★阿修羅♪ > 議論25 > 139.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 「日本人らしさ」の喪失と<近代>―――――――影の闇さんの「思想的考察」に寄せて 投稿者 張良 日時 2006 年 12 月 23 日 15:43:02)
読ませていただきました。
私の考えるところを、述べさせていただきます。
「近代が終焉しつつある」という視点は、正確に言うなら、「近代を通過」せずに、その終焉を終わろうとしていることではないでしょうか。
受け売りで恐縮ですけど、森有正という哲学者の言葉です。
(蛇足、森鴎外の孫に当たる人)
「日本には、過去が終わっていない、過去が終わっていないところに、近代はない」、
50年前の言葉ですが、その言葉の新鮮さは、失われていないと思います。
この間、「欧米文化」というものが日本に伝来されて久しいのですが、
それは、為政者にとって、都合の良いもの、大商人にとって、お金儲けが介在できる余地のあるもののみ輸入されたのであって、肝心なものは、いまだわからずじまいにいる。
つまり、彼らの風俗、行動様式におけるバックグラウンド、文明的なものはいまだ、無理解、不消化のままだとおもう。最たるものは、自由主義、個人主義の曲解。
わたしは、いまだ日本に思想的な意味で、近代的なものが形成されじまいにいると思っています。
このプロセスを経ることなく、次のステージへの展開に、非常なる危惧を覚えます。
「世界の混乱が日本に伝染している」、それは、「日本、それ自身の、前近代性、混乱が」それに、拍車をかけているといったほうが正確ではないでしょうか。
自分で考える力を学校で養成しない(それにテレビが拍車をかける)
個人が個人として確立していない、自分で善悪良否判断できない
自分の不愉快、利益を的確な手段、言葉で表現できない (だから、刃傷沙汰がたえない)
集団無責任主義
過同一社会
個人個人が、そして個人が形成する集団に、個人主義が基礎となる「価値のものさし?」がそれなりに確立されていれば、今日のような混乱は起こらないはずだと思います。
(たとえば、いじめの問題)
右向けといわれれば右をむき、左向け左で、左をむき、
これがブームデースと仕掛けられれば、何の疑問もなく乗らされ、
改革デース、といわれれば、無批判に呼応する。
次は、これと、これが、愛国心でーす、とでもいわれるのだろうか?
この「他律性」は、漱石の時代から変わっていないと思う。
これの克服なしに、大八車を引いていた田吾作の末裔が、トヨタの最新鋭車を乗り回して運転席から、トヨタと富士山は世界一だと叫んでも、過去を克服できたといえないとおもいます。
そして新しい日本、地球市民はありえないと思っています。
私の思うとこを綴ったままです、他意はありません。
読み違いあれば失礼。以上。