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三四郎さんとまさちゃんから提示された問いに応えるものです。
みなさんの批判やみなさんが望ましいと考える「後近代」のイメージをお寄せいただければ幸いです。
※ 『レス1:「利潤なき経済社会」と「開かれた地域共同体」』( http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/757.html )も合わせてお読みいただければ幸いです、
三四郎さん:「一読した限りですと、「近代」以前の自給自足的・中世的な世界、(村落などの)共同体社会に近いように思えるのですが、そのような解釈でよろしいでしょうか?近代そのものである企業社会が無くなると思うので大工場や大産業も消滅すると言う事になると思いますが、もしそういった社会だとすると現在よりも物的な豊かさを実感できなくなる可能性もあるのではという危惧も感じますが、物的な豊かさを維持できる条件などはあるのでしょうか?」
「見方によっては理想郷社会とも思える”利潤なき(経済)社会”とは一体どのような世界なのでしょうか?経済システムについては書かれてますが、それ以外の事(政治軍事面、思想宗教など文化面、技術革新・テクノロジー面)などについては詳しく語られていないようですので、もうすこし詳しい見通しがおありでしたらぜひ解説していただけませんか?よろしくお願いいたします。」
『”近代”の超克と”利潤なき経済社会”に関する疑問・質問(あっしらさん宛)』( http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/742.html )より
まさちゃん:「「開かれた共同社会」では、利子取得を禁じて資本の増殖過程を抑えるわけですから、大資本は存在しようがなくなるはずですよね(私の解釈、あってますか)?」
「近代社会の実現した物質的・科学技術的富を継承したまま、利子取得を禁じて金融業による貨幣を用いた巧妙な搾取による“寄生”だけを取り除いた、夢のような「開かれた共同社会」はじつげんできるのでしょうか?」
『横レス失礼!』( http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/743.html )より
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「開かれた地域共同体」は、その形成に自分自身が生きて関わるかどうかはわかりませんが、そのときに生きている人たちが協働で試行錯誤しながらつくっていくものだと考えています。
「近代国家社会」は、自然現象化した経済社会の論理に規定されて動いていますが、「開かれた地域共同体」は、人と自然の関係性論理で規定されるだけで、人と人の関係性そのものが物象化するわけではありません。
(この意味で経済学を筆頭に社会科学が無用になります)
私自身は、均田制的自営農民を基底とした共同体が望ましいと考えていますが、農地の占有は論理的なものにとどめ、農業にまったく関与しない人が多く存在してもいいという合意に達すればそれはそれでいいと思っています。
(農業に従事する人が少なくて食糧が不足するというのであれば、月に1日の“強制農作業”やくじ引きでの農作業もあるかもしれませんが、それは仲間でキャンプに行ったときに役割分担をどうするかと同じレベルの問題で本質ではないと思っています)
お二人に共通で提示された疑念について思うところを書きます。
● 理想郷というわけではありません
「開かれた地域共同体」においても、苦労もあれば悩みもあり、殺人を含む犯罪もあるはずです。
それらが「近代」のそれらとは異質であったり、犯罪の発生件数が少なくなるとは予測しています。
ですから、警察機構や司法制度そして処罰も残るはずです。
軍事機構は、戦争に理や利がなくなることから、廃絶される方向に動いていくと思っています。
人と人の関係で生じる軋轢やストレスが大きく減少する社会というくらいに考えたほうがイメージに適うものです。
● 統治構造
近代国民国家で統治機構が肥大化し政治勢力間の争いが大きいのは、個人(家族)や階層のあいだにある経済的利害対立の大きさの反映です。
できるだけ多くのお金を自分のものにしたいと思っている人が、政策決定過程を通じてそれを実現したいと動くことで政治的対立が起きます。
(その延長線とも言える“国益”の対立が、軍事機構の整備や国際機関の確立を要請しています)
また、支配−被支配の国家社会構造ですから、支配力を現実のものとするために様々な国家機構が必要となります。
(国際社会においても支配−被支配の関係構造があるので、支配力を発揮したいと思う勢力(国家)はそのために軍事機構をはじめ膨大な仕組みをつくり維持しようとしています)
国民経済主義と言う過渡的考えを提示しているわけは、企業と企業の関係、企業と従業員の関係、高額所得者と低中所得者の関係、都市と農村の関係などといった現在では利害が対立していると思われるものが、実のところ共通利害関係にあり不即不離で一蓮托生であることをまず実感的に理解することが重要だと考えているからです。
「利潤なき経済社会」は、このような考え方に基づいて国策を遂行しない限り、ごく少数の人たちを除き、経済生活が困窮することになります。
国民経済主義の段階を経たあとにつくられるはずの「開かれた地域共同体」では、現在で言うところの政治の役割は飛躍的に縮小します。
