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(回答先: Re: 「日本人らしさ」の喪失と<近代>―――――――影の闇さんの「思想的考察」に寄せて 投稿者 まとはずれのおせっかい 日時 2006 年 12 月 26 日 21:23:08)
まとはずれのおせっかいさん、今日は。
横レスにて失礼いたします。
さて、影の闇氏による“思想的考察”のシリーズの趣旨を「日本の近代化即ち日本丸の世界潮流への就航は西欧によってナビゲイトされたものの、次なる独自航行には失敗し、しかし再び西欧(U.S.)によって先導されて航路の拡大とともに兎にも角にも今日の日本や世界がある。」と私なりに受けとめていますが、正否については影の闇氏のご批判を仰ぎたいと考えています。
>「近代が終焉しつつある」という視点は、正確に言うなら、「近代を通過」せずに、その終焉を終わろうとしていることではないでしょうか。
上記をさらに「日本(人)は自らの脚で近代を踏破できずに、その最終局面にまで達しようとしている」と突き詰めた表現をすることも可能だと思われます。その結果が“わたしは、いまだ日本に思想的な意味で、近代的なものが形成されずじまいにいると思っています。”を表象し、“このプロセスを経ることなく、次のステージへの展開に、非常なる危惧を覚えます。”には私も大いに共感を覚えます。
>個人個人が、そして個人が形成する集団に、個人主義が基礎となる「価値のものさし?」がそれなりに確立されていれば、今日のような混乱は起こらないはずだと思います。(たとえば、いじめの問題)
個々間の整合性という十分条件の探究と同様に個の確立の問題は近代化に必要不可欠なテーマですが、孤軍奮闘した漱石の時代から「他律性」の問題は解決されることがなく、つまりは我々日本(人)はその克服に積極的に関わって来なかったようにも見受けられます。それは何故かとは私のもう一つのテーマでもあります。
>そして新しい日本、地球市民はありえないと思っています。
このままでは日本における近代の生成はおろか近代化の世界的伝播もあり得ぬとの時代認識を立脚点にして、そこから再度個の確立の問題に挑んでいく他には近代の復権へと向かう方途はないような気がしています。勿論、でき得るならば、同胞間における過酷な篩い落としや人類同士の長期にわたる内戦のプロセスを経ぬように人々の叡智の結集を図ってゆかねばならぬと考えます。
また、会いましょう。