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影の闇さんの論考「思想的考察」(http://www.asyura2.com/07/dispute25/msg/112.html、等々)に触発され、近頃考えていることを書いてみたくなりました。議論版にアップするのは少々気が引けるのですが、雑談版のほうは取り込み中のようで遠慮した次第です。
<近代>が既にその生命を終えたという視点に立ち、そこから日本の近代史を顧みたときに見えてくるものは何なのか考えてみたいと思います。
明治維新から大日本帝国へ、そして対米戦争の敗北から経済大国まで。全ては、欧米主導の世界に順応しつつ活路を切り開こうとの涙ぐましい営みではなかったでしょうか。それは同時に、鎖国体制の島国日本が世界に向かって自らを開いていく長い道筋でもあったのでしょう。
グローバル化という言葉は最近のものですが、日本の近代史は正しくグローバル化する日本そのものであったと言えないでしょうか。そして、その間の紆余曲折は地球世界そのものの紆余曲折に他ならなかったと思われます。その事は、今日の日本社会の混迷についてもそのまま当てはまるのでしょう。つまり、世界の混迷がそのまま日本社会の混迷なのだと。
これを言い換えれば、私たちは日本の問題を考えるとき、実は、世界の問題を考えているのだということです。日本と世界との間に越えがたい境界線を引いて考えるのではなく、逆に、この境界線をどのように越えていくのかを考えるべきだし、既に百五十年に渡って日本人はそうして来たのだということです。
「日本人らしさ」の喪失は、グローバル化する日本人にとって避けられないことでしょうし、また、自ら求めたことでもあるでしょう。しかし、そうは言っても世界人や地球人というのが一体何なのかは不明です。今のところアメリカ人の真似をするぐらいしか思い付かないということでしょう。
しかし、そのアメリカ人なるものが<近代人>の典型であり、間もなく、その生命を終わろうとしている存在だとすれば、この先日本人はどのように変わって行けば良いのか、変わり得るのか、それが今の課題なのでしょう。アメリカ人に替わる地球人の姿を見出すことです。
では、世界を見渡してお手本となるような何々人が居るでしょうか。幕末と違って、戦後と違って、そうしたお手本は無さそうだというのが現在でしょう。ならば、自分で新たなものを作り出すしかありません。自分の中から何かを生み出すしかないのです。
江戸文化の教養に育まれた夏目漱石は内発的・外発的という区別で日本の近代化を評しました。内発的変革でなくては本物にならないという趣旨だったと理解しています。また、明治を代表する秀才であった森鴎外は、その文学表現を江戸時代に生きた人物の史伝へと収束させて行きました。
近代日本の生んだ両巨人が、西欧留学を果たした二人の代表的エリートが、いずれも江戸時代との関わりを深くしていたことは何を示唆するのでしょう。我々日本人の中に有るものを探そうとするとき、先ずは江戸時代に向かうことになるのでしょうか。
日本に土着文化と呼べるものがあるとすれば、確かに、江戸時代にこそそれを求めるべきだとは言えそうです。鎖国体制であったというだけでなく、土着した農民の生活を基礎とする武士の時代が完成した時でもあるからです。二百五十年にわたる江戸時代から何かを学びたいものです。しかも、これからの地球人たるに役立つ何かをです。
こうした問題意識は既に珍しいものではなくなっています。多くの研究者がこうした課題に取り組んでいると聞いています。それらの研究の中には、遠く縄文時代に遡るものもあるようです。そうした研究の地平で目指されているのは、単なる「日本人らしさ」ではなく、地球人らしさとでも言うべきものであろうと想像しています。
<近代>の終りという時代認識に立ちつつ、しかし、決して<近代>を単純に否定するのではなく一つのステップであったという捉え方で、今を考えていくべきであろうと思います。今の自分達の中に新たなものを見出していこうとする営みの中に、地球人としての「日本人らしさ」を再発見したいと思います。