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まっくすさんの「貨幣の信用力(通用性)の担保は「ひと」である」( http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/729.html )へのレスです。
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まっくすさん、どうもです。
Mさんともども叱咤激励もいただきましたが、多くの書き込みでマックスさんとのやり取りをいちおう意識しながら書いたつもりです。
『「小欲知足」に“異論反論”』( http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/851.html )は是非ともお読みいただけばと思っています。
桜の花見を楽しまれたそうですが、桜の花がここまでエコ贔屓されるようになったのはいつ頃からなんでしょうか?
古来は桜より凛とした梅の花という趣向でしたし、江戸期も趣味人はその傾向だったと思っています。
「決然と咲き、潔くぱっと散る」ことに共感を覚えたのか、梅の花と違って淡い色の花が咲き誇る風情に美を感じたのか、春の兆しとともに咲く梅の花より暖かさが増した季節に咲く桜の方が“楽しみ”にうってつけだということなのか...わかりかねています。
「テロリズム」や「マイナス族」そしてユダや論に関する情報と分析、ありがとうございます。(それらにも言及する機会が遠からずあるだろうということで、ここでは触れずに済ませます)
まっくすさん:「私としては、「喪失=欠乏」はもう技術的に解決できたのだから(結局は政治マターになってしまって、うまく分配が進まないのですが)、そろそろそっちの面では十分ではないか、という気持ちがあります。「もうあきちゃった」んですね。」
とりわけ日本は、返せない(「返さない」ではなく)とわかっている国に膨大なお金を貸しそれで生産した物を買ってもらったり公的生活扶助を支出してもなお「デフレ不況」なんですから、「小欲知足」を強いられる層はいても「喪失=欠乏」はクリアされています。
(政府の対米貸し出しは中国の輸出(貿易黒字)も支えていることになりますから、対中輸出を含めるととんでもない「余剰=物余り」だと言えます)
概念としての“産業資本”自体が、自己増殖に「もうあきちゃった」と思っているはずです(笑)そろそろ、資本の増殖を目的にするのではなく、資本を手段として利用するようになってくれよと。
まっくすさん:「「分断と対立」に慣らされていると、右を向いても左を向いても「人間」「個人」の洪水で息苦しいです。「個人」ってそんな大した価値なんでしょうか?私が「決然と咲き、潔くぱっと散る」桜の下をそぞろ歩く人々の柔和な表情から得たものは、決して「個人」ではなかったと思います。桜を記号化して考えるのは近代人の病気です。あの穏やかな風情は、そんなもんじゃなく、人々がその場に全体として「溶け込んでいる」ことから来る安心感なんだと思います。」
「自己愛」の対極ともいえる、「「個人」ってそんな大した価値なんでしょうか?」という問いを発していただきありがとうございます。
大した価値があるものとして「個人」の代わりに国家が措定されるとギエェ〜になりますが、死すべき存在である限り誰もそして類も大した価値はないと思っています。
そういう存在性だから、「自己愛」に執着しないと存在感が得られないのではないでしょうか。
生にしがみつく風潮も、理解できるとしても、「自己愛」としての死もあるという思っています。
語弊はありますが、存在としては「考え動くゴミ」でしかなく、考え動く基準が生という束の間の快楽にあると思っています。
まっくすさん:「飛躍しているかもしれませんが、ここに「分断と対立」を解消する契機を感じるのです。「分断と対立」を溶かすようなお金があったらいいな、と思います。桜のように「決然と咲き、潔くぱっと散る」お金。そうしたら消費税など取らなくてすみます。なまじ永遠に目減りしないとか、節約すれば、もっと殖やせば楽になるとか思っているから、我々はあくせく働かなければなりません。結局、お金と時間が引き換えになっていて、ここでも「分断と対立」が起きているんです。キーは利子の存在にあるでしょう。」
