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(回答先: 坂口安吾の続堕落論 投稿者 baka 日時 2006 年 12 月 23 日 16:41:43)
坂口安吾の堕落論には大いに共感した憶えがあります。太宰治もよく読みました。戦中から戦後に於ける一時期もまた、日本近代史の節目として振り返る必要があると思っています。
それはそれとして、引用されている“日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、憧憬讃美が過去へむけられ、たまさかに現れいでる進歩的精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまうのである。 ”は、戦中の子供向け標語であった「欲しがりません勝つまでは」にも顕われているところであり、戦前に強調された日本精神とは正しくそのとおりであったのだろうと思います。
戦後の日本に於いても、高度成長期を通じてそうした精神は生き続けていたようです。しかし、80年代の経済大国化以降はむしろ、やっと成功したのだからもう耐乏生活は御免だとばかり消費を謳歌する方向に転換したのではないかと思います。格差社会が問題視される今も、その風潮に大きな変化は見られません。しかもそれは、決して進歩的精神と共に在るのではないようです。
安吾の説く堕落なのかは議論のあるところでしょうが、ただただ感覚的満足を追求するばかりの、私的な生活主義が支配していると思います。もちろん、一概にそれを批判するつもりはありません。庶民の掴んだささやかな幸せを否定して進歩も何もあるはずはないからです。しかし考えるべきは、今日の日本社会の豊かさは決して自助努力のみによって勝ち取られたものではないということです。
例えば、日本人の食欲を満たす為にどれだけの食料・資源が輸入されているでしょう。いや、輸入は構いません。輸入のあり方が問題です。国際貿易における通貨価値の違いは、開発途上国に対する収奪を当たり前の取引という外見で覆い隠します。日本人の食生活は途上国の資源とその地に暮らす人々の労働を奪うことで成り立っています。この事実に眼を向けず、罪なき生活人を自認する事は犯罪的ですらあります。
今日の日本人は、一人の例外もなく、地球的視点に於いてブルジョア階級そのものと言うべきでしょう。そうした自覚に欠ける意識・議論では、現実を読み解くことも、まして変革することなどは不可能と言うべきです。思えば、日本の労働運動がすっかり弱体化してしまったのも、その実質に於いて労働者階級ではなくなったからでしょう。左翼の衰退はソ連崩壊だけが理由ではないと思います。
今日の日本社会を一言で表わすなら、ブルジョア的堕落でしょう。あるいは、ブチブル的堕落でしょう。王朝の荘園や公領を徘徊し、命をつなぐ僅かな糧を得るために労働に従事した哀れにも狡賢い放浪者たちと今日の日本人に共通点はありません。全く別の階級であり、別の文化に生きています。
誤解を恐れずに言えば、今の日本人の生活は間違っています。王朝の放浪者でもなく、かと言って堕落したプチブルジョアでもない、その中間に、まともな生活や生き方があるのではないでしょうか。江戸時代に範を求めようとするわけではありません。何かの手がかりがないかと思うだけです。