生活に関わる決め事は地域共同体の合議(家族代表の全員参加型で面倒な家族は決まった事に従うだけ)で決められ、地域共同体間の在り方を調整する国家の役割はごく限定的なものになるはずです。
(国家の決め事をどのようなシステムで決めるかは、その時点で調整すればいいことです。地域共同体の代表者が合議するかたちをイメージしています)
● 技術や思想の問題
宗教を含む思想は、新しい歴史段階が現実になったときに生み出されるものです。
思想なんかをあれこれ語るのは面白くもなく意味もないと考えられ、たいして省みられない可能性や、パラダイムチェンジによってとてつもなく面白い思想が数多く噴出する可能性もあると思っています。
新しい思想は「開かれた地域共同体」という新しい現実のなかで身体活動を行なう生身の人間の精神活動の成果ですから、こればっかりは、どういうものになるか皆目見当もつきません。
『身体性と肉体性から見たセム系思想』( http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/741.html )で書いたような肉体と精神の分裂状況は身体性活動力に統合されると考えているので、知識や思考力の成果の優秀さを競うような風潮はなくなると予測しています。
技術は、太古の昔から歴史継承的に蓄積された人類の宝庫であり、数百億の人たちが自然と向かい合う協働を通じて獲得した智恵です。
技術の大きな特長は、ある一人が思いついたり考え出したものを万人が共有できることにあります。(思考の成果は共通してこの特長を持っています)
現在は、知的所有権や著作権といった“保護政策”で排他的なものになっていますが、そのような壁はなくなるはずです。
ある人の智恵は他の人がそれを利用することでさらに磨きがかかるものです。
せっかくの智恵を独占することによって、それが普遍的には活かされないのは、グローバルな関係性が出来上がっている世界ではムダの極みです。
発明発見が経済的利益を誘因として行われていることは事実です。
経済的利益がなければ地てき活動に励まないとは思っていませんが、有用な技術革新に貢献した個人を優遇することは、「開かれた地域共同体」でもなんら問題ありません。
● 産業の問題
大産業をどうするのかは、「開かれた地域共同体」でも様々に論議されることになるだろうと思っています。
「開かれた地域共同体」は、必需的なものや汎用的なものが共同体内で自給自足できるかたちになっているのが望ましいと考えています。
食糧や誰もが使うものは、どの共同体でも生産するというイメージです。
地理(自然)的条件によりその地域で手に入らないものもあるので、地域共同体間の交換は行われ、その範囲は世界レベルになります。
“開かれた”という形容詞を付けているのはこのためです。
集産(マスプロダクト)のほうが効率がいいと考えも出てくるでしょうが、輸送という非効率な活動(環境や事故などの問題を含め)を考えると果たしてそう言えるのかという疑念を持っています。
それ以上に、一人一人が様々なものの生産活動に関われる条件を実現することに意義があると思っているので、産業の分散化(地域共同体単位)が望ましいと考えています。
自分が使うものには自分で工夫を加えたり自分が好きなデザインにしたいという欲求もあるはずです。この間の産業活動は、そのような意向に応えるかたちで少量多品種を効率的に生産できる設備に支えられるようになったり、IT技術によるサポートが充実してきています。
儲けることが生産活動の目的ではなくなり、“資本の論理”(経済論理)に縛られない社会になれば、自分の物質的欲求を充足させるための生産活動は、効率を少々外れたかたちでもいいということになると予測しています。
人々が生み出す智恵(技術)が、そのような要求をも効率的かつ楽に満たすことになるだろうと思っています。
様々な活動を経験することで智恵を生み出す力も醸成されます。
物をつくるというのは人々の協働的活動です。時間に余裕があるのなら、10分でできることを1時間かけてより大きな充足感を得るという選択もあるはずです。
(趣味の世界では当然のようにそのような選択がされています)
けっこうなレベルの生活水準を維持するためでも、現在の生産性に照らせば、週に3日も働けば済むことです。
(贅沢ではないものを欲しいと思っている人がいながら、失業者(ものをつくる人が就業できない)が増加したり、そのものが売れないとか売れ残って破綻する企業もあるという現状のほうが異常です)
航空機や特殊な生産設備は、地域共同体レベルにまでは分散化されず集約的に生産されることになるだろうと予測しています。
生産設備や土地の所有形態は、私的所有ではなく、私的占有や共同体占有といったものになるはずです。
自分が消費するもの以外のものに対する排他的所有権は儲けること以外には意味がありません。
まさちゃんの「大資本は存在しようがなくなる」という提起は、そうではないということになります。
資本が、人々がつくったものと人々によって構成されていることを考えれば理解できるはずです。
「近代」では、それが貨幣によって構成されると錯誤されているだけです。
貨幣は人と人のあいだの交換を媒介するものでしかなく、それ自体に力があるわけではありません。
「開かれた地域共同体」でも、多くの人を結集させ(でき)れば大資本になります。
突き詰めれば人の活動力を吸い上げることである利息取得は、害悪以外の何ものでありません。