ここがキーですね。
お金が財やサービスを手に入れるためのもの(手段)であるのなら、財やサービスは人々の活動によって実現されるわけですから、お金は活動を交換する媒体ということになります。
そして、活動は保存できないものですから、まさに「決然と咲き、潔くぱっと散る」ものです。
さらに、そうであるならば、用途が公務員の給与を含め財やサービスを手に入れることである税金は不用ということになります。
活動(力)に対応しているはずのお金が保存(蓄蔵)できるというのは自己矛盾であり、「分断と対立」を生み出すことになります。
利息と天賦のものである土地の私有が、あくせく働かず時間も引き換えにしないまま贅沢ができる層の存在を許容しています。
貨幣については、分配問題が政治的に解決されるなら、利息が付かないということで蓄蔵の問題もほぼクリアできると思っています。
(主要テーマの一つである江戸期の貨幣を考えるなかで少し考えてみるつもりです)
土地は使ってなんぼのものですから使う権利が保証されていればいいわけで、それを超えた所有権は無用です。(どこかに持っていけるわけでもありません)
まっくすさん「まず宗教へ至る前の段階へ辛抱強く移行すべきです。そのためのひとつの有力な手段が貨幣制度の見直しです。さっきも言いましたが「決然と咲き、潔くぱっと散る」通貨を社会に埋め込めば、経済の流れは今よりずっと人それぞれの嗜好やニーズを反映するものになると思います。経済の基本がフローとストックの均衡(お金の回転率の調整)にある以上、プラスへの単一志向性を担う通貨のみが存在する世界は、いびつといわざるを得ません。」
リアリズム(国民経済主義)で言えば、利息禁止はできませんから、利息が国家に流れ込む仕組みの構築が“詐術”として有効だと思っています。
フローとストックの関係ですが、ストックはフローを生み出す手段という認識が肝要です。ストックは、土地を別にすれば、人々の活動力が物化され集積されたものです。
蓄積されるべきは、人々の活動力であり、その表徴である貨幣ではありません。
このことが“彼ら”に理解できるかどうかが、今後の世界の行方を決定付ける一つの大きな要因になるかもしれません。
まっくすさん「日本に保有量の規制があり、マンハッタンの地下金庫に世界各国の保有する大量の金地金が「人質」にとられている事実を勘案すると、世界通貨が金地金を担保に置くことになる可能性は高いですね。
にもかかわらず、ここには、あっしらさんをしても、と思わせるような「マイナス族のプラス志向」に影響された杞憂が表明されている感じです。
私は基本的に、通貨の通用(信用)力の担保は「ひと」だと考えています。政治、外交、産業、国民性・・・すべてをトータルした意味での「ひと」です。したがって基本的に「プラス族」である日本人は、マイナスバランスで始めても大丈夫くらいにたかをくくっていいと思っています。」
“彼ら”の力が最上位である限り、最悪の条件を考える習性がついています(笑)
「通貨の通用(信用)力の担保は「ひと」」であることに同意です。
そして、その主力は、「ひと」の産業的活動力だと思っています。ですから、政治・外交・国民性など抽象的諸力を支えるためにも、“彼ら”の力が最上位である限り、供給力余剰(貿易収支黒字)を維持しなければならないと強く訴えます。
まっくすさん:「新たな通貨制度が日本人にいまより「時間的な余裕」を与えるような世界であれば、もっと楽しい商品を作ってくれるような気がするし、もっと人々の納得の行くお金の使い方が考案されていくだろう思います。その意味で、短期的混乱はあっても、中長期的には全然心配していません。」
同意です。
まっくすさん:「”彼ら”の「インフレ志向」がたやすくなくならないとしても、もし独自性を「認可」されるなら、新しい貨幣を使う日本人のほうで、社会の分断や対立をやわす使い方を工夫し、結果的に、”彼ら”のこわばりさえ「溶かしていく」という希望を持っています。バランス感覚にたけた日本人ならそれができる、というのが私の問いかけの根底にある直覚です。」
彼らの認識力(洞察力)が見えないのでうかつに判断はできませんが、それで、“彼ら”のこわばりを「溶かしていく」可能性はあると思っています。
そのためには、“彼ら”を敵とするのではなく、異質の同族として受け入れる必要があります。