現在地 HOME > カルト1 > 908.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: “愛”はそれを示そうとすると“偽りの愛”に変わっちゃうってこと 投稿者 BBマーク 日時 2005 年 7 月 23 日 18:33:31)
デラシネさん、膝枕さん、BBマークさん、こんばんは。
レスをいただいた事に、感謝いたします。
このスレッドは。元々、SV問題さんの下から始まったものです。
私がなぜ、レスをつけたのかもう一度読み直してみました。
私は、SV問題さんの仰りたい事を理解したいが為に、
まず、愛とは何ですか?と問いかけたのだと思います。
もちろん、自分自身、今までずっと自分に問うていたことですが。
無始無終さんが、新たなレスをつけています。
>愛が統合であるのなら、愛から生まれた生命は、この分離した世界で常に統合を試みます。しかし統合しようとする試みは、結果的に統合されていないという現実感しか生み出さないのではないでしょうか。またこの世界が統合できるのであれば、世界自体は無くなってしまうことにもなるのでしょう。つまりこの世界においては、非愛(分離・恐れ・不安・嫉み)が無くなることはありえないということになります。
デラシネさんのレスです。
>親は“子供の為”と思い、さまざまな場面において子供の人生に介入します。
ああしろこうしろ、ああしちゃいけない、こうしちゃいけない。
“愛してるが故”という理由が用意されていますが、はたしてそうでしょうか?
愛を選択すればきっと、子供の人生をサポートはしても、介入はしないでしょう。
「行ってきます」と言って家を出て行くわが子に、「行ってらっしゃい」と手を振って送り出すでしょう。
それが「愛」です。
>>ああしろこうしろ、ああしちゃいけない、こうしちゃいけない。
これをしなくなったのが現代の親ですが。
それは、愛からなのでしょうか?
人に対して、何も苦言を言わない事が愛なのでしょうか?
愛という行為には、一切の軋轢は介在しないものなのでしょうか?
私が愛という言葉を理解したいのは、
愛という言葉が、何よりも勝る、あるいは善の最前線であるがの如く
使用されるからです。
私は神も信じたい、愛も信じたい、、、或は感じたい、
それは、望みです。なぜなのか、、わかりませんが。
デラシネさん、の仰るように、愛を選択して生きるのであるならば。
一切のその他の人々は、その人物より劣るのでしょうか?
それとも、愛に優劣はないのでしょうか?
分からず屋で申し訳ありません。
ただ、頂いたレス、一つ一つ、
ありがたく、また、とてもうれしく思いながら読ませていただいております。
皆さん、ありがとうございます。
人間というものは、性格、或は性癖により行動する事が多々あります。
人を評価するときに、その人の行動のみをみて基準とする事は、
できませんし、沢山の勘違いによって、
他者が、その人を別人に仕立て上げる事も可能だと思います。
愛が完全であるのか?
愛とはそれ程尊いのか?
是非教えていただきたいです。
もし、愛が完全であるのなら、それを知らない全ての人々は
存在を否定された事にもなるのでしょうか?
もちろん、愛が完全であるのであれば。
アンチ愛の人物は抹殺されるべきなのでしょうか?