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(回答先: あんた、甘えてないかい? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2004 年 12 月 21 日 16:06:31)
あなたは、「怒り」が、どれほど不自由な生活を強いられたり、差別されている人間を
救うか、あまり解っていらっしゃらないようです。
あなたは、身体的、状況的に自由を制限されたり、「差別」に遭ったり、いわれなき
ことで一方的な判断(濡れ衣を着せられたり)をされたりしたことはありますか?
まあ、思い出せば誰にでも多少はあると思うけれど、それらを継続的に経験するという
事態に見舞われることは、余程年をとれば別かもわからないが、なかなかめったにない
ことではないかと思う。
まず、あなたのような判断をすることで手ポリオさんが真っ先に受けるのは、悲しみ
でしょう。それも、あなたには想像がつかない程の。
深い悲しみや落胆、無力感を感じさせると、実際に体にも力が入らなくなり、自律
神経がやられ(消化機能や循環機能に影響)、免疫力も低下します。
こういう感覚(苦痛)を感じることを避けるためには、自らの感受力を凍結させな
くてはならない。
しかし、凍結させるということは、アパシーを生み、欺瞞を生む。
自分の人生を欺瞞の人生にしてしまう(ほとんどの人が、幼児期から、無自覚なまま
に凍結しているとも言えるでしょうが)。
悲しみを感じられる、自覚できるということは、その人が正常で純粋な感覚を有して
いる、他人を想うこともできるという証拠です。
しかし、ただ悲しみに溺れてしまっているだけでは、自己憐憫に嵌ってしまうか、
鬱病等になって死ぬことしか考えられなくなるなど、非建設的に自分の人生や肉体
を更に貶める状態に陥ってしまうだけかです。また、悲しみのエネルギーは体細胞を
冷やすので、結果その苦痛に耐えられなくなれば自らを防御するためにわざわざ凍
結させ、「欺瞞やアパシーを選んだ方がマシ」という選択してしまうことにもなり
かねない。
そういう状態を突破して、悲しみを溺れて自分を破壊することを防ぎ、また凍結し
てしまうことも防ぐことができる唯一の特効薬が「怒り」です。
これは、その場で「反応」して、自分の立場を守るために発する「凍結」から来る怒
りとは、質の違うものです。もちろん、米兵が「アドレナリンが上がるぜ!」
「イラク人のクソテロリスト野郎ども皆殺しにしてやる!」と言っている時の「怒り」
とも違う(これは内発的な実際の「怒り」というより、刷り込まれた「怒りもどき」
でしょう。多くは自分をこき使ったり騙したりした上官や国家に対する怒りを転化し
たもの)し、「あの女、美人で金持ちで頭も良くて超ナマイキ。ムカつくわ〜」とか
「ちくしょう、あの野郎おれより学歴や収入が高いだけならまだしも、彼女まで奪い
やがって!」などという、単純な劣等感や嫉妬から来る怒り、価値観や観念ベースが
違う相手に対するものや、自分が差別やいじめをする側になっている時に生じる、
嘲笑まじりの怒り(劣等感、罪悪感、無力感を優越感、正当感、全能感に転化させた
いという衝動が生じたときに起きる)とも、(一種の照らいや迂回衝動によって一見
表現が似る場合もあるが)波動的にも影響的にも質が異なる。
(これらの「怒りもどき」のベースも、存在への深い悲しみなのは事実ですが、感覚
が凍結している以上、「怒り」というより単なる条件付けから来る「反応」に過ぎな
い。それでも、正直に表現されている分、抑圧されて一見上品に化粧された「それ」
よりは幾分マシですが)。
悲しみという燃料に火をつけた時に生じるものが、本当の「怒り」でしょう。
そのような怒りは、熱を持ってくるので、自律神経を調整し、免疫機能を強化する
ことにも貢献します(東洋医学の実の気、ヨガ概念のクンダリーニなどにも関係があ
ります)。安定感や自己信頼感を呼び込むスイッチとも言えるでしょう。
怒りは破壊的なものであるのは確かですが、凍結状態にある時の「内向した怒り」や
「投影された怒り」が、自他の尊厳や生命に対する破壊を志向するのに対して、感受
力が解放されている人間の、自覚された深い悲しみを糧にした「本当の怒り」とは、
自他の尊厳や生命を脅かす対象や環境そのものに対しての抵抗の発露、それらそのも
のに対する破壊への志向です。
まさに、「尊厳(魂)を懸けたレジスタンス」、「創造の火」「不動尊の火炎」「破
壊神シヴァの踊り」等々というような質のものだ。
普段は、静かで穏やかで慈悲深い者(深い悲しみを感受出来る者―本当に傷ついた経験
とそれを乗り越える術が響いたことのある者)が、そのような炎を燃やせる。
つまり、それ自体が癒しそのものなのだ。
私は、手ポリオさんの「うんこ」の話にも、「怒り」の話にも抵抗は感じない。
うんこは子供たちと一緒に盛り上がって読んでいるし、怒りはよく響いてくる。
彼はあなたがたに「世の中を変えてくれ」などと甘えているのではないだろう。
お説教をしたり訳知り顔で話してくれるヒマがあるんだったら、優しく慈悲深い顔で
「平和」を求めて押し付けがましく同志を募る暇があったら、「世の中の変え方を真剣に葛藤して考えてみろよ、そこ(己の中も含めて)に真に戦うべきものがないか、よく
検討した上で、ストレートに行動してみたら?」と言って突き放しているだけなんだ
ろう。ただ、受け止めてみればいい。良薬口に苦しともいう。
私も、私の言っていることの深い部分を理解する気もないのにがたがた説教するような
輩といつまでも関わっていたくはないが、縁があれば言いたいことを言うだろう。
血も涙もションベンも糞もちんこまんこも出来物も懊悩もひがみも愚痴も喧嘩もお笑い
も恋愛も命も全て人間固有のものとしてあって、はじめて変革に繋がる「運動」と言え
るだけの質のものが生じる、というような手ポリオさんの考えにも、共感を覚える。
そして、手ポリオさんという障害者が、常に心を曝け出してくれることに感謝してい
る。「人間」としての距離を縮めてくれたから。
上品な上っ面ほど、偽善的、欺瞞的、暴力的かつ無力(数の力だけは持ちうるが)なも
のはないと思う。そして、それが差別の構造そのものだ。本当に差別を知ったものは、
あからさまなそれより、上品で教養のある仮面を被ったそれの方から、より大きな痛手
を受けるものだ(そして、社会も腐り、戦争構造も保持され続けるのだと思う)。
ここでは批判的に書いてはきたが、ワヤクチャさんの、野次馬だがさんへのレスには
共感できる。