ミニクク、ミグルシク、ミスボラシク、ミジメニ、ミモフタモナク、ミダレマクリ、ヒドイ・ヒサンな状況や気持ちをさらけ出すのだ。そうしなければ何も見えてこない、何も感じられない、何も思い致せない。すべては、そういう気持ちを吐き出しても、いじめられない世の中にすることだ!

「冷笑」(シニシズム)を撲滅せよ!シニシズムの奴らは、人間の心を持っていない。人間の価値をわからない。ひとかけらも人間の尊厳を理解しようともしない者だ。すぐにやめてくれ。みんなだ!何が、ポストモダンかよ。近代の超克かよ。フーコーだ、ニーチェだ、ヘーゲルだ、ドゥルーズだ、ガタリだ、ジャック・デリダだ、アントニオ・ネグリ=マイケル・ハートだ?、マルクスだ?、エンゲルスだ?、ミルトン・フリードマンだ?、知識優越感の、自己保身の、ええかっこしいだけのくせによおおお。アホラシイ。

てめえらの頭のよさや、環境の生育状況の恵まれ方を見せびらかし、あるいは、ド根性と忍耐の努力とがんばりをひけらかし、支配と服従へと、俗世間の民衆をひれ伏せさせ、自身の地位と立場の安泰と尊敬の眼(まなざし)を獲得し、安住すれば、体制側・反体制側、どちらにしても、ユートピア、かい???くだらねえ、そいつら(知識人・有識者・権力者・専門家・研究者。…つまり、わかりやすく言えば、ね、頭のいい、えら〜い人たち、おありがた〜い・尊敬すべき人たち、実は、ね、ね、ね、ただのくだらねえ奴ら、我々と同じ、ただの人間、ウンコもションベンもするし、ね、ね、ね、ね、ね、セックスもしたがるし、ね、ね、ね、そこらの俗物と大差ないくせによお、お、お、お、お、お、崇め(あがめ)奉(たてまつ)られたい奴ら、のことだぞ。えらぶる支配者どものこった。ただの人間。ただの人間。ただの人間。くだらねえ。誰一人たりとも尊敬する必要は、さらさらない。この世に、たった一人たりとも「神聖にして侵すべからざる者」などは作ってはならない。そういうことに胡坐(あぐら)をかこうとしている者たちこそが、まさに「俗物根性の権化」だぜ。権化が種まきゃ、カラスがほじくる。フッフッフッ。おらあ、カラスだ。おらの、うちは、水車小屋、だいの仲良し四人組〜♪なんてね。おらあ、三太だ。 http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/tukuiac/kanko/hike/santaryokan/santaryokan.htm  http://www.sinfonia.or.jp/~orange/santa1.htm  ほか、あちこち、いろいろ、やたらめったら、あります、よ。
おい、民衆のドシロートの人たちさんよ、私もそうだけど、わかるかい???

プライド・自尊心と言うと、東条英機の映画のような連想になってしまうが、
そういう人物のプライドと、われら障害者や社会的弱者のプライドとを同じ平面で見ることが、そもそもおかしい。
プライドは大事だから東条のプライドも立てましょう、ではない。
支配者・権力者・強者(だった時に行なったことへの強者側の立場としての)側のプライドを
叩き潰すことができなければ、弱者のプライドは成立しない。
これは、自由・人権・平等・福祉、愛と正義などなどについても言えるのだ。
怒ること、これは、弱者の側が、支配者・権力者・強者の側に対して、あるいは世間・社会に対して、怒るのである。
自分より弱い者や、あるいは、「政府公認の怒りの対象」に向けて怒るなどは、怒ることには含まれない。
たとえば、北朝鮮バッシングや、自己責任バッシングや、凶悪犯罪事件の犯人とされた者を
誰が見ても悪党としか見えないから、どんどん叩いても誰も否定できないから、そこへ向けて、
「安心して怒りをぶつける」などと言うのは、怒りではない。本当の怒りには、リスクが伴うのは当たり前。
まず、自分の身近の目上の者・強者に向けて、怒れること、ここから始めること。

