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(回答先: 近代は今も輝いているのでしょうか。 投稿者 張良 日時 2006 年 12 月 29 日 14:30:14)
張良さん、挨拶申し上げます。
如往さん、こんちは。
読ませていただきました。
アメリカだけが「近代」のお手本ではないと思うんです。
特にブッシュ政権、新自由主義のグロバリゼーションの跋扈以来、
アメリカからは、心ときめかすようなメッセージは、発信されない。
しかし、振り子の反動はあると思います。
それに、最近はますます、地球の資源を食い散らかし、人の生活を破壊しながら、盲目的な増殖をつづけている経済体制だけが「近代的」なものではないと思うんです。
それらを、制御できるのは、やはり、「近代的」な民主主義思想であり、
「近代的」な人権、権利思想だとおもいます。
それらは、いまだ輝きを失っているものではなく、
そして、静的に捕らえるものでなく、自由権から平等権、労働権、最近では、環境権 の思想と発展したように、たえず、発展するものとして把握してよいかと思います。
国民一人一人の自分の利益が何かを考え、出し合って、それが、国益を形成するのであって、「皆さん、これが、国益ですよ、反対するものは、非国民ですよ」ではないと思う。国民の利益がまずありきで、そこから国益が形成される、逆さまであってはならないとおもいます。
ちなみに、日露戦争当時の富国強兵の思想が今の国益と結びつくことはないとおもいます。
今、思いつく最高の「国益、富国政策」は、特に若い世代のための、職場の創出、一刻も早い根本的な環境保護政策への着手、産業のグリーン化。
教育の再生は、長くなるので、控えます。
日本は国民主権の国です。
それは、憲法で規定されているから、国民主権なのでなく、近代的な国民主権、国民国家の思想が、普遍的なものを内在しているがゆえに、憲法で保障されている(憲法の生成過程には言及しない)。
この辺とちゃんと捕らえてないと、つまり、近代的な、国民主権の思想なり、人権感覚を身に着けて、「自分自身の守り方」を知らないと、今後ますます、生きずらくなる。私が、近い将来を、危惧するゆえんです。
戊辰戦争をへて近代国家への旅たち、その後、「背伸びした国家」とおかきになられていますけど、一般国民はその背伸びした国家の「足の裏辺りにいたのだろうか」と私は、思いをめぐらせます。私の趣向かも知れませんが、国家を指導した元勲たちより、その運命に翻弄された、市井の人々に思いを浮かべます。
少し引用させていただきますが、
「愛国心は言わずもがな、過同一社会とは幕藩体制を壊し無理やり強行した中央集権体制のもたらしたものと言えないでしょうか。。。」
「過同一社会」、舌たらずをお詫びします。みなと同じではないと、気がすまない、異端を嫌う、めだか社会を意味しました、、「抑圧移譲の原理」とともにいじめ問題を解くキーワードになるかと思います、家父長的な縦型社会を意味したのではありません。
資本の虚無性を抑え、国家間、宗教観の戦争を抑止し、もう手遅れかもしれませんけど、環境を保護し、互敬を基礎した、人とのつながりを創生する。
整合性をかいていたり、二枚舌の部分が、あったとしても、
今、そして将来、「近代的な」市民思想を、輝かせることが、人類がより長く、地球上に生存できるための不可欠な精神的なよりどころだと思います。
江戸に、なぜ人は惹かれるか、心情は理解できますけど、私は肯定しません。
しかし、最近、地球がバテてしまうのが早いのではないかと思う、機嫌の悪い日がすくなくありません。
良いお年をお迎えください。