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(回答先: 利息取得ほどではないが貨幣蓄蔵も共同体に害悪をもたらす 投稿者 あっしら 日時 2003 年 12 月 16 日 22:44:20)
あっしら様、レスありがとうございます。
以下、下記のあっしら様の記述内容に関して短い愚問を1つ。
貨幣という「発明品」の素晴らしいところ(?)は、実際は“保存できない”“人の活動力”を一時的に保存して持ち運べるようにする点にあるのではないでしょうか?
例え話で考えさせてください。
ある人が何かサービスを行って活動証書を得る。その人はその活動証書を用いて別の人から何かを購入する(あるいはサービスを享受する)。
そのタイムラグの間は(活動証書を蓄蔵するするつもりはなくとも)蓄蔵せざるを得ないですよね(たとえ小額とはいえ)?
「そんなタイムラグや小額の蓄蔵など問題ではない」のかも知れませんが、
1人が財布に活動証書を10枚入れて歩いているのと100枚入れて歩いているのとでは、共同体レベルでは流通する活動証書の量が大幅に異なることになるでしょう。
また、1人が1枚の活動証書を使うのに1日しかかけないのと、1週間思案してから使うのとでは、これまた共同体レベルで見れば活動証書の流通速度が大幅に異なることになります。
結局は、各人が保有を許される活動証書の上限問題や活動証書の受け取りから支払いに至るタイムラグをどう制御するかと言う問題は“開かれた地域共同体”においても残ると思うのです。
(これが私の考える「貨幣の設計」ということの意味です。)
それとも、“開かれた地域共同体”では貨幣(活動証書)は、たとえ極々小額でも、たとえ極々短期でも、全く保有は許されない、
と言うことなのでしょうか?
最初の文章に戻りますが、人の活動力を物象化して一時的に保存させるのが貨幣と言う道具の役目であって、微塵も蓄蔵を許さない貨幣なんて、
なんの役に立つのでしょう(と言うより実現不可能ですよね)?
いかがですか?
>利息取得ほどではありませんが、貨幣の蓄蔵も経済社会(共同体)を歪めるものだと考えています。
>なぜなら、人の活動力は保存できないものであるのに、その証である貨幣や「活動証書」を保存する行為だからです。
>人の活動力の交換に使われる「活動証書」ないし貨幣が蓄蔵されることになれば、ある部分の活動力がムダになります。
>蓄蔵は、活動力を交換するための「活動証書」ないし貨幣を手に入れる活動のある部分が交換されないままになるということを意味します。