怒りがなければ、差別・抑圧・屈辱・抹殺などの社会状況の実態が浮かび上がらないし、
背景も見えないし、すべてを平坦な「平和・安定・秩序維持・現状維持・体制維持」を強めていくだけにしかならない。
何も差別・抑圧・屈辱・抹殺などされていないと、思っている人が多い。
そのくせ、目上の者や強い者や社会に向けて、何か不満があっても、まともに正面切って言えず、
かしこまって押さえて、目先の解決のような交渉しかしない。挙句の果ては、自殺三万人以上。
自殺へと、追い込められて行くような人たちを、平気で作り出している日本社会。
それを変えていき、自殺でもなく他殺でもなく、追い詰められた人が、強い側や世間に向かって、
堂々と物の言える社会にしていくことが、反戦運動や福祉運動の根底になければならない。
そのためには、怒りにくい人ほど怒れるような世の中にすることだ。
そもそも、今の世の中、反戦運動自体も、世間・大衆に向けて誰にでも、堂々と、向けて行なえない。
自分の職場・地域・身近なところにさえ、広げれない。

「強者に怒ること」をできるような世間の空気にすること、
それをまず認めるような世間の空気に作り変えていくところから始めなければ、
どんな学習やお勉強会をしても、どんな知識や情報や集会やデモや座り込みや、その他の抗議行動や、
あらゆる運動・活動・闘争をしようとも、どんなに頭がよくなって、理論武装できても、
すべては体制許容範囲の中に組み込まれ、人道・福祉・平和・民主化・解放などの美名の下に、
自衛隊は派兵され続け、軍事を正当化され、戦争状態(抵抗する者を退治する・掃討する・駆除すること)は
拡大・継続され続けるだけなのだ。
怒ること、憎悪することを否定してはならない。それをいかに無謀に爆発させずに、エネルギー源として、
差別・屈従の現実を訴えるための気迫・真剣さ・気構えの元を作るため、そして、
それを継続させるため、深めていくための原動力にするために、
怒りをどう表現するかの具体的な方法を考えるべきなのだ。

怒りや憎悪を爆発させたい。が、それをストレートにやっても、力・軍事力・経済力・世間の空気の圧力などで、
こちらが勝てるわけはない。力では勝てない。そもそも、勝ち負けではない。
もし、運良く、勝っても、今度はこちらが権力になり、また屈従と支配をしても意味がない。
差別・抑圧が存在するものは存在すると出し続けることをして、訴え、考え、権力や世間から、切り捨てられたり、
無視されたりしないようにしていくこと。
そのとき、怒りの真実性・実情のありさまを、いかに伝えられるかであり、たとえ、座り込みひとつにしても、
そこに限りない、底深い、この社会の現実に対する権力や世間への怒りと憎悪が込められているかどうかで、
まったく説得力・伝達力が違うのである。
和気あいあいと、明るく楽しくなど、とってもやっていられる場合ではないということを、
いかに伝えられるかなのだから、
そこで、ラブ&ピースで、ふぬけられるやり方や、歌や、その他のあり方をされていては、
まったく正反対にしか効果は出ない。

私は、両手ポリオという身体障害者という立場での、体が動けない部分の不便・不自由よりも、
精神的屈辱感・劣等感のほうが、最も怒りに思うことである。
つまり、常に世間に気兼ねし、感謝し、人様の顔色を伺い、遠慮がちに、へりくだり、
嫌われないように八方美人的に振る舞わされ、常識の範囲内で、かしこまった、礼儀正しく、道徳的な、
理性のある、お行儀のよい、誰から見られても、まともな、清く正しく、明るく元気で、愉快な健康的?な、
けなげな障害者像を、演じ続けさせられること、
または、身体に障害があるなら、頭脳や弁論で勝負できるような人間になればいいというような価値観、
そのへんのことが、「もっとも耐えられないこと」なのだ。世間からの屈辱と抑圧。
そして、それを訴えようとするとき、怒りを込めたいのに、それを入り口で、怒りを全否定され、
押さえ付けられるから、二重にも、三重にも、抑圧されるわけだ。
だから、精神障害にもなってしまったが、その堂々巡りのようなことが、今の一番の怒りの元なのだ。

怒りがあるときには、怒ることが、もっとも健康的なはずだ。それを抑え隠蔽し、明るくおとなしく振る舞わせようと
周り中から圧力をかけられる。それが健康的か?
そういうことをする周り=世間の空気のほうが、よほど、不健康そのものである。ロボトミーの手術や、去勢手術と同じことを、何も手術せずとも、世間の空気の圧力というもので、行なってくるのである。
こういう攻撃から、身を守らねばならない。自分の自己を守らねばならない。今、どこかへ、どこでも、外に出て行けば、あらゆるところで、その攻撃が仕掛けられてくるのである。しかも、権力や体制側や右翼の側ではなく、反戦や福祉、さらに、ひきこもりの相談に乗るというようなところまでもが、それなのだ。つまり、「ロボトミーの手術や、去勢手術と同じことを、何も手術せずとも、世間の空気の圧力というもので、行なってくる」ということ。
だから、「ひきこもり」にならざるをえないのだ。とっても、とっても、おそろしい。つらい。

