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(回答先: Re: 法力と智慧 投稿者 M 日時 2004 年 4 月 06 日 14:04:16)
Mさんへ
お答えありがとうございます。
でも・・・
▼Mさん
> スレ元や阿修羅からも大分はなれてしまいました
> (私を宇野ちゃんにさせないで・・。)
とのことですので、とりあえず、ご質問にお答えするだけにとどめます。また、そういう話になった時にでもお相手いただければ幸甚です。
▼Mさん
> 「苦行に意味はない」と、よくご存知ですね。
> ・・・
> ところで何を読まれましたか?
僕が読んだの、というより、長年の仏教に対する疑問を氷解させてくれたのは、宮本啓一さんが書かれた『仏教誕生』(ちくま新書)という入門書です。そこで中村元さんのことを知って、本屋であれこれ簡単そうな本を探して読みました。特に、NHKブックスの1冊は対談風なのですが、読んでいるとインドの熱い風の匂いがしてきて、その中でお釈迦さまの言葉を聞いているようで、気持ちが和らぐので好きです(ほとんど「読むドラッグ」かも)。宮本さんの本は中村さんの本に比べると少しペシミスティックというかニヒルな感じですが、これもまたこれで一つの解釈だろうなと思います。
(以下、余談)
▼仏教に対する長年の疑問
「問題がハッキリした時点で解決したも同然」なわけで、何が問題かもわからないまま「よーわからんなー」と思っていました。あれこれ読んで、小室直樹さんの「日本の仏教には戒律がない」に、そーなのかーと思ったり、知り合いに「華厳は面白いぞ〜。お釈迦様の××は格納式だぞ。」とか、「やっぱ道元でしょ。カッコイイっすよー」とか、「日本の仏教は修験道や神道と混交している」とか……「いやー、仏教ってのはなんかカンブリア紀の爆発も真っ青だなぁ。なんでこんないろいろあるわけ?」と思ってたわけです。で、「最初(お釈迦様)はどうだったんだろう」と、ぼんやり考えている時に、本屋でばったり『仏教誕生』で、そうそう、これこれ、と。
で、わかったのは……
・お釈迦さま自身の教えは、いま僕らが見聞きしている仏教諸派の教えよりも数百倍、数千倍もシンプルで平易なものだということです。あまりにも平易すぎて(抽象的すぎて)わかりにくいんですけど(笑)。
・お釈迦様は何にも頼らなかった。教典も伽藍も奇蹟(法力)ももちろん偶像も……いっさい何もない。それらはほとんどが後代に創作されたもののようです。それでもお弟子さんになる方がいらっしゃったのだから、お釈迦さまの言葉はよほど強かったんだろうなーと想像します。
・ではなぜ、後代になってこんなことになったか。一つにはお釈迦様ほどの強い言葉を持つ方が現れなかった。それを補うために仏像や伽藍や教典などの具体的なモノが必要になった。ついでに奇蹟も創作されたのでしょう。しかし、そういうモノは基本的に「躓きの石」になる。それに囚われて本質を見誤ることになる。諸刃の剣ですね。
・もう一つは「サンガ(教団でしたっけ)」を作ってしまったこと。最後まで単独行であれば、こうはならなかったでしょう。いや非難しているわけではな教団という組織がなければ、仏教という宗教は早晩消えてなくなっただろうという意味です。続いていればこそ、その中に可能性も生まれますが、存在そのものがなくなってしまえば本当に何も残りません。多くの誤解があろうが間違いがあろうが、残ったほうがいい。ということです。
・ただ、以前に「インターネットで布教できないか」という話が出たときに、お坊さんが「いやー、ネットには伽藍がありませんからね」というのを聞いて、「うーん」と唸りました。そんなもんに頼るなよ、と。インターネットは言葉だけです。そこで伽藍も教典もなく布教するというのは、それこそある種の「苦行」だと思うのです。あちこちの掲示板に行ってそこで説法すればいいじゃん、と。それで、叩かれたり晒されたり(笑)。出家の身で苦行を避けるとは何事か! 「これからは電子仏教の時代だ」というぐらいの人はいないのか、と(すいませんヘタなだじゃれで)。
この辺で辞めます。
NUE