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愛は人間界の統合原理には成り得ないと思っています。
愛ないしは隣人愛によって、あるいは、愛もしくは愛の名によって、いうまでもなく、これまで如何ほどの血と涙が流されてきたことか。
万人による万人への愛というのは化け物ですね。
愛の勢力拡大、愛の遠征で世界が統合されるまでに、やはり何らかの関ヶ原を経なければならないのでしょうか、甚だ疑問に思います。
本音を言えば、統合原理そのものが不要な気がしますが。(形式的な特異性への統合強迫というのか)
別に愛ではなくても、性であっても、奥義を極めた多くの人は、特別な、この世ならぬ、震えの止まらない内在(ここでは直接体験)を得られることでしょう。
また、セザンヌの絵の前で20分も凍り付いている人が、静かに涙を流しているとすれば、その「原因」も愛に代わる何かかもしれません。
逆に、ヒトラーの演説に涙ぐむ人たちは、それがたとえ同胞愛であったとしても、愛には程遠い結果を生むことでしょう。
そもそも「平等愛」というものが可能なのでしょうか。
好き嫌いで世界を分節し、世界観そのものを自己として再編してきた個々が、個別性をかなぐり捨て、画一の、愛し愛される超共通存在になるには、何らかの(差異を埋め合わせる知覚・認識・親和性を齎すような)身体の変更、または衝撃をともなう「開発」が要求されるかもしれません。
人間が身体レベルから変化する、そういう事態を待つのか、つくりだすのか、そういう事態が起きると預言して人為的にそういう方向に加速させていくのでしょうか。もしそれが起きない場合、誰もが起きないと気づく頃には人為的に実現されてしまっているかもしれません。
他方、ゼロサムの愛としてみるならば、総量のみが定まっている愛は、さらに相対愛でもあって、何かを理由に愛される対象は、何者(何事)かの中に存して輝き、外部として何者かを排することで、その愛すべき理由が受け取られるもの、という観方もできるでしょう。
この場合は、輝きの程度は対比効果で水増されるはずで、またそれは環境(比例)に依存するのではないでしょうか。
それどころか、愛という限定そのものが“排他的、差別的”であるかもしれません。
したがって、一つの個性でありながら、全ての個性を愛することは、別の意味でも無理な相談に思えてくるのです。
全ての個性を愛せるということが、全ての属性を愛せるということを意味するとき、それは、愛とは正反対の属性までも愛せることを意味しかねないと思うのです。(個別愛には、そうした愛そのものを愛することも含まれるでしょう)
ですから、そこで留まれば良いはずのものを、溢れる感動の余り伝道師として強弁しはじめると、愛の押し付けになってしまうかもしれません。
そこに生まれ出づる、善意にして一方的な想いとその図は、およそ愛とは似ても似つかぬ、いわば愛の鬼っ子というわけでしょう。
そうしてみると、勝手に愛してろ、というのが存外、当たっているかもしれませんね。
特定の誰かを愛するか、観念的全員・観念的全体を愛するか、もしそれが、たとえ出来ない相談であっても。
人心の同じからざるは其の面の如し、というのはあながち“時代的制約を受けた小智”とは言えないと思うのです。
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趣旨はズレるものの、先日のご投稿においても「善意」の落とし穴の
“イメージ”が綴られている気がしましたので、付記しておきます。
(参考)
カンボジア、ポルポトと日本の一部のNGOとの接点も問題である。
http://www.asyura2.com/0505/asia1/msg/871.html
(投稿者: ODA ウォッチャーズさん)