なぜ、そんなにも怒りや、憎悪や、ひがみや、ねたみや、そねみや、うらみ・つらみや、
ルサンチマンと呼ばれるものを、徹底的に否定し排除し、そういう気持ちを持つこと自体を抹殺されなければ
ならないのか?
先程も書いたように、それらをうまく活用する方法を考えてみることを、なぜしないのか?
それが不思議でならないし、そこを突破しなければ、勝共連合(統一教会)や、ネオリベ、ネオコンや、
右翼の軍事力・経済力・能率効率至上主義の現体制強化の側に思う壺にされて、まったく対抗できないではないか?
抵抗・反骨・反発・異議申し立てや、差別抑圧屈従の排除をしていくときに、
怒り・憎悪を全面否定し拒否し拒絶し、毛嫌いし、取り払おうとするのはおかしい。
怒り・憎悪をなくすためには、現に存在する怒り・憎悪をまず認め、それを伝え、なぜそうなっているか、
どうすればいいのかを、怒りの存在する状態で訴えていかなければ、元を見極めることはできない。
さもないと、怒りを生み出している正体を隠蔽し、怒りが湧き起こっている者たちを圧殺し、
うわべでの平定・沈静にされて、本来の不条理・矛盾・怒りを生み出している構造の根っ子へ迫れないではないか?

怒りをまず、認めること。それを出すこと。まず、全てはそこからである。
日常性の打破、価値観の紊乱、世俗的・俗物感覚を疑う、世間の空気を変えるとは、
まず、そういうところを何とかしないといけないということなのだ。
しかも、世俗的感覚を抜け出るのではなく、あくまで地べたを這いつくばる世俗の位置で、俗人として、
つまり、「身体に障害があるなら、頭脳や弁論で勝負できるような人間になればいいというような価値観」ではなく、
身体に障害がありつつ、その上、ドシロートの幼稚な未熟者で、
アメリカ留学とか、大学卒とか、何かで有名人になることとか、
その他の何かで箔付け・権威付けなどをしていない者でも、それをそのまま言えること、という立場で、
俗世間を俗っぽく変えていくのでないと、権威主義的に変えたり、特権者的に特別待遇的な認め方をされても、
根っ子の「世間の空気」は変わらず、意味がない。
根が深い。深すぎる。恐ろしい。おぞましい。

でも、みんな、自分が自分として生きるために精一杯なのでしょう。
人間が自分であり続けることが、これほど大変だということが、
少しわかっただけでも、ありがたいと思います。
それを、さらに社会改革だの、世間の空気を変えるだの、ということが、
はるかに遠い、むずかしいことだということが、よくわかりました。
ひどいご時世です。厚い壁の「世間の空気」・・・。

それでも、いろんなことを調べて、運動や理論や、過去や現在の日常の実情を、知識・情報として知っていくと共に、
そういう精神的な態度、怒りの復権とか、俗世間の空気とかいうものに対処していく方法を考えていきたいと思います。
[近藤和也]
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
【ご参考】
■辛淑玉(シン・スゴ)著『怒りの方法』(岩波新書)2004/05 ¥735
――“はじめに”のiiiページより。
『弱者が物言わず耐えている間は、同情を寄せる。だが、その弱者が声を上げて主張し
だすと、今度は強烈な嫌悪感と憎悪で攻撃し、そして排除する。「権利ばかり主張する
奴だ」「世間を騒がせる迷惑な奴だ」などと。(中略)直接責任のある人間に怒りをぶつ
けて責任を取らせることができれば、この社会の多くの問題は解決できる。(中略)その
ためにはまず、奪われてきた怒りを奪還することだ。これは人間性を回復することでも
ある。(後略)』・・・
http://www.shinsugok.com/index.html 辛淑玉HP
http://www.shinsugok.com/tv/shohyo.htm

■辺見庸『抵抗論』(毎日新聞社)2004/03 ¥1470
http://www.ihope.jp/resist.htm
「イラクやアフガンで米英の部隊がレジスタンス勢力の攻撃で被害をだすたびに、私は
名状の難し、どこか『喜び』に近い感情を抑えることができない。そのことと死傷した
米英兵たちへの同情とは別のことであり、論理的にもかならずしも矛盾しはしない、と
思う。爆撃、侵略、大量殺戮、占領を激しく憎み、憤激する一方で、侵略者への反撃の
成功を喜びとし、みずから志して、あるいは余儀なく戦線にある兵士やゲリラたちの悲
惨な死を、敵と味方の区別なく悼む。それのどこがおかしいというのか。倫理的にそこ
まで踏みこむことなしに、つまり、当方としても当事者らの百万分の一くらいの傷さえ
負うことなしに、絶対安全圏からにこにこ笑って『反戦』などといえた義理か。怒り憎
しむことは、いつから、だれによって禁じられたのか。怒り憎しむことは、いつから、
だれによって『悪』と断ぜられたのだろう」
「おそらく私がいちばん腹を立てているのは、彼のコメントにおけるいちいちのまちが
いについてではないのだ。この戦争への怒りも悲しみも滲ませない、あたかも官僚の答
弁のような無機質な語り口に苛立つのである。」
(「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか 閾下のファシズムを撃て」より)
辺見氏は、イラク戦争を強行したブッシュやそれに従った小泉だけを「怒り」の対象に
しているのではありません。
辺見氏にとって、「怒り」のない抗議とは、自分達の住む国や社会が生み出している戦
争を、「安全」な場所から自然災害のように嘆くだけの無責任な態度なのです。
『抵抗論』におけるこのような辺見氏の考え方は、「古臭い」ものでしょうか?
――Antiwar Net News No.56(2004/6/17) http://www.ihope.jp/i/news56-1.htm 

上記の「反戦」のところを「福祉」に、「ゲリラたちの」のところを「障害者の」と置き換えればいいだけのこと!
私が、現に、怒ったりしたら、たちまちいろんなとこから打ち切られた。また、一連の「自己責任バッシング」も同根だ。弱い者ほど怒りがたまっているのに、弱い者ほど、怒らせてもらえない。いったん怒れば辛淑玉の言うとおり。強い者、恵まれている者、まあまあそこそこの者、そういう奴らは怒りはそんなにないわな。だから、簡単に怒りを否定し、おだやかに明るく元気に健康的に楽しく行きましょうなどと、きれいごとを平気で無意識的に言い放ち、世間の空気として当たり前の道徳のようなふうに押し付けて平然としている、その鈍感さ!そのことをよくわかった上で、特に、知識や経験や情報や能力がたくさんある有名人や地位や名誉や勲章や権威のある者らこそが、怒りを行なうのだ。さあ、今すぐ、やりたまえ。もちろん、ほかのみんなもだ。怒れ!辛淑玉らは、優生思想のことは言ってないが、まさにこれこそが、優生思想を打ち破る方法なのだ。

でも、なかなか辛淑玉のようには、うまく怒れないけれど、私は怒る。今のこんなひどい優生思想の世の中がイヤだからだ!さらにどんどんひどくなっているからだ!怒りをできる世の中にするためだ!怒るのが「うまい・へた」、これもまた優生思想である。怒ることのへたな奴は、怒ってはいけないのか?優生思想を打ち破るためには、「へた」な「怒り」こそが必要なのだ。「へた」という字は「下手」と書く。私の両手はポリオで、上には上げられない。勢いを付けて、上げてもすぐに、おりてしまうだけ。手は下を向いてダランとしているだけ。「上手」、つまり、「上に手を上げる」、「じょうず」、ということはできないのだよ、一生ね。生きているあいだ全部、全生涯、全一生。「下手(したて=へた)な怒り」…ふふふふふふふふふふふふふふふふ、いいねえええええ。「へたくそに怒りましょう!!!」へた、へた、へた・・・。へたほどよろしい。
「へたこそ万歳!」 
あれ?、「万歳」は私の手ではできません。ああ、良かった。つまり、ただのへた。うまい奴も、ただのうまい。バンザイなんかは、しない、させない、させられてもできない。へへへ。つまり、へたでもうまくても、とにかく怒れってことさ。
な〜にが、悪いか。へっ。

なお、「怒りを鎮める」だの「押さえる」だの「飼う・追放する・やわらかくする・包容する」だのという本も出ているが、それらは全て、現体制維持の枠の中に人間を押し込み抑圧する本でしかありえないから、そういうものは参考のかけらにもする必要はない。早い話、それらの著者が、反戦運動や自衛隊のイラクは兵に反対する活動に取り組んでいるかどうかで、簡単に見分けられることだ。これは、公明党や創価学会や民主党など、その他全てにあてはまる。特に、われら障害者にとって、注意が必要なのは、どんなにきれいごとの福祉や援助活動をしてくれていようとも、反戦運動や、自衛隊イラクは兵にはんたいしないところは、すべてかんぺきにいんちき・マヤカシであると断言しても良いのだ。何かボランティアを頼むときに、そこを聞くだけで充分である。自衛隊を派兵するのを認めて、福祉のふの字も語る資格(四角)はない。参画(三角)さえもさらさらない。ましてや「丸く」おさめようなど論外である。現在はそこまで、きびしい「戦時下」なのだ。角(かど)を立てよ。角を立てるほど良いことなのだ。政治的な争点を浮かび上がらせること。

■ローザ・ルクセンブルグも言っているではありませんか。
「ご立派な全く誤りを犯さない中央委員会の方針よりも、誤りつつ進む人々の行動こそが望まれている。」
http://www.hi-ho.ne.jp/soyokaze/futatu.htm
「現実の革命的労働運動が犯す過ちは、歴史的には、全能の『中央委員会』の無謬性よりも測り知れず豊かであり、有益である」。
http://www.dwell-info.com/bnrs/bnrs6.html

■記録映画『怒りをうたえ』ビデオ発売中(全3巻+1巻+1+α)
タイトルは、ホーマーの「オデッセイ」の冒頭の言葉をとって「怒りをうたえ!」。
70年安保・沖縄闘争記録映画!!!&上映会。
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/subpage02.html

第1部 宮嶋義勇監督 1970年
    1968年10月21日〜69年5月31日 2時間54分
第2部 宮嶋義勇監督 1970年
    1969年6月8日〜69年11月17日  2時間42分
第3部 宮嶋義勇監督 1970年
    1969年12月1日〜70年6月23日  2時間28分

+『進撃の論理』宮嶋義勇監督 1972年 48分。
71年沖縄返還協定批准阻止闘争
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/subpage07.html

+『沖縄・炎の記録』宮嶋義勇 監督 新たに発見!
1971年11月10日、沖縄全県ゼネストと先進的労働者、学生の米軍基地への火炎瓶攻撃。
1972年4月28日反戦デーの闘い。
同年、5月15日の“沖縄復帰記念式典”に対する県民の闘い。最初に上陸したのは本土警視庁機動隊だったという厳しい現実が描かれている。39分。
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/subpage05.html

+★★★『にっぽん零年』宮嶋義勇監督 1968年 76分
激動の1968年だけを捕えた時代の軌跡
幻のドキュメンタリーが、36年の沈黙を破る!!
http://www.nikkatsu.com/zeronen/
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怒りをうたえ!

安保反対闘争が、労働者・市民・学生・農民の総力を結集して、いかに一九七〇年に盛り上っていくかを追う、壮大な構想のドキュメンタリー映画が製作されている。タイトルは、ホーマーの「オデッセイ」の冒頭の言葉をとって「怒りをうたえ!」。68年10・21から69年4・28までを追う二時間のこの作品が第一部で、以下70年6・23までを三部作として描こうというのが全体の構成。「人間の条件」「若者たち」の撮影監督で、「千里馬」の作者である宮島義勇が製作・撮影・監督を担当している。すでに撮影された大部のフィルムは、シネ・トラクト(映画アジびら)として各種集会で上映されている。製作母体は安保粉砕記録映画製作委員会である。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
【手ポリオ・近藤――追記】
私は今、絶対「ひきこもり」だから、上映会には、絶対に行けない。なぜなら、礼儀とお行儀、道理とか理性とか、よそ行きのかしこまった秩序・道徳を強制され、ええかっこしい〜い〜い〜いの、自己の自尊心を抑圧・弾圧・屈従され、屈服と隷従を強制させられるからである。だから、ビデオテープを、わずかな、雀の涙ほどの、ほれ、ほれ、ほれ、ほ〜れ、お涙頂戴程度の、あんたがたには、誰も、誰一人たりとも、まったく、冷笑、シニシズムを、平気で、やらかす、てめえらの、ことだ、その実質の、金額や、その意味も、何のかけらも、これっぽっちのことさえも、少しも、わずかな、ひとかけらの、意味さえも、まったく、当事者として、感じては、おられない、まるで、まったく、身近に、どころか、ほんの少しの、自分自身の、自分自体の、自分のこととしての、実感ある、実態の、その、ひとっかけら、さえも、感じて、さえも、そのわずかな、ひとかけらさえも、なにも、まったく、まるっきり、他人ごと、としてしか、考えて、もらえない、(くそっ)、ほんのわずかな、関連さえも、その、たった、たった、たったの、ひとっかけらさえもの、気持ちの、片隅の、さらに、かたすみの、そのまたさらに、かたっっっすみさえも、(くそっ)、わかってもらえねえような、だな、・・・
そういう年金だっ、くそっ、身障年金からっ、大枚をっ、払ってっ、申し込みをっ、してっ、見ることがっ、できたっ、つうこだぜよっ。ヒヒヒッ。くそっ、・・・。

さて、一見、見た目では悲惨さがよくわからないのを見るには心の目が必要だ。それをわかっていけば、人間なら怒りがこみ上げる。それを否定してはならない。涙を流してかわいそうねと、「同情」することではない。ましてや明るく愉快に楽しくしましょうね、などとやれることか?実感をわかっていない「鈍感人間」の言うことだ!「明るく」など、すればするほど、悲惨な苦しみの実態を隠してごまかすことになり、それで「慈善」や「福祉運動」を支援しているつもりなら、二重に罪が重くなる。

怒るのだ。
怒るのみ!。
怒れ!。

そういう気持ちを一人でも、ひとりだけでも、たったひとりの、ほんのかけらの、わずかなかたすみの、そのはじっこにだけでも、持つようになって、偉い奴らに向かって実行して行くことが、世間の空気を変えていけるのだ。

何度でも言う。
怒れ!
怒れ!
狂うほどに怒りまくれ!

体の不自由な障害者が、急進的・ラジカル・小児病的急進主義が何が悪いか!

「ルンペン・プロレタリアート」。
マルクス・エンゲルス・レーニン、その他あらゆる者から否定され、排除され、卑下され、侮辱され、軽蔑され、異端視され、邪魔者扱いされ、役立たずとされ、無意味とされ、無視された者。これこそが、真の真実へ迫る本道だ!くそっ。

誰かに頼ったり、組織に依存したり、世間の空気に安住して高見の安全圏から、すべてを他人ごととして、偉そうに偉そうに偉そうに偉そうに偉そうに、さめた冷えた物言いをして、自己防衛をしている者どもよ、ちゃんと聞けよな、てめえら、五体満足人間どもめらがよ、五体満足人間どもめらがよ、五体満足人間どもめらがよ、五体満足人間どもめらがよ、五体満足人間どもめらがよ、五体満足人間どもめらがよ、自己保身と生活防衛をして、偉い者や強い者には「へーこら」し、こびへつらい、顔色を伺いながら、ええかっこしいをしている奴らよりも、私のような物を言える者ほどこそがだな、よほど、まともな人間だ。くやしかったら言ってみな、かしこまった場所で、・・・しろ・くろ・まっちゃ・あずき・コーヒー・ゆず・さくら・・・青柳ういろう〜♪じゃない・・・仮面を引っぺがせ!本音をぶちまけろ!日常性を破壊しろ!怒れ!。精神の去勢をされるな! 

♪上を向いて、「怒ろうよ」、涙がこぼれ、ないよおほに・・・ [近藤和也](つづく)
♪ひとりぼっちの夜〜。くそっ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
【次回予告】シリーズ・現代の優生思想との対決(16)健康という幻想――患者と国家、医療資本、医療と政治
〜福祉国家におけるリスク管理の思想が普及しつつある最たるものが健康管理である。管理できない個人を排除することができないので、個人は道徳的に非難されるという<社会的機能>をもつことで、そのような個人の発生を防ぎ、また発生した個人を治療を受ける権利から排除することを正当化させることができる。リスク管理の思想を、失敗した個人が道徳的に非難されるという恐怖で貫徹させるという福祉国家がもつ<社会的機能>は、失敗した個人が抹殺されるという全体主義的国家とほとんど同じ機能であることがわかる。
ミッシェル・フーコー、イヴァン・イリッチ、ルネ・デュボス、ほか。

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